1981年のプロ野球
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近鉄を退団した前年のパリーグ本塁打王のマニエルがヤクルトに復帰したけれど、
年齢的な衰えも(当時37歳)あってか持ち前の豪打が振るわずあえなく引退。
近鉄を退団したいきさつが複数年契約の要求で単年契約を譲らなかった近鉄側と
交渉が決裂してだったが、代わりに獲得した外国人がさっぱりで
最下位に一気に落ちた所を見ると、見切りの上手さというよりも
ただのドケチといった感じか? セもパも全く面白くなかった年
昭和50年代で一番つまんなかった >>31
オールスター戦を挟む7月に16本以上打ったのは門田だけ。
>>32
首位打者になった藤田平とはその差が1厘。
阪神戦では敬遠されまくった篠塚。対して終盤は試合欠場も多かった藤田。 藤田は打率維持の為、結膜炎(おそらくは仮病)で数試合欠場したり、
代打で1打席立つだけを繰り返していたなw
そこまでしてタイトルが欲しいのかよと思ったw 「逃げる藤田 追う篠塚」
スポーツ紙にこんな風な見出しもあった記憶が。
巨人の優勝決定後も篠塚はほぼフル出場。
一方の藤田は篠塚との差が開くと出場したが決まって途中交代か代打だけだった。 >>41
これ、誤爆だなw
どこのスレに書こうとしたか、大体想像は付くけどw 日米野球はロイヤルズが来日。
第1戦は柳田、2戦は吉田孝と巨人のベテラン勢が活躍も江川ら投手陣が瓦解。
第3戦の全日本は石毛と原のホームラン(原はランニング)と小松の速球で勝利。 >>40
太っさんには藤田平の気持ちが分かるんだよ!
自分も西鉄の選手兼任監督時代に自分も通算打率を落とさないように試合に出なかったからな 原の初アーチは開幕2戦目、調整登板で8回に今季初登板のストッパー小松辰雄(この年シーズン中に先発転向)
からライトオーバー!王のレフトへのアーチが珍しいのと同じく、原のライトオーバーも珍しい。
実は開幕戦は学校行事で行けず、2戦目に後楽園に行ったら幸運にブチ当たった。菅野もそうなるだろうと「先発2
試合目」の「中日戦」を狙ったら、その通り初勝利に出くわした。 >>46俺も友人と観戦した。
あの試合 定岡が顔に打球を受け退場になり、次に出てきた投手が浅野だったので
自分の周りの人たちも”浅野?勝っているけど大丈夫か?”って感じの事言ってた。
前年は実質敗戦処理投手だったからだと思う。
そうしたら好投して、抑えも同じ処遇だった加藤初でピシャリと抑えたので
藤田監督の采配にビックリした。 藤田(監督)、王(助監督)、牧野(ヘッドコーチ)の
トロイカ(ロシア語で3頭立ての馬ゾリ)体制とも当時は言われてたな。
序盤で中畑が怪我で欠場したので原を三塁に固定でき(当初、原は二塁を守ってた)
復帰した中畑は一塁にコンバート、当初原が守った二塁に篠塚で
10年近くスタメンな内野陣となり、
ほとんどうまくいった。
数少ない誤算はトマソンの扇風機ぶりくらいか。 キャンプ中に西本の奥さんがガス爆発事故で重傷を負った
開幕投手に指名された西本は奥さんの火傷した肌をポケットに入れて力投し、勝利投手になった
一方中日は巨人との2連戦に連敗するも、その後連勝しまくり4月は15勝4敗と絶好のスタートを切るも5、6月に大きく負け越して5位に終わった 今年と同じカレンダーで、5月2日土曜日の後楽園阪神戦デーゲームに原の妹・詠美さんが観戦している姿が映った。
原とは入れ違いに東海大入学したが、失礼ながらかなりのおデブちゃんだった。兄貴の打席の時はアナウンサーに
「(心配で)見ていられない様ですね」と言われてた。後に言わずと知れた菅野の母となるわけだが。 日ハムが後期終盤に西武に4連勝して優勝をほぼ確実にした試合で
江夏は石毛をストレートで三球三振に取ってまだまだ早いぞと格の違い
を見せ付けた。
現代厨にそれは昔の野球のレベルが低かったからとからかわれるけど
そういうのともちょっと違っていてあのストレートは力がこもっていたね。 >>54
初回の先頭打者に2塁打を打たれて
あとはパーフェクトに抑えたってやつでしょ
全然、あわやじゃないじゃん 定岡ももし完全試合達成してたら、
引退後はまったく違った人生歩んでただろうがな。 成績が順調だったのに
83年に6月以降突然勝てなくなってから落ちてったな。
カープキラーが定岡から欠端(横浜大洋)に代わった。(広島ファン) 定岡は、外角スライダーと半速球でのらりくらり交わしていた頃は勝てていたのに
140キロ台のストレートを投げるようになってから、突然、勝てなくなってしまった 日本シリーズ初戦で高橋から江夏に代わる際に親分がマウンドで偉い長々と
話をしていたけど一体どういう会話がなされていたのだろう。
あれちょっと気になっている今でも。 >>58
変化球投げる時に口開ける癖がバレたのに、
どうしても矯正できなかったんだろ。
スポーツ新聞でも写真付きで解説されてたw 本命だった高橋慶彦が怪我で開幕から出遅れた関係あったからな。 日本シリーズの試合後親分が
ベンチで堂々とタバコ吸ってたけど
当時はOKだったの? 当時は駅のホームから線路上まで吸い殻びっしりの時代だし、テレビのインタビューやトーク番組でタバコ吸いながらやってたりしたんだしOKだったんじゃないの オフに日テレが原を讃える番組を放送
好プレーや藤田王からのコメントなどあり 日本ハムは終盤でクルーズが怪我で離脱し、シリーズに間に合わなかったのが
つくづく痛かった。 >>66
スーパーで従業員がタバコくわえて陳列してたような時代だから NHKスペシャルの「江夏の21球」でもNHKのスタジオ機材室で煙草を燻らしながらインタビューに答えてたな江夏 「アンバランス」
「野球は出来ても、勝負する所まできていない」と監督の根本陸夫は言った。この81年、前期に西武初優勝のチャンスが訪れた。4月を2位で
通過し、5月下旬からの1分けを挟んだ10連勝で貯金5。残り10試合を切った6月中旬には4連勝して2位浮上、快走を続けて既にM3として
いた首位・ロッテに3ゲーム差と食らいつく粘りを見せた。直接対決も2試合あり好機だったが、浮き沈みの激しいこの年の西武を象徴するか
のように、直後1分けを挟み3連敗。挙げ句目の前でロッテ前期Vの胴上げを見る羽目となってしまった。
根本が言ったように新しく石毛宏典、岡村隆則、杉本正が加わり優勝候補に挙げられるほど、野球が出来る選手を揃えながら、大事な試合を
落とすなど勝負所に弱いのが優勝できない原因だった。先の10連勝など大型連勝もあったが、5月の6連敗、後期球宴明けの2分けを挟む
6連敗と9月の8連敗というように「さあ追撃」といった時の大型連敗も目立ったムラのあるシーズンだった。その意味でエース・東尾修の不振
は響き、前後期4勝ずつの8勝11敗。開幕戦を落としたのも、チームの10連勝を止めたのも、ロッテにサヨナラ負けを喫して前期Vを許した
のも全て東尾だった。リーグトップの防御率を誇った投手陣と、10連勝中の3戦連続を含む2ケタ得点13試合を記録した打者陣を備え、
得失点差プラス86も優勝した日本ハムのプラス56を抑えてリーグ1位。それでいて1点差試合はリーグ5位の11勝17敗で、トータル5割に
留まり2年連続4位というアンバランスな結果に終わった。
根本の選手任せの野球も、勝ち切れない一因である事も否めなかった。チームは徐々にレベルアップしていたが、移籍3年目の山崎裕之は
細かい事を一切言わない根本野球に歯痒さを感じていた。業を煮やした山崎はついに球団代表・坂井保之に「僕たちは勝てる野球をやりたい」
と直談判。ロッテ時代の74年に優勝した喜びを知る34歳ベテランの切なる願いだった。それを坂井から伝え聞いた根本は意外にも
「へえー、選手が勝ちたいと言っているのかね。いいじゃないか、今度は勝てる監督に席を譲る事にしようじゃないか」と言うと、10月下旬に
あっさり辞任してフロント入り。同月早々から下交渉を始めていた広岡達朗の就任を、自身の辞任の2日後に発表した。
まさか山崎ら選手が“本気”になるのを待って、敢えてシーズンをある意味犠牲にしてまで動かない事など本当にあるのかと考える。だが
根本なら、それも本当に有り得ると思わせる何かがある。 (了) 得失点差の件が気になってこの年の西武のピタゴラス勝率を計算したら
一昨年のソフバンに匹敵するぐらい悪かった 原辰徳が一年目の年だけど、ルーキーとして及第点と言っていい感じだったの? この年から圧縮バットと飛ぶボールが規制されたからな 広 161→181
ヤ 132→120
巨 153→135
洋 135→105
神 134→114
中 134→151
セ 849→806
近 239→149
ロ 184→126
日 167→126
西 219→143
急 204→140
南 183→128
パ 1,196→812
セは微減だけどパは30%以上激減してるよ。
セは1977年の1050本がピークで以後910本(78)、945本(79年) >>79
もろに影響受けたのが近鉄だな。
これで狭い日生球場のホームラン量産が激減した。
首位から最下位へ。西本監督もこれで勇退。 当時はパの方が狭い球場が多かったから
一番広いのが西武球場で他は箱庭ばかり
箱庭ホームランが一気に減ったってこと M社が開発した高反発球を78年に阪急が採用
79年は阪急、近鉄、西武
80年は阪急、近鉄、西武、南海
がそれぞれ採用してた(M社を採用しているセリーグ球団はなし)という説を
宇佐美徹也氏が提示してたが、数字的には辻褄があっててなるほどと思った。
80年はロッテのホームゲームだと年間114本本塁打が出たのに対し、
近鉄のホームゲームだと3倍近い319本も >>84
大差あるっての。
甲子園はラッキーゾーンがあったがそれでも最大。
横浜なんか出来た当初は「広い球場ができた」と連呼されてたんだから。
少しは事実を調べろアホ 後楽園?神宮?横浜?ナゴヤ?甲子園?広島
後楽園?川崎?西武?大阪?日生?西宮
大差ないねw そういやこの頃、神宮球場が長期改装中だったような記憶が。
この年はスコアボードだけリニューアルして翌年からフェンスが青になったっけ? >>88
大ありだ馬鹿
日生なんか「プロの球場として恥ずかしいレベル」と言われたのも知らんのかw >>89
スコアボードが電光掲示板化されたのはその前年
翌年フェンスが青色になり、さらに人工芝になった >>89
この年まではグランドコンディション不良で中止というケースがあった。
覚えてるのが4月下旬のヤクルト×巨人。
巨人2連勝で迎えた3日目、深夜から明け方にかけて大雨。
朝は曇りだったが昼前から快晴。なのに中止w
これには子供心に「ヤクルトが3連敗が嫌で逃げたんだな」と思ったほどw この時代の球場は両翼91m、中堅119mか120mが標準サイズ(膨らみは違いあるが)
九州遠征で使う平和台が中堅122mあったので広い球場と言われていたほど この頃でも明確に狭いといえたのは後楽園と川崎ぐらいか >>79
広島と中日だけホームランが増えてるね
なぜだろう? ハムのソレイタが本塁打、打点の二冠ながら、MVPどころかベストナインも落選。ベストナインは、久々の日本人本塁打王で、アキレス腱断裂から復活したとはいえ、5位チームの門田。外国人に対し、排他的な時代を象徴する記者投票の結果と言えますね。 この年のオールスターの中間発表ではライトルが3位そのまま行くと思ったが
なぜか巨人の選手に逆転されてた、監督推薦で選ばれたが。 日ハムー巨人の日本シリーズで、巨人投手陣を打てないハム打線と、日ハム応援の歓声の無さに絶望したわ。 巨人ハムのシリーズって3回あるけどいずれも4
-2で巨人な上、絶望的につまらないんだよな 日本シリーズで、勝敗に直結しなかったが、その年限りで引退した松原に本塁打を打たれたり、柴田にも安打を許していたハムの投手陣。これでは負けても不思議はない。 V9メンバーが軒並み引退あるいは第一線を退いたなかで、古巣相手に奮闘する高橋一三
感慨深かった >>103
お前、リアルで見てないだろ?
81年のシリーズは最高に面白かったよ。
日ハムも最初は善戦してたし、思わぬ伏兵平田が鬼のように打ったり、
ハムは若手の工藤が好投したり。
江川が打たれたり完璧に抑えたり、ハラハラドキドキだった。 日本シリーズの分岐点となったのは、第4戦の日本ハムの継投。同点の5回から成田、宇田らベテランを起用し、巨人の打線に火を付けてしまった。シーズン中、あまり活躍していない投手を注ぎ込んだのは、明らかに采配ミスだった。 >>103
4−2だからつまらないというのはおかしい(負けたチーム支持の立場は除いて)
81年のシリーズは確かに試合がしまって面白かった。
逆に83年の西武巨人は4−3でかなり盛り上がったが、
実は両軍凡ミスやエラーも目立ち、当時の週刊新潮に「騒ぐほどもない凡戦」と、
冷静に皮肉られていた。 試合がしまってたのは全試合が後楽園で両チームのホームグラウンドだったからかな。
最初はハムが勝つかと思った。シーズン無敵の江川が柏原に2本もホームラン打たれたから。 明らかに江川より西本が上、と思ったけど、プロ野球界は雑草の西本より、高校野球からの大スターの江川を持ち上げているんだな と思っていた。 ↑
リアルで見た奴の感想じゃないな。
あのシリーズの西本はMVPだったけど二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちみたいな試合。
江川は最初は調子出なかったが投げるたびにエンジンかかって圧倒的な力でねじ伏せた。
最終戦みれば比較にならん怪物だったよ。 >>107
木田、間柴、高橋一三。左の先発が全部やられた。 リアルで見た感想だよ。第一戦はデーゲームに弱い江川を避けると思ったのに、高校野球の大スター江川が先発で、ああやっぱりか……と思わされた。 そもそも全試合デーゲームだからな
デーゲームに弱いってだけでタイトルホルダー(しかも投手三冠)を初戦から外す発想はないね 当時小学校5年生だったので、あまり記憶にないのですが、
うちの父がよく言っていたのが
・巨人は長嶋の「遺産」で勝っている
父の個人的感想なのか、メディアの論調を自分に伝えただけなのか、どちらなのかは失念
・「石毛、原に負けるは顔だけ」
父の話では、どこかのメディアがこのように言っていたとのことですが・・・
それ以外で、当時野球にあまり興味のなかった自分であっても記憶に残っているのは
・エモやんの例の発言と引退
・日ハム関連
メディアでもよく取り上げられていたのでしょう
自分が間柴、ソレイタ、クルーズという名前を知っていたくらいですから
・江川の活躍
シーズン20勝より防御率1点台を保っていたことの方がニュースになっていたような気がします
いつごろまで1点台を保っていたのかは失念
・日本シリーズ中の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
あとで知ったところによると、当時の鈴木善幸総理大臣がシリーズ観戦を予定していたものの
この事故への対応のためにキャンセルになったそうですね。 日ハムはクルーズが怪我でシリーズ不在だったのが惜しまれる。
代役で井上(先日亡くなった富田勝とのトレードで中日から来た)が奮起して
何とか穴を埋める活躍はしてたけど、平田の左キラーぶりにやられた感じが。
抑えの江夏からも打ったし。 パ・リーグのベストナイン指名打者。門田(南海)190・ソレイタ(日本ハム)27・大田(西武)1。優勝したチームで二冠王が大惨敗の27票。外国人差別とも思われる票差。しかし、大田に1票入れた記者は理解不能。 >>112
君こそ何も知らないんだな
単に運が良かっただけとか言いたいんだろうけど、タイプの違い
西本みたいなゴロ打たせる投手はある程度は安打打たれるのは仕方がないという投球をしてるんだよ
バットに当てられるから安打はそれなりに打たれる
だけど、芯を外すのに長けてるので長打は滅多に食らわず、単打ばかりなので失点しない
ゴロが多いので走者を出しても併殺で切り抜けることができる
なのでゴロを打たせる投手を安打打たれる、走者ためるってところでマイナスに見て評価するのは間違い 何も知らないのはお前。
西本は技巧派で江川は本格派ってだけ。
いつの時代でも投手の王道は本格派だってのw いやお前だよ
技巧派とか本格派とか何だよ
曖昧に定義するなと
グラウンドボールピッチャー、フライボールピッチャーと分けられるし
奪三振率の高低、与四球率の高低でも区分できるだろ
奪三振率が高くないエースは珍しいということか?
そりゃあ西本みたいなスタイルで成績残してるタイプは他にいないから
王道からは外れてるだろ
それと投手の優劣はまた別問題だし >>121
いやお前だ。
81年の成績見れば圧倒的に江川が上。
投手三冠王じゃねえかw
モノが違うってことだw >単に運が良かっただけとか言いたいんだろうけど、
そもそもこれはお前の妄想で>>112は試合内容を言及しただけでそんな評価はしていないからwww 「MVPだったけど二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちみたいな試合」
これじゃMVPにはなったものの・・・
二桁安打打たれながら残塁の山だから内容は微妙
と言いたいように受け取れるけど
西本はゴロの山を築き、内野手の1試合22補殺という
グラウンドボールピッチャーとしての正に真骨頂と
83年シリーズに繋がる連続無失点の日本シリーズ記録を残してるだろ
なら、どういう意味なんだ? >>122
そこは別に否定していないんだけど
「MVPだったけど」二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちって
否定的にレスしているから
ゴロ打たせる投手にとっては
決してマイナスにはならないってことを指摘しているんだが >>124
「本格派が技巧派より格上」ってことだろ。
投手の憧れは本格派。通ぶって技巧派が好きとか中2病の典型だろw >>126
だからそれは一般的な話であって例外もいるという話だろ
>>121の最後の部分が読めないのか?大丈夫か?
別に好きだと言ってないし、好きだとも思っていないんだけど >>26
その日の試合後に星野が宇野を食事に誘ったけど
車での移動中に宇野が追突事故を起こした >>130
よく、後日談として使われる笑い話だが追突云々のところは「創作」らしい。
後年、宇野は「その試合後、星野さんから飯でも食いに行くかと声かけて
頂いたのには本当に救われましたね。ただ、田舎から兄貴が出てきていた
のでお断りしてしまったんですけど…(苦笑)」と語っている。
(ソースはベースボールマガジン「80年代プロ野球」(2005年発売) この年は既にトランペットの応援合戦はあったのかな?
確か83年にはどの球団もあったと記憶してる
但しパリーグは内野席での応援だった 日本ハムはもうちょっと後だったんじゃないかな
トランペット入れたの ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています