1983年のプロ野球
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同じ新幹線が無かった(当時)九州は巨人遠征したんだよな
熊本→平和台→小倉とまぁ大変 >>607
この年は広島帯同で火曜が小倉(中止)→水木曜が平和台。
広島も8月に新大分→小倉の土日2連戦のヤクルト戦あり。 >>606
今じゃ、嵐と坂本を比較するようなもんだからなw 原さんはスポンサー契約料年間数億円があたりまえのバブル絶頂期に20社くらいスポンサーがついてたからな
たけしが当時の年収は230億だとか言ってたけど原さんも200億こえてただろうね
ヤクザに1億なんて俺らの1万円くらいの感覚なんだろうな そんな金銭感覚が麻痺しているタツノリだからこそ、賭けゴルフに勤しんでいたんだろうなw 巨人にしては珍しく阪神や中日みたいにタニマチに可愛がられすぎ この年から原の工藤アレルギーが始まる…
シリーズの視聴率から考えて今年のような醜態をこの年にやらかしていたら藤田は即座に解任、下手したら4戦の前にネタ流されて読売には帰れなかったのでは
そうなると史実、変わったかも 人体や物体じゃないものをどうやって”肉体改造”させるんだw 9番に他チームならクリーンアップ級の石毛(303 16HR)が入る打線の西武はずるいと子供心に思った 「たった一年で」
自軍の主砲・山本浩二に本塁打王を獲らせるため、広島投手陣が中日・大島康徳に4打席連続四球を与えた。中日にとってはシーズン130試合目、
ここまで36本塁打の大島を一番打者に起用したがトップバッターの4出塁を得点に結び付けられなかった。前年の最終戦では田尾安志の5連続
敬遠を悉く得点にして8年ぶりの優勝に繋げたが、83年中日の最終戦は新鋭・川又米利の2点適時打で完封を免れるのが精一杯で広島に完敗、
ヤクルトも同日敗戦で何とか最下位を逃れたという日になった。
左右のエースと目した都裕次郎と小松辰雄の24歳コンビが共に振るわず、投手の台所事情を苦しくした。都は6勝のうち先発勝利は5月に挙げた2勝
のみで、後半戦は中継ぎに回ってチーム最多登板だったが防御率は4点台後半だった。小松は前半だけで10敗してトータルもリーグワーストタイの
14敗、好投しながら援護の無い試合もあり防御率はリーグ5位だったがムラのある内容で2年続けて期待に応えられないまま終わった。チームが
5割近辺の戦いをしていた5月、ストッパー牛島和彦の4度に亘る救援失敗も痛かった。
中日は前半戦だけでも5連敗が2度、3連敗が6度の体たらくで、5月後半からは大洋と阪神との最下位争いを演じ、3年ぶりに最下位ターンとなった。
2ケタに上った借金を返すべく、後半戦は都との配置転換で牛島を先発に回し、安木祥二は中継ぎに戻した。トップバッターに宇野勝を据える新しい
オーダーも当たり、8月は13勝7敗と勝ち越してAクラスに浮上、ようやく前年覇者の巻き返しを思わせた。宇野は8月だけで11本塁打、同じく大島が
10本塁打で山本浩を追走し始めた頃だった。9月も中旬には一時借金も2まで減り、4月28日以来の5割が見えた時期もあったほどで、3位を
キープし続けた。しかし10月頭の阪神2連戦に連敗して5位に転落すると、6日から8連敗の急降下でAクラスは絶望的となった。
本塁打王の大島、最多安打の田尾、リーグ最多タイの二塁打を打った谷沢健一は安定した成績を残したがケン・モッカ、平野謙、上川誠二、故障離脱
のあった中尾孝義が揃って不振で自慢の打線がリーグ最下位のチーム打率だった。フロントと監督の間もチグハグで、Aクラス争いの8月に退任の
噂が持ち上がり、8連敗の最中である10月11日に次期監督・山内一弘の就任が発表された。「3年契約が終わったら辞める覚悟だった」と後に
近藤貞雄監督は言ったが、辞めると分かっている監督の下で選手がまとまる訳もなく監督交代発表後も1勝6敗、最後は4位・阪神とも7ゲーム差と
水を空けられた中日、優勝からたった一年で近藤は寂しく去った。 (了) >>617
互いの立場が変わっても、それは不変だったw >>347
オリスレのレスバの副産物?で広島や阪神の観客数が出ていたが広島はこの年だけ100万人割り込みしているのな… その割にこの年の視聴率記録だした試合は巨人×広島か広島×巨人戦なんだよな
ヤクルト×巨人や中日×巨人はおろか、阪神×巨人ですらそこまで取れてない
しかも広島が2位
球場に行かないで中継にする広島ヲタが多かったのか? >球場に行かないで中継にする広島ヲタが多かった
仰る通りで(´・ω・`)
広島が民放4局体制となりカープが初優勝した1975年にカープ主催ゲームの全試合でのテレビ中継体制が事実上整い、連日広島市民球場の
カープ戦がテレビ中継される様になったのも大きい。
ちなみに1975年以前はクロスネット等に由来する編成上の都合で、プライム帯に差し込めるローカル枠が極少なかったりで、主催ゲームの
半分ほどはテレビ中継されず、既に主催ゲーム全試合中継の体制を整えていた地元ラジオ局RCCラジオに頼るしか無かったそうだが。
1980年頃から広島市民球場での観客数の伸び悩みが目立ち、当時からカープ主催のほぼ全てのゲームがテレビ中継されている弊害
との指摘もあった為、当時メジャーでは主流だった主催ゲームのテレビ中継をシャットアウトし、ビジターゲームのみテレビ中継を認める
方式への変更が球団内で検討されるも、カープ戦がドル箱となっている在広各局の猛烈な反対で頓挫したという話も聞いたっけ。 ちなみに1975年以前の在広各局の系列関係
RCC→TBS系だが、民教協繋がりで関係があったNET系も人気番組も含め一部押さえていた。
HTV→日テレ系・フジ系の完全クロスネット(当時はフジ系色が強かったとの指摘も)で、編成担当を日テレ担当とフジ担当に分け、
双方キー局の編成の情報漏れを防ぐ為、それぞれの担当を交流させないようにしていたとの話も。
HOME→先行2局から冷遇されていたNET並びに東京12が編成の軸の筈だが、RCCにNET番組の一部を押さえられたり、HTVの編成
に対する牽制か読売系やフジ産経系も株主に加わったりで、HTVの編成から外れた日テレ&フジの番組を同時ネットしていたり、TBS系
ネットから外れたABCのローカル番組の番編ネットが検討された(こちらは実現しなかった様だが)り。
と、3局とも複数の在京キー局への配慮が優先し、弱小チームに過ぎなかったカープ戦中継どころでは無かったという感じで(w)。
それが1975年のテレビ新広島の開局で系列関係がほぼスッキリした(=在京キー局との交渉の負担が大幅に軽減された)事と、
全く同時にカープが強豪チームに伸し上がった事が重なって、各局ともカープ戦中継を編成の軸に据える様になった。 >>616
江川は不振だったけど、讀賣は独走優勝だったのか 28歳のシーズンで「衰え」なんてことがあるのか
いくら本人は32歳で引退したとはいえ 球速が目に見えて下がり、成績も前2年の様な無双では無くなったからねえ。
1979 8勝10敗 2.80
1980 16勝12敗 2.48
1981 20勝6敗 2.29
1982 19勝12敗 2.36
1983 16勝9敗3s 3.27
以降防御率3点以下を記録したのは1986年のみ。 江川は技巧派になって長く投げ続けるという道はなかったのかな?
この年、33歳の西武の東尾は最多勝・防御率第一位・MVPを取っているのに フォームが縮こまった感じになってる。自分で考えたんだろうが。 >>635
年俸1億にもほど遠かったからな
テレビタレントと副業やってた方がはるかに高収入だったし
江川ブランドをこれ以上毀損するよりも引退する方がよかった 江川ってコスパを考え抜いた野球人生だったんだな
・何があっても巨人に入って、野球選手としてのブランドを作り上げる
・衰えたら早く引退してブランドを守る
・野球で築いたブランドでテレビに出てもっとお金を稼ぐ 1981年 巨人日本一も読売クラブは初優勝目前の最終節でクソ審判のせいで優勝逃しアベック日本一ならず。
1983年 読売クラブ初優勝も巨人はあとアウト2つ取れず日本一ならず。
野球とサッカーアベック日本一は1994年のみ。 >>637
逆に近年は年俸が上がった代わりに引退後の食い扶持が激細リしたから
かなりボロボロになるまで現役にしがみつく選手が増えた >>641
松井稼頭夫、鳥谷、福留、村田あたりは昔ならもっと早く引退していただろうな この年の見立ては巨人阪神中日広島で伯仲かと言われていたが… 「50番トリオ」
若い選手の活躍はチーム全体に活気を与える。それが強いチームとなれば、歯車はさらに回り勢いに拍車が掛かる。
83年の巨人は4月に13勝4敗、5月に17勝4敗1分けと序盤から独走、6月も3連勝で始まっていて6月3日の時点で33勝8敗1分けで2位・広島に
9ゲーム差をつけていた頃もあった。好成績の要因となったのが「50番トリオ」の躍進だったが、3人の活躍は主力選手を大いに刺激した。
開幕2戦目から早くも出現したのが、背番号50の駒田徳広だった。史上初となるプロ初打席満塁本塁打を放ったのはあまりに有名だが、駒田自身
「運が良かった」と思える事象が重なった。一つは正一塁手の中畑清が試合前練習で石渡茂の打球を右手首に受けて骨折した事、もう一つが相手
球団である大洋の先発予想が前年イースタンで打った7本塁打中3本を打っていた右田一彦だった事から、助監督・王貞治が12年目の山本功児を
差し置いて監督・藤田元司に駒田スタメン起用を進言してくれた事だった。第2打席にも久保文雄から2点適時打を放ち、猛打賞に6打点と実に
派手なデビュー線だった。満塁での強さはプロ初打席にとどまらず、4月末の大洋戦でも逆転となる決勝の走者一掃二塁打、中畑が復帰していた
ため右翼手で出場していた5月6日の中日戦でも小松辰雄から同点の走者一掃三塁打といったように、売り出した時から“満塁男”だった。この年は
86試合で52安打ながら、打点47の勝負強さを見せた。
駒田の満塁弾でデビューから6日後の開幕7戦目に、谷間の先発で登板したのが2年目・19歳の槙原寛己だった。槙原のデビューも派手で、阪神
打線を「打たれて当たり前」と思いながら延長10回で被安打5奪三振9の完封で抑えた。初回いきなりキム・アレンと北村照文の一、二番に連続
死球でスタート、それでも開き直って三番・佐野仙好を三直、四番・掛布雅之から三振を奪って波に乗った。2戦目の登板となったヤクルト戦でも
1失点完投、その次の大洋戦でも味方打線の逆転もあって3失点ながら3試合連続完投勝利を挙げた。5月14日の中日戦での2安打完封で開幕
からの連勝を4まで伸ばした槙原、結局最後までローテーションを守り前半と後半で6勝ずつを挙げるコンスタントな活躍で12勝9敗1Sの成績は
新人王に相応しかった。
50番トリオで一番実力が上ではないかと言われていたのが吉村禎章だった。デビューも前年に3打席のみだが一足先に済ませていた吉村は4月
15日に初安打を打ち、17日に怪我の松本匡史に代わり一番打者でプロ初先発を果たした。6月29日から3試合連続本塁打を打つなど代打や
途中出場が中心だったが84試合出場で打率.326と高く、85年以降の3年連続3割打者の片鱗を見せた。吉村は当時を「レギュラーとの力の差を
感じたしきつかったけど、若い頃だったから苦にならなかった。球場に行くのが楽しくて仕方なかった」と懐かしんだ。
吉村は通算1000安打に僅か及ばず98年に引退、駒田は横浜へのFA移籍で寿命を伸ばし2000本安打の金字塔を打ち立て00年までプレー、
槙原は3人の中で最も長い19年間の現役生活で159勝56Sの成績を残した。自身の81年の初優勝時「長島遺産」と言われた藤田監督だったが、
「50番トリオ」の83年の成長は次期監督・王貞治への“藤田遺産”の引き継ぎと声を大にして言っても良かったのではないか。 (了) 今だったら江川の成績なら2億円くらいは行ったかな?
40歳くらいまで現役を続けたかも >>648
いや、分からんぞ
35歳ぐらいでスパっと辞めそうな気がする 衣笠は初の3割を目前にしながら
120試合目大洋戦で5打数ノーヒットで.297に落とし.292でシーズン終了
もう3割無理だと思ったが >>648
単年で更改してたらこんなものかな
多分FAを見越して複数年の大型契約がどこかで結ばれるだろうから
3億はいってたんじゃない
09-10
年俸1,500万で入団
09-10 (1,500→2,500)
16-12 最多勝 奪三振 (2,500→6,000)
20-08 最多勝 防御率 奪三振 MVP (6,000→18,000)
19-12 奪三振 (18,000→24,000)
16-09 (24,000→20,000)
15-05 (20,000→20,000)
11-07 (20.000→18,000)
16-06 (18,000→25,000)
13-05 (引退) いくら直近3年間が凄かったとはいえ、16勝9敗で年俸ダウンというのも、かわいそうな気がする 6000万円になった時は巨人史上ON以来の3人目と
書かれてた 82が19-12の年で
83が16-9の年
この辺のさじ加減が難しい
82は好成績だったけどV逸
83は成績を落としたけどV奪還(ただしシリーズでは西武に敗北)
82 19-12 18,000→22,000
83 16-9 22,000→25,000
84 15-5 25,000→22,000
こんな感じでどうだろう?
まあこの辺で大型複数年が結ばれて成績と年俸がリンクしなくなるだろうが 15勝でダウン
そんなことしたら、モチベーションなんか保てなくなるだろうな 原と並んで50周年V逸の大戦犯扱い
4年連続でクリアしていた200イニングを割り込む
この辺がマイナス評価要素かな
現実は4,400→4,800の微増
理不尽なのは同じ15勝(11敗)の西本が5,000万で投手トップに
この頃の巨人は原が吉村に抜かれたり
理不尽な査定が多かったな >>655
チンケな数字しか残してない癖に大型契約結ぶ現役の奴らに爪の垢を煎じて飲ましたいな。 今はFAがあるから仕方がない
たとえチンケな成績であっても、チームに必要不可欠な選手であれば尚更 それでもメジャーと比べたらまだ期間も金額もたいしたことないんだけどな
この点に関してはソフバンがまつなかで大失敗した後遺症という面が大きいけど >>652
>>655
現代だと、ポスティングなんかもあるからね この年の今日、球界で2つの大記録が誕生
(福本豊が盗塁の世界新記録樹立&大杉勝男の両リーグでの1000本安打達成) >>68
ただ面白いことに、投手コーチには殆ど招集出来てないんだよね。
監督の在任期間で一緒に共にしたのは、河村英文の99.00年くらいだよね。だからなのか、仰木の下で育った選手は、そんなにいないイメージ。阿波野とか平井とか
育成面よりも酷使して、しばらく鳴りを潜める選手が多いイメージ。 >>93
あの当時ですら、もうすでに中堅ベテランがセンターラインだし、そう考えると、かなりの偉業なんだけど、通算成績と相まって、ザ弱小チームのエースってイメージが強いよね。 >>341
単なる一シリーズの1つくらいにしか思われて無いんじゃないかな。今でこそ、その当時の山田久志や福本、ブーマーとか、中日側も田尾や大島、小松とかで凄いメンツだってなるけど、当時の阪急や中日の立ち位置考えると、地味の中でも地味な下手すると84年以上に空気なシリーズで終わりそう。 この年の日本シリーズは最高の結末だった
悪役(讀賣)の悪あがきも含めて >>666
おまけに捕手がドカベソw
まあその捕手もベストナインなんかもらっちゃったし
ホームラン王も出たし 二遊間もそこまでトシでもない
ただカズについてはその年を除けば孝に次ぐ二番手という感じだった 落合なんか首位打者を取ってダウン提示
そりゃ荒れ狂うわけですw チーム自体が最下位だったからとはいえ、首位打者なのにダウン提示って
ムチャクチャにも程があるよね タイトル3つ→タイトル1つ
これで減俸だったら、選手も唖然だろうよ 数年後、後輩の横田がルーキーイヤーから2年連続3割の偉業達成!
なのに「同じような成績だから」現状維持
本人「仕方がない」 アホの横田か! >>26
阪神と横浜の久々の優勝だったからな
日本シリーズの結果も(●●○○●●)で共通している 西武清原の白パンツビジターユニや金本の縦縞カープユニみたいなもんか 落合選手の野武士ユニ
落合監督の山田版ドジャユニも パ・リーグ、2シーズン制廃止
駒田徳広、史上初のプロ初打席満塁本塁打
藤田平および山崎裕之、2000本安打
野村収および古賀正明、全球団から勝利
高橋三千丈、史上初の無補殺完封勝利
福本豊、ルー・ブロックの記録を破る通算939盗塁
大杉勝男、史上初の両リーグ1000本安打 全球団勝利も交流戦のせいで全然珍しくもない記録になってしまったな >>686
それは前年。
この年は10年ぶり甲子園開幕(対ヤクルト)ってことで話題にもなった。 >>687
失礼。昭和偶数年で日米野球無い年やから甲子園で開幕戦出来たんやな。4年後も同じく。 そっからは試合数が増えて大震災の開幕延期でしか甲子園で開幕してない >>689
1993年4月10日〜11日(日)中日2連戦 阪神が甲子園で開幕戦を行うこと
これ自体が最近は珍しいからね 「水先案内監督」
前年オフの伊東キャンプを経て迎えた大洋の83年シーズンは、4年ぶりのAクラスと勝率5割という結果を残した。監督の関根潤三が実施した
伊東での地獄の猛練習は若い選手を鍛え、沢村賞に輝いた遠藤一彦を筆頭に高木豊や屋鋪要、金沢次男といった選手がチームの骨幹と
なった。関根が「巨人がやったのと同じメニューだ」と言った練習を課したのも、全ては“長島大洋実現”のためだった。
大洋は土井淳監督退任の81年オフから長島茂雄の招聘に熱心で、関根就任も長島への下地作りともいわれた。79年巨人が伊東キャンプを
行った時は2年後に日本一になったが、長島は退任して浪人の身だった。関根にしたら「今度はある程度出来上がった戦力を引き受けて」との
思いだったのか。
長島は80年に巨人監督を退いてから93年に再任するまでの間、非公式も含めて7球団から監督就任のオファーを受けたが、中でもこの時の
大洋は熱心なものだった。83年も若手に「とにかく走れ」と言い続けた関根も、自身が“水先案内監督”である事を認めていたぐらいで、猛練習
の理由として高木に対して「仮に長島が来た時、そういう選手が欲しいんだ。お前をそういう選手にしておかないといけない義務がある」とまで
言ったほどだった。
まだ控えの層が薄い事や、先発投手の枚数が足りていない点はあったが、エース遠藤の一人立ちや新打線の機能で6月以降3連敗が一度
のみと安定して、最大12あった借金を完済した発展途上の大洋の存在は、長島の目に魅力的に映ったはずだった。この年のペナントレース
中にはその気になってきた長島だったが、周囲の声も手伝い日本シリーズ後に正式辞退の連絡を大洋に入れた。ともあれ終盤の8連勝、
優勝した巨人に13勝11敗2分けとリーグ唯一の勝ち越しを決めたのは見事だった。
育った若手にレオン・リーとジム・トレーシーの両外国人、長島が監督時代に欲しがっていた途中加入の若菜嘉晴という正捕手候補も揃える
チームの刷新を見るに、関根も球団もかなり「本気」になっていたが、関根は87年にもヤクルトで長島への水先案内監督を引き受けて、またも
若手を育て上げる役を演じた。 (了) >>14 >>17
ミドルネームは『スティーブ』
フルネームは『テリー・スティーブ・リー』 >>689
そして、3月中に開幕ということになったからね >>693
全米ドラフト一巡目だったんだな。
彼が乱雑に使ってた住居がゴキの巣窟となり、そこをドン・マネーに与えたことが、マネーの退団の要因だった。 テリーリーって2ヶ月ほどの出場で10HRしたんだよな
何で解雇したんだ?よほど脱臼が酷かったのか? >>696
まあ、酷かったのだろうね。
単純な成績だけみれば、クビ切るものではないからな。 >>698
でも、1984年はメキシカンリーグで110試合に出て.351、18本、92打点、OPS1.015の好成績残してるんだよなあ。 ドカベンに盗塁されるなんてはずかしい! からじゃないのか >>701
晩婚で、結婚してすぐ亡くなったんだな。 戦力的には巨人広島と差は無かったのにBクラスに低迷した前年の覇者中日
何がダメだったんだろう? >>703
打力はさほど衰えてなかったが、投手陣がいまいちだったんだろうなあ。特に都が、前年出来過ぎとはいえ、大きく成績落としてしまった。
あと延長規定が変わり、引分が激減したのもあるかもね。 >>704
延長規定が変わった事で、7回同点で牛島投入で引き分けに持ち込む戦術が使い辛くなったのが全てかと。
前年も130試合の半分以下の64勝しかしてない(しかも巨人、阪神よりも勝ち数が少なかった)チームだし、
前年4位に沈みながらも5割以上だった広島が本来の調子を取り戻せば、こんなもんでしょと。 この頃の中日は、上位→下位→上位→下位
てな感じで、順位が変動していたね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています