「アメージング・ルーキー」

最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、他にも投球回と完投でリーグトップとした日本ハム・木田勇は80年、ルーキーで初めて新人王と
MVPの両方を獲得した。
高齢である両親の面倒を見たいため、在京セ・リーグ入団を希望していた神奈川県人の木田にとって、日本ハムは「情報がなくて、まだこれからという
弱いチーム」という印象でしかなかった。ただ、「若い左投手がいなくて、すぐに使ってもらえるかな」とも思っていた。
速い直球にフォーク主体という投球スタイルで日本鋼管に属した社会人時代では、都市対抗で久慈賞を受賞するほどだったがキャンプの2日目で
早くも鼻っ柱を折られた。この年から投手コーチに就いていた植村義信にフォークを否定されたとの事だったが、そこで教えてもらったのが直球との
緩急をつけるのに効果十分のパームボールだった。

デビューがチームの開幕2戦目というのは、どんな選手も大人扱いする大沢啓二監督らしい抜擢だった。先発した木田は西武打線を土井正博の
ソロ本塁打のみに抑えて、1失点の完投勝利を飾った。初勝利の19日後のロッテ戦では、早くもプロ初完封とリーグに衝撃を与えた。4月は先発、
中継ぎに投げ4連勝して防御率0.79で月間MVPを受賞した。
木田は前期だけで二桁勝利に乗せると、後期は8月に2度目の月間MVPこそ逃したものの2度の毎回奪三振と5勝0敗1Sで防御率1.69(月間
MVPは6勝5完投、防御率2.21の東尾修)をマーク、9月には2日に日本新となるシーズン3度目の毎回奪三振を記録し186球の完投勝利、25日
には延長11回完投で西鉄・池永正明以来15年ぶりとなる新人20勝に到達した。飛ぶボールの影響もあって打高投低傾向の80年にありながら、
木田は9月2日まで防御率1点台をキープする立派な内容で22勝8敗4Sの成績で“アメージング・ルーキー”とも呼ばれた。90年に近鉄・野茂英雄
も木田と同じく冒頭の6部門でリーグトップだったが、奪三振と完投数以外では木田が上回っていた。

後期優勝マジック「1」で迎えた後楽園の近鉄戦で大沢は3回表から木田を投入、しかし結果は降板する8回途中まで2被弾5失点と打ち込まれて
優勝を逃した。186球完投後に「本当に疲れた・・・」と木田が談話を残してからはチーム事情で救援に回る試合も何度かあるなど4勝4敗、防御率
3.86と平凡な結果だったが、やはり体力は極限状態だったのか。現に9月以降は中1日登板が5度、最後の後楽園決戦も中1日だった。最後を締める
投手が当時の日本ハムに乏しくチーム最多セーブは高橋一三と木田の4、そこでオフの江夏豊獲得となり78年移籍入団の間柴茂有、76年移籍
入団の村上雅則と合わせた“左腕王国”を日本ハムは短期間で築いていった。 (了)