1982年のプロ野球
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落合の成績自体は前年の81年と同じくらいなんだよね。
ホームランや打点のライバルたちが軒並数字を落としている。
長打が関係ない打率の新井が落合には一番嫌な相手だったのかも。 新井なんてあまり眼中に無かったと思うけどな。
落合はこの年ずーっと3割3分台をキープして、新井の方は3割2分台に乗ることは無かったから。 打率の面で落合が幸運だったのは同僚のリーが規定打席不足に終わったこと。
単純比較では落合.325 リー.326だった。 ホームラン数の推移に話を戻すと、80年か81年に40本以上打ってる打者は82年は落ちているが、
20本くらいから30本くらいの打者はあまり変化がないか中には少し本数が増えている人もいるんだよな。 >>441 >>449
前年40本以上打った3人のこの年のHR数が減った理由は
門田→故障、ソレイタ→打率下がった分減った、山本浩二→年齢からくる衰え
みたいに当時は感じていた ソレイタ→打率下がった分減った
逆でしょ。ホームラン44本から30本に14本減ったわけだから。
前年その14本がスタンドまで行っていたが82年は外野フライになっていたとしたら、
14本=14安打現象すれば打率は下がって当然でしょ。 ○14安打減少すれば
また、ソレイタのこの2年間の成績をみればほとんどそれがうなずける結果だよ。
81年 451-136 .300 44本
82年 449-126 .126 30本 81年 451-136 .300 44本
82年 449-126 .281 30本 それと、山本浩二は翌年には36本でホームラン王に返り咲いているから年齢的な衰えという見方は違う。 門田は前期は64試合にスタメンDHで出場して14本だったから前年44本打った打者としてはこの時点で量産ペースが遅かったのは明らか。
そして後期は確かに休みがちになってしまったが。 >>440
よくも悪くも、チームに溶け込む気が全くなかったんだろうな。前年は、胴上げを腕組みしながら眺めてた。
広島時代はマウンド上で他の選手と抱き合って喜んでたけど。
同じタイミングで南海を出た柏原は、日ハムでは完全にチームリーダーとしての地位を築いていた。 半期優勝くらいで本気で喜べるかよという気持ちだったのでは。
それに日本ハム時代の江夏は試合中の素っ気ない態度とは違ってシーズンオフにはチームメイトの家に
訪問するなど良好なチームメイトの関係だったらしいよ。 ただ、植村投手コーチとはあまり上手く行っていなかったみたいだね。
確かに試合終了直後に植村コーチと笑顔で握手なんていう光景は記憶にない。
でも、選手同士はみんな江夏と良好な関係だったらしい。 >>459
唯一江夏と仲が悪かった高橋里志がいた(しかも広島から同時移籍) >>458
あー、そうなんだ。それは失礼。
めっちゃ浮いてるように見えたw
>>460
たとえば1983年6月14日のロッテ戦では、3番手に投げた高橋里を、7回二死から江夏がリリーフして勝っている。
江夏がマウンドに来る前に、さっさとマウンドから消えたんだろうな。 江夏・高橋里と高橋直・佐伯のトレードだったね
大沢親分が里志をくれと言ったら広島側から
「江夏と仲悪いからやめたほうがいい」って言われたが
親分は「マウンドに2人がいっぺんに上るわけじゃない」
と押し切ったらしい。 >>434
一応「優勝」のタイトルなんだから、MLBのチームがディビジョンシリーズ勝っただけでシャンパンファイトするのに比べたら、納得性はあると思う。 巨人優勝してたら原がMVP?
江川があと1勝してたら沢村賞? >>464
江川については記者投票から沢村賞受賞経験がある球界OBで構成された座談会に依る推薦に変更になったから多分受賞していたろう。
無冠の原のMVPはどうかな・・・・・・・・・、江川の2年連続MVPの可能性もあったろうし、二冠王の掛布が関西票を集めて選ばれたかもしれんし。 この年の尾花は負け越していたけど内容的には生涯ベストシーズンと言っていいものだった。
チームはビリで何の称賛も与えられなかったのは残念だった。 戦後「37年」でよく、ここまで豊かな国になれた。日本。
昭和57年から同じ「37年」の月日が流れた。 昭和20年と昭和57年はダンチだろ。
昭和57年と令和元年大して変わらない。
パソコン、スマホくらいだろ。 中継開始の
D 014
W 00
ですべてを悟った最終戦 >>459
大沢監督退任→植村監督就任というタイミングで
江夏もチームを離れているね(西武へ移籍) あれは日ハムが江夏放出を先に発表したんだよ。
で、そのあとトレード先探しという珍しいケース。 >>470
自動改札は既に玉川学園前にあったとよ。切符通してハサミ入れるだけだがw
関西はもっと進化したのがあったようだが。
アイドル豊作の年。今と違ってピンで売っていた。ベストテン番組全盛で今と違って別にファンじゃない人の歌も唄えた。
クルマはフェンダーミラー。ディズニーランドはまだ開園してない。 セリカXXツインカム24
セリカツインカムターボ
シルビアRS
コスモロータリーターボ
プレリュード(2代目の激人気の)
シティーターボ
スタリオン >>471
その試合で大洋監督として指揮を執っていた関根潤三氏が先日逝去 >>468
昭和57年にはインターネットもスマホもない時代だからな〜
タイムリープして令和に来た人はびっくりするだろ 昭和20年⇒昭和57年と
昭和57年⇒令和元年を比べたら
この37年間はそんなに変わってないな ホンダF1参入前年
トヨタグループC参入
日産グループC参入前年 「七転び八起き」
高目の速球にマイク・ラムのバットが空を切ると、三塁側ベンチから一斉に選手がマウンドに駆け出した。最終戦で大洋に勝った中日が幾多の障害を
乗り越え、82年セ・リーグのペナントレースを制した。負ければ巨人優勝というプレッシャーの中で一戦は、二回表に四番・谷沢健一が号砲となる
先制弾を放つと、三回に4点、七回にも3点で計8得点を挙げたが、全てクリーンアップの打点だった。投げては小松辰雄が、被安打2と奪三振8個で
完封という一方的な展開となった。
シーズンの強竜打線を象徴する試合だったが、前半戦は田尾安志とケン・モッカの打棒が目立つのみという状態だった。近藤貞雄監督は開幕前に
「600点打線」と自信を持っていたが、谷沢や大島康徳の調子が上がらなかったのだ。7月に入ると打線が復調、息切れの広島に代わって巨人と
優勝を争う事になったが、投手陣のやり繰りには首脳陣も終始苦労した。
新エースに立てた小松が開幕でKO、しかも右股関節挫傷で長期離脱という苦難のスタート。それでも前年後半に台頭していた都裕次郎と郭源治を
ローテに組み込み都が4月、郭が5月にプロ初完封すると軌道に乗った。抑えにはフォークボールと度胸を買って21歳の牛島和彦を抜擢、救援失敗
の続いた鈴木孝政は6月に先発転向してこれまた7月のプロ初完封で定着というように、近藤の慧眼による打つ手がよく当たった。後半戦になると
復帰後の小松を、牛島とのダブルストッパー役に据えて三沢淳や鈴木の負担を軽くした。
七転び八起きの巨人とのデッドヒートでの最終盤は、10月の16日間で13戦と中日投手陣には堪える日程だったが、特に最終戦は前夜首脳陣が
悩み抜いた。都は前日に先発、三沢と鈴木なら連投になってしまい、郭は腰痛で9月下旬から中継ぎに回っていた。さらに抑えの牛島も前日セーブを
挙げながら、右肘痛を抱える状態のため先発にはなるべく長いイニングを投げてもらわなければならない背景があった。
横浜の宿舎ロビー、相談している近藤と権藤博投手コーチの中に割って入ったのが小松で「何を迷っとるんです、こんな試合の先発は俺しかおらん
でしょうが」と大声で話し掛けた。先発はあの開幕以来なく、2日前にも3回3分の1を投げていたが、近藤は「あの気性に賭けてみようじゃないか」と
妙に納得をしてしまった。
手薄な投手陣での優勝は打率と本塁打と得点でリーグトップだったが、防御率でも巨人に次いで2番目だった。近藤は「未熟な監督についてきて
くれた選手が勝ち取った勝利」と謙遜したが、“継投の妙を見せ、チームにガッツを注入した”との理由でセ・リーグ最優秀監督に選出された時には
近藤も得意満面だった。 (了) 科学技術とかは大きく進化したけど物価はすっかり伸び悩んだな >>474
あんな猛者を扱える人物の方が少数派だと思う この年のパリーグは飛ばないボールの導入で加藤球同様の現象が起きていたのが興味深い
例えば技巧派投手の躍進・復活(この年だけ活躍した投手も多い) それってバラバラだったボールのメーカーにそれぞれリーグが通達したんかね? >(この年だけ活躍した投手も多い)
確かにこの年だけ活躍した投手はいるけど、他の年に比べて多いという事はないと思うけど。
どの年でもその年だけという選手はいるわけだから。 >>471
それが発生したのは、この年の今日のことであった >>494
多分それはタツノリのことを指しているんだろうが、
確かにヤツの肉体は改造したほうがいい
それこそ、去勢だってありだw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています