1980年のプロ野球
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この年から神宮球場のスコアボードが電光掲示板になった。
後楽園、横浜、西武に続いて。
唯一、選手名の横に打率、本塁打の数字が入ってたので
面白かった覚えがある。 >>159
神宮球場の電光掲示板はこの年からか
他には甲子園が電光掲示板になったのが84年
ナゴヤ球場や広島市民球場はまだしばらくスコアボードだった(いつまでだったか覚えてないけど) >>157
あのジジイが喚き散らしたせいかどうかはわからんが、
今年は森福と山口の強奪に躍起になっているようだw >>157
>>163
「あのジジイ」って誰のこと?
まさか渡辺恒雄じゃないよね?
渡辺さんは当時バリバリの読売新聞政治部記者で巨人軍とは全く接点なかったもんね。
それに80〜81の補強って原をドラ1で引き当てたのとドジャースからトマソン獲ったぐらいでしょ。 ナゴヤが電光に変わったのは高木守道2期目の1年目92年
広島は三村1年目の94年 結局木田の7冠って何だったの
パームボーラー特有の一瞬の輝き? >>162
ナゴヤは92年から
高倉健主演のミスターベースボールは92年公開で電光掲示板だったはず
広島は94年
確かホームランのファンファーレも変わったはず >>167
木田は暑さに弱いらしい。この年は、記録的な冷夏だったので、上手く乗り切れた。 >>20
翌年には高卒1年目の愛甲にプロ初勝利をプレゼントした、いくら左腕とはいえ >>164
小林繁が「空白の一日」で読売のトップに会った時、ナベツネもいたと言ってる。
「江川君が巨人と電撃契約した1978年の『空白の1日』の後始末をやらされたし」
http://astand.asahi.com/webshinsho/asahi/asahishimbun/product/2011120200007.html
少なくとも巨人とノータッチじゃあないみたい。 「ウサギとカメ」
2016年に25年ぶりのリーグ優勝を果たした広島のこれまで7度の優勝で、序盤から首位の座を渡さずゴールしたのは現時点では80年が最初で
最後になっている。わずか25試合目の事だった。まだ5月13日、衣笠祥雄の一発による1点を北別府学−江夏豊のリレーで守り切り、首位を争う
ヤクルトに直接勝利して4日ぶりに奪首、この日から最後までトップで走り抜けた。初優勝の75年では114試合目、79年では90試合目から首位を
譲らなかった過去を含め、殆ど後半戦での競り合いに勝つというVパターンから見ても、80年広島の強さがよく分かる。
4月は広島と武上四郎新監督のヤクルトが首位を争い、5月3日からと13日からのヤクルトとの直接対決をともに2勝1分けで乗り切って首位固めを
始めた。4・5月は前年苦しんだ衣笠が快調に飛ばし、4月は月間首位打者の打率.394に6本塁打13打点、5月も打率.307で6本塁打と打って
打線を引っ張り、5月末時点でチームトップの12本塁打を放った。投手では北別府が開幕8連勝したが、6月に入ると大野豊が先発、救援に奮闘
して2勝1Sで防御率1.57と活躍した。主砲・山本浩二も打率.342、9本塁打で月間MVPとエンジンがかかってきたのも6月だった。
北別府の連勝が止まった7月は、代わって山根和夫が5勝負け無しの防御率2.57で同じく月間MVP、山本は打率.474に6本塁打とさらに打って
チームは12勝2敗、貯金も20を超えて球団史上初の首位ターンもした。後半戦の8月に入ると、地元・広島での連勝こそ19で止まったものの、
24日にM35を点灯させるなど勢いは止まらず、結局9月まで毎月の月間勝ち越しを記録する独走ぶりだった。
巨人以外では初めてとなるセ・リーグ連覇、古葉竹識監督は「今までと違い上手く滑り出しただけに、何としてもこのまま勝たなければいけないと
思った。今年ほど長く感じたシーズンはなかった」と独走ゆえの難しさを語った。在任6年目で3度目の優勝、同じ年生まれであり選手・監督で同期の
長島茂雄の優勝回数を上回った。現役時代では長島に優勝回数のみならず首位打者争いに敗れるなど到底かなわなかったが、南海コーチ時代に
考える野球を学び連続日本一監督にまでなった指導者人生で逆転する構図はまるで「ウサギとカメ」そのもの。育成能力は両者とも高かった事が
“ウサギ長島”の解任同然のリタイヤ後に証明されたが、戦術などのベンチワークの面では地道に我慢を重ねた“カメ古葉”が一枚も二枚も上手
だった。 (了) こういうサイト野郎って自分に酔うんだろうな
業界人ってナルシストの集まりみたいだし
明らかに記事は気味悪い
素直に書けやいいたい >>175
業界人じゃない、素人がライター気取りで長文書いて自己陶酔してるだけ >>148
記憶にない、王の時代はなかったのでは? あれ、ライターかと思った
新聞社行けよ
人材不足らしいぜ >>178
G+の映像だと、トランペット1つで一部の人たちしか声援してない印象
かっとばせーわんちゃん○○たおせーお
だったはず (了)ってのはお前の名前か?w
文章をまとめるならダラダラ長文書かないで簡潔にまとめろ パ・リーグ後期最終戦で近鉄が藤井寺で西武に勝って優勝
これは昭和38年(1963年)の全く逆なんだよね
最終戦で西鉄が平和台で近鉄に勝って優勝 1997年は西武が西武球場でダイエーに勝って優勝
2015年はソフトバンクがヤフオクで西武に勝って優勝 >>184
シーズン最終戦ならこのケースだけでは? 近鉄vs日ハムの10・7後楽園決戦って巨人戦並みに満員になったのに
あんまり語られないな。この試合で大沢が抑え投手の重要さを痛感して
オフに江夏獲得の布石になったのに >>191
リアルで見れなかった年代だからだけど、
そんなに凄かったのか。 日本ハムは引き分けでも後期の優勝が決まるという試合
もし日本ハムが負ければ、西武にも自力優勝が復活するという
パの後期の優勝争いのハイライトの一つ うろ覚えだが、この年のヤクルトって神宮での広島戦に1つも勝てなかったんじゃなかったっけ? 先日のしくじり先生に江本が出て例の「ベンチがアホやから」事件とかを語っていたが、
実は事件を起こす前年のこの年の終盤にも暴言トラブルを起こしていた。
終盤の広島戦で2桁勝利にリーチをかけようとした試合で降板させられて、藤江投手コーチに向かって
ボロクソにディスった。この時はバッテリーを組んでた若菜が宥めて何とか場は収まったが、
江本の首脳陣不信は燻っててオフにトレードを志願するほどだった。 移籍して活躍したから1500万円ぐらいいくと思ったら
900万ちょいの提示にブチ切れて、
再交渉しても数十万しか上がらず呆れてハンコ押した経緯もあったし、
そういったのが積もり積もったんだろうね >>193
西武は、優勝のメが消えた後期最終戦
(対近鉄@藤井寺)は、無気力試合だった。
滅茶苦茶な投手起用、スティーブの糞エラー、
蓬莱のスリーラン以外に見せ場のない打線。
「プロ野球ニュース」の試合レポートは、
近鉄大逆転優勝よりも、西武のイミフ野球の
批判ばかりだった。 >>191
プロ野球関連の本にたまにちょこっと触れられてる印象だ>10.7決戦
当時不人気のパリーグでは注目された方じゃないかと思う >>198
西武ナインが大沢が嫌いで、西本を勝たせたかったと坂井保之が暴露してたな >>196
今のサラリーマンの平均小遣いって1979年以下なんだね。
http://www.garbagenews.net/archives/1987031.html
今の選手の年俸は高すぎるが、江本クラスでその当時に900万とかやってられないだろうね。 阪神ヒルトンはセカンドでスタメン出場したのは1試合だけな上、
その試合も偵察要員の兼ね合いで試合開始直後すぐにファーストに移っている
岡田もこの年はセカンドよりサードスタメンの方が多い この年のドラフトってどんな雰囲気だったの?
原辰徳は今の清宮みたいな感じ?? 長嶋監督解任、王、高田が引退。堀内、柴田等V9戦士の衰えが激しく
球界に新しいスターが求められていた。 >>211
同感
無知無学の開き直りって恐ろしいよね >>156
結局、今年も巨人は優勝できませんでしたw >>214
しかも>>158でワイがカキコしたのが… 日ハムが優勝してたら後楽園でのシリーズだったのにな
広島は優勝決定は関東が多いがシリーズは関東以外ばかりだ >>179
本人乙www
ライターはギャラの出ない仕事はやらないのw
それがプロの証明だから。
ライターになれなかった無能のナルシストさんwww 大沢は思ったことをズバズバ全て口にするから敵も多かっただろうな すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
IYNJA >>207
清宮なんてもんじゃない。ONが消えて原が巨人来なきゃプロ野球は終わりの雰囲気だった。
清宮は持ち上げられすぎな感じだが、原は学生唯一の日本代表入り、大学三冠王の実績を引っさげ即戦力だった。
スター性もじゅうぶん。でじっさい1年目から活躍し新人王、チームは日本一。
オフにはCM契約殺到。この時の原を越えるCM契約とるプロ野球選手はもうあらわれないだろう。 木田勇って、この年に野球人生の運を使い果たしたのかな? >>225
当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったけど、今ではスキャンダル隠蔽に
反社会的勢力に1億円を渡すダーティーヒーローに成り下がるw 「スティーブ効果」
低迷を続けるチームが躍進するのに必要なのは、新戦力の加入と台頭だろう。現有戦力の意識改革だけでは容易でない事も当然の話だ。
ライオンズ球団が埼玉に移ってからの西武は、オーナーの堤義明が79年以降新しい風を入れ続けていく事になるが、2年目の80年では若手の
成長と米メジャーのレギュラー三塁手加入が後期の戦いに影響を与えた。
前期最下位のチームに途中入団したスティーブ・オンティベロスは、まさに起爆剤といえる存在だった。前期に在籍していたテーラー・ダンカンは
64試合で6失策ながら数字に表れない雑な守備が目立ち、打撃での波も大きかった。スティーブは65試合で14失策と少なくなかったが、メジャー
仕込みの三塁守備はダンカンのそれを凌駕した。遊撃を守る行沢久隆、大原徹也も刺激を受けて守備力が向上していった。スティーブとの三遊間、
山崎裕之との二遊間で安定度が増し、チームの無駄な失点は減少した。
打撃でも勝負強さを発揮、後期のみで16本塁打、50打点と凄まじかった。メジャー通算600安打の実績は額面通り、前期三番だった山崎は本来の
二番に回って持ち味の渋い打撃を出し、二番から下位に回った立花義家は“恐怖の七番”として初の全試合先発出場で3割打者になった。
トップを打っていたもう一人の助っ人ジム・タイロンは前期9本塁打だったが、後期はスティーブに負けじと26本塁打、田淵幸一も後期24本塁打で
4年ぶりの40発をクリアした。
内野の守備力が上がり強力打線に変身したとなれば、投手もゆとりを持って投げられるのは必然で、前期3勝の松沼雅之が後期9連勝、前期5勝の
エース東尾修は後期で7連勝を含む12勝(4敗)と働いた。
おかげでチームは54試合目まで首位に立っていたが、終盤の6連敗で初優勝は幻に終わった。6連敗後の東尾による中1日での完封など見せ場も
作った西武、あらゆる選手の活躍に“スティーブ効果”は一役買っていた。契約時に3年半もの複数年要求を、ほぼ全面的に承諾した甲斐があったと
いうものだが、堤の「スティーブ一人で優勝争いが出来たのだから、それ以上のメジャーリーガーを連れて来たらもっと良くなるだろう」の号令で翌年
春季キャンプ中に入団したのがテリー・ウィットフィールド、夜明けはすぐそこまで来ていた。 (了) ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ >>230
このライター気取りの下手くそまだいるんだな
ゴミみたいな長文流さないでくれよw イヤならここから立ち去ればいいのに、その程度のこともせずに
文句三昧ですか >>234
そらくっさい駄文垂れ流されたらみんや嫌やわ おっさんになるとスルーできなくなって
不満は全部ぶちまけたくなるから >>230
雑談掲示板の空気読め
自己満足の作文載せんなドアホ I see.
susucoin:SVLQWn5PxieCBenyv71ddGRDwbhvhAy5Mi I see.
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susucoin:SVLQWn5PxieCBenyv71ddGRDwbhvhAy5Mi 図星だったらしい
惨めだなおっさん、老境を前に煽られるのはどんな気分だ? おっさん同士がお互いにおっさん呼ばわりする悲しいスレ 王は1984年まで現役を続けていれば普通に1000本塁打行けたのに。 >>249
このスレの序盤でもこのネタがあるけど、>>33のようなことがあって
現役引退を決めたんだろうな >>249
衰える一方の王に対して、「あと4年で132本も本塁打を打て」だなんて
ムチャクチャやなw それがそうでもない。
引退後したあとに王貞治が言うには引退は間違いだったとのこと。
あのときは衰えたと感じたけどただのスランプだったとわかったそうだ。
実際引退したあとも練習ではスタンドに簡単にたたき込んでいる。
現役にこだわれば1000本打てる。打率は3割切るだろうけど。 http://d.hatena.ne.jp/lp6ac4/20111102
・僕は40歳の時に「年齢的な限界」を理由に1980年(昭和55年)に引退を表明したのです。
しかし僕は今、年齢のせいにして辞めたのは間違いだったと素直に認めたい、今も悔いが残っているのです。
できるなら自分の人生を書き変えたいくらいにね。本来の自分だったら、あと三年はやれたでしょう。
単なる不調を、40歳という年齢のせいだと責任転嫁してしまったのです。
今思えば技術的にずれていたんですよね。打撃の技術チェックを厳しくやっていれば山はまだまだ乗り越えられたはずです。
体力的には43歳まで、あと三年は絶対にやれるという自信がありました。 王の成績が下降線をたどっていったのは、球団史上初の3年連続V逸で気持ちが萎えていたのもあるのでは?
藤田監督に代わってから1,2,1位だったわけだから王は現役を続けていれば成績が盛り返したのではないか。
1981 .327 45本(913) 117打点 MVP 自身初の日本シリーズMVP
1982 .287 35本(948) 97打点 MVP
1983 .292 31本(979) 88打点
1984 .269 21本(1000) 68打点 規定打席割れもコーチ兼任でV4、有終の美で引退
1985 引退即監督就任、阪神打線に何もさせず優勝しV5
結局、1990年までV10行けたのではないか?
1986、88年の日本シリーズは、巨人なら西武に勝てたはずだ。 >>252-254
そんなもん、後からだったらナンボでも妄想できるからなw 衣笠は残り9試合まで3割キープだったが届かず
72,76に続いて3割ならず84まで待つことに >>254
規定打席到達打者の中で打率最下位ってのは紛れもない衰えだろうしありえない妄想だな 「アメージング・ルーキー」
最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、他にも投球回と完投でリーグトップとした日本ハム・木田勇は80年、ルーキーで初めて新人王と
MVPの両方を獲得した。
高齢である両親の面倒を見たいため、在京セ・リーグ入団を希望していた神奈川県人の木田にとって、日本ハムは「情報がなくて、まだこれからという
弱いチーム」という印象でしかなかった。ただ、「若い左投手がいなくて、すぐに使ってもらえるかな」とも思っていた。
速い直球にフォーク主体という投球スタイルで日本鋼管に属した社会人時代では、都市対抗で久慈賞を受賞するほどだったがキャンプの2日目で
早くも鼻っ柱を折られた。この年から投手コーチに就いていた植村義信にフォークを否定されたとの事だったが、そこで教えてもらったのが直球との
緩急をつけるのに効果十分のパームボールだった。
デビューがチームの開幕2戦目というのは、どんな選手も大人扱いする大沢啓二監督らしい抜擢だった。先発した木田は西武打線を土井正博の
ソロ本塁打のみに抑えて、1失点の完投勝利を飾った。初勝利の19日後のロッテ戦では、早くもプロ初完封とリーグに衝撃を与えた。4月は先発、
中継ぎに投げ4連勝して防御率0.79で月間MVPを受賞した。
木田は前期だけで二桁勝利に乗せると、後期は8月に2度目の月間MVPこそ逃したものの2度の毎回奪三振と5勝0敗1Sで防御率1.69(月間
MVPは6勝5完投、防御率2.21の東尾修)をマーク、9月には2日に日本新となるシーズン3度目の毎回奪三振を記録し186球の完投勝利、25日
には延長11回完投で西鉄・池永正明以来15年ぶりとなる新人20勝に到達した。飛ぶボールの影響もあって打高投低傾向の80年にありながら、
木田は9月2日まで防御率1点台をキープする立派な内容で22勝8敗4Sの成績で“アメージング・ルーキー”とも呼ばれた。90年に近鉄・野茂英雄
も木田と同じく冒頭の6部門でリーグトップだったが、奪三振と完投数以外では木田が上回っていた。
後期優勝マジック「1」で迎えた後楽園の近鉄戦で大沢は3回表から木田を投入、しかし結果は降板する8回途中まで2被弾5失点と打ち込まれて
優勝を逃した。186球完投後に「本当に疲れた・・・」と木田が談話を残してからはチーム事情で救援に回る試合も何度かあるなど4勝4敗、防御率
3.86と平凡な結果だったが、やはり体力は極限状態だったのか。現に9月以降は中1日登板が5度、最後の後楽園決戦も中1日だった。最後を締める
投手が当時の日本ハムに乏しくチーム最多セーブは高橋一三と木田の4、そこでオフの江夏豊獲得となり78年移籍入団の間柴茂有、76年移籍
入団の村上雅則と合わせた“左腕王国”を日本ハムは短期間で築いていった。 (了) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています