1982年のプロ野球
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「七転び八起き」
高目の速球にマイク・ラムのバットが空を切ると、三塁側ベンチから一斉に選手がマウンドに駆け出した。最終戦で大洋に勝った中日が幾多の障害を
乗り越え、82年セ・リーグのペナントレースを制した。負ければ巨人優勝というプレッシャーの中で一戦は、二回表に四番・谷沢健一が号砲となる
先制弾を放つと、三回に4点、七回にも3点で計8得点を挙げたが、全てクリーンアップの打点だった。投げては小松辰雄が、被安打2と奪三振8個で
完封という一方的な展開となった。
シーズンの強竜打線を象徴する試合だったが、前半戦は田尾安志とケン・モッカの打棒が目立つのみという状態だった。近藤貞雄監督は開幕前に
「600点打線」と自信を持っていたが、谷沢や大島康徳の調子が上がらなかったのだ。7月に入ると打線が復調、息切れの広島に代わって巨人と
優勝を争う事になったが、投手陣のやり繰りには首脳陣も終始苦労した。
新エースに立てた小松が開幕でKO、しかも右股関節挫傷で長期離脱という苦難のスタート。それでも前年後半に台頭していた都裕次郎と郭源治を
ローテに組み込み都が4月、郭が5月にプロ初完封すると軌道に乗った。抑えにはフォークボールと度胸を買って21歳の牛島和彦を抜擢、救援失敗
の続いた鈴木孝政は6月に先発転向してこれまた7月のプロ初完封で定着というように、近藤の慧眼による打つ手がよく当たった。後半戦になると
復帰後の小松を、牛島とのダブルストッパー役に据えて三沢淳や鈴木の負担を軽くした。
七転び八起きの巨人とのデッドヒートでの最終盤は、10月の16日間で13戦と中日投手陣には堪える日程だったが、特に最終戦は前夜首脳陣が
悩み抜いた。都は前日に先発、三沢と鈴木なら連投になってしまい、郭は腰痛で9月下旬から中継ぎに回っていた。さらに抑えの牛島も前日セーブを
挙げながら、右肘痛を抱える状態のため先発にはなるべく長いイニングを投げてもらわなければならない背景があった。
横浜の宿舎ロビー、相談している近藤と権藤博投手コーチの中に割って入ったのが小松で「何を迷っとるんです、こんな試合の先発は俺しかおらん
でしょうが」と大声で話し掛けた。先発はあの開幕以来なく、2日前にも3回3分の1を投げていたが、近藤は「あの気性に賭けてみようじゃないか」と
妙に納得をしてしまった。
手薄な投手陣での優勝は打率と本塁打と得点でリーグトップだったが、防御率でも巨人に次いで2番目だった。近藤は「未熟な監督についてきて
くれた選手が勝ち取った勝利」と謙遜したが、“継投の妙を見せ、チームにガッツを注入した”との理由でセ・リーグ最優秀監督に選出された時には
近藤も得意満面だった。 (了) 科学技術とかは大きく進化したけど物価はすっかり伸び悩んだな >>474
あんな猛者を扱える人物の方が少数派だと思う この年のパリーグは飛ばないボールの導入で加藤球同様の現象が起きていたのが興味深い
例えば技巧派投手の躍進・復活(この年だけ活躍した投手も多い) それってバラバラだったボールのメーカーにそれぞれリーグが通達したんかね? >(この年だけ活躍した投手も多い)
確かにこの年だけ活躍した投手はいるけど、他の年に比べて多いという事はないと思うけど。
どの年でもその年だけという選手はいるわけだから。 >>471
それが発生したのは、この年の今日のことであった >>494
多分それはタツノリのことを指しているんだろうが、
確かにヤツの肉体は改造したほうがいい
それこそ、去勢だってありだw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています