1981年のプロ野球
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ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ただいま「江川と西本」1981年シーズン。
最高のシーズンだったな。 印象に残ってること
原フィーバー&江川20勝でヤングジャイアンツ日本一
パ覇者は大沢親分率いる日本ハムに15勝0敗間柴
落合覚醒、門田の月間新?16本塁打、盗塁王青木
ほかタイトルホルダーも山本浩二、藤田平ら記憶に残る顔ぶれ
これ書いた後にスレ見たが、
ヘディングやベンチがアホやからなど
優勝や個人タイトル以外にも話題豊富な1年だったんだなあ。
俺が本格的に野球見始めた年でもあった。 飛ぶボールが禁止されたことを意識したのか
大杉や掛布はホームランよりアベレージを目指した成績だった 掛布の場合は故障からの復帰明けという事情もある。
1979年48本塁打という無理が祟ったのか、前年故障続きで在阪マスコミの餌食にまでなり散々のシーズンだった事を受けて、
まずはシーズン全試合出場を目標に彼本来のバッティングに徹する事にしたという。
彼自身は満足行くシーズンだったが、ファンやタニマチから「もう少しホームランがみたい」との声を受けて、結局1979年シーズン
のホームラン狙いのバッティングに戻したという。 >>281
俺もこの年からだ。
だから江川の全盛期を知らないこの板の荒らしバカボンが妄想で好き勝手なこと抜かしてると滅茶苦茶ムカつくわ 翌年4月に刊行された、皆成社の絵本
『はじめてのプロやきゅう』
お母さん、男の子の二人を連れて後楽園球場の巨人−阪神戦を。
1981年を意識したであろう、スコアボードの表示を見れば・・
阪神のオーダー
6目弓
8加戸
3牛田
5竹布
4丘田
9左野
7木内
2若名
1大林
実際の面々をもじってるw
(木内とは、竹之内か) 対する巨人
8松木
6小野
4市野
3上畑
5原井
7甘口
9中田
2山久
1江山
市野とは誰のもじり?
中田は、中井か? あっ、急にわかった!
「しの」と読ませてる、つまり篠塚のもじり。 王さんという別格的な存在が抜けた事で
野球を気楽に楽しむような空気に
ファンも選手も変わってきた。 >>287
その本俺も見た記憶有る
83年頃吉祥寺の本屋で ソアラ「未体験ゾーン」
セリカXX「体感ツインカム6」
R30スカイライン「クルマは愛だ」
ピアッツァ「シニアドリーム」 ドラフト指名
巨人一位 槇原(大府) 三位 吉村(PL)
広島一位 津田(協和発酵)
近鉄一位 金村(報徳)
西武六位 工藤(名電)
金村が阪急を希望していたのには驚いた。あの不人気の阪急を希望した有力選手は昭和時代では他に記憶がない。 >>292
だからいいんじゃないの
出番多いし
阪神だと藤田真弓バース岡田掛布とかいるスター集団だったし出番ないよ >>292
阪急はそれを迷惑がってたというのが切ない 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった。 (了) >>295
お前いい加減にしとけ。
ここは多くの人が短文で感想を交換する雑談掲示板だ。
自己顕示がしたいなら自分のブログてわやれキチガイ >>295
自己顕示がしたいなら自分のブログでやれキチガイ 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった >>304
作文以外の何なんだよw
本人が自慢してたからw >>300
いつも楽しみにしています。
また書いて下さい。 >>308
自己満足はやめとけ作文野郎w
>>300がどれだけ文章としておかしいか突っ込んでやろうか? >>45
内容は13年の田中マー君ほど誉められたモノではなかったけど
マー君は史上唯一無敗20勝で防御率も1.27はパリーグ史上2位。
それに比べて間柴は15連勝してるけど防御率は3.54と芳しくなかった。
ただ単に「悪運の強さが偶然続いただけ」だった。
柏原やソレイタが「おあつらえ向きの場面で」クサイ一発を放って負けを帳消しにしてくれただけの話だった。
案の定日シリではその悪運も呆気なく尽きた。
第2戦では西本との投手戦になるもホワイトに痛恨の逆転2ラン。
第6戦では立ちあがりから乱調で2回持たずKO。
ヒーローから一転、日シリ惨敗のA級戦犯になった。
翌年の間柴は開幕からボロクソに打たれまくり
奇跡は二度と起きなかった。 防御率もさることながら、間柴の15勝は五位の南海、六位の近鉄から計12勝と大半を占め、二位〜四位のチームからは各1勝にすぎなかったことも評価が低い理由だな。
10割は貴重な記録なのは事実だが、やはり内容しだいだな。 年間15貯金してながら通算では負け越してるんだよな間柴
12年だけの一発屋吉川光夫と似てる
吉川もハム黄金期にいたのに通算では大幅に負け越してる ヤバネスポーツの選手名鑑(1981年)で、
篠塚選手のこの年の抱負が「二塁のポジションは原には渡さない」だったと記憶しています。
当時のプロ野球については選手名は知っていてもポジションや成績には関心がない、
という状態でしたので、原選手入団時は彼に二塁を守らせる予定だったという事は全く知りませんでした。 篠塚は前年オフに婚約解消したり、ポジションを奪われそうになったりとヤバかったが、
中畑の負傷によって、ある意味救われたな。 >>108
とどめは杉山が原にダメ押し3ラン。
杉山みたいなペナントでもほとんど投げてない投手を注ぎ込んだりするから…
第5戦の西本の毎回安打を打たれながらも10─0で完封勝ちで王手も見どころたっぷりだったな。
あの年のシリーズは俺らは高2で京都へ修学旅行行ってた最中にラジオを新幹線やバス中で聞き入ってたっけ。 >>144
中畑がヤッターマンのテーマ。
石毛はウルトラセブンの歌。 いろいろな曲が使われたがドラゴンボールは全く使われなかった >>319
著作元の東映がうるさくてすぐにクレームつけるからね
東映制作ものは許可が必要。 日産R30スカイライン
日産スカイラインRS
トヨタソアラ
トヨタ60セリカXX
トヨタ60セリカ
マツダコスモ
ホンダシティ
いすゞピアッツァ >>309
迷惑なんだよ老いぼれが
黙ってろよ偏屈ジジイ >>323
テメエが迷惑なんだよ作文ジジイwww
作文書きたいなら小学生に戻れ低脳 >>323
醜い逆ギレだなwww
お前の自己満作文はチラシの裏に書いてろw >>329
お前が消えろ作文野郎w
作文誉めてもらいたかったら小学生の先生に持っていけ
添削だらけで戻ってくるだけだがなw >>332
うるせえタコ
ぉまえの作文用紙なんか便所紙にしてやる 『クルマは愛だ』
『シニアドリーム』
『体感ツインカム6』
『未体験ゾーン』
『ト―ルボーイ』 >>334
レス番間違えんなアホ
「作文」っていうのは雑談掲示板に空気読まない長文上げてるいつもの勘違い野郎のことだろうがw 82年組と言われる松本伊代も実は81年10月デビュー。 イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」
寺尾聡「ルビーの指輪」
松任谷由美「守ってあげたい」
松田聖子「風立ちぬ」「夏の扉」
近藤真彦「ブルージンズメモリー」「スニーカーぶるーす」
田原俊彦「恋=DO」
石川ひとみ「まちぶせ」
西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
杉田かおる「鳥の詩」
おんな太閤記
北の国から
池中弦太80キロ >>25-26
その2つの”事件”が発生したのは、この年の今日のこと 「長嶋がいないと巨人なんか見ない」ことなどないと証明された年。 この時期のベストテン番組。
テレビ
ザトップテン 日テレ月曜
ヤングベストテン 水曜 東京12チャンネル
ザベストテン 木曜TBS
ラジオ(土日のみ)
土曜
久米宏土曜ワイドラジオ東京内TBS
キンキンの歌謡ベストテン文化放送
高島忠雄の全国歌謡ベストテン文化放送
オリコン全国歌謡ヒット速報ニッポン放送
コーセー歌謡ベストテンFM東京
日曜
森田公一青春ベストテンTBS
松宮一彦ベストテンTBS
井上順ロッテ紅白ベストテン文化
決定全日本歌謡選抜文化
不二家歌謡ベストテンニッポン >>2
>日本国民は「ムハンマドを侮辱した」と憤るイスラム教徒とほぼ同じ地平にいる
ずいぶんとムスリムを侮辱してやがる・・・
そもそもパヨクはそんなムスリムの体質が大好きなはずだが? >>317
当時俺の近所にあったバッティングセンターには、各チームの球速の速い投手1人ずつと、その目安の球速が掲示されていた。
巨人は江川、中日は小松、大洋は平松とかだったが、日ハム代表は杉山だった。
ただ、最晩年の杉山見ても、全くタマ速くないのよね。 >>349
杉山ってそんな球速かったかなあ・・・
当時のファイターズなら木田とか書きそうなものだが >>349
俺が通ってた世田谷区のバッセンは巨人が新浦、ロッテが村田だったな。 >>351
その頃だと阪急山口、広島池谷、ヤクルト松岡みたいになるのかな >>350
木田も速球のイメージがいまいちない。
カーブとパームボールだな。 みんな140台後半
だから山口が史上最速とかあり得ない >>354
メンツ的に、1979〜1980年あたりに人選されたものっぽい。
何故中日が小松だったかというと、そのバッセンは石川県にあったからだw 確かに小松は「スビードガンの申し子」とか呼ばれてはいたが。
しかし、全国どこのバッセンも、そういうのが掲示されていたのかと思うと、なかなか興味深い。 武蔵野ワイルドキャッツと巨人の日本シリーズどうなった? リーグ優勝決めて引退した
神児くん抜きの日本シリーズは厳しいなあ 「武器」
9月以降の終盤30試合を21勝6敗3分け、驚異的な高勝率を挙げた広島の81年だったが、優勝争いに絡む事はただの一度もなかった。3連覇を
目指す前年王者の数ある武器の中で、機動力は他球団のそれより特に優れたものを持っていたが、チーム盗塁は54個でまさかのリーグ最小だった。
81年広島は打率、本塁打、得点でリーグトップだったが、機動力ダウンで相手に与える威圧感に欠けた。そうした意味で80年、2年連続盗塁王に
なった高橋慶彦と同じくチーム2位の17盗塁を記録した山崎隆造の開幕前の故障は、広島に大きなダメージとなって夏まで響いた。
「78年から元々良くなかった」という膝の状態が開幕前に悪化した高橋の“開幕”は5月頭、膝の水を抜きながら試合に出続けたが14盗塁に終わり、
打率もレギュラー4年目で初めて3割を切った。シーズン中は「盗塁のタイミングがなかなか合わなくて」と話していたが、患部がまだまだ治りきって
いなかったというのが実情だった。じっくり治してから復帰という手もあったはずだったが、高橋は「当時のカープは皆がどこか痛みを抱えながら試合に
出ていた。僕も折角のレギュラーを渡したくなかった」と当時のプロ意識を振り返った。
山崎が一年を棒に振る右膝骨折の大怪我を負ったのはオープン戦での事、二塁手でのレギュラー定着を期待されていたが、故障は皮肉な事に外野
守備でのフェンス激突だった。三村敏之と木下富雄の併用となった二塁手だったが、三村は33歳で往年の打撃を披露できず、木下は堅実ながら
打率および出塁率が伸びなかった。
チームは前半から5割近辺の戦いが続き、7月頭には2位と2差ながら最下位に転落、球宴折り返しは5位で借金も5つあった。後半戦は意地の2勝
1敗ペース、二番を打つ事もあった高橋を一番に、二番には衣笠祥雄を固定してから勝ちだした。山本浩二、ジム・ライトルの100打点コンビや水谷
実雄ら主軸にとっても、高橋の存在があってこそというぐらい機動力は広島野球に無くてはならない武器となっていた。そして翌年以降、古葉竹識
監督がこの年の巨人を意識してか、山崎や長嶋清幸ら若くて走れる選手の育成に取り掛かる事になる。 (了) >>365
何が(了)だアホw
自己満足の駄文はチラシの裏に書いてろ
ここは不特定多数が参加する雑談掲示板だボケ >>361−363
水谷○−江川
塚田○−西本
小林清●−定岡
水谷●−江川
塚田○−西本
佐波●−江川
塚田○−西本
チーム一の大ベテランをあえて第2戦に登板させる近鉄の鈴木啓示的な起用法で
発憤させる。
3,6戦は捨て
7戦は総力戦 近鉄ー阪急戦日生球場
両チームにとってこの年の公式戦の最終試合。
試合終了後、近鉄の監督を辞める西本監督が阪急の選手達もグランドに出てきて両チームの選手達から胴上げされる。 現役時代、稼いだ金はすべて貯金して質素な生活をする
女子アナ、芸能人など金のかかる嫁をもらわない(高校時代の女子マネなどと結婚する)
引退したら、飲食店経営などに手を出さず、体力を生かして地道に働く
佐川急便、ウーバーイーツなどで働く傍ら、少年野球の指導をして充実した生活をする
上記の教えを守れば、困窮することはないはずだ 銀河鉄道999の劇場版は
1981年8月1日の土曜日に放送。
ゴールデン洋画劇場の土曜日移動以降
屈指の視聴率だった。
1981年の夏の高校野球は
ソフトバンクの工藤監督はエースで高校生だった。
今は野球解説者の金村義明がいた報徳学園が全国制覇。
エースで4番で全国制覇したのは、これが8回目だが、1981年の夏の高校野球以来、記録が出ていない。 🎵俺に〜はわーからないよ おーまえがなぜ
(あいどんのー) 巨人ファンには楽しい1年だった。ただ、広島が3.5ゲーム差まで詰められた時は
ヒヤヒヤした。古葉はオールスターで角を三連投させた、以後、角は球威を失って
しまったが、ペナントのゆくえに大きな影響はなかった そりゃまあ、讀賣的には最高の一年だっただろうよ
他の11球団のファンには胸糞悪さだけが残ったけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています