1981年のプロ野球
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>>181
クルーズ骨折で代わり入った岡持和彦が大活躍。シリーズ初戦でも勝ち越しアーチ。 >>187
加藤初もいたよ。
定岡は信頼されてなかった。 中2日西本なんてのは普通でアリの時代だった。
先日、高木勇人を中4日させて非難轟々だったが、ポストシーズンでは当時は中3日なんて当然だった。
今でもクライマックスで中3日までやってるね。 日米野球の全日本はファン投票だった。江川、梨田、中畑、篠塚、原、石毛、山本浩二、福本、島田誠。 >>169それ開幕2戦目の日曜日。
(初戦は西本)
俺友人と見に行ったので覚えている。
そのあとの浅野と加藤の好投は予想外だった。(前年考えて)
原の初本塁打もこの試合だった。 この年の近鉄
2年連続リーグ優勝から一転して最下位に。
マニエルが抜け、鈴木が不振に終わったこと
以外に、何か最下位になる要因でもあったの? 四番とエースがそうなったらそれだけでも要因として十分じゃん。
といいたいところだがそれ以上に飛ぶボール禁止と圧縮バット禁止の影響が出たんだろうな
各打者の本塁打数が愕然と減ってるよ >>205
エースは鈴木じゃなくて井本だったけど
エミーに熱心で野球どころじゃなかったからだろ。 >>103
今年もこのカードになる確率が高まってきたから萎える
鯉鷹初対決を見せてくれ このシリーズ出場者で故人となったのは前述の両監督、牧野コーチ、高橋一三、
成田、ソレイタ、中井にあとは工藤、菅野、山本功(出てない?)かな? 今更な話だけど、「宇野のヘディング事件」と「ベンチがアホやから事件」
この2つは、いずれも同じ日の出来事であることを>>25-26で知ったw 江本はあの発言したときすでにシーズン限りでの引退予定だったのは余り知られてないね >>212
そうだったの?
あと数年はやれそうだったんだけど…。 パ・リーグの本塁打王争いは面白かった。ソレイタが先行、門田が7月に大爆発。8月に門田が4本差をつけるが、ソレイタが再逆転。最終的に分け合うが、敬遠合戦、両者ともにスランプがほぼ無く、見応えがあった。 江本は発言が飛び出したときすでに34歳
引退しても特に不思議な年齢ではないな ヘディング事件のあった次の日のラジオ体操のとき
その話題で盛り上がったのを覚えている >>211
おかげで富田勝の「12球団から本塁打」が完全に霞んだ 「ラストシーズン」
一時は「背番号(68)の年齢までやる」と言っていた西本幸雄が、61歳で近鉄監督退任を決めたのが81年も後期が閉幕しようという10月2日の
事だった。一度辞意を考えた78年秋あたりから、体力的な衰えを感じてきていた。選手と一緒になって汗を流しながらチームを作り上げる西本に
とって、それが少しでも出来なくなるのは性に合わないとの思いがあった。
本来は還暦を区切りに勇退するつもりでいた西本は、日本一こそ逃したもののリーグ連覇していた80年は良いタイミングだと感じていた。しかし、
契約問題がこじれて放出となったチャーリー・マニエル不在の野球を確立してから、後継者に良い状態で引き継ぎたいと思い「もう一年」となった。
V3への挑戦と位置付けた81年シーズンだったが、強力打線が武器の近鉄には高反発球と圧縮バットの廃止は痛かった。3年連続でリーグ1位の
チーム本塁打だったが、前年比90本減と12球団で最も本塁打を減らした。打率はリーグ最下位で平野光泰、羽田耕一、佐々木恭介ら主力が
揃って大不振だった。マニエルに代わる助っ人勢も、ビクター・ハリスが及第点というだけでクレイグ・ライアンは態度だけマニエル並でヒジ痛での
二軍降格指示を拒否して6月に解雇、代わって昇格のアイク・ハンプトンも長打力はまずまずながら確実性に乏しかった。得点力の落ちた打線が
バックでは投手陣も苦しい、大黒柱の鈴木啓示は日本ハム、ロッテと前後期の優勝チームに1勝もできず、井本隆は右ヒジを痛めて途中に戦線離脱、
左右のエースが共に5勝止まりだった。
結局西本の監督20年目は前期6位、後期4位の最下位だった。島本講平、吹石徳一、久保康生、橘憲治らの頑張りも投打の主力の不調をカバー
するとまではいかなかった。それでも最終戦での近鉄・阪急ナインによる合同胴上げには、前期未消化分カードの偶然もあったなど野球の神様に
よる演出も相まって、西本も「一番嬉しい胴上げだった」と感激していた。
散々な結果だった監督生活最終シーズンだが、阪急の時以上に1年延長してでも上手にバトンタッチしたかった理由が西本にはあった。後継の
指名には関口清治、プロ入り前の別府星野組からの同僚という盟友で、監督生活でも阪急と近鉄で打撃コーチを務めてきた西本政権の大番頭
だった。年長者を差し置いて上田利治を推薦した前回といい、後に阪神の誘いを断った際に推した吉田義男の時といい、シビアに適性を見てきた
西本も、この時ばかりは「一度関口に監督を」との情が出たのも無理からぬ話だった。 (了) 西本が阪神監督になっていたら、日本一になっていたろうか? 大沢啓二は1976年から1994年まで日本ハムに在籍したが
優勝したのはこの年のみ >>223
1年で優勝や日本一は難しいだろうが
吉田みたいに再来年に地獄はまずないと思う >>5
プロ野球の人気ってこの年が最高だったと思うな。
視聴率や観客動員みたいな数字だけじゃなく、
総合的な世間の関心、注目度という点で。
勿論巨人中心だったが >>228
本人?
>>226
確かにキモいな
そいつは巨人スレでも同じことやってたわ テメエの意に沿わないレスに対して、本人呼ばわりとはねえ・・・。 気に添わないレスとかじゃなくてキモいから指摘されてんだろうが。
ひとりよがりな長文はブログでやってろ むしろ江本が現在の地位を確立できたから
しくじりどころか最高のパフォーマンスだろ >>212
>>213
本人がそう思ってたらしいが。
これはたまに言ったりするが、
先日の番組では構成上使えないネタだね。 江本はベンチがアホ発言する前から起用法などを巡って(先発か中継ぎか曖昧な立場にされてた)
中西監督と対立し、フロントにトレードを志願するも宥められて渋々残留してたそうだ。
どっちみち中西が退任するか江本が1シーズン我慢するかで我慢を選んだら起用法で冷遇され干されたとも思える。 >>229
江本はその象徴みたいな感じ。
「ベンチがアホ」が流行語になった勢いで出した本がベストセラーになって映画化され、本人はタレントや役者、
役者では市川崑の文芸映画にまで出て、挙句国会議員。30年以上たった今でもメディアの一線に居るという。 やっぱ原かっこ良かったなあ。一度離れかけたプロ野球に戻って来れた感じ。
楽しかったもん、この年。
原、中畑、篠塚、松本、江川、西本、定岡、角、魅力的なチームだったな。 それが今ではヤクザに1億円も払うようなクズに成り下がるw 「名刺ができた」
王貞治が自身や小鶴誠、野村克也の持っていた月間13本塁打の記録を破って15本塁打を放ったのが、70年6月と73年8月の2度。他にも72年の
大杉勝男と長池徳二、78年のエイドリアン・ギャレット、79年のチャーリー・マニエルがマークしてきた月間最多15本塁打の数字は、長距離砲として
全国区に押し上げる勲章の一つとなっていた。その記録を球宴期間が含まれる7月でありながら、更新したのが81年の南海・門田博光だった。
21試合で16発、70年・王の15発も20試合と少なかったが門田の場合は前後期制のパ・リーグであり、7月1日にダブルヘッダーをこなして前期が
終了した後に4日から後期開幕という日程に加え、球宴期間による1週間の休戦があり、気持ちの維持が難しい中での達成だった。
1日のダブルヘッダーで、15日ぶりとなる本塁打を2戦両方で放ちスタート。ここから5戦連発で7本塁打11打点の発進、8日の無安打を挟んで
9日からまたも5試合連発とした門田、5戦連発の年間2度は73年の王以来だが一ヶ月2度となると門田が初めてだった。前半の11試合で既に
12本塁打、しかし後半は相手投手陣の徹底マークに遭った。
14日からの日本ハムとの3連戦でたった1安打、17日の近鉄戦で鈴木啓示らから2発を放ってリーチをかけたが以降3戦でまたも単打1本のみと
産みの苦しみを味わった。王らの月間15号に追いついたのは、7月も残り3戦と重圧がかかってきていた22日、日本ハム・間柴茂有からだった。
翌日の同カードは高橋一三に揺さぶられ無安打、新記録への挑戦は球宴後の31日を残すのみとなった。地元大阪球場、それまで21打数3安打と
苦しみ、8日にも土井正博以来5人目の6戦連発を阻んだ西武・杉本正が立ちはだかったが、第2打席に外角高めのカーブを右翼席に運ぶ満塁弾で
決めた。
月間16本塁打は94年に江藤智、04年に阿部慎之助も記録して追い付いたが、追い越した選手はまだいないという快記録、門田は「これで僕の
名刺ができた」と珍しく笑ったが、この年33歳で初の本塁打王に輝くなど以降10年後の43歳まで第一線で活躍するにあたって、月間本塁打の
新記録は門田にとって“名刺”どころか“大きな看板”になっていた。 (了) >>229
逆にある意味「終わりの始まりの年」だったのかもしれないな。
それについてはいろいろ書きたいが時間ないのでやめとくわ。 ルビーの指輪
窓際のトットちゃん
たのきんトリオ
いも欽トリオ
神戸ポートピア
ソアラ
ピアッツァ
スカイラインRS
連合艦隊 ダルが、沢村賞に関してあれこれ言っている。その中で、選考委員では無く記者投票にしたらと言っていたが、ダルは西本・江川問題を知らないんだろうな。まあ、生まれる5年も前だから、無理もないけどね。 >>251
独りよがりな長文は掲示板じゃなく自分のブログでやれ
キモいんじゃボケ >>251
雑談掲示板の空気を読めよ。
長文で自己完結して全く会話のキャッチボールにならんだろ。
こんなの1行の書き込みで終わるわ。
「そういや門田が月刊本塁打の記録作った年だったな」
その書き込みに対して思い出すことを他の人がレス付ける、ってのが自然な流れだろうが。
ここはあんたの研究発表の場じゃねえんだって。 1981年江川
1989年西本
1990年斉藤
でみんなもらえた沢村賞 >>262
江川は80年の時点でもらえてもおかしくない。
勝ち星も奪三振も1位なんだから。
>>263
一人でキモいオナニー長文書いてるのはお前だろw この年、巨人、ヤクルト、阪神の平和台開催の相手はすべて大洋だった。
80〜83年と4年連続でヤクルト主催は大洋が相手で、阪神も翌82年は2年連続で大洋戦を開催。
関門地区に大洋漁業関連企業が多く立地しているが、肝心の福岡県内での大洋主催はオープン戦のみで、
平和台の空き家時代は公式戦は1試合も開催されず、球団名が横浜に変った93年に北九州で広島戦。
さらに11年後の2004年に福岡ドームでの中日戦開催まで待たねばならなかった。 81年か、巨人の原がルーキーの年でしょ。
一番の思い出は、定岡が頭にライナー直撃した事かな >>193
>>195
その宇野がヘディングをやらかした時に
マウンドに立っていた投手もつい先日… 星野は中畑や淡口には良く打たれたが、ルーキー原には最初の対決でビーンボールで腰を引かせて完勝。以後、
13年の日本シリーズまで原は星野に引け目を感じていたのか?
9月20日、もしかすると藤田巨人初優勝か、で迎えた試合で、谷沢が加藤初から3発の援護も有って星野完投勝利
で意地を見せた。
翌年は巨人には勝てず、これが巨人に立ち向かった男星野の巨人戦最後の勝利になった。 >>254
親父がスカイライン買うって言うからRSかと思ったらジャパンの在庫整理を60万引きで買ったわ すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
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BD49I ガンダム劇場版「哀・戦士」もこの年だな。
プロ野球が面白かったなあ。 島田誠(日本ハム)の自伝読んでたら根っからの「夜の街の住人」みたいだな。
プロ野球に入ってなかったら風俗店の店長、経営者になってそう。 島田氏はハムの晩年は後楽園すぐ東の壱岐坂上ったあたりのJRのアパートに住んでいた。当時自分も近くに住んでいたし、
選手名鑑の住所があったし。その頃は真面目になってたのかな?
なんかヒーローになってその夜のプロ野球ニュースで自宅から生中継していた記憶がある。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ ただいま「江川と西本」1981年シーズン。
最高のシーズンだったな。 印象に残ってること
原フィーバー&江川20勝でヤングジャイアンツ日本一
パ覇者は大沢親分率いる日本ハムに15勝0敗間柴
落合覚醒、門田の月間新?16本塁打、盗塁王青木
ほかタイトルホルダーも山本浩二、藤田平ら記憶に残る顔ぶれ
これ書いた後にスレ見たが、
ヘディングやベンチがアホやからなど
優勝や個人タイトル以外にも話題豊富な1年だったんだなあ。
俺が本格的に野球見始めた年でもあった。 飛ぶボールが禁止されたことを意識したのか
大杉や掛布はホームランよりアベレージを目指した成績だった 掛布の場合は故障からの復帰明けという事情もある。
1979年48本塁打という無理が祟ったのか、前年故障続きで在阪マスコミの餌食にまでなり散々のシーズンだった事を受けて、
まずはシーズン全試合出場を目標に彼本来のバッティングに徹する事にしたという。
彼自身は満足行くシーズンだったが、ファンやタニマチから「もう少しホームランがみたい」との声を受けて、結局1979年シーズン
のホームラン狙いのバッティングに戻したという。 >>281
俺もこの年からだ。
だから江川の全盛期を知らないこの板の荒らしバカボンが妄想で好き勝手なこと抜かしてると滅茶苦茶ムカつくわ 翌年4月に刊行された、皆成社の絵本
『はじめてのプロやきゅう』
お母さん、男の子の二人を連れて後楽園球場の巨人−阪神戦を。
1981年を意識したであろう、スコアボードの表示を見れば・・
阪神のオーダー
6目弓
8加戸
3牛田
5竹布
4丘田
9左野
7木内
2若名
1大林
実際の面々をもじってるw
(木内とは、竹之内か) 対する巨人
8松木
6小野
4市野
3上畑
5原井
7甘口
9中田
2山久
1江山
市野とは誰のもじり?
中田は、中井か? あっ、急にわかった!
「しの」と読ませてる、つまり篠塚のもじり。 王さんという別格的な存在が抜けた事で
野球を気楽に楽しむような空気に
ファンも選手も変わってきた。 >>287
その本俺も見た記憶有る
83年頃吉祥寺の本屋で ソアラ「未体験ゾーン」
セリカXX「体感ツインカム6」
R30スカイライン「クルマは愛だ」
ピアッツァ「シニアドリーム」 ドラフト指名
巨人一位 槇原(大府) 三位 吉村(PL)
広島一位 津田(協和発酵)
近鉄一位 金村(報徳)
西武六位 工藤(名電)
金村が阪急を希望していたのには驚いた。あの不人気の阪急を希望した有力選手は昭和時代では他に記憶がない。 >>292
だからいいんじゃないの
出番多いし
阪神だと藤田真弓バース岡田掛布とかいるスター集団だったし出番ないよ >>292
阪急はそれを迷惑がってたというのが切ない 「伊東組と新人監督」
社会問題にまでなった退陣劇から、およそ9ヶ月の月日が経っていた。81年7月12日、前監督の長島茂雄が以来初めて球場に現れた。後楽園での
巨人−阪神17回戦、巨人はリーグの貯金独占の一人旅で2位・阪神と8.5ゲーム差がついていた。
長島の目の前でも、河埜和正の先制2ランなど16安打の猛攻で7−1と勝って強さを見せた。長島が「若手がすっかり実力者になった」と笑顔で
話したように世間の目も、伊東キャンプで長島の鍛えた選手が今の巨人を支えているといったところだった。
伊東キャンプに参加した17名の中では、長島が来た日に先制弾を放った河埜の他に4安打の中畑清、猛打賞の3割打者松本匡史らが主力で
チームを引っ張っていた。しかし、選手を率いていた現監督・藤田元司はどんな気持ちだったか。感情を表に出す事無く藤田は「運がよかった」と
静かに答えただけだった。
7月12日の試合で阪神を1失点に抑え、完投勝利を挙げたのが江川卓だった。この日で10勝目、まだライバル西本聖に1勝のリードを許していたが、
7月以降は独壇場で12勝2敗、12完投、5完封で2年連続の最多勝ばかりか22年ぶりの投手五冠王にも輝いた。江川は会心の81年シーズンを
「アメリカでの1年のブランクを完全に埋めた」と振り返った。監督藤田は江川を「疲労の取れにくい投げ方で、間隔を空けて使わないと力が出なかった」
と評した。実際に西本は中3日が4度、中2日が2度あったが、江川は中3日が一度あったのみだった。藤田にすれば「他意はない」起用だったのか。
伊東組ではない新人・原辰徳の使い方には頭を悩ませた。二塁で使うためノックの雨を浴びせる事もあったが、中畑の左肩負傷で三塁に据えて、
戻って来た中畑を一塁に回す形で解決した。
それでも原を我慢して使い続けて一人前にした藤田は、新人監督である事を考えても見事だったが、江川や原よりも讃えたかったのが31歳になって
いた10年目の加藤初だった。4年間2ケタ勝利から遠ざかり前年の80年は1勝止まり、12勝するまでに再生させたのは伊東組の活躍や江川・原の
働きと同等に大きかったはずだが、そこでも藤田は「古い人にも力は残っていた」と言葉少なだった。 (了) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています