1981年のプロ野球
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桑田佳祐が紫綬褒章のメダルをポケットから出してみせた…、たったそれだけのことで「不敬」として断罪する日本国民は「ムハンマドを侮辱した」と憤るイスラム教徒とほぼ同じ地平にいる。
そこは「表現の自由」という蚊帳の外だ。もしかしたらサザンはずっと、デビューから何十年間も政治的なメッセージソングをその時々に唄っていたのかもしれない。
メディアで取上げられ始めたのは最近のように思う。年末のネットニュースでは、安倍政権を軽く揶揄した替歌を安倍首相の前で披露したとか。
『ピースとハイライト』という曲では最近の「嫌韓憎中」という風潮を批判していたり。紫綬褒章の記念品をポケットにしまうことには照れ隠しもあるだろう。
こんなもの貰っていいのかというミュージシャンとしてのアイデンティティを疑う意図もあろう。ヒトラー風のちょび髭は当然ながら「熱狂なきファシズム」(想田和広)の時代への「風刺」に違いない。
いずれにしろ、かっこいいじゃないか桑田佳祐。ぼくはファンになったぞ。といってもサザンを聴こうとは思わないが、時の総理も観に行くようなメジャーバンドが政治的発言をする、
そのこと自体がこの國にとって画期的なこと。山本太郎が「反原発」発言をし出した頃、津川雅彦に「芸能人はそんなことを云わないほうがいい」的な注意をされたとかつて語っていたが、
そのことに象徴されるように日本のタレントはほぼ誰も政治的な主張はしない。爆笑の太田くらい?その「物足りなさ」を是非埋めてほしい。たとえ、すぐ「謝罪」する羽目になったとしても。
謝って尚「反日」「在日」と集中砲火を浴びている桑田さん。そもそもロックが「不敬」でなくてどうする?これがぼくのたったひとつのゆるがない信念である。
かつて若松孝二監督は「映画は権力側から撮っちゃダメ」と云った。権力側に立つな、そういう意図だと思う。ロックは尚更である。ロックをやる以上、そこは腹を括ろうよ。
サザンはロックバンドじゃないのかもしれないが、J-POPのトップランナーだってこうして頑張っているのだから。 全試合同じ球場で開催された唯一の日本シリーズ
巨人が8年ぶりの日本一 4月に山本浩二
8か9月に宇野
のヘディングが同じ後楽園球場であった。 評論家とかスポーツ紙とかのシーズン前の予想では
この年の巨人は評価高かったの? >>7
低かった。広島と前年2位ヤクルトの評価が高く、
巨人が優勝すると予想した解説者は少なかった。
パリーグに目を向けると各局の西武報道が目立ちはじめ、
とくにTBSとフジの持ち上げっぷりが異常だった。
TBSラジオはシーズン途中から巨人戦を中継しない日に
従来のセリーグカードから西武戦に変えた編成になった。 >>9
当時、週ベに野球川柳のコーナーがあって、
「ドラフトのツケが今ごろ沢村賞」という投稿が載せられてた。 原のプロ初ホーマーは後楽園のライトポール極ね巨人ファン席に飛び込んだが
プルヒッターの原を思えば最も原らしくないホームランだった 序盤は 西本 角 中盤 加藤 夏場は
江川 だった記憶有 >>8
スポーツ紙(特にスポニチ)もキャンプ前後から「西武 西武」だった。
「なんで今年はそんなに西武の記事ばかりなの?」って思った。
でもペナントレースに入って以降は巨人を一面に持って来てた。 前年のドラフト抽選で原を外していたら
巨人の優勝、日本一はなかったか? 西武は吉本がもう少ししっかりしてくれてたらな。
弱肩で走られまくった。
あの人がもう少ししっかりしてくれていたら西武の初優勝は82年ではなく
81年に成し得ていたかも。 この頃の西武は不気味なチームと呼ばれていた。
まだ優勝には届かない発展途上のチームだったが何処も皆このチームに
対して何とも言えない不気味な恐怖感を抱いていた。
このチームの底知れない潜在的能力をこの時期皆感じ取っていた。 なお、この年に熊本工の大型捕手、伊東勤を
所沢高校へ転校させると同時に、球団職員として採用するなど
根本の寝技師ぶりは着々と進んでいた 西武は後期の終盤で8連敗し、通算で5割、4位に終わる
終盤息切れしなければ十分Aクラスだった 5月末からの10連勝を筆頭に
5連勝×2、4連勝×3
8連敗×1、6連敗×2、4連敗×1
完全に調子任せのチームというか パのMVPは江夏で異論なかったの?
ソレイタでも良かった気が 日ハムは、江夏入っただけで劇的に変わった。
広島は、江夏抜けただけで劇的に変わった
江夏って影響力あったんだな 南海 ブレイザー監督最終年
大洋 土井淳監督シーズン中辞任、山根俊英監督代行が最終戦まで指揮を執った 阪神の江本が「ベンチがアホやからやってられへん!」と吠えて
引退を余儀なくされたな。もともと中西監督とソリが合わなかったのと、
中途半端な起用法に不信感を抱いていたが >>25
その日、後楽園では宇野のヘディング事件で星野仙一がブチ切れていた >>20
吉本が走られまくったからねぇ。あれじゃ野球にならない。
与盗塁数の日本記録を作ってしまった。
大石離脱後暫くは吉本の弱肩はバレなかったのだが日ハムスコアラーに
見事見抜かれてしまった。 >>24ブレーザーは翌年も南海監督
近鉄最下位で西本監督 辞めた。
最後の阪急戦 両チームによる胴上げ 近鉄を退団した前年のパリーグ本塁打王のマニエルがヤクルトに復帰したけれど、
年齢的な衰えも(当時37歳)あってか持ち前の豪打が振るわずあえなく引退。
近鉄を退団したいきさつが複数年契約の要求で単年契約を譲らなかった近鉄側と
交渉が決裂してだったが、代わりに獲得した外国人がさっぱりで
最下位に一気に落ちた所を見ると、見切りの上手さというよりも
ただのドケチといった感じか? セもパも全く面白くなかった年
昭和50年代で一番つまんなかった >>31
オールスター戦を挟む7月に16本以上打ったのは門田だけ。
>>32
首位打者になった藤田平とはその差が1厘。
阪神戦では敬遠されまくった篠塚。対して終盤は試合欠場も多かった藤田。 藤田は打率維持の為、結膜炎(おそらくは仮病)で数試合欠場したり、
代打で1打席立つだけを繰り返していたなw
そこまでしてタイトルが欲しいのかよと思ったw 「逃げる藤田 追う篠塚」
スポーツ紙にこんな風な見出しもあった記憶が。
巨人の優勝決定後も篠塚はほぼフル出場。
一方の藤田は篠塚との差が開くと出場したが決まって途中交代か代打だけだった。 >>41
これ、誤爆だなw
どこのスレに書こうとしたか、大体想像は付くけどw 日米野球はロイヤルズが来日。
第1戦は柳田、2戦は吉田孝と巨人のベテラン勢が活躍も江川ら投手陣が瓦解。
第3戦の全日本は石毛と原のホームラン(原はランニング)と小松の速球で勝利。 >>40
太っさんには藤田平の気持ちが分かるんだよ!
自分も西鉄の選手兼任監督時代に自分も通算打率を落とさないように試合に出なかったからな 原の初アーチは開幕2戦目、調整登板で8回に今季初登板のストッパー小松辰雄(この年シーズン中に先発転向)
からライトオーバー!王のレフトへのアーチが珍しいのと同じく、原のライトオーバーも珍しい。
実は開幕戦は学校行事で行けず、2戦目に後楽園に行ったら幸運にブチ当たった。菅野もそうなるだろうと「先発2
試合目」の「中日戦」を狙ったら、その通り初勝利に出くわした。 >>46俺も友人と観戦した。
あの試合 定岡が顔に打球を受け退場になり、次に出てきた投手が浅野だったので
自分の周りの人たちも”浅野?勝っているけど大丈夫か?”って感じの事言ってた。
前年は実質敗戦処理投手だったからだと思う。
そうしたら好投して、抑えも同じ処遇だった加藤初でピシャリと抑えたので
藤田監督の采配にビックリした。 藤田(監督)、王(助監督)、牧野(ヘッドコーチ)の
トロイカ(ロシア語で3頭立ての馬ゾリ)体制とも当時は言われてたな。
序盤で中畑が怪我で欠場したので原を三塁に固定でき(当初、原は二塁を守ってた)
復帰した中畑は一塁にコンバート、当初原が守った二塁に篠塚で
10年近くスタメンな内野陣となり、
ほとんどうまくいった。
数少ない誤算はトマソンの扇風機ぶりくらいか。 キャンプ中に西本の奥さんがガス爆発事故で重傷を負った
開幕投手に指名された西本は奥さんの火傷した肌をポケットに入れて力投し、勝利投手になった
一方中日は巨人との2連戦に連敗するも、その後連勝しまくり4月は15勝4敗と絶好のスタートを切るも5、6月に大きく負け越して5位に終わった 今年と同じカレンダーで、5月2日土曜日の後楽園阪神戦デーゲームに原の妹・詠美さんが観戦している姿が映った。
原とは入れ違いに東海大入学したが、失礼ながらかなりのおデブちゃんだった。兄貴の打席の時はアナウンサーに
「(心配で)見ていられない様ですね」と言われてた。後に言わずと知れた菅野の母となるわけだが。 日ハムが後期終盤に西武に4連勝して優勝をほぼ確実にした試合で
江夏は石毛をストレートで三球三振に取ってまだまだ早いぞと格の違い
を見せ付けた。
現代厨にそれは昔の野球のレベルが低かったからとからかわれるけど
そういうのともちょっと違っていてあのストレートは力がこもっていたね。 >>54
初回の先頭打者に2塁打を打たれて
あとはパーフェクトに抑えたってやつでしょ
全然、あわやじゃないじゃん 定岡ももし完全試合達成してたら、
引退後はまったく違った人生歩んでただろうがな。 成績が順調だったのに
83年に6月以降突然勝てなくなってから落ちてったな。
カープキラーが定岡から欠端(横浜大洋)に代わった。(広島ファン) 定岡は、外角スライダーと半速球でのらりくらり交わしていた頃は勝てていたのに
140キロ台のストレートを投げるようになってから、突然、勝てなくなってしまった 日本シリーズ初戦で高橋から江夏に代わる際に親分がマウンドで偉い長々と
話をしていたけど一体どういう会話がなされていたのだろう。
あれちょっと気になっている今でも。 >>58
変化球投げる時に口開ける癖がバレたのに、
どうしても矯正できなかったんだろ。
スポーツ新聞でも写真付きで解説されてたw 本命だった高橋慶彦が怪我で開幕から出遅れた関係あったからな。 日本シリーズの試合後親分が
ベンチで堂々とタバコ吸ってたけど
当時はOKだったの? 当時は駅のホームから線路上まで吸い殻びっしりの時代だし、テレビのインタビューやトーク番組でタバコ吸いながらやってたりしたんだしOKだったんじゃないの オフに日テレが原を讃える番組を放送
好プレーや藤田王からのコメントなどあり 日本ハムは終盤でクルーズが怪我で離脱し、シリーズに間に合わなかったのが
つくづく痛かった。 >>66
スーパーで従業員がタバコくわえて陳列してたような時代だから NHKスペシャルの「江夏の21球」でもNHKのスタジオ機材室で煙草を燻らしながらインタビューに答えてたな江夏 「アンバランス」
「野球は出来ても、勝負する所まできていない」と監督の根本陸夫は言った。この81年、前期に西武初優勝のチャンスが訪れた。4月を2位で
通過し、5月下旬からの1分けを挟んだ10連勝で貯金5。残り10試合を切った6月中旬には4連勝して2位浮上、快走を続けて既にM3として
いた首位・ロッテに3ゲーム差と食らいつく粘りを見せた。直接対決も2試合あり好機だったが、浮き沈みの激しいこの年の西武を象徴するか
のように、直後1分けを挟み3連敗。挙げ句目の前でロッテ前期Vの胴上げを見る羽目となってしまった。
根本が言ったように新しく石毛宏典、岡村隆則、杉本正が加わり優勝候補に挙げられるほど、野球が出来る選手を揃えながら、大事な試合を
落とすなど勝負所に弱いのが優勝できない原因だった。先の10連勝など大型連勝もあったが、5月の6連敗、後期球宴明けの2分けを挟む
6連敗と9月の8連敗というように「さあ追撃」といった時の大型連敗も目立ったムラのあるシーズンだった。その意味でエース・東尾修の不振
は響き、前後期4勝ずつの8勝11敗。開幕戦を落としたのも、チームの10連勝を止めたのも、ロッテにサヨナラ負けを喫して前期Vを許した
のも全て東尾だった。リーグトップの防御率を誇った投手陣と、10連勝中の3戦連続を含む2ケタ得点13試合を記録した打者陣を備え、
得失点差プラス86も優勝した日本ハムのプラス56を抑えてリーグ1位。それでいて1点差試合はリーグ5位の11勝17敗で、トータル5割に
留まり2年連続4位というアンバランスな結果に終わった。
根本の選手任せの野球も、勝ち切れない一因である事も否めなかった。チームは徐々にレベルアップしていたが、移籍3年目の山崎裕之は
細かい事を一切言わない根本野球に歯痒さを感じていた。業を煮やした山崎はついに球団代表・坂井保之に「僕たちは勝てる野球をやりたい」
と直談判。ロッテ時代の74年に優勝した喜びを知る34歳ベテランの切なる願いだった。それを坂井から伝え聞いた根本は意外にも
「へえー、選手が勝ちたいと言っているのかね。いいじゃないか、今度は勝てる監督に席を譲る事にしようじゃないか」と言うと、10月下旬に
あっさり辞任してフロント入り。同月早々から下交渉を始めていた広岡達朗の就任を、自身の辞任の2日後に発表した。
まさか山崎ら選手が“本気”になるのを待って、敢えてシーズンをある意味犠牲にしてまで動かない事など本当にあるのかと考える。だが
根本なら、それも本当に有り得ると思わせる何かがある。 (了) 得失点差の件が気になってこの年の西武のピタゴラス勝率を計算したら
一昨年のソフバンに匹敵するぐらい悪かった 原辰徳が一年目の年だけど、ルーキーとして及第点と言っていい感じだったの? この年から圧縮バットと飛ぶボールが規制されたからな 広 161→181
ヤ 132→120
巨 153→135
洋 135→105
神 134→114
中 134→151
セ 849→806
近 239→149
ロ 184→126
日 167→126
西 219→143
急 204→140
南 183→128
パ 1,196→812
セは微減だけどパは30%以上激減してるよ。
セは1977年の1050本がピークで以後910本(78)、945本(79年) >>79
もろに影響受けたのが近鉄だな。
これで狭い日生球場のホームラン量産が激減した。
首位から最下位へ。西本監督もこれで勇退。 当時はパの方が狭い球場が多かったから
一番広いのが西武球場で他は箱庭ばかり
箱庭ホームランが一気に減ったってこと M社が開発した高反発球を78年に阪急が採用
79年は阪急、近鉄、西武
80年は阪急、近鉄、西武、南海
がそれぞれ採用してた(M社を採用しているセリーグ球団はなし)という説を
宇佐美徹也氏が提示してたが、数字的には辻褄があっててなるほどと思った。
80年はロッテのホームゲームだと年間114本本塁打が出たのに対し、
近鉄のホームゲームだと3倍近い319本も >>84
大差あるっての。
甲子園はラッキーゾーンがあったがそれでも最大。
横浜なんか出来た当初は「広い球場ができた」と連呼されてたんだから。
少しは事実を調べろアホ 後楽園?神宮?横浜?ナゴヤ?甲子園?広島
後楽園?川崎?西武?大阪?日生?西宮
大差ないねw そういやこの頃、神宮球場が長期改装中だったような記憶が。
この年はスコアボードだけリニューアルして翌年からフェンスが青になったっけ? >>88
大ありだ馬鹿
日生なんか「プロの球場として恥ずかしいレベル」と言われたのも知らんのかw >>89
スコアボードが電光掲示板化されたのはその前年
翌年フェンスが青色になり、さらに人工芝になった >>89
この年まではグランドコンディション不良で中止というケースがあった。
覚えてるのが4月下旬のヤクルト×巨人。
巨人2連勝で迎えた3日目、深夜から明け方にかけて大雨。
朝は曇りだったが昼前から快晴。なのに中止w
これには子供心に「ヤクルトが3連敗が嫌で逃げたんだな」と思ったほどw この時代の球場は両翼91m、中堅119mか120mが標準サイズ(膨らみは違いあるが)
九州遠征で使う平和台が中堅122mあったので広い球場と言われていたほど この頃でも明確に狭いといえたのは後楽園と川崎ぐらいか >>79
広島と中日だけホームランが増えてるね
なぜだろう? ハムのソレイタが本塁打、打点の二冠ながら、MVPどころかベストナインも落選。ベストナインは、久々の日本人本塁打王で、アキレス腱断裂から復活したとはいえ、5位チームの門田。外国人に対し、排他的な時代を象徴する記者投票の結果と言えますね。 この年のオールスターの中間発表ではライトルが3位そのまま行くと思ったが
なぜか巨人の選手に逆転されてた、監督推薦で選ばれたが。 日ハムー巨人の日本シリーズで、巨人投手陣を打てないハム打線と、日ハム応援の歓声の無さに絶望したわ。 巨人ハムのシリーズって3回あるけどいずれも4
-2で巨人な上、絶望的につまらないんだよな 日本シリーズで、勝敗に直結しなかったが、その年限りで引退した松原に本塁打を打たれたり、柴田にも安打を許していたハムの投手陣。これでは負けても不思議はない。 V9メンバーが軒並み引退あるいは第一線を退いたなかで、古巣相手に奮闘する高橋一三
感慨深かった >>103
お前、リアルで見てないだろ?
81年のシリーズは最高に面白かったよ。
日ハムも最初は善戦してたし、思わぬ伏兵平田が鬼のように打ったり、
ハムは若手の工藤が好投したり。
江川が打たれたり完璧に抑えたり、ハラハラドキドキだった。 日本シリーズの分岐点となったのは、第4戦の日本ハムの継投。同点の5回から成田、宇田らベテランを起用し、巨人の打線に火を付けてしまった。シーズン中、あまり活躍していない投手を注ぎ込んだのは、明らかに采配ミスだった。 >>103
4−2だからつまらないというのはおかしい(負けたチーム支持の立場は除いて)
81年のシリーズは確かに試合がしまって面白かった。
逆に83年の西武巨人は4−3でかなり盛り上がったが、
実は両軍凡ミスやエラーも目立ち、当時の週刊新潮に「騒ぐほどもない凡戦」と、
冷静に皮肉られていた。 試合がしまってたのは全試合が後楽園で両チームのホームグラウンドだったからかな。
最初はハムが勝つかと思った。シーズン無敵の江川が柏原に2本もホームラン打たれたから。 明らかに江川より西本が上、と思ったけど、プロ野球界は雑草の西本より、高校野球からの大スターの江川を持ち上げているんだな と思っていた。 ↑
リアルで見た奴の感想じゃないな。
あのシリーズの西本はMVPだったけど二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちみたいな試合。
江川は最初は調子出なかったが投げるたびにエンジンかかって圧倒的な力でねじ伏せた。
最終戦みれば比較にならん怪物だったよ。 >>107
木田、間柴、高橋一三。左の先発が全部やられた。 リアルで見た感想だよ。第一戦はデーゲームに弱い江川を避けると思ったのに、高校野球の大スター江川が先発で、ああやっぱりか……と思わされた。 そもそも全試合デーゲームだからな
デーゲームに弱いってだけでタイトルホルダー(しかも投手三冠)を初戦から外す発想はないね 当時小学校5年生だったので、あまり記憶にないのですが、
うちの父がよく言っていたのが
・巨人は長嶋の「遺産」で勝っている
父の個人的感想なのか、メディアの論調を自分に伝えただけなのか、どちらなのかは失念
・「石毛、原に負けるは顔だけ」
父の話では、どこかのメディアがこのように言っていたとのことですが・・・
それ以外で、当時野球にあまり興味のなかった自分であっても記憶に残っているのは
・エモやんの例の発言と引退
・日ハム関連
メディアでもよく取り上げられていたのでしょう
自分が間柴、ソレイタ、クルーズという名前を知っていたくらいですから
・江川の活躍
シーズン20勝より防御率1点台を保っていたことの方がニュースになっていたような気がします
いつごろまで1点台を保っていたのかは失念
・日本シリーズ中の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
あとで知ったところによると、当時の鈴木善幸総理大臣がシリーズ観戦を予定していたものの
この事故への対応のためにキャンセルになったそうですね。 日ハムはクルーズが怪我でシリーズ不在だったのが惜しまれる。
代役で井上(先日亡くなった富田勝とのトレードで中日から来た)が奮起して
何とか穴を埋める活躍はしてたけど、平田の左キラーぶりにやられた感じが。
抑えの江夏からも打ったし。 パ・リーグのベストナイン指名打者。門田(南海)190・ソレイタ(日本ハム)27・大田(西武)1。優勝したチームで二冠王が大惨敗の27票。外国人差別とも思われる票差。しかし、大田に1票入れた記者は理解不能。 >>112
君こそ何も知らないんだな
単に運が良かっただけとか言いたいんだろうけど、タイプの違い
西本みたいなゴロ打たせる投手はある程度は安打打たれるのは仕方がないという投球をしてるんだよ
バットに当てられるから安打はそれなりに打たれる
だけど、芯を外すのに長けてるので長打は滅多に食らわず、単打ばかりなので失点しない
ゴロが多いので走者を出しても併殺で切り抜けることができる
なのでゴロを打たせる投手を安打打たれる、走者ためるってところでマイナスに見て評価するのは間違い 何も知らないのはお前。
西本は技巧派で江川は本格派ってだけ。
いつの時代でも投手の王道は本格派だってのw いやお前だよ
技巧派とか本格派とか何だよ
曖昧に定義するなと
グラウンドボールピッチャー、フライボールピッチャーと分けられるし
奪三振率の高低、与四球率の高低でも区分できるだろ
奪三振率が高くないエースは珍しいということか?
そりゃあ西本みたいなスタイルで成績残してるタイプは他にいないから
王道からは外れてるだろ
それと投手の優劣はまた別問題だし >>121
いやお前だ。
81年の成績見れば圧倒的に江川が上。
投手三冠王じゃねえかw
モノが違うってことだw >単に運が良かっただけとか言いたいんだろうけど、
そもそもこれはお前の妄想で>>112は試合内容を言及しただけでそんな評価はしていないからwww 「MVPだったけど二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちみたいな試合」
これじゃMVPにはなったものの・・・
二桁安打打たれながら残塁の山だから内容は微妙
と言いたいように受け取れるけど
西本はゴロの山を築き、内野手の1試合22補殺という
グラウンドボールピッチャーとしての正に真骨頂と
83年シリーズに繋がる連続無失点の日本シリーズ記録を残してるだろ
なら、どういう意味なんだ? >>122
そこは別に否定していないんだけど
「MVPだったけど」二桁安打打たれてながら残塁の山で粘り勝ちって
否定的にレスしているから
ゴロ打たせる投手にとっては
決してマイナスにはならないってことを指摘しているんだが >>124
「本格派が技巧派より格上」ってことだろ。
投手の憧れは本格派。通ぶって技巧派が好きとか中2病の典型だろw >>126
だからそれは一般的な話であって例外もいるという話だろ
>>121の最後の部分が読めないのか?大丈夫か?
別に好きだと言ってないし、好きだとも思っていないんだけど >>26
その日の試合後に星野が宇野を食事に誘ったけど
車での移動中に宇野が追突事故を起こした >>130
よく、後日談として使われる笑い話だが追突云々のところは「創作」らしい。
後年、宇野は「その試合後、星野さんから飯でも食いに行くかと声かけて
頂いたのには本当に救われましたね。ただ、田舎から兄貴が出てきていた
のでお断りしてしまったんですけど…(苦笑)」と語っている。
(ソースはベースボールマガジン「80年代プロ野球」(2005年発売) この年は既にトランペットの応援合戦はあったのかな?
確か83年にはどの球団もあったと記憶してる
但しパリーグは内野席での応援だった 日本ハムはもうちょっと後だったんじゃないかな
トランペット入れたの 西武が広島相手に大苦戦。。西武時代に陰りが感じられた。 ロイヤルズが来日。当時の日米野球は、指名打者を採用しておらず、守れないという理由で、本塁打王の門田が全日本メンバーから外れた。あの年の門田なら、四番に相応しかったが‥‥ >>132
最初にやり出しのが75年の広島だから、
当然あったけど球団によって控えめな応援がまだ多かった。
巨人もようやくやり出した頃で原はエイトマンのテーマだった。
>>143
皮肉か?
結構負けてただろ 単独チーム相手には強かったけど全日本や連合チームには勝つのが難しく
なってきていたロイヤルズも84年のオリオールズも。
日本のレベルもこの頃から上がって来たんだね。 この年の巨人の先発投手陣は
江川、西本、定岡、加藤、新浦で回してた? >>148
前半は藤城、後半は新浦が多かった。
谷間に赤嶺、堀内とか。 >>146
甲子園での全日本はロイヤルズにボロ負けした。 1試合しか外野手として出場していないソレイタに、ベストナインの票が65入り次点。もし、1試合も外野手として出場していない場合は、無効票になるのか? この当時の週刊ベースボールを読んでみると
何号か連続で何ページも割いて特集を組んで大リーグのストが大きく扱われてる
基本的に大リーグ関連の試合・できごとは大リーグ総集編以外は
さらっと流して報じて終わらせている程度なのに
それだけ日本でも注目度が高かったのかね 後楽園でビジターユニの巨人ナインがプレーな珍しいシリーズやったな。 パ・リーグは全球団からベストナインが選ばれている。ただ、優勝補正が強かったとしたら、捕手梨田→大宮、三塁手有藤→古屋、外野手福本→クルーズ、指名打者門田→ソレイタ。 福岡・平和台球場で中西太監督率いる阪神の試合を観戦
竹之内と真弓だけに声援を送った旧ライオンズファンの俺 5月24日の阪急vs南海は、松江で11時半からのダブルヘッダーの予定も中止。その代替えが、6月29日で西京極でのダブルヘッダー。今では考えられないスケジュール。 >>158
それ8月第3週の土日で大洋戦。
土曜の試合で、阪神の佐野が右中間フェンス超えの2塁打でサヨナラ勝ちしたが、
ヒーローインタビュアー(RKBかKBCかMBSの誰か)がサヨナラHRと勘違いw
サンテレビの実況席でも「インタビュー担当のアナウンサーがホームランと勘違いしてましたね」と失笑してたw >>150
赤嶺の先発は一試合もない
この年の先発は、江川、西本、定岡、加藤、新浦
が主で、藤城、堀内、浅野が1試合から数試合ってところだな
新浦は、左の先発がいないから
勝てなくても強引にローテに入れていた感が強い 「時差出勤」
昭和50年代に入ってからのプロ野球は、山口高志や鈴木孝政らに代表される救援投手の役割が確立されて近代化が進んでいた。その中で
日本ハムは流れに乗り遅れていた。村上雅則が77年からの3年間で計27セーブを挙げて健闘していたが、80年は振わず2セーブに終わり、
チームトップが木田勇と高橋一三による4セーブ。抑えを確立できないままでいたことが、ここ一番に弱く3年連続の3位に終わった原因でもあった。
他球団に先んじて「広島・江夏豊放出」の情報をキャッチしたのは、大沢啓二監督の好プレーだった。しかも他に名乗りを上げた西武やヤクルトが
永射保、井原慎一朗、西井哲夫を交換要員に挙げたのに比べ、79年の20勝投手で80年も10勝の高橋直樹の放出を決断した事は広島側を十分
納得させるものだった。
リリーフエースは全130試合でベンチ入りしなければならず、その集中力を保ち続けるのは容易ではない。ただでさえ60年代、70年代に比べて
試合時間が長くなっている頃でもあった。毎日ブルペンで戦況を気にしながら状況に応じて投球練習を開始して、逃げ切りの場面とあればマウンドに
上がる重労働。そこで大沢が考えたのが、江夏に対しての“時差出勤”だった。ナイターなら、選手は15時球場入りの所を、江夏は1時間遅い16時
入り。ベンチ入りも6回からで、それまでは風呂でもマッサージでもロッカーでの睡眠でも可。南海、広島時代から試合前半はベンチに入っていなか
ったが、ここまでのマイペース調整を大沢が特例として認めたのも、全ては江夏に毎試合少しでも良い状態で投げてもらうため。それが優勝に直結
すると考えたからだった。
前期開幕戦に南海・門田博光の一発などでいきなり失敗、3日後の西武戦にも田淵幸一に決勝弾を浴びて躓き、初セーブはチーム9試合目。それ
でも後期に入ると、開幕から9連続セーブを挙げるなどして優勝に貢献。5敗と失敗の目立った前期に比べ後期は1敗、後期の江夏登板日は17勝
2敗5分けで勝率.895だった。自己新の25セーブとパリーグ新記録の28セーブポイントを挙げた江夏は、史上初となる両リーグMVPを受賞して
大沢の特別扱いに対する周囲の雑音を封じた。 (了) 柏原が永射の敬遠球をホームランしたがこの年はハムが優勝した
その18年後の阪神打撃コーチ時に新庄が敬遠球をサヨナラ打にしたが
さらに7年後に新庄がハムに移籍しそして2006年の時も… G+の巨人vsハムのシリーズを視たが、成田、宇田、杉山を何故投げさせたんかな? しかし、両軍の監督、牧野コーチ、成田ら、故人も多くなったね。 ソレイタ、中井、高橋一三って方々も故人に。中井は第4戦で松本匡史が肉離れを起こしてリタイアした後にセンターに
入り、いい活躍をしていた。 星野仙一は権藤博には逆らえないんだな
稲尾には逆らいまくったのに 開幕3試合目の中日戦で、定岡の頭部に打球が直撃したが、これでバカになったんだろうか? リー(ロッテ)の意味不明の大宮(日本ハム)襲撃は日ごろからの大宮の脅しに不満がたまってから。 >>161
新浦は肩が復調したから使われだしただけだろ。
終盤はいいピッチングしてるのに援護がなく勝てない試合もあった。 >>168
ドラゴンズの先輩エースだし。
しかも沢村賞1度(それも先発10勝+リリーフ5勝10セーブ(最多セーブ)のフル回転振り
が評価された先発限定とされる沢村賞としては異例に近い受賞)のみの20勝出来ない
エースだった星野と違い、新人から2年連続30勝(両シーズンとも最多勝)の文句無しのエースだったからね。
只、その権藤が社会人時代から「投球フォームとか投球の組み立てのみならずマウン
ドでの仕草から歩き方まで全て真似した」と心酔していた稲尾に反逆するのが解せない
感じもするが、大エースのオーラをまるで感じさせない人懐っこい笑顔に見くびったって
事か?w 落合も、現役時代で一番心地よかった時代は稲尾ロッテ時代らしいし
心地よい雰囲気作りに長けてるのかも
その代わり舐められるという欠点も兼ねるみたいな
G+みても、星野仙一があっさりしてたからな
宇野のおでこヘディングのときは、ミットを投げるパフォーマンスやったが 「シリーズの分水嶺」
日本シリーズには必ず勝負の流れを決めたり、変えたりするプレーがある。巨人のV9が終わってからのシリーズでは、特に第4戦で起こる事が多く
あった。76年は阪急・山口高志を攻略した巨人・柴田勲の決勝弾、77年は阪急・簑田浩二の芸術的スライディング、78年は土壇場でヤクルトの
デーブ・ヒルトンが放った逆転2ラン、79年では広島打線が近鉄の弱点と言われていたチャーリー・マニエルの守備をとことん突いて流れを変えた。
巨人が4勝2敗で制した81年の「後楽園シリーズ」も例外ではなかった。巨人1勝2敗で迎えた4戦目、2−1とリードした7回の攻防だった。
表の日本ハムは先頭で安打した柏原純一が盗塁死して三人で攻撃を終えると、裏の巨人も先頭で四球出塁の河埜和正が牽制で誘い出された。
しかし一塁手柏原が深追いし過ぎて二塁に生きて盗塁成功、一死後には中畑清の遊ゴロを高代延博が野選、ロイ・ホワイトの四球を挟んだ後
淡口憲治の2点二塁打と原辰徳の3点本塁打など1イニング一挙6点で勝負は決した。日本ハム側からすれば、宇田東植と杉山知隆の二線級が
投げていた時だっただけに、拙守がより響いた。3戦目まで打線に元気が無かった巨人は、これで火が点き平常心を取り戻した。この試合に限らず
日本ハムは5失策に加え記録に出ない守備のミスが多く出たが、巨人はそこに付け込みよく打ち、よく走った。6試合のシリーズでチーム9盗塁は
歴代最多タイ、12本塁打は新記録で共に未だに破られていない。
監督の藤田元司にすればこの一年間は、針のむしろに座る心境だった。世間に川上哲治と組んで人気者長島を追い出したイメージがあったからか、
勝てば「長島遺産」と言われ続ける苦しいシーズン、藤田によればカミソリ入りの手紙が来たり娘を誘拐すると脅される事もあった。
その藤田がシリーズの分水嶺として挙げたのが、一般的見方による第4戦のビッグイニングではなく、第2戦8回表のホワイトの逆転2ランだった。
阪神・佐野仙好に次ぐリーグ2位の14勝利打点を叩き出した助っ人が、額面通り活躍して目覚めたからという訳ではなかった。打った相手投手の
間柴茂有は、この年15勝無敗に加えてプレーオフでも1勝して16連勝中、だが藤田は大洋のコーチ時代に味方として見ていた2年間で、優しさが
災いした精神面の脆さを見抜いていた。第2戦で間柴に投げ勝った西本聖は、勢いづいてMVPを獲った。一方大事なシリーズで初めて黒星を喫した
ショックからか、間柴は王手をかけられた第6戦の先発でも2回を投げて4安打3失点であっけなくKOされてシリーズ2敗勝ち無し。無敗男が負けた
時の本人、チームのダメージはとてつもなく大きかった。 (了) 第六戦の先発から定岡を外して
江川で勝負に出たのは
日本一の瞬間を江川に取らせてやりたかったという事なのかな。 >>172
温厚で怒鳴った顔を見たことないって
ロッテ監督時代の落合はいってた
落合の理想像らしい
稲尾は >>176
あれは早く優勝したいという勝ち急ぎ。
この時は功を奏したも、83年は西本をリリーフさせたのが裏目に出た。 >>177
自分にストレスを与えない都合のいい監督だっただけだろw
そんな甘い監督なんか優勝なんかできっこないわ >>178
藤田はシリーズの采配が結構危険なんだよな
星野落合よりはましだが決して誉められはしない。 落合が覚醒したのはこの年からだな
首位打者から来季一気に三冠王に 日本シリーズの巨人先発 江川-西本-定岡-江川-西本-江川
結果的に江川はこれが原因で選手寿命を縮めたと思う。 あの当時はシリーズは中3日当然の時代。第5戦が中止で金曜日(西本完封)、第6戦が日曜で江川が来た。
この辺りから中3日は無理になってた。 もし江川で負けていたら、第7戦の先発は定岡になるわけですよね。
そうなれば、辻褄の合わない起用という事で強い批判が出たと思います。
勝負に絶対は無いですから。
こういう起用はやはり危ない。 >>187
確かにそうだが、仮に第7戦に縺れたとしても、日本ハムも投手がいない。 >>189
確かにそうだな。藤田監督は江川西本以外信頼していなかった。 (投手)江川・西本・小林・小松・山田・村田・藤田学
(捕手)山倉・若菜・梨田
(内野手)中畑・篠塚・原・藤田平・掛布・柏原・落合・石毛
(外野手)山本浩二・若松・田尾・高木嘉一・島田・福本・庄司
ロイヤルズ戦の全日本メンバー。山田は不出場。 宇野ヘディングの時にその打球を打った山本功児が亡くなったのか 今は亡きアンチ巨人の父が日本シリーズで巨人が勝ったら
好きなもの買ってやるかわりに負けたら新聞配達をする賭けをした。
巨人が勝って松田聖子のLPを買ってもらった、小六の秋。 >>193
たけしと安住のニュースキャスターでも
宇野ヘディングの映像が流れた >>181
クルーズ骨折で代わり入った岡持和彦が大活躍。シリーズ初戦でも勝ち越しアーチ。 >>187
加藤初もいたよ。
定岡は信頼されてなかった。 中2日西本なんてのは普通でアリの時代だった。
先日、高木勇人を中4日させて非難轟々だったが、ポストシーズンでは当時は中3日なんて当然だった。
今でもクライマックスで中3日までやってるね。 日米野球の全日本はファン投票だった。江川、梨田、中畑、篠塚、原、石毛、山本浩二、福本、島田誠。 >>169それ開幕2戦目の日曜日。
(初戦は西本)
俺友人と見に行ったので覚えている。
そのあとの浅野と加藤の好投は予想外だった。(前年考えて)
原の初本塁打もこの試合だった。 この年の近鉄
2年連続リーグ優勝から一転して最下位に。
マニエルが抜け、鈴木が不振に終わったこと
以外に、何か最下位になる要因でもあったの? 四番とエースがそうなったらそれだけでも要因として十分じゃん。
といいたいところだがそれ以上に飛ぶボール禁止と圧縮バット禁止の影響が出たんだろうな
各打者の本塁打数が愕然と減ってるよ >>205
エースは鈴木じゃなくて井本だったけど
エミーに熱心で野球どころじゃなかったからだろ。 >>103
今年もこのカードになる確率が高まってきたから萎える
鯉鷹初対決を見せてくれ このシリーズ出場者で故人となったのは前述の両監督、牧野コーチ、高橋一三、
成田、ソレイタ、中井にあとは工藤、菅野、山本功(出てない?)かな? 今更な話だけど、「宇野のヘディング事件」と「ベンチがアホやから事件」
この2つは、いずれも同じ日の出来事であることを>>25-26で知ったw 江本はあの発言したときすでにシーズン限りでの引退予定だったのは余り知られてないね >>212
そうだったの?
あと数年はやれそうだったんだけど…。 パ・リーグの本塁打王争いは面白かった。ソレイタが先行、門田が7月に大爆発。8月に門田が4本差をつけるが、ソレイタが再逆転。最終的に分け合うが、敬遠合戦、両者ともにスランプがほぼ無く、見応えがあった。 江本は発言が飛び出したときすでに34歳
引退しても特に不思議な年齢ではないな ヘディング事件のあった次の日のラジオ体操のとき
その話題で盛り上がったのを覚えている >>211
おかげで富田勝の「12球団から本塁打」が完全に霞んだ 「ラストシーズン」
一時は「背番号(68)の年齢までやる」と言っていた西本幸雄が、61歳で近鉄監督退任を決めたのが81年も後期が閉幕しようという10月2日の
事だった。一度辞意を考えた78年秋あたりから、体力的な衰えを感じてきていた。選手と一緒になって汗を流しながらチームを作り上げる西本に
とって、それが少しでも出来なくなるのは性に合わないとの思いがあった。
本来は還暦を区切りに勇退するつもりでいた西本は、日本一こそ逃したもののリーグ連覇していた80年は良いタイミングだと感じていた。しかし、
契約問題がこじれて放出となったチャーリー・マニエル不在の野球を確立してから、後継者に良い状態で引き継ぎたいと思い「もう一年」となった。
V3への挑戦と位置付けた81年シーズンだったが、強力打線が武器の近鉄には高反発球と圧縮バットの廃止は痛かった。3年連続でリーグ1位の
チーム本塁打だったが、前年比90本減と12球団で最も本塁打を減らした。打率はリーグ最下位で平野光泰、羽田耕一、佐々木恭介ら主力が
揃って大不振だった。マニエルに代わる助っ人勢も、ビクター・ハリスが及第点というだけでクレイグ・ライアンは態度だけマニエル並でヒジ痛での
二軍降格指示を拒否して6月に解雇、代わって昇格のアイク・ハンプトンも長打力はまずまずながら確実性に乏しかった。得点力の落ちた打線が
バックでは投手陣も苦しい、大黒柱の鈴木啓示は日本ハム、ロッテと前後期の優勝チームに1勝もできず、井本隆は右ヒジを痛めて途中に戦線離脱、
左右のエースが共に5勝止まりだった。
結局西本の監督20年目は前期6位、後期4位の最下位だった。島本講平、吹石徳一、久保康生、橘憲治らの頑張りも投打の主力の不調をカバー
するとまではいかなかった。それでも最終戦での近鉄・阪急ナインによる合同胴上げには、前期未消化分カードの偶然もあったなど野球の神様に
よる演出も相まって、西本も「一番嬉しい胴上げだった」と感激していた。
散々な結果だった監督生活最終シーズンだが、阪急の時以上に1年延長してでも上手にバトンタッチしたかった理由が西本にはあった。後継の
指名には関口清治、プロ入り前の別府星野組からの同僚という盟友で、監督生活でも阪急と近鉄で打撃コーチを務めてきた西本政権の大番頭
だった。年長者を差し置いて上田利治を推薦した前回といい、後に阪神の誘いを断った際に推した吉田義男の時といい、シビアに適性を見てきた
西本も、この時ばかりは「一度関口に監督を」との情が出たのも無理からぬ話だった。 (了) 西本が阪神監督になっていたら、日本一になっていたろうか? 大沢啓二は1976年から1994年まで日本ハムに在籍したが
優勝したのはこの年のみ >>223
1年で優勝や日本一は難しいだろうが
吉田みたいに再来年に地獄はまずないと思う >>5
プロ野球の人気ってこの年が最高だったと思うな。
視聴率や観客動員みたいな数字だけじゃなく、
総合的な世間の関心、注目度という点で。
勿論巨人中心だったが >>228
本人?
>>226
確かにキモいな
そいつは巨人スレでも同じことやってたわ テメエの意に沿わないレスに対して、本人呼ばわりとはねえ・・・。 気に添わないレスとかじゃなくてキモいから指摘されてんだろうが。
ひとりよがりな長文はブログでやってろ むしろ江本が現在の地位を確立できたから
しくじりどころか最高のパフォーマンスだろ >>212
>>213
本人がそう思ってたらしいが。
これはたまに言ったりするが、
先日の番組では構成上使えないネタだね。 江本はベンチがアホ発言する前から起用法などを巡って(先発か中継ぎか曖昧な立場にされてた)
中西監督と対立し、フロントにトレードを志願するも宥められて渋々残留してたそうだ。
どっちみち中西が退任するか江本が1シーズン我慢するかで我慢を選んだら起用法で冷遇され干されたとも思える。 >>229
江本はその象徴みたいな感じ。
「ベンチがアホ」が流行語になった勢いで出した本がベストセラーになって映画化され、本人はタレントや役者、
役者では市川崑の文芸映画にまで出て、挙句国会議員。30年以上たった今でもメディアの一線に居るという。 やっぱ原かっこ良かったなあ。一度離れかけたプロ野球に戻って来れた感じ。
楽しかったもん、この年。
原、中畑、篠塚、松本、江川、西本、定岡、角、魅力的なチームだったな。 それが今ではヤクザに1億円も払うようなクズに成り下がるw 「名刺ができた」
王貞治が自身や小鶴誠、野村克也の持っていた月間13本塁打の記録を破って15本塁打を放ったのが、70年6月と73年8月の2度。他にも72年の
大杉勝男と長池徳二、78年のエイドリアン・ギャレット、79年のチャーリー・マニエルがマークしてきた月間最多15本塁打の数字は、長距離砲として
全国区に押し上げる勲章の一つとなっていた。その記録を球宴期間が含まれる7月でありながら、更新したのが81年の南海・門田博光だった。
21試合で16発、70年・王の15発も20試合と少なかったが門田の場合は前後期制のパ・リーグであり、7月1日にダブルヘッダーをこなして前期が
終了した後に4日から後期開幕という日程に加え、球宴期間による1週間の休戦があり、気持ちの維持が難しい中での達成だった。
1日のダブルヘッダーで、15日ぶりとなる本塁打を2戦両方で放ちスタート。ここから5戦連発で7本塁打11打点の発進、8日の無安打を挟んで
9日からまたも5試合連発とした門田、5戦連発の年間2度は73年の王以来だが一ヶ月2度となると門田が初めてだった。前半の11試合で既に
12本塁打、しかし後半は相手投手陣の徹底マークに遭った。
14日からの日本ハムとの3連戦でたった1安打、17日の近鉄戦で鈴木啓示らから2発を放ってリーチをかけたが以降3戦でまたも単打1本のみと
産みの苦しみを味わった。王らの月間15号に追いついたのは、7月も残り3戦と重圧がかかってきていた22日、日本ハム・間柴茂有からだった。
翌日の同カードは高橋一三に揺さぶられ無安打、新記録への挑戦は球宴後の31日を残すのみとなった。地元大阪球場、それまで21打数3安打と
苦しみ、8日にも土井正博以来5人目の6戦連発を阻んだ西武・杉本正が立ちはだかったが、第2打席に外角高めのカーブを右翼席に運ぶ満塁弾で
決めた。
月間16本塁打は94年に江藤智、04年に阿部慎之助も記録して追い付いたが、追い越した選手はまだいないという快記録、門田は「これで僕の
名刺ができた」と珍しく笑ったが、この年33歳で初の本塁打王に輝くなど以降10年後の43歳まで第一線で活躍するにあたって、月間本塁打の
新記録は門田にとって“名刺”どころか“大きな看板”になっていた。 (了) >>229
逆にある意味「終わりの始まりの年」だったのかもしれないな。
それについてはいろいろ書きたいが時間ないのでやめとくわ。 ルビーの指輪
窓際のトットちゃん
たのきんトリオ
いも欽トリオ
神戸ポートピア
ソアラ
ピアッツァ
スカイラインRS
連合艦隊 ダルが、沢村賞に関してあれこれ言っている。その中で、選考委員では無く記者投票にしたらと言っていたが、ダルは西本・江川問題を知らないんだろうな。まあ、生まれる5年も前だから、無理もないけどね。 >>251
独りよがりな長文は掲示板じゃなく自分のブログでやれ
キモいんじゃボケ >>251
雑談掲示板の空気を読めよ。
長文で自己完結して全く会話のキャッチボールにならんだろ。
こんなの1行の書き込みで終わるわ。
「そういや門田が月刊本塁打の記録作った年だったな」
その書き込みに対して思い出すことを他の人がレス付ける、ってのが自然な流れだろうが。
ここはあんたの研究発表の場じゃねえんだって。 1981年江川
1989年西本
1990年斉藤
でみんなもらえた沢村賞 >>262
江川は80年の時点でもらえてもおかしくない。
勝ち星も奪三振も1位なんだから。
>>263
一人でキモいオナニー長文書いてるのはお前だろw この年、巨人、ヤクルト、阪神の平和台開催の相手はすべて大洋だった。
80〜83年と4年連続でヤクルト主催は大洋が相手で、阪神も翌82年は2年連続で大洋戦を開催。
関門地区に大洋漁業関連企業が多く立地しているが、肝心の福岡県内での大洋主催はオープン戦のみで、
平和台の空き家時代は公式戦は1試合も開催されず、球団名が横浜に変った93年に北九州で広島戦。
さらに11年後の2004年に福岡ドームでの中日戦開催まで待たねばならなかった。 81年か、巨人の原がルーキーの年でしょ。
一番の思い出は、定岡が頭にライナー直撃した事かな >>193
>>195
その宇野がヘディングをやらかした時に
マウンドに立っていた投手もつい先日… 星野は中畑や淡口には良く打たれたが、ルーキー原には最初の対決でビーンボールで腰を引かせて完勝。以後、
13年の日本シリーズまで原は星野に引け目を感じていたのか?
9月20日、もしかすると藤田巨人初優勝か、で迎えた試合で、谷沢が加藤初から3発の援護も有って星野完投勝利
で意地を見せた。
翌年は巨人には勝てず、これが巨人に立ち向かった男星野の巨人戦最後の勝利になった。 >>254
親父がスカイライン買うって言うからRSかと思ったらジャパンの在庫整理を60万引きで買ったわ すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
BD49I ガンダム劇場版「哀・戦士」もこの年だな。
プロ野球が面白かったなあ。 島田誠(日本ハム)の自伝読んでたら根っからの「夜の街の住人」みたいだな。
プロ野球に入ってなかったら風俗店の店長、経営者になってそう。 島田氏はハムの晩年は後楽園すぐ東の壱岐坂上ったあたりのJRのアパートに住んでいた。当時自分も近くに住んでいたし、
選手名鑑の住所があったし。その頃は真面目になってたのかな?
なんかヒーローになってその夜のプロ野球ニュースで自宅から生中継していた記憶がある。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ただいま「江川と西本」1981年シーズン。
最高のシーズンだったな。 印象に残ってること
原フィーバー&江川20勝でヤングジャイアンツ日本一
パ覇者は大沢親分率いる日本ハムに15勝0敗間柴
落合覚醒、門田の月間新?16本塁打、盗塁王青木
ほかタイトルホルダーも山本浩二、藤田平ら記憶に残る顔ぶれ
これ書いた後にスレ見たが、
ヘディングやベンチがアホやからなど
優勝や個人タイトル以外にも話題豊富な1年だったんだなあ。
俺が本格的に野球見始めた年でもあった。 飛ぶボールが禁止されたことを意識したのか
大杉や掛布はホームランよりアベレージを目指した成績だった 掛布の場合は故障からの復帰明けという事情もある。
1979年48本塁打という無理が祟ったのか、前年故障続きで在阪マスコミの餌食にまでなり散々のシーズンだった事を受けて、
まずはシーズン全試合出場を目標に彼本来のバッティングに徹する事にしたという。
彼自身は満足行くシーズンだったが、ファンやタニマチから「もう少しホームランがみたい」との声を受けて、結局1979年シーズン
のホームラン狙いのバッティングに戻したという。 >>281
俺もこの年からだ。
だから江川の全盛期を知らないこの板の荒らしバカボンが妄想で好き勝手なこと抜かしてると滅茶苦茶ムカつくわ 翌年4月に刊行された、皆成社の絵本
『はじめてのプロやきゅう』
お母さん、男の子の二人を連れて後楽園球場の巨人−阪神戦を。
1981年を意識したであろう、スコアボードの表示を見れば・・
阪神のオーダー
6目弓
8加戸
3牛田
5竹布
4丘田
9左野
7木内
2若名
1大林
実際の面々をもじってるw
(木内とは、竹之内か) 対する巨人
8松木
6小野
4市野
3上畑
5原井
7甘口
9中田
2山久
1江山
市野とは誰のもじり?
中田は、中井か? あっ、急にわかった!
「しの」と読ませてる、つまり篠塚のもじり。 王さんという別格的な存在が抜けた事で
野球を気楽に楽しむような空気に
ファンも選手も変わってきた。 >>287
その本俺も見た記憶有る
83年頃吉祥寺の本屋で ソアラ「未体験ゾーン」
セリカXX「体感ツインカム6」
R30スカイライン「クルマは愛だ」
ピアッツァ「シニアドリーム」 ドラフト指名
巨人一位 槇原(大府) 三位 吉村(PL)
広島一位 津田(協和発酵)
近鉄一位 金村(報徳)
西武六位 工藤(名電)
金村が阪急を希望していたのには驚いた。あの不人気の阪急を希望した有力選手は昭和時代では他に記憶がない。 >>292
だからいいんじゃないの
出番多いし
阪神だと藤田真弓バース岡田掛布とかいるスター集団だったし出番ないよ >>292
阪急はそれを迷惑がってたというのが切ない 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった。 (了) >>295
お前いい加減にしとけ。
ここは多くの人が短文で感想を交換する雑談掲示板だ。
自己顕示がしたいなら自分のブログてわやれキチガイ >>295
自己顕示がしたいなら自分のブログでやれキチガイ 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった >>304
作文以外の何なんだよw
本人が自慢してたからw >>300
いつも楽しみにしています。
また書いて下さい。 >>308
自己満足はやめとけ作文野郎w
>>300がどれだけ文章としておかしいか突っ込んでやろうか? >>45
内容は13年の田中マー君ほど誉められたモノではなかったけど
マー君は史上唯一無敗20勝で防御率も1.27はパリーグ史上2位。
それに比べて間柴は15連勝してるけど防御率は3.54と芳しくなかった。
ただ単に「悪運の強さが偶然続いただけ」だった。
柏原やソレイタが「おあつらえ向きの場面で」クサイ一発を放って負けを帳消しにしてくれただけの話だった。
案の定日シリではその悪運も呆気なく尽きた。
第2戦では西本との投手戦になるもホワイトに痛恨の逆転2ラン。
第6戦では立ちあがりから乱調で2回持たずKO。
ヒーローから一転、日シリ惨敗のA級戦犯になった。
翌年の間柴は開幕からボロクソに打たれまくり
奇跡は二度と起きなかった。 防御率もさることながら、間柴の15勝は五位の南海、六位の近鉄から計12勝と大半を占め、二位〜四位のチームからは各1勝にすぎなかったことも評価が低い理由だな。
10割は貴重な記録なのは事実だが、やはり内容しだいだな。 年間15貯金してながら通算では負け越してるんだよな間柴
12年だけの一発屋吉川光夫と似てる
吉川もハム黄金期にいたのに通算では大幅に負け越してる ヤバネスポーツの選手名鑑(1981年)で、
篠塚選手のこの年の抱負が「二塁のポジションは原には渡さない」だったと記憶しています。
当時のプロ野球については選手名は知っていてもポジションや成績には関心がない、
という状態でしたので、原選手入団時は彼に二塁を守らせる予定だったという事は全く知りませんでした。 篠塚は前年オフに婚約解消したり、ポジションを奪われそうになったりとヤバかったが、
中畑の負傷によって、ある意味救われたな。 >>108
とどめは杉山が原にダメ押し3ラン。
杉山みたいなペナントでもほとんど投げてない投手を注ぎ込んだりするから…
第5戦の西本の毎回安打を打たれながらも10─0で完封勝ちで王手も見どころたっぷりだったな。
あの年のシリーズは俺らは高2で京都へ修学旅行行ってた最中にラジオを新幹線やバス中で聞き入ってたっけ。 >>144
中畑がヤッターマンのテーマ。
石毛はウルトラセブンの歌。 いろいろな曲が使われたがドラゴンボールは全く使われなかった >>319
著作元の東映がうるさくてすぐにクレームつけるからね
東映制作ものは許可が必要。 日産R30スカイライン
日産スカイラインRS
トヨタソアラ
トヨタ60セリカXX
トヨタ60セリカ
マツダコスモ
ホンダシティ
いすゞピアッツァ >>309
迷惑なんだよ老いぼれが
黙ってろよ偏屈ジジイ >>323
テメエが迷惑なんだよ作文ジジイwww
作文書きたいなら小学生に戻れ低脳 >>323
醜い逆ギレだなwww
お前の自己満作文はチラシの裏に書いてろw >>329
お前が消えろ作文野郎w
作文誉めてもらいたかったら小学生の先生に持っていけ
添削だらけで戻ってくるだけだがなw >>332
うるせえタコ
ぉまえの作文用紙なんか便所紙にしてやる 『クルマは愛だ』
『シニアドリーム』
『体感ツインカム6』
『未体験ゾーン』
『ト―ルボーイ』 >>334
レス番間違えんなアホ
「作文」っていうのは雑談掲示板に空気読まない長文上げてるいつもの勘違い野郎のことだろうがw 82年組と言われる松本伊代も実は81年10月デビュー。 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」
寺尾聡「ルビーの指輪」
松任谷由美「守ってあげたい」
松田聖子「風立ちぬ」「夏の扉」
近藤真彦「ブルージンズメモリー」「スニーカーぶるーす」
田原俊彦「恋=DO」
石川ひとみ「まちぶせ」
西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
杉田かおる「鳥の詩」
おんな太閤記
北の国から
池中弦太80キロ >>25-26
その2つの”事件”が発生したのは、この年の今日のこと 「長嶋がいないと巨人なんか見ない」ことなどないと証明された年。 この時期のベストテン番組。
テレビ
ザトップテン 日テレ月曜
ヤングベストテン 水曜 東京12チャンネル
ザベストテン 木曜TBS
ラジオ(土日のみ)
土曜
久米宏土曜ワイドラジオ東京内TBS
キンキンの歌謡ベストテン文化放送
高島忠雄の全国歌謡ベストテン文化放送
オリコン全国歌謡ヒット速報ニッポン放送
コーセー歌謡ベストテンFM東京
日曜
森田公一青春ベストテンTBS
松宮一彦ベストテンTBS
井上順ロッテ紅白ベストテン文化
決定全日本歌謡選抜文化
不二家歌謡ベストテンニッポン >>2
>日本国民は「ムハンマドを侮辱した」と憤るイスラム教徒とほぼ同じ地平にいる
ずいぶんとムスリムを侮辱してやがる・・・
そもそもパヨクはそんなムスリムの体質が大好きなはずだが? >>317
当時俺の近所にあったバッティングセンターには、各チームの球速の速い投手1人ずつと、その目安の球速が掲示されていた。
巨人は江川、中日は小松、大洋は平松とかだったが、日ハム代表は杉山だった。
ただ、最晩年の杉山見ても、全くタマ速くないのよね。 >>349
杉山ってそんな球速かったかなあ・・・
当時のファイターズなら木田とか書きそうなものだが >>349
俺が通ってた世田谷区のバッセンは巨人が新浦、ロッテが村田だったな。 >>351
その頃だと阪急山口、広島池谷、ヤクルト松岡みたいになるのかな >>350
木田も速球のイメージがいまいちない。
カーブとパームボールだな。 みんな140台後半
だから山口が史上最速とかあり得ない >>354
メンツ的に、1979〜1980年あたりに人選されたものっぽい。
何故中日が小松だったかというと、そのバッセンは石川県にあったからだw 確かに小松は「スビードガンの申し子」とか呼ばれてはいたが。
しかし、全国どこのバッセンも、そういうのが掲示されていたのかと思うと、なかなか興味深い。 武蔵野ワイルドキャッツと巨人の日本シリーズどうなった? リーグ優勝決めて引退した
神児くん抜きの日本シリーズは厳しいなあ 「武器」
9月以降の終盤30試合を21勝6敗3分け、驚異的な高勝率を挙げた広島の81年だったが、優勝争いに絡む事はただの一度もなかった。3連覇を
目指す前年王者の数ある武器の中で、機動力は他球団のそれより特に優れたものを持っていたが、チーム盗塁は54個でまさかのリーグ最小だった。
81年広島は打率、本塁打、得点でリーグトップだったが、機動力ダウンで相手に与える威圧感に欠けた。そうした意味で80年、2年連続盗塁王に
なった高橋慶彦と同じくチーム2位の17盗塁を記録した山崎隆造の開幕前の故障は、広島に大きなダメージとなって夏まで響いた。
「78年から元々良くなかった」という膝の状態が開幕前に悪化した高橋の“開幕”は5月頭、膝の水を抜きながら試合に出続けたが14盗塁に終わり、
打率もレギュラー4年目で初めて3割を切った。シーズン中は「盗塁のタイミングがなかなか合わなくて」と話していたが、患部がまだまだ治りきって
いなかったというのが実情だった。じっくり治してから復帰という手もあったはずだったが、高橋は「当時のカープは皆がどこか痛みを抱えながら試合に
出ていた。僕も折角のレギュラーを渡したくなかった」と当時のプロ意識を振り返った。
山崎が一年を棒に振る右膝骨折の大怪我を負ったのはオープン戦での事、二塁手でのレギュラー定着を期待されていたが、故障は皮肉な事に外野
守備でのフェンス激突だった。三村敏之と木下富雄の併用となった二塁手だったが、三村は33歳で往年の打撃を披露できず、木下は堅実ながら
打率および出塁率が伸びなかった。
チームは前半から5割近辺の戦いが続き、7月頭には2位と2差ながら最下位に転落、球宴折り返しは5位で借金も5つあった。後半戦は意地の2勝
1敗ペース、二番を打つ事もあった高橋を一番に、二番には衣笠祥雄を固定してから勝ちだした。山本浩二、ジム・ライトルの100打点コンビや水谷
実雄ら主軸にとっても、高橋の存在があってこそというぐらい機動力は広島野球に無くてはならない武器となっていた。そして翌年以降、古葉竹識
監督がこの年の巨人を意識してか、山崎や長嶋清幸ら若くて走れる選手の育成に取り掛かる事になる。 (了) >>365
何が(了)だアホw
自己満足の駄文はチラシの裏に書いてろ
ここは不特定多数が参加する雑談掲示板だボケ >>361−363
水谷○−江川
塚田○−西本
小林清●−定岡
水谷●−江川
塚田○−西本
佐波●−江川
塚田○−西本
チーム一の大ベテランをあえて第2戦に登板させる近鉄の鈴木啓示的な起用法で
発憤させる。
3,6戦は捨て
7戦は総力戦 近鉄ー阪急戦日生球場
両チームにとってこの年の公式戦の最終試合。
試合終了後、近鉄の監督を辞める西本監督が阪急の選手達もグランドに出てきて両チームの選手達から胴上げされる。 現役時代、稼いだ金はすべて貯金して質素な生活をする
女子アナ、芸能人など金のかかる嫁をもらわない(高校時代の女子マネなどと結婚する)
引退したら、飲食店経営などに手を出さず、体力を生かして地道に働く
佐川急便、ウーバーイーツなどで働く傍ら、少年野球の指導をして充実した生活をする
上記の教えを守れば、困窮することはないはずだ 銀河鉄道999の劇場版は
1981年8月1日の土曜日に放送。
ゴールデン洋画劇場の土曜日移動以降
屈指の視聴率だった。
1981年の夏の高校野球は
ソフトバンクの工藤監督はエースで高校生だった。
今は野球解説者の金村義明がいた報徳学園が全国制覇。
エースで4番で全国制覇したのは、これが8回目だが、1981年の夏の高校野球以来、記録が出ていない。 🎵俺に〜はわーからないよ おーまえがなぜ
(あいどんのー) 巨人ファンには楽しい1年だった。ただ、広島が3.5ゲーム差まで詰められた時は
ヒヤヒヤした。古葉はオールスターで角を三連投させた、以後、角は球威を失って
しまったが、ペナントのゆくえに大きな影響はなかった そりゃまあ、讀賣的には最高の一年だっただろうよ
他の11球団のファンには胸糞悪さだけが残ったけど >>374
そんな時期あった?
この年、首位巨人2位広島なんてシチュエーションは大勢が決したシーズン終盤
以外ほぼないはずだけど
>広島が3.5ゲーム差まで詰められた時は 1983年と勘違いしてそう
あの年はオールスター前に広島に首位を奪われたものの、
後半2度の直接対決を制して首位奪還。
9月初旬の敵地での直接対決も制し5ゲーム以上差を付けるも、
連敗等で中旬に広島が3.5差に迫った時期もあった。 12ゲーム離してたのに最後は6ゲーム。大成に影響無かったけど。 8月ごろまで5割前後を行ったり来たりだったのが、9月に入ってようやく地力を発揮し、共に調子を上げてきた阪神を振り切って2位の座を固めたんよね>広島
巨人の優勝目前で時既に遅しだったけど。 81年は愉快なシーズンだった。藤田監督がローテーションをきっちり守ってた。
安心して見れた。広島が3.5差まで迫ってきたときは少しひやりとしたが ロッテが今のように二軍練習場と合宿所を一体としていたら、
山内一弘が辞めることはなかったんだろうな。 >>360
時が経ち、ソノ「マッチは文春砲の餌食に ちょいと訂正
×…ソノ「
○…その
大変失礼しました >>391
当時のロッテは音響・計測メーター企業のティアックが奥多摩の青梅市に所有していた球場(現青梅球場)を借りて二軍の試合を行っていたんよね。
そこがロッテの一・二軍の選手寮があるロッテ狭山工場(埼玉県)から最も近いからという理由らしいが、高速道路網も全く未整備の当時、軽く一時間はかかったんよね。
つうかそもそも埼玉県狭山から当時の一軍本拠の川崎球場までどんだけかかるんだか_| ̄|○ >>392
いまの武蔵浦和−幕張でも週末のゲームは寮生は幕張のホテル泊まりらしいけどね >>371
この日だったのか
当時8歳のオレはお袋に連れられて花火大会を見に行ってた
一緒にいた当時10歳の姉が999観たいから帰りたいと言って帰ったのを覚えている
ちょうど鉄朗が戦士の銃を貰うところだった
そうか、昭和56年の8月1日だったのか… 「負けなかった男」
2021年に日本プロ野球に復帰した楽天・田中将大が24連勝して勝率10割を達成したのは2013年、2リーグ分立後史上2人目の記録だった。
田中の前の史上初となる「勝率10割」はそれからまた32年前の81年、日本ハム・間柴茂有が15連勝したものだった。
大洋時代は8年間で13勝27敗、しかし日本ハム移籍初年度の78年に自己最多の7勝を挙げると、80年には11年目にして初の2ケタとなる10勝を
挙げていた。81年最初の登板は先発で1回も持たず5失点したが味方打線が後半に逆転、これが神話の始まりだとは誰も想像もつかなかった。
2度目の先発で5回を投げ勝利したが次の2試合では救援登板したように、4月は先発と救援の兼用投手だった。5月からはローテーションに入り
前期は5勝したが、3回持たずにKOされた試合が4度もあり防御率も5.29と悪かった。後期も最初は救援でしかも3回2失点の内容だったが、
次の登板から先発で5連勝すると、一つのKOを挟んで4連続完投を含みまた5連勝して後期は10勝で負け無し、防御率も2.16の出来でチームの
後期Vにも大きく貢献した。
前年習得したフォークボールを使いこなせたのも良かったが、新加入した江夏豊の存在が何よりも大きく、外角直球の重要性を学んだ事に加え、
間柴本人も言うように「7回までと思って飛ばしていける」という精神的なゆとりも好材料となっていた。江夏は間柴が挙げた9つの完投勝利以外の
6勝で、全てセーブを挙げて実力でも間柴の助けになった。急成長の大きな要因として、強運を見逃せないのも事実だった。KOの多い前期とは別に
後期は神懸かり的な事象も重なった。
9月7日の南海戦では、3回の門田博光に浴びた3ランのみで9回まで投げ切るも打線がゼロ行進、ここまでかと思いきや9回裏に打線が山内孝徳を
攻略、トニー・ソレイタの適時打で口火を切ると古屋英夫の同点打と岡持和彦の決勝打で劇的なサヨナラ勝ちでの13勝目。翌週の阪急戦でも6回を
終えて2−3の劣勢、しかし7回表の一死満塁で井上弘昭が放った併殺コースのゴロを三塁手・島谷金二がトンネルして同点に追い付くと、古屋と
岡持にも適時打のビッグイニングで逆転、リードをもらった間柴は悠々完投で14勝目を挙げた。最下位・近鉄に7勝、5位・南海に5勝というカードの
巡り合わせも強運だった。
プレーオフでも第3戦に完投勝利で、この年無傷の“16連勝”だった間柴は優勝後に連勝について「本当なら4敗くらいしてもおかしくなかった。
11勝あたりから周りが騒ぎ始めたけど、後期は優勝争いをしていて意識する暇もなかった。それよりもチームの優勝が嬉しい、自分が何もしなくて
優勝じゃ寂しいですもんね」と強運ぶりを認めながら、自身が負けなかった事よりも自身の記録を原動力にチームが勝ち切った事の方が嬉しいと
喜びを語っていた。 (了) 間柴は15勝0敗だったが、間柴が先発して早い回にK.Oされて降板し、日本ハムが負けた試合が数試合あった。
>>398の「本当なら4敗くらいしてもおかしくなかった。」という間柴本人のコメントはそういう意味だと思う。
因みにどうして間柴に負けが付かなかったというと、説明するまでもないと思うが乱打戦になって試合途中で
一度日本ハムが追いついたから。 >>383
宇野のヘディングと「ベンチがアホやから」事件か
翌日のスポーツ紙は大変だっただろうな >>401
マー君とか中田良弘もそうだったけど
無敗記録とかって運もいるよ ベンチがアホって今でいえば二木が井口を批判する様なモノ? 二木には江本ほどの格がないし、何よりアホといえるほど頑張れていない ていうか、単に江本が性悪で偏屈だということでしょw 新人王の石毛と原は野球界を引っ張っていく大選手になった 「記録に残らない」
日本シリーズはペナントレースの公式戦以上にミスが流れを変える。ミスといっても作戦やサイン、配球など様々な種類があるが、短期決戦で特に
響くのが失策と継投ではないだろうか。81年の巨人−日本ハムのシリーズでは、取り分け守備と継投が大勢を決めたといわれた。
第1戦から角三男、江夏豊の両リリーフエースが打ち込まれる乱戦でスタートして、第3戦まで3試合連続1点差試合だったが、日本ハムが2勝1敗で
リードした第4戦の“記録に残らないミス”が勝敗に影響した。
2−1と巨人リードの7回裏、先頭で四球出塁した河埜和正が6回から登板の4番手・宇田東植の牽制に誘い出されたが、一塁手・柏原純一が二塁
方向へ深追いし過ぎて河埜を二塁に生かしてしまった。大沢啓二監督はすぐに投手を杉山知隆にスイッチしたが、一死後に今度は高代延博が
中畑清の遊ゴロを間に合わない三塁へ野選、河埜と打者走者中畑を生かしてしまい淡口憲治の2点二塁打、原辰徳のシリーズ1号3ラン、山倉和博
にも1号という一挙6点で試合を決めた。巨人・藤田元司監督は「あの6点でベンチ全体の胸のつかえが取れた気がした」と試合後に述べたように、
チームに勢いが備わり後の第5戦以降にも繋げた。
日本ハムの継投内容はどうだったか。先発・木田勇の後を投げた成田文男、宇田、杉山への継投は当時から大沢の奇襲ではないかと賛否が
分かれたが、大沢にとってはただ奇を衒ったわけではなかった。1−1の同点ながら木田を5回から成田に代えたのは、先頭の河埜に始まり好調の
平田薫、中畑、両打ちのロイ・ホワイト、柴田勲というように右打者が続くという点と74年ロッテ時代にシリーズ経験がある点、そして木田が2回を
除き毎回得点圏に走者を背負っていたからだったが、結果的に成田が先頭河埜に決勝の被弾を浴びた。
6回からの宇田や杉山への継投については、2勝していた工藤幹夫へのスイッチは無かったかという論調があったが、工藤は第1戦から3連投して
いた事に加え3試合での4イニング無失点という働きぶりから、1点差とはいえビハインドの6〜7回から使うわけにはいかなかった。しかし第4戦の
それはミスではなく、第2戦に1点ビハインドの場面で逆転を信じて登板させた事こそが記録に残らない綻びだった。第4戦で流れが変わり運と勢いの
消えた工藤は中2日で第5戦も登板したが原に中押しの適時内野安打、王手をかけられて5試合目のマウンドとなった第6戦も原に勝負を決定付ける
一発を浴びてしまった。 (了) >>410
いい加減にしろ作文野郎
ここはお前の作文発表会場じゃねえんだよボケッ!!! >>402
当日は江本の方が扱いはずっと大きかった
宇野のはフジテレビの珍プレー好プレーで取り上げられてからさらに知られるようになった この年、宇野の前に山本浩ニもやってたはず。
でもそんなに話題にならなかったし、
映像でも見た記憶ない。
宇野のはエラーで失点の後に星野がグラブ叩きつけたから何度も流されることになった。 >>248
劣化じゃなくて、
この年から圧縮バットが禁止になったからだよ。
王と同じメーカー、ジュンイシイの圧縮バット使ってた。
王が前の年を最後に引退したのも正しい選択だったな。 他にも近鉄が使用していたミズノ製のボールが飛び過ぎると(要するにラビットボール)
使用停止になったのも コラム「 」・・・(了)の人が長文書いて
複数人を装った1人が罵倒する様式美が
他スレ見るとかれこれ2012年ぐらいから続いているね。
これからも続くんだろう。 >>417
まず『了』の用法がおかしい。
単発の書き込みなんだからいちいち入れる必要ない。
それ以前にみんな雑談してる場で突然長い演説始めるような空気の読めなさがイタい。
自己完結している長文だから全く絡みようがなくてスルーされてるのに、
何で続けようとするのか理解不能。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています