「ラストシーズン」

一時は「背番号(68)の年齢までやる」と言っていた西本幸雄が、61歳で近鉄監督退任を決めたのが81年も後期が閉幕しようという10月2日の
事だった。一度辞意を考えた78年秋あたりから、体力的な衰えを感じてきていた。選手と一緒になって汗を流しながらチームを作り上げる西本に
とって、それが少しでも出来なくなるのは性に合わないとの思いがあった。
本来は還暦を区切りに勇退するつもりでいた西本は、日本一こそ逃したもののリーグ連覇していた80年は良いタイミングだと感じていた。しかし、
契約問題がこじれて放出となったチャーリー・マニエル不在の野球を確立してから、後継者に良い状態で引き継ぎたいと思い「もう一年」となった。

V3への挑戦と位置付けた81年シーズンだったが、強力打線が武器の近鉄には高反発球と圧縮バットの廃止は痛かった。3年連続でリーグ1位の
チーム本塁打だったが、前年比90本減と12球団で最も本塁打を減らした。打率はリーグ最下位で平野光泰、羽田耕一、佐々木恭介ら主力が
揃って大不振だった。マニエルに代わる助っ人勢も、ビクター・ハリスが及第点というだけでクレイグ・ライアンは態度だけマニエル並でヒジ痛での
二軍降格指示を拒否して6月に解雇、代わって昇格のアイク・ハンプトンも長打力はまずまずながら確実性に乏しかった。得点力の落ちた打線が
バックでは投手陣も苦しい、大黒柱の鈴木啓示は日本ハム、ロッテと前後期の優勝チームに1勝もできず、井本隆は右ヒジを痛めて途中に戦線離脱、
左右のエースが共に5勝止まりだった。
結局西本の監督20年目は前期6位、後期4位の最下位だった。島本講平、吹石徳一、久保康生、橘憲治らの頑張りも投打の主力の不調をカバー
するとまではいかなかった。それでも最終戦での近鉄・阪急ナインによる合同胴上げには、前期未消化分カードの偶然もあったなど野球の神様に
よる演出も相まって、西本も「一番嬉しい胴上げだった」と感激していた。

散々な結果だった監督生活最終シーズンだが、阪急の時以上に1年延長してでも上手にバトンタッチしたかった理由が西本にはあった。後継の
指名には関口清治、プロ入り前の別府星野組からの同僚という盟友で、監督生活でも阪急と近鉄で打撃コーチを務めてきた西本政権の大番頭
だった。年長者を差し置いて上田利治を推薦した前回といい、後に阪神の誘いを断った際に推した吉田義男の時といい、シビアに適性を見てきた
西本も、この時ばかりは「一度関口に監督を」との情が出たのも無理からぬ話だった。 (了)