1983年のプロ野球
打線が毎日のように爆発
東尾、松沼兄弟、高橋直、杉本の先発五本柱が一年間欠けることなくきっちり登板(125先発/130試合)
ソレイタ、リーら左の強打者に永射を当てた後、森がきっちり締める。
判で押したような快勝続きの一年だった。
小学生だった自分は混戦のじりじりした感覚とかまったく理解できないで毎日喜んでたなあ 前半戦にドカベン香川がリーディングヒッター争いのトップに 田淵もオールスター前まで良く打ってた。
しかし近鉄戦で死球で手を骨折。
終盤に帰ってきたけど。 この年の巨人は専攻逃げ切りではなく粘りのチームだった。
九回裏の巨人の粘りは恐ろしいものがあった。 昨年の巨人もそうだったけど昨年は弱すぎたしな
でも、この年も80年代巨人では弱い方になるんだよな 巨人は最初快進撃を進んでいたが、どういうわけか6月ぐらいから
定岡が全く勝てなくなり、広島の追撃で7月には首位を明け渡してたな。
8月山本浩二、衣笠の夏バテからくる不振で落ち、巨人が首位を走った。
加藤の血行障害離脱で少し危機になったけど、広島ももう一つ追撃できなかった。 >>11合っています。1983年と86年のスレをごっちゃになっていました。 >>7
オールスター選出の先発投手前半→最終勝ち星数
松沼博9勝→12勝
松沼雅11勝→15勝
高橋直7勝→13勝
今井10勝→15勝
間柴10勝→10勝
山内和10勝→18勝
山内孝7勝→10勝
鈴木啓10勝→14勝
水谷6勝→10勝
9勝→18勝の東尾は選出されず、広岡との溝がますます深まることに 近鉄にテリーリーという名前の打者がおり、なかなかの好成績だったが、
マネーが入団するために自由契約になった。
テリーリーを採用した理由は、「テリー」と「リー」をパッチワークしたような
名前で縁起が良いかららしい。 この年の巨人は専攻逃げ切りではなく粘りのチームだった。
九回裏の巨人の粘りは恐ろしいものがあった。
つまり後楽園でジャンパイア炸裂という事、前年中日優勝で盛り下がったし
西武との日シリでやたら後楽園でサヨナラが続いたのも納得 開幕から後楽園で15連勝くらいしてた。
田舎の大学生だったが、ゴールデンウィークに全部デーゲームの6連戦があって6連勝!
阪神戦で原の逆転サヨナラ2ラン、中日戦で中畑が牛島のフォークをサヨナラアーチ、人生で一番楽しかったな(笑)
前年、巨人全体で牛島には4安打しか打てず優勝を譲ったが、やっと打ったのがこのホームラン。
満塁男駒田が小松から走者一掃の同点3塁打とかね。 >>14
リーが姓でテリーが名前
どちらで登録しても他球団の選手名と被るからやむなくフルネームを登録名にしたまでの話 >>15
自分がリアルに見始めたのは、この頃からだったんだけど
少なくとも、この頃から悪名高きジャンパイアが炸裂していたのかw >>18
ロッテも鯉のぼりの季節までは2位だったけど、
西武に3タテ食らってから坂を転げ落ちていった。 後半、遠藤が絶好調だったからな
遠藤がAクラスにさせたようなものだ この年の巨人打線
なんか萌えてしまう
1中 松本
2遊 河埜
3二 篠塚
4三 原
5右 スミス
6一 中畑
7左 淡口
8補 山倉
9投 江川 ゴールデンウイークでの巨人阪神戦
阪神先発 福間
「先発がよほどいないのですね、まだ5月で」とか解説者に酷評されていた記憶 >>15
いやーあの年の巨人は確かに粘り強かったよ。中盤へばったけど。 85年と98年のシリーズは西武にとってはかなりやり難いシリーズだった。
それは選手達も口にしている。 阪神って、85年よりこの年の方が野手の戦力層としたら厚かった
あの神様バースでさえレギュラー扱いではなかった
岡田も
真弓と掛布ぐらいか 江川の球が急に遅くなったのでちょっと寂しかった。
いわゆる「江川ボール」はこの年から見れなくなった。 前年の夏ごろから肩に異変出たらしいしな
それでもなんとなく抑えるあたりが並ではないが 前年優勝の中日が謎低迷
50番トリオでリベンジの巨人
ハムはこの年限りで大沢監督が退任したが… >>23
全然
カープの方が萌える
6高橋慶彦
9山崎
3長内
7山本浩二
5衣笠
8長嶋
4アイルランド
2達川
1川口 >>32
阪神は小林の衰えと山本和の不調。
他にもバースが骨折で出遅れたり若手左腕藤原が故障したり。 実際阪神は、この年の方が戦力に厚みはあった。
しかし厚みがあると逆に、元々個人技で野球する球団だけに。バラバラに陥る可能性はあった。
バースも、安藤は生活の面倒見は素晴らしかったが采配はダメと言ってた。
大体安藤時代に、ポジション固定してたの
掛布だけだから
あとは岡田も真弓もバースも
たらい回しだった シリーズがあのシリーズじゃなきゃ糞シーズンだったんじゃねーか?この年
13年とかと同じでシリーズが良くてオーライに 後楽園での施設応援団の内野パフォーマンスが禁止された年。
もう鳴り物応援は外野でやってくれという事になってしまった。
ああなってしまったのは思うに札幌シリーズで巨人側のベンチ上で
変な事をして捕まった奴がいた事が影響したのかなとも思う。 82年はもっぱらフロックだったという評価。
混戦だったので下馬評は低くは無かったが独走優勝は皆予想してなかった感じ。 1983年西武 86勝40敗4分 .683(1位)
捕 大石.......210...04...019
一 片平.......278...19...055
二 山崎.......287...18....082
三 スティーブ.321...17....085
遊 石毛.......303...16....064
外 大田.......297....20....067
外 立花 ......309...08....042
外 テリー.....278...38....109
DH 田淵.........293...30....071
控 伊東........194...00.....006
控 金森.........293..03.....022
控 西岡.........218..06.....027
先 東尾..... 18勝9敗2S防2.92
先 高橋直 13勝3敗0S防3.03
先 松沼兄 12勝6敗0S防3.82
先 松沼弟 15勝8敗0S防3.25
先 杉本 12勝6敗0S防3.43
中 柴田...... 01勝01敗00S防3.38
中 木村 02勝00敗01S防4.85
中 永射 02勝01敗00S防2.41
中 工藤 02勝00敗00S防3.24
抑 森繁 05勝05敗34S防1.48 テリーが4月までに50打点稼いでいたのが物凄かった印象。 >>41
00年ダイエーや07年日ハムみたいに
フロックと言われながらも評価は低くは無く
気が付いたら連覇してたって感じ? >>42
しかし渋っぶいメンツやなぁ
この時期も西武黄金期の括りになるんだよなぁ(1982〜1994)
後期AKDよりこっちの方が強いとか言っちゃうだけで
通っぽく聞こえるんだよなぁw 82年 83年 85年と日本シリーズはすべて 初戦先発松沼兄 東尾リリーフ >>44
広岡采配は今年も持つかみたいな意見は多かった。
一年目は纏まるからねどこのチームも。
恐らく二年目一気に不満爆発みたいな事になるだろうと思われていたが
二年目もチームは纏まっていた。打倒巨人の目標があったからだ。
その悲劇は巨人を倒した後の3年目に見事来た感じだったね。 田淵や東尾も、ブツブツ文句言ってたけど。自分たちが監督やコーチになったとき、やってたのはこの頃の西武なんだよね。 田淵が毎試合のようにHR打っていたなあ、6月頃。
王の記録を超えてしまうんではないかと本気で心配した。 >>48
田淵はミーティング漬け、門限厳格化、宿舎でのアダルトビデオ禁止
管理野球の形式だけ真似して肝心の野球は笛吹けど踊らず。
東尾にいたっては放任主義、選手との対話重視、挙句は選手と成績を巡って
報奨金を賭ける。広岡を反面教師としか見てなかったよ。 田淵ダイエーの時はロッカーでの将棋が黙認
工藤秋山が入ってきてなんだこの雰囲気はと愕然
西武では考えられなかったらしい
ちなみに、今の西武はロッカーでのゲームが黙認されてるらしいが >>50
田淵が大コケしたの考えると東尾は監督のセンスはあったと思う て
Think different? by 2ch.net/bbspink.com なんとセパの強打者が原とドカベンになりかけるとこだった >>47
山崎がナンバーで相手が巨人じゃなかったから
日本一になってもあまりうれしくなかったって言ってたけど
これって中日サイドからしたら随分とふざけた話だよな 西武百貨店→おいしい生活
ライオンズ→おいしいシーズン >>55
山崎はロッテ時代にも中日を日シリで破っているからな。まあ仕方ない。 やはり巨人を倒してこそ日本一と、よく言っていたな。金田がやたらと巨人びいき解説していたな。 >>57
山崎にとって13年越しの打倒巨人を果たしたのだから、
83年はより格別なシーズンだったのだろう。 和田豊は勘違いしてるけど。強いチームは、細かい野球より豪快野球のチームの方が多いことだ。
西武も、よく細かい野球と言われたが
ホームランもトップクラス。
やっぱりホームラン打たないと点は入らない。 豪快野球の近鉄が西武に勝てなかったのは細かさが欠如してたから 大洋が5割ジャストで3割。ちなみに高木豊が、現役14年でチームが唯一負け越さ無かったシーズン。 >>60
例外は1951年から三連覇した南海くらいのモンかね。古すぎるが 近鉄が西武に競り負けたのは投手力、守備力もあるが、攻撃面の粗さ、淡白さもある。豪快な半面、次の1点を取るのが下手。無死二、三塁で、外野フライで1点止まりの近鉄に対し、西武は確実に2点を奪い、さらに1〜2点を奪う。 まだこの頃の西武って、西鉄の名残があった。野武士野球的な。
清原入って、87年辺りから、ざ西武ライオンズに変わった。 一方の近鉄は首脳陣が仰木・中西・滝内と西鉄化していくのであった。 西武ファンだったオレの印象だと西武打線も相当荒く浮き沈みあったけど
中心からして秋山清原デストラーデで波ありすぎだし 故障した田淵は300打数で30本塁打。本塁打王の門田が396打数で40本塁打。門田が棚ぼたのように言われたが、本塁打率では僅かに上回っていた。 視聴率が最高だった年。
夏の甲子園も最高に熱かった。
G&原の不振とサッカー人気爆発により、翌年からは野球の時代は斜陽へ。 日本海中部地震の年
それでもその日の広島×巨人は普通に挙行される大らか?な時代
秋田放送ラジオはニッポン放送からのネットを切り災害特番を組んだが
秋田市の本金デパートは崩壊して駅前に移転、本金西武と名乗る
西武黄金期は優勝セールでもうけたものの… ロッテが地味に目立った
5月上旬までまさかの首位争い
シャーリーが抑えで加わり中居が苦節の初勝利
南海に22点取られて負け&日ハムに9回大逆転サヨナラ勝ち
最後は独走で球団史上初の最下位
落合が滑り込みの首位打者 83年の巨人は地元後楽園を始め神宮、横浜、九州シリーズでの
平和台と言った人工芝の球場で開幕から2ヶ月間負け知らずだった。
それがストップしたのは6月4日(土)後楽園での広島戦。
この試合巨人の先発は確か定岡正二だったと思う。
ちなみにこの日はTBSの「8時だョ!全員集合」で志村けんが
コントで旅館の便所の下敷きになって大騷ぎになった日だったらしい。 ドカベン香川のベストナインに選ばれながら、ゴールデングラブ賞0票は笑える。ただ、何となく香川にゴールデングラブ賞も投票した記者がいなかったことは、ある意味で素晴らしい。 >>75
確かLFのショーアップナイターのOPで山田落合という秋田ゆかりの選手からのコメントが流された記憶が 災害といえば島根県で豪雨があって
出身の梨田がオールスターMVPの賞金とか
を寄付したこともあった 神宮のオールスター第1戦で、門田が松岡から打った本塁打は凄かった。 山本浩二が前半終了時点で三冠だったがあまり話題にならなかったね 山本浩二は前半だけで27本くらい打ってたよな。
この年はやたら雨中止が多かった気がする。 >>78
最近は、ゴールデングラブ賞そのものが
「ベストナインのおまけ」扱いされているからな…。 「采配力と運用力」
総体的に見れば、ほぼ独走レースだった。2年ぶりの巨人優勝、首位を明け渡したのは球宴を挟んだ夏場の23日間だけという戦いぶりだった。
いきなり開幕5連勝、藤田元司監督が当時エースだった57年以来26年ぶりの事だったが、その後も連敗なく4連勝と11連勝をして22勝4敗の
ハイペース。これは「50番トリオ」の活躍や原辰徳、中畑清のサヨナラ本塁打といった劇的試合の連続、角三男の12連続SPなどといった面が
原動力だった。6月に入ってもチームは未だ8敗と一桁の敗戦数、3日には貯金を最大の25として2位・広島に9ゲーム差の一人旅で最下位・大洋
とは早くも18.5ゲームの大差がついた。
苦境続きで広島に追い上げられるのは、その後すぐの事だった。要因は故障者続出による戦力ダウン。開幕2ヶ月で7勝(1敗)の定岡正二は登板
過多がたたって腰痛をきっかけに、6月から9連続先発登板白星無しとKO続きで4連敗して二軍落ち。エース江川卓も肩痛を抱えながらの投球で、
前半は8勝6敗の平凡な成績。6月に100勝を達成したベテラン加藤初は、翌月右腕の血行障害で離脱と先発陣のやり繰りに苦心した。さらに7月は
抑えの角までがヒジ痛で不調に陥った時期でもあった。野手でも中畑が右手首の痛み、篠塚利夫が腰痛を押して出場するなど満身創痍の状態
だった。再浮上のきっかけは球宴明けすぐに行われた敵地広島での3連戦。結果は1勝1敗1分けだったが、カンフル剤として抑えに回した江川が
復調したのが大きく、後半の江川は8勝3敗。同じ後半戦で5勝6敗と不振の西本聖をカバーしてエースの意地を見せた。その後は、リーグ新の
76盗塁を記録した松本匡史、勝利打点20の新記録を樹立して打点王とMVPを獲得した原、三番に定着し13年目で初の3割を打った淡口憲治ら
が打線を引っ張り再び独走すると、10月11日に優勝決定。この時広島に8.5差と前半同様の大差がついていた。
接戦にも相変わらず強く、1点差試合22勝15敗と藤田政権になって3年連続勝ち越しだったが、勝率は日本一だった81年や前年を上回った。
選手は藤田時代の3年間で投打共に自信と力を付けていたのだ。藤田時代の巨人については「長島遺産の開花」がよく言われた時期だが、その遺産を
運用する力と20世紀末まで活躍し続けることになる50番トリオという“藤田遺産”、そして接戦での采配力を考えれば藤田の手腕はもっと正当な
評価をされても良かった。 (了) 江川16勝9敗 217回 防3,27 掛布293 33本 93打点
これで二人とも年俸据え置きて今となっては可哀そすぎだよ その分オフでしっかり稼せいでいたと思うけど この頃キャプテン翼の放送が始まってサッカー少年が一気に増えたんだよね
日本が野球一色だった最後の年だな
この年の日本シリーズは野球人気のピークを象徴するかのような素晴らしいシリーズだった 小学生が当たり前のようにクラスで野球の話をしていた時代 ブーマー1年目か
当時は野球選手が出ているCMも多かったな 今年の日本シリーズの10倍くらいのコッテリ感があったな。デーゲームだったから夜が長く感じた。
第5戦は文化の日だったが、めったな事で完売しない後楽園の自由席が即日完売で仕方なく今のドームのところにあった
喫茶店でパスタを食べながら3時間以上テレビを見させてもらった。クルーズのサヨナラ3ランの後、コーヒーもう一杯注文
した(笑) 80年代前半までは子供の数も多かったし子供の遊びといったら野球で
1つの学校に2チームとか当たり前だった。
現在は2つの学校で合同でチームを作ってもなかなか人数揃わないのに。
近年中学生まで野球のルールを知らなかったという新人選手がちょくちょくいるのを見ると
時代なんだなと感じる 南海の山内和宏が最多勝を獲ったが、あのザル守備陣を考えると凄いな。 ていうか当時のパに鉄壁の守備を誇っていたチームがあったか? 当時は野球選手が出ているCM多かったよな
今だとサッカーやフィギュア、テニスの錦織が出ているCMはよく見るけど
野球選手が出ているCMってほとんどなくね? 定岡が突然勝てなくなったのは何故ですか。
定岡がKOされた後、定岡の出演しているお菓子のCMが
放送される事が多くて、巨人ファンが苦笑いしていた。
CMの定岡の笑顔は良かっただけに皮肉な巡り合わせでした。 83年の腰痛が原因じゃなかった?
開幕7連勝だかして、今年は20勝てるんじゃないかとか言われた矢先に この年はなぜシリーズの開催が11月までずれ込んだんだ?
パのPOも廃止になったし、試合数も少なかったのになぜか遅い。
結果としては文化の日が食い込み興行としても中継としても大成功になるが
…なのにまた10月に戻っている
試合勘が鈍るとか読売が文句つけたか? 今の開催が遅い理由が同じで、CSの都合。
この年から最終ゲーム差次第ではパでCSを行うルールがあり、例年の開催時期をCSの予定にいれてしまったため開催がどうしても遅れることに
んなわけで85年まで開催は11月
結局ルール時期は西武、阪急が独走して開催はなかったが、もしこの年に西武が風物詩を起こしていたらシリーズは果たして盛り上がっただろうか? >>86
江川と掛布には、皆が期待するレベルがそれだけ高かった
最近はそう言う選手少ないよね 今年とカレンダーが同じだね。この年は11月3日に後楽園の第5戦で完売で入れんかった。
今年はその前に終わっちゃうんで、なんかもったいない。 >>105
小倉の巨人×広島、札幌の巨人×中日が中止になって、
優勝決定後の10月12、13日に観客席ガラガラの後楽園で代替。
7、9月の横浜での大洋×広島が2試合雨天ノーゲーム。 >>99
(当時の)浅野ゆう子と付き合ってりゃそりゃ腰を痛めるわなw この年は10月24日のヤクルト×阪神、広島×中日戦でシーズン終了。
広×中は山本浩と大島が敬遠攻めされ、揃ってHRキングに。 >>108
そうだったね、小倉・札幌に加えて富山の大洋戦も中止。富山では室内練習場が無くて、球場の隣の富山商業の体育館で
練習してから金沢へ。授業中の生徒がびっくりしてたとか。この時、広島に行った富山商OB浅井樹はまだ小6。
去年は金沢が午前中雨で、巨人ヤクルト共に星稜高校の室内で練習。こっちは体育館とかってレベルでは無い。
地方3試合も中止だったから、浜松で1試合って事になったんだろうな。
ちなみにV決定の10月11日はその2日前の中止の振替で、これが巨人の優勝試合か、ってくらいガラガラだった。 >>109
それ、本当の話か?
なら、同情はしないw >>112
本当も何も、だから定岡の弟は浅野ゆう子に使ってもらっていたんだし >>107
その頃より試合数も増え、開幕時期も前倒しされているからね。 >>110
もしバースが最終戦で36、37号を打ってたら間抜けな敬遠合戦になる所だったな 神宮でその最終戦見に行ったけど、
バースがフェンス直撃のシングルヒット打ったの覚えてる。
俺的には小林が引退するって噂だったので投げると思って行ったんだけど… >>120
途中で間違えて書き込むを押した。
山本浩二は10月10日に36号を打つが、残り11試合0本。大島は残り7試合で本放ち追い付いた。バースは残り10試合で7本と、猛スパートを見せたが、1本届かず終了。 広島
酷暑の8月2〜5日
大分→小倉→広島→ナゴヤと連日移動
ベテラン陣がこれでスタミナ消耗で撃沈 一旦は5.5ゲーム差を逆転して広島がマイナス0.5ゲーム差の首位に立ったけど
「僕たちの夏バテでずるずると後退した(衣笠祥雄「限りなき挑戦」より)」 バースはオープン戦で骨折した。でも意外に早く復帰して35HRだったと思う。 山本浩二の阪神戦サイクルヒットの映像がユーチューブで見れない。 掛布が江川を打ち込んだ年で通算3本 10打点
2ランと満塁の1試合6打点の試合があった 山本浩二サイクルヒット達成の三塁打は
余裕でアウトのタイミングでベース上でボール持って待ってた掛布が
空気読んでわざとタッチを遅らせたもんな。
で、セーフの判定後に安藤監督共々茶番抗議(笑)
ワンサイドゲームの終盤だから許されたが、接戦なら八百長疑惑持たれただろ 1983はもう阪神は現代の縦縞ユニだったのかな
もうバースも入って打っていたようだし
阪神のあの水色のユニだけはあり得ないな
70年代の空気を引きずっていて暗い時代
オイルショック、米不足、安保闘争など
灰色のイメージのある寂しい暗い時代
85年のトップバッター真弓から始まる鮮烈な縦縞ユニで
日本の新時代も夜明けとなった
相撲も憎い、憎いと言われた北の湖から
正統派ヒーロー千代の富士が出て来た。 >>129
野球人気のピークって1983年だよな
と間違えた >>129
ホーム用は縦縞帽とセットで前年の82年にリニューアルしたが、
ビジターは変わらず79年モデルの青ユニを継続。
翌84年からビジターも黒帽にグレー地に縦縞のユニに変更。 グレー縦縞に替わった時は曇天に雨って揶揄されてたのにな。
85年ですっかりイメージが変わった。 それまでグレーって近鉄だけだったのが
阪神以降、ビジターユニを水色からグレーにするチームが増えたな ロッテ、5月上旬までの謎の快進撃も
結果は断突の最下位
しかし山本一義は何をしに川崎まで行ったのか不明だ 広島はこの年から9年連続Aクラス 優勝3回 90年以外は優勝争いと
最も安定していた時期と言えるが観客に飽きられつつあったのが痛かった >>135
勝ちすぎて優勝の喜びの味わいが薄くなっちゃったんだろうか? 独走した西武に対し、南海は11勝13敗2分と大善戦。打倒西武に力を使い過ぎではあったが、その姿勢は評価された。今のソフトバンクに対し、このような戦いをする球団はいないだろうな。 独走を止めるより確実に勝てる相手に全力尽くしてAクラスだもんな >>138
よく犬作戦肯定派は噛みつき作戦は上位に無駄なパワー使いすぎて下位に勝てずめちゃくちゃになると言うけど、これで成功したチームがあるわけでもないし、噛みつき作戦でボロボロになったチームもそんなにあるかと >>137
何しろホークスは南海時代からポストシーズンの弱さには定評があるからな。 >>140
その最たるものが2004年〜2010年にかけてだろうなw いわゆる鶴岡黄金期でも日本シリーズ制覇できたのが
杉浦四連投の年と第一回東京五輪(予定)の年だけか >>134
古葉長期監督でなければ広島監督の話もあったんだろうけど >>143
やらなくてよかった
打撃コーチとしての手腕は認めるが監督としては… 巨人角が自己最高成績の年だと思うけど山本浩二や衣笠を抑えた記憶がないんだよな 確かに、エース抜きで勝てと言われても
厳しいものもあるよね。 広島はライトルを切って結果長内,山崎,長嶋がブレークしたが
ライトルが残留していたらもう少し優勝争いが面白くなっていただろうか 加藤英が広島にトレードできたのがこの年のはず
でライトルの穴埋めに期待されたが外れ
で、後半から長内が抜擢されプチブレイク
優勝はできなかったが前年度Bクラスから巻き返し、翌年の優勝の礎にはなった
山崎の外野手コンバートはこの年か?
最初はセカンドだったはず
外野手コンバートで鉄壁の外野手ができた 日テレのクソみたいな資料読みってこの年あたりから始まったような
「原は言います、4番としてのうんぬんかんぬん…おっと打ち上げた!」とかを小川とかが言ってた
んなポエムで原が打点王なったし数字も高かったから味をしめた わかりやすい情報と感動の共有のため資料をフル稼働た新しい実況!とか売り込んでいたような 巨人のこの年のシーズン最終戦、巨人の最終回の攻撃に堀内恒夫が現役最終打席で豪快なホームランをスタンドに叩き込んだ
この人、野手でもかなりの結果を残せたんじゃないかな? ノーノーついでに1試合3発とか
紅白戦にファンサービスで登板した王から特大アーチを放って
王の花道をズタズタにしたとか ブーマーが西宮で場外ホームランを打ったら
配られる予定だった幻のブーマーパン 演出くさくなりだしたのは、確かにこの年辺りからだとは思う
解説者もタレント揃いだったし
青田昇、金田正一、村山実etc とくに日テレの実況はひどいよね
あれじゃみんなみなくなるわ
うざいもん 実況が大げさになってきたのは、当時の新日ブーム立役者・古舘伊知郎カゲキ実況の影響 >>163
古舘のせいでそういうアナウンサーが増えた
ヘンなあだ名つけたり、プロレス以外F1や世界陸上でも実況してたが 小川さんは、優勝を覇権と言ったりレフトスタンドを左翼にアーチをとか
割と難しい言葉を羅列する人だった
古舘伊知郎に影響与えたのが日テレ吉田慎一郎
この人が絶叫の走り
ただこの人は絶叫だけどポエムはなかった
ポエムを本格化したのが船越
当時、視聴率30超えたお化け番組だっただけに、周囲も期待してたんだろうな 原が打席に立つたびに実況がうざかった記憶があるわ
打点王のこの年が走りじゃなかったか
ポエム読売も原が最初だよな
4番としての役割がどうのとかくどくどと言ってんのな >>62
参照 日本プロ野球記録
↓
http://2689web.com/1983.html
この年はヤクルトから貯金7を稼いだのが奏効した
もっとも10年後にそのチームの久々の日本一になって
高木が前年の調停問題で解雇された訳でw 11月1日火曜日、快晴の後楽園で初の日本シリーズ観戦。当時は13時開始だったが、後楽園は自由席の行列が
外堀通りや白山通りに長くできるので8時半くらいに開門していた。
試合は巨人が9回裏2死から篠塚・原・スミスの3連打で同点、西武は東尾から森に代えて中畑がサヨナラ打。
森って中日の監督の森繁和、いまのヤクザ面からは想像もつかないほど頼りなかった。
その後、新宿伊勢丹?で文化放送の野沢那智の公開放送に行った。今年なんかナイター終わって帰るのに皆さん
苦労してたみたいだけど、デーゲームでそういう時間が取れたのも有難かったね。那智さん、パックインミュージック
の頃から聴いてたけど、2010年の中日−ロッテの初戦の日に訃報を知ってとっても悲しかった。 「三年計画の2年目」
80年代におけるセ・リーグの順位の変遷は、毎年のように上位争いをしてきた巨人と広島、そしてAクラスは共に1度ずつで下位に低迷し続けた
横浜大洋とヤクルトといったように、ある程度はっきり分かれていた。当時優勝争いとは無縁だった大洋の80年代唯一のAクラス入りが、83年
だった。
球宴明けの7月以降を4ヶ月連続で負け越し、17勝30敗と失速した前年の後半戦を引きずるような83年のスタートだった。4月は15戦で3勝しか
出来ず、5月も浮き沈みが激しく借金2ケタを数えたチームは中日と5位争いをしていた。この間、横浜スタジアムで10連敗を喫するなど5月末まで
地元で2勝11敗1分けと弱かった。個々を見ても初の開幕投手に指名した遠藤一彦が6月3日まで1勝5敗、打線の援護も毎回2点以下だった。
開幕ローテーションに組み込んだ期待の2年目・右田一彦は広島戦以外では滅多打ちに遭い3連敗、防御率9.45で中継ぎに降格した。
打線でも切り込み隊長に指名した移籍の加藤博一が不振で日替わり一・二番コンビを余儀なくされて攻撃のバランスを欠いていた。
調子を取り戻したのは6月に初の月間勝ち越しを決めてからの事。ここで中日、阪神をかわし4位に浮上すると、7月には遠藤にようやくエンジンが
かかり首位と12差ながら3位で折り返した。それ以降は4連敗が一度もなく、9月下旬からの8連勝も効いて4年ぶりのAクラスと5割を勝ち取った。
原動力となった遠藤は8月からの12連勝を含む18勝を挙げて最多勝、ベテラン平松政次は8勝のうち巨人戦4勝1敗と巨人キラー健在を示して
巨人の全球団勝ち越しを阻止した。打ではロッテから移ったレオン・リーが30本塁打で98打点、ジム・トレーシーも3割をクリアするなど助っ人
コンビが打線に厚みを加えた。
指揮官の関根潤三にとっても監督生活唯一のAクラスと5割、83年を「3年計画の2年目、成功と言えるでしょう」と振り返った。練習をあまりしない
チームに活を入れるため前年秋に行った伊東キャンプでは、長島茂雄が79年秋に行ったものと同じ練習量を関根は選手に課していた。その猛練習
から遠藤や高木豊、屋鋪要がレギュラーを掴んで、シーズン成績からも計画実現への手応えがあったのか関根は「長島が来た時のために選手を
準備した」と認めた。「三年計画」というのはもはや“85年長島大洋”のためといった感じだった。 (了) >>167
古舘に影響を与えたのってQRの戸谷さんだろ >>133
60年代は逆に、グレーのビジターユニの
チームばっかりだったのだよ。
70年代前半辺りから青系が増えた。 >>174
>>133だけど無知でスマン
阪神も昔はグレーの「OSAKA」ユニだったのか どういうことだ?
3勝2敗で王手をかけた状態から連敗→日本一を逃すのは
他の年でもあったことだし…。 西本をリリーフさせたのが球団史上最大の汚点だな。
「日本シリーズの決定的瞬間」っていう文庫本に書いてあったが、
藤田は江川を投入しようとしたところ、王が「西本でいきましょう」と助言。
日頃から江川を「嫌な奴」と罵り、胴上げ投手にはしたくないという邪心が生んだ愚行。
翌年以降の王政権の迷走を見事に予告した第6戦だった。 でも江川ってそれまで2試合とも打ち込まれてたんだし
単に西本の方が信頼できると思ったからじゃないの? 本来ならこの当時の巨人の抑えは角だけど、肘を痛めてて日シリには登板不可能に近い状態だった。
西本は81年日シリでの活躍もあって首脳陣の信頼度も高かった。結果論だけど
鹿取とかをうまく使い分けてたら・・・ この年の日本シリーズ
リアルタイムで見たかったなぁ 前にもこの板の「巨人優勝あれこれ」スレでも書いたが
この頃(1983年)フジテレビの日曜18時からスポーツ天国ってな
スポーツ番組があってその中で「大山家の御父さん」こと
大野しげひさが担当していた「やじうまデータランド」で
巨人と西武が日シリで対戦したらどっちが勝つ?と言うのを
やっていて色々なデータを基に西武が勝つ!と言っていた。
これを見て暫く大野しげひさを目の敵にしていた当時小5のアホな俺。
結局この年は西武が2勝3敗から連勝して日本一になってこの番組の
スタッフもホッとしていたんじゃ無かろうか? この時代のセリーグの投手はバッティングがうまい選手が多かった 特に巨人の投手
その中でも江川はこの年は本塁打3本打って打率は2割8分6厘と下手な野手よりよっぽど打っていた
同投手は前年も3本塁打を記録している テリーリー 背番号77
一か月くらいは活躍してインパクトあった 「名調教師と荒馬」
球団史上最高勝率を29年ぶりに塗り替える圧倒的な強さだった。連覇を目指して臨んだ83年西武のシーズンは、二期制が終わりこの年から始まる
はずだった変則プレーオフも実施させないほどの強さだった。円熟期に入っていた選手がスタートから実力を発揮、初勝利こそ開幕4戦目だったが、
4月は4連勝2回を含む10勝5敗1分け。同じく開幕ダッシュに成功したロッテと5月上旬までは首位を奪い合ったが、5月7日に首位に立ってからは、
最後まで先頭を走ってゴールテープを切った。唯一の首位攻防といえる5月17日からの鹿児島での対ロッテ3連戦も、初戦は石毛宏典の走者一掃
と大田卓司の1号、2戦目はテリー・ウィットフィールドと片平晋作の一発で相手先発・中居謹蔵をKO、3戦目はエース・東尾修の好投に立花義家が
逆転2ランで応えて大田も2発4打点の快勝、3連勝で7ゲーム差と突き放す独走の始まりとなった。
6月を終わってもわずか18敗、早くも貯金を25として2位・日本ハムとの差も12ゲームがついていた。毎月勝ち越し、全球団相手に勝ち越しの圧勝
レースを演じた西武の打線を牽引したのが田淵幸一だった。7月13日の骨折離脱まで70試合で29本塁打、田淵が本塁打を打てば22勝2敗1分の
「田淵神話」まで生まれた。田淵不在の後半戦もテリーとスティーブ・オンティベロスの両外国人に山崎裕之、大田、石毛らが打って穴は埋まった。
9月1日のマジック25点灯後も、20試合で優勝決定というハイペースだった。投手陣は安定感抜群で東尾、高橋直樹、松沼兄弟、杉本正の5人で
先発ローテーションを回し、五本柱の先発登板は130試合中125試合にも上った。5人は86勝のうち70勝を稼ぎ出すなど、全員が二桁勝利を
挙げた。
投手編成の妙と強力打線構築で連覇に導いた広岡達朗監督だったが、前年同様その手綱を緩める事はなかった。田淵、高橋、大田らへの厳しい
注文は勿論、夏場に軽度の脇腹痛を起こした松沼博への二軍通告、三回KOの大黒柱・東尾に二軍降格を匂わせた事もあった。極めつけは
マジック点灯の2日後、投げた6投手全員が失点して大敗した試合後に出した西宮での外出禁止令。荒馬ともいえる選手を相手に緊張感を保たせ
ながら、毒舌を交えた正論で押し通す調教師・広岡の頭の中には「妥協」の二文字は微塵も無かった。 (了) 伊勢「広岡さんのやり方はどこも同じ。軍隊式の管理野球そのもの。真逆が三原さん。見事なまでの放任野球だった」 5ゲームプレーオフ込みのマジック
オールスター前の阪急戦で40いくつかで点灯したと思ってたら一度消えてんだな
9/1の2位・日ハム戦を前に11.5差
直接対決7試合、プレーオフ5試合で理屈上ハムに自力の目が残ってたとw ミニプレーオフも1回ぐらい見たかったなあ
廃止翌年から混戦とか嫌がらせかw 前後期制導入(1973年)
DH制の導入(1975年)
んで前後期制廃止のこの年はミニプレーオフなんて制度があったのか
変則的なルールで新たにこれまでのシーズンとの差別化を図っているように見える
少しでも野球ファンに注目されるために新しい制度をどんどん取り入れるパリーグの体質はこの時代から既にあったんだな これはもう一切肯定的に評価しないほうがいいよ
決定時点でマスコミファンに苦し紛れもここまで来ると見苦しいとボッコボコに叩かれた愚策
適用3シーズンとも独走優勝でさらに叩かれる
廃止になってそれ見たことかと笑われ、翌年の西近混戦で129試合目で優勝決定するも
「昨年までもプレーオフがあれば」という声はほとんど上がらなかった >>175
ひよっこ晋三稀勢の里なはずが
ひよっこ 数字とれない
晋三 加計砲
稀勢の里 怪我
どうしてこうなった 巨人がアウトを取る度に
ドドドン、ドドドン「ア〜ウ〜ト〜」
ドドドン、ドドドン「ア〜ウ〜ト〜」
ってやってたのは83年だけか 今のCSよりは合理的かと思う。
理想はCSもプレーオフもない単純な1シーズン制だけど。 >>199
稀勢の里とひよっこには頑張ってほしいよね。
あとはどうでもいいがw この年(1983年)の5月5日の後楽園球場の巨人対阪神で
阪神に1点リードされていた巨人は9回裏2死から原の2ランで
逆転サヨナラ勝ちした。当時小5だった俺はTVで見ていたが
スタンドにギリギリ入る打球だったな。ちなみにこの日は
ロッテの落合も逆転サヨナラ2ランを打っていたりする。
こっちの方の相手は忘れたw >>203
2アウト1塁の場面で相手投手は山本和行だったね。
打った瞬間、平凡な外野フライで試合終了かと思ったw
巨人が阪神を3タテ。翌日阪神ファンのクラスメートが「もう知らない」ボヤいて落ち込んでたな 少なくともパリーグは。
セリーグは前半の巨人独走が6月に失速し、広島が浮上。
オールスター前は広島が首位で折り返し、8月以降は2球団によるマッチレース。
9月に入り広島が急失速し10月1日からの最後の直接対決3連戦前に息切れ。 この年が視聴率ピークやったんやな。
人気最高の巨人が負けて西武に覇権が移った。
巨人に黄金期が来なかったんで徐々に離れていったんやろうな。 翌年から王が監督となり3年連続V逸。
85年の阪神フィーバー、西武黄金時代到来で巨人人気に陰りが。 野球年スレ見ればなぜこのあたりで一旦人気が落ちたかが書いてある >>180
事実かどうかもわからんし、事実だとしても西本に替える決断をしたのは藤田
坊主にくけりゃ袈裟まで憎いアンチ王か知らんが酷い言いがかりだな
そもそもこの時点までいかに江川が打たれて西本が抑えてたか把握してんのかよ? 広岡が何度も口にしていたが、
先発した1、4戦でKOしたが、江川はリリーフだと異常な力を発揮するから
もしリリーフで来られたら負けだと諦めていたら西本が来た。
そこへコーチの森が、前々日に130球を投げてヘバリ切った西本なら攻略できると。
ベンチも石毛が「逆転しようぜ」と音頭を取って意気揚々となった。 >>212
江川本人はリリーフを非常に嫌がっていた
現実に、長嶋が監督の時に何度かクローザーテストしてるが結果が良くなく、先発に固定したら2年連続で最多勝
よって広岡の江川評はサンプル不足の上に良くない結果をごまかしてのもので、的外れ
西本が快復不足というなら、江川だって西本の前日に100球以上投げて、バッティングで足を痛めて治療まで受けてる
現に同日に西本の次に登板して金森にサヨナラ打を許して負け投手
最初から江川出してれば逃げ切れた説は全く共感できない
で、本当に王が藤田に諫言して西本になったの?
ソースは?
仮に実話としても最終的に諫言を受けいれて西本を投入したのは藤田なんだし、責任は藤田が負うべき問題だろ ちなみに江川は、第一戦で自身はKO負け、第二戦でのライバル西本完封が堪えた?のか
休養にあたる翌日になんとブルペンで200球近く投げこんでスポーツ紙の1面にされてる
堀内がバカにするようなコメント出してたね
江川本人は必死だったんだろうが >>213
西本のリリーフ登板の件は日本シリーズの決定的瞬間って文庫本に詳しく書かれてる。
あの場面はテリーと山崎を角でいって、ラストを江川で抑える、
または角に任すってプランはなかったのか?
故障上がりでも角の変則モーションには戸惑ったはず。 文庫本wwwwwwwwwwwwwww
どうせ宝島あたりのムック崩れだろ、と思ったら松下茂典の新書か
結構嘘混ぜて、裏も取らない人だよこの人
角投入ないよ
少しでも戦力化したかったら1,4戦のビハインド展開のどこかで登板させてる
一発があって左も苦にしないテリーにいきなりぶち当てるとかいう発想がおかしいし
なんで山崎まで角で行って、江川に代えなきゃいけないんだ
左右の対応もおかしい 第1戦の0-6で迎えた5回裏
第4戦の4-6で迎えた9回表
山崎に定岡がダメ押しホームランを打たれて4-7とリードが広がった後
ここらへんで角を試してみる余裕すらなくて、いずれも定岡で行った(続投させた)
ってことはもう定岡>角って位置づけにしかならなかったのだろう ノンフィクションといえど、こういう証言の類は
AとBでいってることが違う(片方の言い分だけ採用)
あとから事実に合わせて証言者の記憶がうまいこと修正されている
いろいろ作ってる「読物」の要素が多分にあると思ってて
むしろ当時の新聞なりの談話を一次資料として引いてくれる方がまだ正確かもしれない
それを、読んでる人が「はあそうなんだ」で思う分にはいいけど、
それが事実だと他人にまで押し付けるのは難しいと思うんだよね この年のシリーズ敗退をきっかけに今日に至るまでの巨人凋落が始まった気がする。 原はこの年までは順調に伸びてた感じがあったなぁ
王巨人になってからは叩かれてた印象しかない 83 2700
84 4300
85 3870
86 3870
87 3870
88 6000
優勝できない名門の四番ってことで叩かれるのはやむを得んかもしれんけど
この給料の叩かれ方が可哀想だった。86年の更改では吉村に抜かれた
いまならFAを視野に入れた大幅昇給で複数年って所だろうに >>221
これ、普通の選手だったらとっくに
チームに三行半を叩きつけているよね。 >>221
85年の10%ダウンから、2年続きの現状維持。完全に優勝することが前提なんだな。 >>221
当時のロッテ・日ハムだったらこんなに給料くれないだろ。 >>218
そんな根拠で事実じゃないと決めつける方が妄想w >>224
落合みたいな消化試合の鬼が1億貰ってるわ >>224
日ハムの柏原は原と同じくらいもらってた。 その代わり当時の原はCM出演やオフのTV出演や副業諸々で相当稼いでいたんじゃ? >>197
2003年までこのミニプレーオフ制度を続けてれば評価も変わっただろうな >>231
88年近鉄、89年オリックスが、プレーオフで逆転、日本シリーズ進出していたら、4タテ喰らうかも? >>221
年俸は表向き低いかも知れないが、高額納税者ランキングでは常にトップだったので年俸は副収入程度の認識だったのかも 新庄がしくじり先生で野球はバイトって言ってたの思い出した
一方現代の選手は年俸は格段に上がったけど副収入は昔より減ってるだろうから
案外金銭的には恵まれてないのかもしれん >>234
その時代だと、CMのギャラなんかも
かなりあったろうからな 1982 巨人の原 CM契約数 味の素・明治製菓・明治乳業・富士重工・大正製薬・美津濃・オンワード
全部で約2億 ちなみに原の入団時の契約金が8000万だったが、実は手取り8000万だったらしい >>221
巨人だし副収入以外でも経費扱いで使える額は相当あったろうな 西武は堤の方針でCM禁止だからその分年俸を高めにしたらしい 実はロッテの最下位はこの年が初めてでした
というのも、意外な感じがする。 引退して解説者になった方が儲かる
そんな時代がやって来る直前だな 原はCM収入だけで億超えてたんじゃないか 7社ぐらい契約してたし 1983年長者番付 プロスポーツ
http://motoken.na.coocan.jp/material/choja/choja_83.html
1 アントニオ猪木 8,268 -
2 青木功 7,887 2
3 原辰徳 6,916 1
4 中島常幸 5,774 -
5 王貞治 3,591 8
6 掛布雅之 3,317 10
7 野村克也 3,299 -
8 山本浩二 3,264 9
9 千代の富士 3,143 5
10 倉本昌弘 3,128 13 >>247
当時のオロナミンCは中畑・西本・角・山倉・河埜・松本・定岡で
原は入ってなかった >>246
当時既に引退していた王や野村がランクインしているのを見ると
いかに当時のプロ野球選手の年俸が安くて副収入が多かったかが分かるな >>246
納税額が3000万超えてる人達は1億以上の収入があると見て良いのかな この当時の巨人ブランドが全盛期のころ 年俸以外でも2軍のサイン会がギャラ20万とか
1試合ごとの褒賞金100万くらいとか年俸や長者番付には分からない部分で稼ぎがすごいと聞いたわ
在京セリーグ希望の選手が多くなるのは当然だわ 副収入だけで生活できたといってたものね 年俸は一切手を付けずに 野球の実力が同じなのにそこまで稼ぎに差が出るんだから
浪人してでも巨人とか最低でも在京セというのもわかるわな そう考えるとあの時代にパリーグに入団した清原は非常に男気があったといえるね。
他球団の山田久志が清原ほどのスター選手がパリーグに来てくれたんだから
みんなで大事に育てにゃならんみたいなこと思ったっていうんだから。 あの時代は逆指名や自由枠とかがなかったからでしょ
そういうのがある時代だったら確実に福留と同じようにしてたと思う そして、やっとこ入団したのはいいが、ろくな成績を残せずに
球界をフェイドアウトw >>251
在京セといってもヤクルト・大洋の選手はそこまで儲けていたかね。それだったら阪神中日の方が地方といえどもCMあるし副収入良かったのでは?
六大学出身の選手が神宮でやりたいってのは分かるけど、大洋でやってもね。在京じゃないし。
それで荒川事件みたいなのが起きたんじゃない? >>257
結局、小池って何だったんだろうね?あれだけギャンギャン言われてロッテは嫌だ!で近鉄行って一度のみのフタケタが最多勝が勲章という なんだったろうねも何も、プロでタイトルとれる選手がどれだけいると思う?
しかも1度故障した後に。 >>262
もうこれだけやれば将来の巨人の監督は間違いないしな >>265
「俺は大ちゃん好きや。大ちゃんのファンやわ。」と大石大二郎を讃えてた。 >>262
上原、仁志、二岡あたりが巨人で野球人生を全うしてないだけに
まだ波乱あるかもよ 巨人ファンだが、今でも日本シリーズ負けたの悔しい。 5月5日の後楽園で原が山本和行から逆転サヨナラ2ラン!9月14日には平田薫が山本和行からサヨナラソロ。
山本和行は76年末次に逆転サヨナラ満塁を喫している。
Gファンとしては、真っ向勝負を挑んで来た山本和行投手を称えたい。 >>271
あの負け方は悔しいというより、むしろお恥ずかしい。
あと2アウトノーランナーで同点にされるのは選手よりベンチの責任。 >>275
第6戦は1死無走者からの同点劇
むしろ西武の方が第3戦で2死無走者から4連打で逆転サヨナラされた 間違えた1アウトからの同点だった。
それにしてもなぜ西本を投入させたか謎だよね。
西本本人曰く「なぜ自分が投げなきゃいけないの?」 謎でもないだろ
江川1,4戦 ボロボロ、肉離れ
西本2,5戦 18回失点2自責1 田淵の事故みたいな本塁打と、自らのエラーによる失点だけ
シリーズで西本の方に絶対的な信頼がおかれていたが、
さすがに第7戦の中2日は厳しいとみて6戦で決めに行った。
最近なぜか>>277みたいな説の方が出てきておかしいんだか
当時は西本投入で間違いなし、みたいな雰囲気だった。 9回表に逆転し、優勝が決まったかのようにはしゃぐ巨人ベンチ。
あれ西武を完全に舐め切っていたな。逆転されて当然
まるで後年の加藤哲郎w >>278
TBSの番組で江川は「俺だろ」、西本は「(逆転された時のため)明日先発だろ」と思ってたと証言してる。
藤田さんの温情采配が裏に出た。 江川俺だろって、そのシリーズで結果出してないんじゃ… 江川は第1戦先発。第4戦の前々日に、ブルペンで200球くらい投げたらしいが、謎と言うか、無謀な行為。 巨人は勝ちに急ぎすぎた。
はじめから7戦勝負と腹を括って西本温存すべきでは?
リリーフの江川がやられても7戦は先発西本がいる。こう考えられなかったかなぁ 江川のブルペン投球ってなんなんだろうな
普通コーチも止めるやろ 疲労残るだけだし 巨人が第6戦9回表に追いつかずにあっさりまけていたら、どうなっていたか?
当然、西本リリーフはなく満を持して第7戦登板。
ま、結果論だが 角(本来のクローザー)と平田(81年のシリーズで活躍した左キラー)が
使えなかったのも痛かったと思う。クビが決まりかけてたクルーズが
スミス徹底マークでイマイチな分、意外な活躍をしてたけど 江川の時代は肩は消耗品なんて考えはなかった
徹底的に投げ込んで肩を作るのが常識だった >>286
首位打者に肉薄したとはいえレギュラー1年目だったから篠塚を外して平田
という思い切った手を使えたものの、83年の篠塚ははもう外せる対象じゃないね。 あとハムは高橋一間柴木田、村上雅江夏とこれでもかと左がいたけど
(5/6戦で左腕が先発)
西武は先発三枚のうち左は杉本だけ、
救援の永射はその外せない篠塚ほぼ専任、敗戦処理の工藤
相手の左の枚数が少なかったのが思い切って起用できなかったのだろう 角も第1,4戦のビハインド時に一人でも投げていれば、相手に悩ませる余地ができたのかも。
西武が第2戦のビハインド時に小林、木村、工藤らを投入して使える投手を少しでも増やそうと
模索していたのと対照的だった。
第6戦では角が来ないのを完全に見透かされて、左の代打片平、鈴木葉を取っておかれ
9回の同点劇に繋がる安打を西本がそれぞれ打たれた。 5月5日の原の逆転サヨナラホームランはよく覚えてる。 >>291
打った瞬間は詰まったレフトフライかと思ったら・・・
狭かった後楽園球場ならではのホームランだった。 原と言えば9月の神宮ヤクルト戦で9回に打った逆転ホームランもよく覚えてる。
あれでMVP決まった感が 昭和の怪物江川
若大将 原
絶好調 中畑
アイドル定岡
安打製造機篠塚
雑草 西本
青い稲妻 松本
意外性の男 山倉 機動力、長打力、総合力
巨人の歴史でもトップクラスだった時代
伊東キャンプ組が全盛期を迎え
80年以降のドラフト組が切磋琢磨して競争も激しかった上に
バリバリのメジャーリーガーレジースミス
強いのは当然
でも広島も阪神も強かったから
引けは取らなかった
明らかに今よりどの球団も強いイメージだった 阪神は弱かったし中日も弱かった
巨人が暴走的に独走していたからアンチからは冷められていた >>279
はしゃがずベンチが醒めていたら、それはそれで問題だろうな >>299
昨日の広島が勝ち越した時のように、拍手程度に抑えていればね。
あのお祭りバカ騒ぎが西武ベンチを意気消沈させるどころか、
逆にマジギレさせてしまったからね。 >>279
確かにあれは胸糞悪かったな。
だから、逆転負け食らったとしても、自業自得としか思えないw 中日はあんまり期待されてない年に頑張って
期待されてる年にやらかすチームって印象だったな >>279
藤田監督も胴上げに備えて、スパイクから運動靴に履き替えていたらしい。
巨人はもう「これで勝った、優勝だ」と思ったのだろう この頃の巨人の抑えは角なんだけど
山本浩二や衣笠との対戦がほとんどない 中日は前年1982年の契約交渉で谷沢などの主力が不貞腐れていた
のをテレビで見た記憶があるが、優勝したのに年棒が
あまり上がらなかったのか? >>304
ワンアウトのセンターフライもいい当たりだったよな。何でそんな楽観視したんだ? あれはテリーの打ち損じ。
ホームランになっていてもおかしくなかった。
巨人ナインのはしゃぎぶりに石毛がかなり激高してたらしく、
初球を空振りして体勢を崩したのも気合いの現れだったかと。
2球目に同点となる内野安打を放ったけど、
「あれが抜けてたら俺がヒーローだったのに」と
試合後もすごく悔しがってたという。 この年の朝日縮刷見てたら開幕前の座談会でノムさんが、西武が独走すると予想してたな GWあたりの巨人戦視聴率がすごかったから季節が進むにどこまで伸びるかとオモタら大して伸びなかった
巨人が独走しまくって冷めた?
GWはまだ団子で前年の死闘の香りがまだ残っていたし
ちなみに89から91あたりにもこの傾向だったらしいが この年の定岡は、近年よく言われるイップスになったんだろうね。 ウィキ読むと腰を痛めてからダメになったと。
当時そんな報道知らなかったが。結果的にこの年の前半で定岡は終わったな。 腰痛めなければ生ダラ出演もなくへなちょこサダも誕生しなかった >>306
谷沢2400→3300
田尾1600→3000
宇野1200→1800
大島1600→現状維持
都_600→1400
小松1200→1100
当時としても優勝祝儀が少ないかな? >>321
シーズン棒に振ったとはいえ胴上げ投手小松がダウンか
今からでも上げてやれ 中日は星野が最高年俸だったので頭打ちになってた感がある >>321
小松は82年広島での開幕戦でKOされて足の故障か何かで4ヶ月離脱。 >>323
今からでも上げてやれに不謹慎ながら笑ってしまった… >>313
だが、それはGWまでだった
だんだん冷め出していき、シリーズでやや盛り返すも翌年は謎の「野球はつまらない論」が出てくる始末
84は盛り上がらないと揶揄されたが83の途中から兆候があった 第6戦、9回表2死からの中畑逆転3塁打で逆転して、西本がテリーをセカンドフライに打ち取って1死もそこから4連打で西武同点。
伝家の宝刀シュートを多投して狙われた。山崎三遊間−片平一二塁間−鈴木葉三遊間−石毛遊撃内野安打。
10回表篠塚を三振に打ち取り勝利投手となった永射に続いて片平も鬼籍に。 >>321
俺が何かの番組で見たのは
大島「最初から、ダウンで来ると思ってましたよ。思ってましたけど、あまりにもちょっとひどいんじゃないかと」
谷沢「今まで机叩いたことなんかないよ」
「もう魅力ないよ中日に。どっか行くぞほんとに」
てシーンだった。 平日デーゲームの日本シリーズが40%台だもんな。
第5戦の後楽園は文化の日でジャンボスタンドの自由席が多かった後楽園ではめったに無かった即日完売で買えなかった。
仕方ないから今の東京ドームの場所にあったスパゲティハウスでクルーズのサヨナラホームランまで粘った。
東京ドームの建設構想が発表されたのは翌84年9月で、まだ旧競輪場跡で夏はジャンボプール、冬はスケートやってた時代。
今のスマホでテレビ見られる時代じゃ想像も付かんだろうけど。 子供の世界を見る
https://www.videor.co.jp/digestplus/market/2017/04/647.html
これを見るとキャプテン翼の影響?で1986年の時点で
既に子供がなりたい職業にサッカー選手が入っている
キャプテン翼のテレビ放送が始まったのが1983年11月だと考えると
1983年の日本シリーズが大人から子供まで野球が一色だったピークだと思うんだよね 翌年の野球はつまらない論をぶちあげたのはアンチ広島、阪急だけじゃなくサカ豚が種をまいていたのか? 1983年といったらディズニーランド開園、ファミコン発売、キャプテン翼テレビ放送開始と子供の娯楽が多くなった時期でもあった
野球の影響力が強かったのはだいたい1980年代前半までじゃないかな
この時期はプロ野球だけじゃなくて高校野球の視聴率もえげつなかった その後バブル崩壊やJリーグ創設と共に野球とアイドルは衰退に向かう
アイドルは形を変えて復権したが野球の方は・・・ でも当時がそんなんだから五輪は夏は柔道と体操だけ、冬はメダル1つで頑張っただったんだよな
今みたいに夏冬ガッポガッポ取れるなんて夢だった >>340
その頃はソ連や東ドイツとかがドーピングしまくりだったからな
現に両国がボイコットしたロスは当時としては異例のメダルラッシュだった >>340
>>334
相撲ブームあったの忘れてないか?
隆の里や琴風が台頭してきた すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
LEZG5 プロ野球の全盛期1983年
Jリーグの全盛期1994年。 広島とロッテと南海(ソフバン)は当時よりいまの方が人気ある気がする この年から巨人の応援は「かっとばせーたっつのり」で切れた。「○○倒せ、おー」が消えた(ナゴヤ除く)。 オレ竜は勝つことが最大のファンサービスだとか言ってたけど
当時の阪急を見たらとてもそんなことは言えなくなるな 勝利とファンサービスを両立させるのは
とても難しいようで 第一期藤田巨人は、その両立を実現させていた。
プロ野球史の中でも最高の成功を収めたと言えるでしょう。 >>330
83年は夏場にカープに一度逆転されて、言うほど独走ではないような >>350
当時の阪急と阪神の選手・首脳陣をそっくりそのまま入れ替えたらふくもっさんや蓑田辺りは大人気だったと思うけどなぁ。 序盤にテリーの快進撃ぶりが凄まじかったのを覚えている。
5月までに50打点近くを叩き出してホームランも70本ペースだったので末恐ろしかった。 前半で田淵も絶好調だったのは広岡による体質改善指導が形となって現れてきたから? 大独走したわりに西武がシリーズで巨人相手に手こずっていたのが不思議だったな。
土壇場から4連打されて負けた第3戦と勝つには勝ったが、
一旦は土俵際まで追い詰められた6戦は西武らしくなかった。 プロ野球が一番人気あった年。
ちなみに今は当たり前ののスポーツ新聞両1面、元祖はこの年の日本シリーズで始めたスポニチな。 巨人 藤田 牧野 王
西武 広岡 森
巨人のいいとこ取りしたような首脳陣 阪急はブルジョア的なイメージだから
関西の庶民たちには「ええかっこしい」
とかそういう反感を受けやすいんでしょう。 原辰徳人気だろうな
当時原さんはCM何十本も出ていてテレビは原さんだらけの状況だった
おそらく年収100億こえてただろうな
今のゴキローなんか比べ物にならないほど人気があったし稼いでた 観る大衆的スポーツといえば大相撲とプロ野球くらいしかなかった >>364
長嶋遺産が花開き、人気、実力を兼ね備えたアイドル的人気の巨人。
中心の原、江川も選手としてほぼ一番いい頃。
これに新進の広岡西武が対抗馬として躍り出たのも大きいのでは。
日シリもかなり盛り上がったし。 ほんと今じゃ信じられないくらいプロ野球人気、巨人人気のあった時代だな。
もう二度とこんな時代来ないだろう。 ついさっきまでCS歌謡ポップチャンネルで1983年特集やってた。
「時をかける少女」も良かったが、みゆきの主題歌「思い出がいっぱい」がすごく良かった。
♪古いアルバムの中に 隠れて 思い出がいっぱい >>370
国際大会の無い奇数年で穏やかに流れた年に珍しいチームが優勝争いに来た時だな
2013とかそれだった
珍しいチームが、だから巨人でこれを作るには15年は低迷しないと難しいわ
また、災害が起きたり政治が過熱しすぎた年に塩辛い結果になると盛下がる
2001とか2011とか昨年とか >>370
巨人戦はほぼ全試合テレビ中継
原、江川ら選手のCM出演多数、掛布、真弓のオートバックスなども?
プロ野球ニュースは全6試合解説者&アナでたっぷりダイジェスト
朝も再放送
ビバ・ジャイアンツ、ミユキ野球教室などの試合中継以外の番組
清原、工藤、ナベQらの新人類西武とかぶってたら
もっとすごいことになっていたことだろう。 スポーツ視聴ストリーミングならここが一番便利!!! !!!!
プロ野球、Jリーグ、メジャーリーグ、世界のサッカー、NBA
さらに、J2、Bリーグ、韓国野球、UFCまで全部視聴できたし。
2分割画面で気になる試合を2試合同時視聴可能ってすごくない!! !
BS、スカパーで見たらいくらかかるやら(-,-;)
ワンセグ視聴でストレスのある方、出先でもスポーツが見たい方、スポーツ視聴で月額払って
いる方は必見!!!
面倒な会員登録も30秒で終了したし!!!
明日、マー君、マエケン、大谷の試合もリアルで見れるし!
これが、全て無料ってすごくねwww!
http://www.sjack.org/ >>374
まさか、そんなところでもジャンパイアが炸裂していたなんてw 日テレの中継改革大成功
しかしその後遺症が後に出る
巨人贔屓、絶叫、ポエムなどなど 82〜83あたりの人気増加は下田コミッショナーの改革が成功したこと 原贔屓の実況が臭すぎて辟易したんだが当時の雰囲気じゃ言えやしなかった
83〜85の夏あたりまではもう北朝鮮同然
王政権がダメだとバレはじめて、原もピリッとしなくなりだしたら原贔屓は小さくなった
だが、小さくなっただけで無くなったわけではなくずっと続いた とっくにピークを過ぎたと思われていたベテランの田淵が全盛期にように打ちまくってたのは、
当時不思議だったな。
日本シリーズでは江川からもホームランを打っていたし。 >>374
それを言うなら86年に広島が優勝を決めた津田の最後の一球もボール >>382
5月、6月と恐ろしいほど量産していたものな。
王の55本破るんじゃないかと思った。
今年のおかわり砲の7月、8月の量産が被る。 >>386
柳田からのデッドボールだったっけ?
田淵のホームランは好きだったなぁ。 ドカベン香川が前半戦は打率トップを快走していたのに、最終的には規定打席にも達しなかったのにはあぜんとした。 前半パッとしなかった落合が終わってみれば首位打者にはさすがの感 当時は落合の前年の三冠王は本塁打王争いの常連(門田、ソレイタ、田淵)が不振で
レベルの低い年に運良くとれたものという見方が多かった。
この年の落合は25本塁打で、その見方がより強くなっていた。 香川なつかしい。たしかにこの年は良く打ってたね。
母親に、大学行ったつもりでまずは4年がんばる、みたいなことを言ってて
その4年目のプチ開花だった。
落合はのちに50発打つようになったけど
本質は中距離打者なんだろうか。
対してホームランバッター田淵だよね。
あのゆったりしたフォームから放たれた
美しいアーチが印象的だった。
俺も55本行けると思ってた。
6月くらいまでで29本打ってたんだよね。残念。
俺のこの年の印象的なできごとは
大洋遠藤のブレイクと巨人松本の盗塁セ新更新と
西武−巨人の日シリ大熱戦あたりかな。 江川掛布は名勝負と言われているが、
この年掛布が打ち込んでいなかったら、江川の完勝になってる 巨人の定岡は序盤は好調だったが、六月の広島戦を最後に一転勝てなくなってしまった。
その最後の広島戦を報じる朝日新聞(東京版)の見出しは
「原17号、中畑13号、定岡ルンルン」だった。
このころの朝日はふざけた感じの見出しが多かった。
ちなみにこの広島戦は定岡の最後の完投試合となった。活躍した期間は短かったな。 >>392
江川は前年の終盤あたりからもう肩痛はじまってて
成績落ち始めたよね。
ただこの年だって16勝もしたのに叩かれてたのは気の毒。
まあ、大物の証でもあるんだけど。
>>393
サダは先発ローテは正味3年くらいか。
まさかトレード拒否で30前に引退とはね。
生ダラで売れてよかったがw 定岡がKOされた後、お菓子のコマーシャルで
良い笑顔して出てくるんだよ。
あのタイミングが絶妙だった。 BSフジでこの年のシリーズ振り返るというので巨人側で中畑と西本が出ていたが
中畑が「うちが勝ったら西か俺がシリーズMVPだった」と発言 第6戦の九回表、杉本から中畑が逆転三塁打。これで巨人日本一かと思ったんだが。
その裏マウンドに立った西本が4本ヒットを打たれて同点とされ、あとを継いだ江川も十回裏金森にサヨナラ打された。
不運な当たりが続いたがあの回の西本は気負いすぎていた感があった。
まああのシリーズは江川がふつうに投げていれば巨人が勝っていた。第1戦いきなり田淵に3ランされ、第4戦では肉離れを起こして早々と降板。
なので藤田さんは第6戦の九回は江川を出せなかったんだろうな。 病み上がりだったが角で2アウトを取って、ラストは西本という考えはなかったのか?
それか先頭のテリーに角を、山崎に江川、片平に西本(または西本→江川)と一者一殺とか >>392
適当なこと言うな
資料あるから調べてきたわボケ
江川x掛布
79年 10打数4安打HR2打点2 .400
80年 15打数3安打HR0打点2 .200
81年 27打数8安打HR0打点2 .296
82年 24打数9安打HR3打点5 .375
83年 26打数10安打HR3打点10 .357
84年 18打数5安打HR2打点5 .278
85年 14打数2安打HR2打点3 .143
86年 16打数5安打HR2打点4 .313
87年 15打数2安打HR0打点0 .133
むしろ最後の年で数字を下げてしまったと言える
87年無かったら通算打率3割超えてたでしょ
85年打てなかったのは掛布のイメージの江川ではもはや無くなってたから
と掛布本人は言ってたな >>400
意味分からんか?
83年除いたら通算11本 23打点
山本浩二、衣笠、真弓に次いで4位のホームラン数になる
打点も山本浩二、真弓に次いで3位
分かった? >>401
なら他の選手もキャリアハイのときの数字を引かないと
不公平じゃないのか? 83年の打点10の内5は
序盤で掛布は江川から2ラン、3ランでノックアウトした試合だよな 吉村がホームランボールを捕ったおかげで、
掛布は江川から一本損してたな。 >>404
あったな、86年夏の甲子園でだっけ?
1-0で江川完封だったかな >>361
馬と競走させられた盗塁王
肝心のお馬さんはしばらく走らず >>407
そんなラッキーゾーンを復活させようとかいう動きが球団内にあるようだけど、
そんなのは愚の骨頂だよね >>394
定岡がプロで51勝もするとはな、失礼ながら思ってもみなかった。
しょせん、人気だけで消えていくと思っていた。
74年の高校野球の四天王のなかでも工藤に次いで勝ち星を挙げた。 元木「三本柱って江川さん、西本さん…あとは加藤初さんや新浦さんでしょ?」 >>288
パリーグ主催のみDHが使用できていたら
DH起用できた すんなり6戦目で巨人日本一ならクルーズ残留で、黒魔ティ獲得なかったかも オールスター明けの広島市民球場「広島VS巨人」で江川の「プロ初リリーフ」を生でみた。
広島ファンもコールの瞬間、歓喜の声が上がってた。 もうこんなにプロ野球が盛り上がることないだろうな。
日本プロ野球人気ピークの年。 ドドドン、ドドドン
「ア〜ウ〜ト〜ッ!」
ドドドン、ドドドン
「ア〜ウ〜ト〜ッ!」 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>419
この年から野球見始めた俺は
「巨人だけ違うんだ〜、さすが特別なチーム」と思った。 東京ディズニーランドオープン
大韓航空撃墜
ホンダF1復帰
サントリービールペンギンCM
おしん
金妻
ふぞろいの林檎たち
積木くずし
スチュワーデス物語
ドジでのろまな亀
幻魔大戦
時をかける少女
めだかの兄妹
ワンダーシビック
FFライトウェイトスポーツCR-X
素敵にニューカローラ86
鉄仮面スカイラインRSターボ >>386
柳田があれぐらいよけろよと苦言したそうだが、
1983年西武優勝のハイライトの映像がユーチュ
ーブにあって田淵が手にデッドボール食らう場面見たけど単にインコースに来た球のような気がした。
あれが東尾並のブラッシュボールならともかく、
全く田淵はよけてないのよね。ケツを後ろに振って
バット握った手は上に挙げれば済むような。 >>419
このあたりから巨人ファンの民度が劇的に低くなり出した気がするんだよな
さらに昔は一番高かった、信じられないが
なんでだ?おかしなファンが増えたのか?
でも俄みたいなおかしいのは西武に流れるだろうし >>423
と珍カスの中でも更に民度の低い奴が申しております >このあたりから巨人ファンの民度が劇的に低くなり出した気がする
劇的かどうかは知らんけど、86年あたりから「ジャイアンツが勝たねばこの世の終わり」ごとく、
マスゴミも含めて世間が狂乱するようになった。 >>425
いやこの年も、その前からもジャイアンツ絶対だ!ジャイアンツ以外は野球じゃないだった 西武が巨人を倒して王者になったことで、潮目が変わった アンチ巨人が増えたのって江川事件から?
V9の時ってアンチも多かったの?
昔あれだけ巨人戦の視聴率が高かったのはファンだけでなくてアンチも多くて
それだけ全体の関心度が高かったこともあるわな 視聴率は83年が歴代最高だろう
V9時代の視聴率は低かった V9時代 視聴率20%いくかいかないか
↓
江川事件 巨人が悪役になりアンチも増える
↓
80年代 視聴率25%超え
V9時代は「巨人勝て」って思う人がメインだったけど
江川事件以降は「巨人勝て」って思う人に加えて「巨人負けろ」って思う人も見るようになって
視聴率も上がったっていう説
どうよ? 別スレでは長島が干されていた82〜86がたかかったと見たな
一部年は広島阪神中日を応援したくての効果もありそう
>>431
歴代最高は82年秋と94年のアレだったはずでどちらも中日×巨人
前者はなんとテレ朝で放送らしいが
中日との競り合いがみんな好きなのか? >>433
当時の視聴率を考察するうえで
単発の試合の視聴率よりも平均視聴率の方がわかりやすいでしょう。
平均視聴率は1983年の27.1が過去最高
あとたまたま山場の試合が中日戦だったってだけだろ >>433
82年9月30日(木)の中日×巨人はNHK綜合だよ。
テレ朝が中継したのは巨人の優勝がほぼ絶望になった
10月9日(土)の大洋×巨人のデーゲームで、裏のパリーグプレーオフ西武×日本ハムを視聴率で圧倒。 おしんは今日も大根飯でしたが、
南海の香川選手は昼飯にかつ丼1、てんぷらうどん1、マスクメロンも完食し、
小俣選手からホームランを含む3安打で打率3割5分をキープ、皆さんもちゃんと
ご飯は食べましょう、ってアナウンサーが言っていたわ >>435
NHKで月〜木に野球中継
というのも珍しいな 平日のNHK全国中継は必ずと言って枠内に収まらず、
ニュースセンター9時のキャスターが視聴者への挨拶も兼ね、
時間変更のお詫びをするのがお約束だったな。 ラジオは昨年度まで10時過ぎてもやっていてNHKジャーナルが遅延や休止になることがあったな
今年度からはナイターやめたけど この年から延長戦は3時間20分まで。20分伸びた。
プロ野球人気が最高だった年。 俺もこの頃は中学生でただ純粋にプロ野球が好きだったなあ。
今はもう…贔屓チームが負けるとストレスになるので、嫌になる。 プロ野球人気最盛期。
今やラグビーにさえ大きく差をつけられる始末。 釜石やスクウォブームでラグビー人気高かったぞ当時
本当のラグビー暗黒は成人式の日本選手権廃止や明治大学集団強姦とかの時期だと思う 球場の応援がこの年から凄まじくなってみだした。集団心理の恐ろしさを感じた。日本人の特徴をみた気がするね。
戦争のときにも馬鹿みたいに一体化したじゃないですか。考えろって あとは手段と目的がすり替わりやすい傾向もその流れを加速させたように思える
要は応援することそのものが目的になっているとでもいうか 芸速+のサッカーファンいわくバレーとラグビーは野球の二番手でいいという意識があったから結果的に野球を延命させた戦犯らしいからな 今じゃ日本シリーズの視聴率が7%だもんな
いい時代だった >>448
あの辺のサッカーファンの僻み嫉みっぷりは半端無い罠(w
ラグビー大学選手権が国立競技場6万の大観衆って時代に、サッカーのそれは決勝ですら河川敷みたいなとこでやってて、観客も往年の川崎劇場以下で、
テレ東がひっそり中継していたなんて往年の国際プロレスの青空プロレスすら思わせる場末振りに、俺もショック受けた位だから無理も無いが・・・・・・。
又、あの頃はラグビーもサッカーも早大が強かったから、「同じ早稲田なのに!」的な部同士の対立も半端なかったろうな。 サッカーもラグビーも好きだけど野球は最近色褪せてる感じはする 日テレが巨人隠しばかりして上がり目になるわけねーよ
当時はフジが強くて日テレは笑点と巨人しか目玉が無い時代だったから巨人を全面に押せたのもあっていろいろ環境が違うのもあるがな
日曜なんか巨人路線やめてスイーツ化したら新規が増えず古参がごっそりTBSに渡られたのは哀れすぎるw >>452
巨人はオワコンだからしゃあない
あきらめよう 長嶋茂雄が幽閉されてた「1981年〜1991年」が日本の青春時代だったように思う。
長嶋茂雄で連想するのは「阪神大震災」とか「オウム真理教事件」とか暗い日本のイメージ。
1983年は「悲しい色やね」「ワインレッドの心」「め組のひと」という最高の曲が同時期に生まれた奇跡の年。 >>454
偏った考え方だな
俺も長嶋は好きじゃないけど、こういう奴が犯罪者予備軍なんだなって思う 年平均27%とか信じられないほどプロ野球に人気があった時代。
今はシリーズでも最高が11%だもんな。
ちなみにスポーツ選手の長者番付は原がダントツ。年俸以外のCM出まくりで。 だって野球を推さないで存在を隠蔽ばかりしてるもん
サンモニとズムサタぐらいでしょ
報ステやNWも減らしてるし
広島や札幌はカープやハムをその当時並みに推して暮らしに根付かせてるから数字が高いのに、東京はひたすらさっかあさっかあさっかあさっかあさっかあ
特に日テレは巨人推せないなら身売りしたらいいのに >>458
今さら東京の人間に巨人軍ごり押しされても困るよ
たまに電車で試合帰りのハッピ着た人見るとあまりにもダサすぎていたたまれない気持ちになる 当時はスポーツが不毛すぎも不毛すぎ
五輪なんて柔道以外勝てなかったしサッカーなんかワールドカップ予選を地方のガラガラグランドでやっていた時代だぜ
だから巨人なのか
>>459
ハッピはダサすぎる
なんで広島とか他球団に学習しないんだろう
野球黄金期に不人気なチームからの努力とあぐらかいたチームの差か この頃は76年モントリオール五輪→80年モスクワ五輪ボイコット→84年のロス五輪と
世界の檜舞台に飢えてる節があったしな。
野球以外の競技だと相撲かプロレスくらいだったかな 流石にはっぴはもう今は見ない
ユニフォームシャツはいるけど >>462
今も見るけど勘違いかな
どのみちダセェけど >>458
今一番巨人推してるのはテレ東
スポーツニュースのMCに中畑と巨人ファンのビビる大木入れて
プロ野球の結果も巨人戦をラストに持ってきて他のカードと違って、じっくりと解説するという昔の日テレのような気持ち悪さw テレビ東京には独自路線を歩んでほしい
日本テレビの劣化コピーじゃ物足りない 巨人を見せない触れない話題にさせないなんだもんな
巨人隠蔽は卑怯すぎるわ >>466
やっても視聴率とれないからね
日本シリーズぐらい見てやれよって思ったけど歴代最低だったしな >>464
昔のうるぐすがそうだったね
Goingになった今じゃ江川なんてエンタの神様の白石美帆ばりの置物 テレ東に格安で巨人主催試合放送させてやったら案外数字取るかも 巨人ファンはみんなBS、CSで見てるらしいから地上波はなくしていいと思う でも野球ファンは高齢者が多いからもっと配慮しなきゃ駄目だ だから中継見てるとCMが年寄り向けばっかり
どこに金落としてんだって感じだよ >>474
配慮しまくってこのザマなんだったら、今後する必要ないよな 江川が自動車にエアバックと電話つけていて月に44万貯金していた。
子供にはボールペンお土産、自分は高い酒買う。豪邸に引っ越し 地上波の視聴率ってアテにならないね。
サッカーの代表戦視聴率も40代以上がほとんどだって言うし。 >>479
その世代以上じゃないとカネを使わないならな
今の日本人は
CMだってカネを落とさない連中は相手にせん >>479
野球中継なんて60代以上がほとんどらしいしね
よくわからんよな 今の若い野球ファンは中継じゃなく現地で見るイメージ >>482
東京ドームよく行くけど若いファンなんてほとんど見ないな
外野にいるのかな >>479,481
なのこの鸚鵡返しなレス。
実に似非リベラル的というかコリアン的というか。
言い負けたら死ぬんか?(w この時代だって野球ファンはおっさんばっかりだったよ 野球が今後中心にこれるのは夏五輪翌年にかけるしかないな
偶数年は五輪やサッカーとかあって2016みたいな話にならないと埋もれるし
翌年はWBCだけしかないんだよな
2001や2017はスポーツの話題が小さくて政治が流行語を独占していたぐらい
前年(この年も)は83や87や95など野球の引きが強い年が多いが、今はラグビーなでしこ次第では今年や11のようになる 2016年の日本シリーズだって結構盛り上がったけど鹿島とレアルのクラブW杯に視聴率は負けたしな
WBCも開催地が代わり映えしないから盛り上がりに欠けるんだよね
やってれば見るけど WBCはデービッドソンというヒールのおかげで盛り上がったけど
あれがなければプレミア12(笑)みたいな扱いだろ >>306
2年後のオフの田尾「代表がおっしゃる通り2位になりましたよ」発言につながるわけだな そして西武へトレード
中日も多少のカネをケチったばっかりに… >>480
年寄りは購買意欲がないからスポンサーつきにくいんだよ
だからポリデントとかがCMで流れる 購買意欲の有無とカネを使うかどうかは別の話では?
実際に資金が豊富なのは55歳〜以上なのは事実 >>497
アメリカだと50代以上だったかの視聴者数を除いた数字が重要視されてるんだよ
それは広告の話なんだけどね ミレニアルっていうのが他国ではどこも大事にされてるのに日本ではゆとりがそこらだからかあまり大事にされてない 野球って年寄り向けのスポーツなのはいい事だと思うけど大相撲ほど絶対的じゃないのがつらいな 原辰徳、阪神戦で三塁走者だった時、転がってきたファウル認定前のボテボテ打球を勝手に拾い上げる。
ルール上は完全なアウト、阪神安藤監督抗議、球審三浦も激怒したが、ジャンパイア三浦は結局ファウル認定した。
そんなことをしでかしながら、原は恐縮するどころか「ファウルでしょ」という態度。
ベンチに戻ってから、藤田監督に思いっきり殴られたらしい。
三浦は後に著書で「原の意識は草野球レベル」と酷評していた。 >>501
プロ野球を10倍楽しく見る方法パート2で流れてた。
ナレーションが「あそこから急にフェアになるかもしれないでしょ。野球ってのは何が起こるかわからないんだから、阪神の優勝だってそうだよ」みたいな感じだった。 田淵は近鉄柳田からの死球がなければ何本打ったのかな?
ちなみにこの年40本でホームラン王になった門田は田淵が死球退場した7月14日の時点では21本だった。 訂正
門田は田淵が死球退場した7月13日の時点では20本だった。 >>504
ペース的には50本いってもおかしくはなかったね。
この年の西武打線は、捕手とセンター以外二桁本塁打揃いで、田淵の後の打者も強打の大田やテリーだったから、敬遠攻めにあうこともあまりなかった。 >>503
改めてその動画見てみたが、原めっちゃふてぶてしい態度取ってる。 あるいは、広岡から「狙え」とでも指令が下っていたのかね この年がいちばん視聴率が高かった。
そして夏の甲子園が異様に盛り上がった。
「史上初の三連覇なるか――」
猛暑の甲子園は連日満員。こと池田の試合となると、ダフ屋が数万円で売ってた・・
で、高校野球史上最大の衝撃の一戦で、池田の水野の野望は砕けた。
あの夏の異様な雰囲気は二度と味わえない。
翌年、小学生の間でテレビゲームとサッカーのブームが爆発。
子供たちが外で遊び、それが野球だった最後の年だったのだ・・・ 池田がPLに大敗したのも衝撃だったが、翌年の選抜で、PLが岩倉の山口に1安打完封された方が、衝撃だったかも知れん。
岩倉が勝つ図が、俺には全く想像出来なかった。 でも取手に負けたり金足に疑惑HR打つまで負けかけたりしていたのもPL
あとあの時代の山形とはくじ運が良すぎるわ >>512
都市伝説とは関係ない、岩倉の話。
84年春優勝して、颯爽と上野駅に凱旋してきた選手たち。
そこら中に、●優勝おめでとう岩倉高校野球部、という垂れ幕があった。
あっちの垂れ幕も、●優勝おめでとう岩倉高校野球部。
こっちの垂れ幕も、●優勝おめでとう岩倉高校野球部。
ある選手が、「おい、あの黒い丸印、なんの意味があるんだ?」と
言ったので、みんなでじぃ〜っと見てみると、そこには薄っすらと
”準”という文字が見えた。
学校関係者、後援会の誰もがPLに勝つとは思っておらず、最初から
準優勝おめでとうの垂れ幕を注文していた。
それがわかった瞬間選手たちは、「ふざけんじゃね〜」と叫んだそうだ。 >>509
高橋直樹も原の顔面近くに投げてたよ。ちょっと酷いわ。
この頃に危険球退場ルールがあったら巨人が優勝してたな。 監督なってTDN加藤事件を起こした理由がわかってきた >>514
金村あたりが喜んで話しそうなネタだなw >>518
お前硬球で野球やったことがないだろ?
あんなのが偶然でも頭に来たら次の球は絶対に腰が引ける。
怖がらず向かっていこうと思っても体が本能的に怯んでしまうんだよ。
それを意識的にやってた東尾なんて外道以外の何者でもでもないわ。
お前は所詮他人事のゲーム脳でスポーツなんかやったことないからふざけたことぬかせるんだろうがカス 江川、1983年かなり衰え日本シリーズも冴えない印象だったが動画でえ見返すと
良い球を投げてた。今秋、ホークスの福田(早生まれの30歳 学年的には31歳)
が「若くて伸びざかり」と評されてたが1983年「28歳の江川」はすでに衰えた
ベテランといった感があった。福田など髪型も大学生みたい。当時の31歳では大学生
みたいな髪型は社会的に許されなかった。 6戦の西本が最初から不安な顔してるのが不思議。普通気合入れて投げるじゃん >>519
だからTDNにたいして理不尽ないちゃもんつけたのか原は >>521
疲労もあってか、明らかにタマが走ってなかった。
あと、あの場面は江川がいくものだと思っていたようだ。角が使えなかったのが響いた。
逆に、せっかく4連打しながら1点止まりの西武もちと情けない。 あの試合、珍しく江川は気合いが入り「この試合勝てれば潰れてもいい」とエガワらしからぬ発言。西本は明日の試合先発と準備していた。
それが中畑の逆転打。藤田さんが「胴上げは西本」と温情出したのがアダ。江川は「俺じゃないの?」西本は「俺?」。
結果追い付かれ、気持ちが切れた江川はサヨナラ打たれる。
広岡は「この試合勝てれば最終戦勝てる」と思ったそうな。 この年の日本シリーズの提供にあのジャパンライフが入っていたんだよな 2アウトになった時、勝利を過信した藤田監督が胴上げに備えてジャンパーを脱いだのを見て
西武ベンチはその油断に勝機アリと思ったそうな >>527
1アウトね。2アウトの時は既に同点でサヨナラの大ピンチ。 >>524
監督も西本にそれとなく「今日行けるか?」ぐらいのことを聞いておくべきだったな 9回に抑えで西本を出したのって単にそれまで調子が良かったからじゃ?
江川は2試合投げていずれも打ち込まれてたんだし あれは王が「こうなったら西本でいきましょうよ」っていってしまって藤田がのってしまったって話らしいけど。
江川はそれを聞いてあんなこといったんだろう。王が嫌いだから。
実際投げたら打たれてるって 当時、阪急ファンで「西武負けろ」と思ってたが学校の下校の際、魚屋のラジオから
広岡監督の勝利監督インタビューが流れてて「やっぱり西武か!」と思ったとユー。 野球好き先生が途中経過を教えてくれたこともあった。
第7戦山倉のホームランで巨人が先制とかw >>529
プロ球人ならあそこで「行けない」とは言わない。 >>536
石井一久なら「気持ちが乗れません」とか即座に言いそうw 江川曰く「僕が投げて抑えて優勝すればMVPはニシだったのに」 なおこの年のリーグ優勝決定試合ヤクルト戦、9回に先発西本がつかまり急遽リリーフ江川、抑えて胴上げ投手。 関係ないが、昭和62年マジック1のヤクルト戦、先発江川で巨人リード、終盤代打晩年の若松。
するとピッチャー角(笑)。逆転打被弾し優勝決まらず。江川の胴上げが。結局翌日移動中に広島負けて優勝決定とつまらん展開。
後楽園の最後の胴上げのはずが。
こんなところで江川は引退決めた?実は小早川でなく。 角は全盛期の頃から若松に弱かった。江川の方が若松には強かったから
代えてくれてヤクルトベンチはいけると思っただろう。 >>525
すごい視聴率でかなりスポンサー料金も高上がりしていたのによく出せたよな
どんだけ巻き上げたんだあいつら
その当時安倍は総理はおろか政治家ですら無いのになぜかそこらのとこまで責任負わすばかもいるが >>525,542
簡単に言うと、マルチ商法がネズミ講呼ばわりされ取り締まり対象になりがちな現状の打開に、業界団体を立ち上げ、
主に自民党系の政治家や保守系・右翼団体等に多額の寄進をしとったんよ(´・ω・`)
あんな程度の事で、安倍内閣や自民党の歯切れが悪いのは、違法では無かったとはいえ彼らや彼らの支持母体が散々長らく甘い汁を吸っていた
過去に対する後ろめたさもあるんだろーね(棒)。 ふくりみんぷくの会とかあったよな
サラ金の取り立ても同時期に問題になっていた >>514
たった一日の違いなんだから、決勝終わるまで発注を待つか、
とりあえず空白にして発注しておいて、負けた時点で「準」の字を手書きか貼付で付け加えられるようにすればよかった。
いかにも「残念だったね(テヘ)」感が出て、ほっこりしてていいと思うんだが。 >>519
東尾ってあの時代だから勝てたんだよな
今みたいに危険球一発退場ルールだったら斎藤佑樹クラスだろ 東尾はコントロールが良い上で内角攻めをしてくるが
藤浪はガチのノーコンだから藤浪の方が怖いよ 5月までで7勝の定岡は、その後なぜ勝てなくなった?
翌年途中まで勝てないほど不調なのに先発を続け、連続試合KO記録をつくるほど 原田知世「時をかける少女」
松田聖子「スウィートメモリーズ」
柏原芳恵「春なのに」
プロ野球が一番人気あった年。 この年定岡は腰痛、この後肘を壊して2年後のオフに近鉄有田とのトレード拒否して引退。
登板前に肘に「馬の油」を塗っていたほど。移籍しても活躍できないと悟ったらしい。 こんな事を言ってたそうだが後付け臭い話だ
だったら代役で近鉄にトレードされた淡口には申し訳なくないんかい
ストレートに「巨人の選手で終わりたい」って事だと思う
当時は巨人と近鉄じゃ待遇とブランド力に天地の差があった
・当時は野球選手の給料が今ほど高くなかった
・タレント転向した江本が大成功していた
ってのもあってこの頃の選手はあまり現役に固執しなかった
(江川、掛布も若くして引退している)
476 神様仏様名無し様 ▼ New! 2020/01/08(水) 09:54:30.80 ID:y9B3xCN+ [1回目]
>>463
数年前に定岡が週刊誌やテレビで真相を言ってた。
肘を故障して手術が必要だって言われていたのにフロントが隠してトレードに出そうとしたので
「近鉄に対してそんな失礼なことはできない」から引退したって。 待遇や環境格差に落胆したのはさておき
親の介護があったから淡口も渡りに舟の移籍ではあった >>554
>肘を故障して手術が必要だって言われていたのにフロントが隠してトレードに出そうとしたので
実際定岡がどうだったのかは知らんが、こういうトレードは普通にあったんだよな。
移籍したけどトレード先では全く活躍できずその年で試合も出ずに引退したようなケース。 近鉄だってこの時期壊れた山口を南海に出して新井獲ってるんだから 実は故障持ちだったのにそれを隠してドラフト上位指名で入団して
入団後にまるで活躍できないってのもよくあるね
黙ってれば契約金1憶だとそりゃ自分からは言えない 当時のパリーグなんてブラック中のブラック企業だったし
不人気赤字低年俸で福利が悪い 実際、定岡は巨人でやめて良かったのかね
とんねるずにおもちゃにされて少しの間は売れてたけど今はさっぱりだし 肘の手術も当時はロッテの村田兆治がこの頃受けたのがたぶん初めてで(トミージョン手術も日本人初)
前例も無かったと思う。
村田が受けるまでは野手でも肘を手術というのはいなかったのでは >>556
関本四十四も巨人から太平洋に移籍したが1勝、で1年で大洋にまたトレードされたが大洋は肘の故障を知らなかったのか
と言ってた。 >>560
長い目で見たら、近鉄へ移籍したほうが良かったと思う
定岡はそこまで考えず、目の前のニンジンに飛びついたけどw >>560
最初TBSの解説だったんだが、例の喝のお方とダブル解説する予定があったんだけど、
喝の方が定岡みたいな実績の奴と並んでやるのを拒否した、
結局その試合定岡は仕方なくベンチレポーターをやったとさ。
すごい権限持ってんだよあの方は。
その後の定岡の凋落ぶりはあの方の毒気に当てられたような気さえする。 負け犬サダとか言われてた時も他の番組にはそれほど出てなかった
錦野旦は結構出てたけど サダはNEWS23のスポーツコーナーでとんねるずにナマダラび罰ゲームでやれと言われたことほんとにやってTBSクビ。 輪島の訃報の時にとんねるずは自分らにとってスターだった人に
また有名になってもらいたくて仕事をもちかけてたという記事があったな
サダも錦野旦もワジーもみんな同じ >>565
チョンハリのクズぶりは、その当時から健在だったのかw 30年以上前から今と変わらずめっちゃ偉そうだったぞ
当時名球会新入りのあの山本浩二と福本豊を
「おいコージ、フクモト」とかいって顎で使ってたw とんねるずは90年代はいろんな人を光らせてきたが晩年は自分になつく関東芸人と馴れ合いしかできなくなっていた そして、若かりし頃からの傍若無人ぶりが仇となり、レギュラーは皆無になった とんねるずの仕事が無くなったのはつまらないからでしょ
石橋は裏ではいい人だって話も聞いたことあるしね
ダウンタウンだって若い頃はかなり横柄だったけど、実際面白いから仕方ないって風潮だったし ADに対して横柄な態度で接しているとそのADが出世して
プロデューサーになった時にしっぺ返しが来るって言うね ヒロミが長らく干されてたのも堺正章の反感を買った訳じゃなく
B21スペシャル時代の下っ端への傍若無人な振舞いだからな 昔の若い奴が偉くなったあたりから
サッパリ見なくなった山城新伍なんかはそういう面が大きいんだろうな 当時司会で天下を取っていた芳村真理「今時の若いものは態度がわるいからもうテレビにはでない」
そう言い消えた とんねるずはスタッフを可愛がってたからつまらないのに出続けられた 当時は田舎の大学生で、渋谷の大学生協のホテルに野球見る時よく泊まってて、フジテレビのプロ野球ニュースの最後の方で石丸電器のCM見るのが楽しかった。
まさか秋葉の誇りが田舎の電器屋に吸収されちゃうなんて。 あと、「オールナイトフジ」見るのもね。短大入学したばかりの松本伊代が即司会に。
伊代ちゃん、いくつになったんだっけ(笑) >>579
最近のテレビ、特にフジが新番組作るのを面倒がって
低視聴率でもなかなか打ち切らない恩恵もあるよな サンテレビが広島市民球場の中継カメラを
バックネットからセンターに変えたのは83年9月25日から 1977年オールスター第三戦で初めてセンターからのカメラ。
1978年開幕戦から本格的に採用。以降野球中継はネット裏からセンターカメラに意向。 後楽園でゴールデンウィーク5/3〜8のデーゲーム6連戦巨人6連勝!
当時は5/4水は平日だったが、巨人はデーゲームとナイターの繰り返しを嫌ってデーゲームになる事が通例。5/6金も。
5/3から阪神3タテ。最後のこどもの日は原が山本和行から逆転サヨナラ2ラン!山本和行投手はこの7年前の末次の逆転サヨナラ満塁ホームランから何本か「劇弾」を浴びていたが、真っ向勝負に感謝しなきゃならんだろう。
5/6からは中日3タテ、最後の5/8は負傷上がりの中畑が延長12回前年巨人が全く打てなかった牛島からサヨナラホームラン!
6試合、後楽園のジャンボスタンドで見て思いっきり日焼けした。中日の初戦の日だけ小雨の中だった。あとはピーカンで。いやあ楽しかった! そりゃまあ、讀賣のヲタからしたら楽しかったことだろうよ 野村星野が両方ともグランドにいなくなり存在が空気だった 星野はこの年からNHK解説者。
野村はこの年からテレビ朝日解説者(前年まではTBS)。野村のギャラが1年契約1億円って噂は本当かね。 ノムさんのクール解説!
後年、武上四郎のホット解説てのもあったなw >>587
覚えてるよ!
当時部活でリアルタイムで見れなかったが、夜にラジオ日本で「録音」ナイターなんてやっていて。原や中畑のホームランには感動した。 関西ではラジオ関西(AM神戸)で録音ナイター聞いてたな
駒田の初打席満塁ホームランとか
放送時間オーバーする部分はカットしてたけど 「録音ナイター」とかあったな。
あと、昔は地上波で札幌とか、みちのくシリーズの「録画ナイター」があった。
あれって冗長な場面は飛ばされたんだよな。 昔のみちのくシリーズは秋田と山形が不思議と飛ばされていたんだよな >>595
現在よりも読売新聞の販売部数が上回っていたし、
ネット局のABSとYBCが日テレマストバイ(フルネット)でなく、
テレ朝との混成で、且つ山形ではYTSも日テレ入っていた点も影響してたかもしれん。 そんなにそこら読売売れてたのか?保守王国だからか?
あと新幹線が無いのと秋田に関してはナイター設備がかなり遅れたはず
かわりに2県は広島ロッテ阪急南海辺りがよく来ていたが、よくよく考えたら当時の不人気ランキング上位みたいな球団ばかりだな 秋田魁と読売は提携関係にあるはず?
また山新の亡き服部天皇と読売グループも親密だった。
服部が支配していた地元テレビ局が2つとも日本テレビから番組供給を受けていた。 山新と読売との蜜月とは打って変わって、秋田魁と読売は論調はそっくりながら犬猿の仲で寧ろ毎日やTBSと仲が良くて、ABSが日テレ系になったのは、開局時の
ネット回線が山形経由しか無くて、渋々日テレ主体にせざるを得なかったからなんて言われていた位で。
秋田魁傘下のABSとTBSとの関係が絶たれるのを恐れて、秋田の第3民放局が当初のTBS系からテレ朝系に変えられたとか。
只、論調自体は極近い為か、すっかり日テレ系色が強くなった現在のABSではローカルニュースでも極普通に読売新聞論説委員が登場する様だけど。 山形や秋田で地元紙に読売がかなうわけないのだが。
田舎に住んだことない人はわからないだろうが、地元紙のシェアは平気で6割7割ある。
まあ今は新聞自体がオワコンだけど。
地方紙の記事はほとんど共同通信 >>587
このころのセリーグは「1強5弱」だった
他のチームからしたら、つまらんシーズンだっただろう >>602
まだ生まれてなかった?広島と巨人の激闘だったよ。
折り返しは広島首位だった。 最終的には西武が日本一になり、黄金時代の到来
一方、負けた讀賣は… >>595
巨人のみちのくシリーズは73〜90年。
東北新幹線大宮−盛岡開業が82年。
山形と秋田はその時代には新幹線なんか無かった。僻地に大巨人は来ないのさ(笑)秋田は八橋球場の頃でセンター112メートルとかの欠陥球場、80年代に少し拡張したのかな?
この年は北陸シリーズ。北陸なら富山−金沢−福井は1時間レベル、今年は中止になってしまったが富山−福井でもバス2時間で移動できる。 平均で27%で最高で40%、CMで巨人の選手見ない日はない。
たのきんトリオより原の方がCM出てる。
すごかったな。
平均で5%最高10%。そもそも地上波中継ほぼ壊滅で、CMで巨人どころかプロ野球選手見ることない、大谷以外。
ジャニーズと岡本比較して良いのか?
37年ですごいな。 同じ新幹線が無かった(当時)九州は巨人遠征したんだよな
熊本→平和台→小倉とまぁ大変 >>607
この年は広島帯同で火曜が小倉(中止)→水木曜が平和台。
広島も8月に新大分→小倉の土日2連戦のヤクルト戦あり。 >>606
今じゃ、嵐と坂本を比較するようなもんだからなw 原さんはスポンサー契約料年間数億円があたりまえのバブル絶頂期に20社くらいスポンサーがついてたからな
たけしが当時の年収は230億だとか言ってたけど原さんも200億こえてただろうね
ヤクザに1億なんて俺らの1万円くらいの感覚なんだろうな そんな金銭感覚が麻痺しているタツノリだからこそ、賭けゴルフに勤しんでいたんだろうなw 巨人にしては珍しく阪神や中日みたいにタニマチに可愛がられすぎ この年から原の工藤アレルギーが始まる…
シリーズの視聴率から考えて今年のような醜態をこの年にやらかしていたら藤田は即座に解任、下手したら4戦の前にネタ流されて読売には帰れなかったのでは
そうなると史実、変わったかも 人体や物体じゃないものをどうやって”肉体改造”させるんだw 9番に他チームならクリーンアップ級の石毛(303 16HR)が入る打線の西武はずるいと子供心に思った 「たった一年で」
自軍の主砲・山本浩二に本塁打王を獲らせるため、広島投手陣が中日・大島康徳に4打席連続四球を与えた。中日にとってはシーズン130試合目、
ここまで36本塁打の大島を一番打者に起用したがトップバッターの4出塁を得点に結び付けられなかった。前年の最終戦では田尾安志の5連続
敬遠を悉く得点にして8年ぶりの優勝に繋げたが、83年中日の最終戦は新鋭・川又米利の2点適時打で完封を免れるのが精一杯で広島に完敗、
ヤクルトも同日敗戦で何とか最下位を逃れたという日になった。
左右のエースと目した都裕次郎と小松辰雄の24歳コンビが共に振るわず、投手の台所事情を苦しくした。都は6勝のうち先発勝利は5月に挙げた2勝
のみで、後半戦は中継ぎに回ってチーム最多登板だったが防御率は4点台後半だった。小松は前半だけで10敗してトータルもリーグワーストタイの
14敗、好投しながら援護の無い試合もあり防御率はリーグ5位だったがムラのある内容で2年続けて期待に応えられないまま終わった。チームが
5割近辺の戦いをしていた5月、ストッパー牛島和彦の4度に亘る救援失敗も痛かった。
中日は前半戦だけでも5連敗が2度、3連敗が6度の体たらくで、5月後半からは大洋と阪神との最下位争いを演じ、3年ぶりに最下位ターンとなった。
2ケタに上った借金を返すべく、後半戦は都との配置転換で牛島を先発に回し、安木祥二は中継ぎに戻した。トップバッターに宇野勝を据える新しい
オーダーも当たり、8月は13勝7敗と勝ち越してAクラスに浮上、ようやく前年覇者の巻き返しを思わせた。宇野は8月だけで11本塁打、同じく大島が
10本塁打で山本浩を追走し始めた頃だった。9月も中旬には一時借金も2まで減り、4月28日以来の5割が見えた時期もあったほどで、3位を
キープし続けた。しかし10月頭の阪神2連戦に連敗して5位に転落すると、6日から8連敗の急降下でAクラスは絶望的となった。
本塁打王の大島、最多安打の田尾、リーグ最多タイの二塁打を打った谷沢健一は安定した成績を残したがケン・モッカ、平野謙、上川誠二、故障離脱
のあった中尾孝義が揃って不振で自慢の打線がリーグ最下位のチーム打率だった。フロントと監督の間もチグハグで、Aクラス争いの8月に退任の
噂が持ち上がり、8連敗の最中である10月11日に次期監督・山内一弘の就任が発表された。「3年契約が終わったら辞める覚悟だった」と後に
近藤貞雄監督は言ったが、辞めると分かっている監督の下で選手がまとまる訳もなく監督交代発表後も1勝6敗、最後は4位・阪神とも7ゲーム差と
水を空けられた中日、優勝からたった一年で近藤は寂しく去った。 (了) >>617
互いの立場が変わっても、それは不変だったw >>347
オリスレのレスバの副産物?で広島や阪神の観客数が出ていたが広島はこの年だけ100万人割り込みしているのな… その割にこの年の視聴率記録だした試合は巨人×広島か広島×巨人戦なんだよな
ヤクルト×巨人や中日×巨人はおろか、阪神×巨人ですらそこまで取れてない
しかも広島が2位
球場に行かないで中継にする広島ヲタが多かったのか? >球場に行かないで中継にする広島ヲタが多かった
仰る通りで(´・ω・`)
広島が民放4局体制となりカープが初優勝した1975年にカープ主催ゲームの全試合でのテレビ中継体制が事実上整い、連日広島市民球場の
カープ戦がテレビ中継される様になったのも大きい。
ちなみに1975年以前はクロスネット等に由来する編成上の都合で、プライム帯に差し込めるローカル枠が極少なかったりで、主催ゲームの
半分ほどはテレビ中継されず、既に主催ゲーム全試合中継の体制を整えていた地元ラジオ局RCCラジオに頼るしか無かったそうだが。
1980年頃から広島市民球場での観客数の伸び悩みが目立ち、当時からカープ主催のほぼ全てのゲームがテレビ中継されている弊害
との指摘もあった為、当時メジャーでは主流だった主催ゲームのテレビ中継をシャットアウトし、ビジターゲームのみテレビ中継を認める
方式への変更が球団内で検討されるも、カープ戦がドル箱となっている在広各局の猛烈な反対で頓挫したという話も聞いたっけ。 ちなみに1975年以前の在広各局の系列関係
RCC→TBS系だが、民教協繋がりで関係があったNET系も人気番組も含め一部押さえていた。
HTV→日テレ系・フジ系の完全クロスネット(当時はフジ系色が強かったとの指摘も)で、編成担当を日テレ担当とフジ担当に分け、
双方キー局の編成の情報漏れを防ぐ為、それぞれの担当を交流させないようにしていたとの話も。
HOME→先行2局から冷遇されていたNET並びに東京12が編成の軸の筈だが、RCCにNET番組の一部を押さえられたり、HTVの編成
に対する牽制か読売系やフジ産経系も株主に加わったりで、HTVの編成から外れた日テレ&フジの番組を同時ネットしていたり、TBS系
ネットから外れたABCのローカル番組の番編ネットが検討された(こちらは実現しなかった様だが)り。
と、3局とも複数の在京キー局への配慮が優先し、弱小チームに過ぎなかったカープ戦中継どころでは無かったという感じで(w)。
それが1975年のテレビ新広島の開局で系列関係がほぼスッキリした(=在京キー局との交渉の負担が大幅に軽減された)事と、
全く同時にカープが強豪チームに伸し上がった事が重なって、各局ともカープ戦中継を編成の軸に据える様になった。 >>616
江川は不振だったけど、讀賣は独走優勝だったのか 28歳のシーズンで「衰え」なんてことがあるのか
いくら本人は32歳で引退したとはいえ 球速が目に見えて下がり、成績も前2年の様な無双では無くなったからねえ。
1979 8勝10敗 2.80
1980 16勝12敗 2.48
1981 20勝6敗 2.29
1982 19勝12敗 2.36
1983 16勝9敗3s 3.27
以降防御率3点以下を記録したのは1986年のみ。 江川は技巧派になって長く投げ続けるという道はなかったのかな?
この年、33歳の西武の東尾は最多勝・防御率第一位・MVPを取っているのに フォームが縮こまった感じになってる。自分で考えたんだろうが。 >>635
年俸1億にもほど遠かったからな
テレビタレントと副業やってた方がはるかに高収入だったし
江川ブランドをこれ以上毀損するよりも引退する方がよかった 江川ってコスパを考え抜いた野球人生だったんだな
・何があっても巨人に入って、野球選手としてのブランドを作り上げる
・衰えたら早く引退してブランドを守る
・野球で築いたブランドでテレビに出てもっとお金を稼ぐ 1981年 巨人日本一も読売クラブは初優勝目前の最終節でクソ審判のせいで優勝逃しアベック日本一ならず。
1983年 読売クラブ初優勝も巨人はあとアウト2つ取れず日本一ならず。
野球とサッカーアベック日本一は1994年のみ。 >>637
逆に近年は年俸が上がった代わりに引退後の食い扶持が激細リしたから
かなりボロボロになるまで現役にしがみつく選手が増えた >>641
松井稼頭夫、鳥谷、福留、村田あたりは昔ならもっと早く引退していただろうな この年の見立ては巨人阪神中日広島で伯仲かと言われていたが… 「50番トリオ」
若い選手の活躍はチーム全体に活気を与える。それが強いチームとなれば、歯車はさらに回り勢いに拍車が掛かる。
83年の巨人は4月に13勝4敗、5月に17勝4敗1分けと序盤から独走、6月も3連勝で始まっていて6月3日の時点で33勝8敗1分けで2位・広島に
9ゲーム差をつけていた頃もあった。好成績の要因となったのが「50番トリオ」の躍進だったが、3人の活躍は主力選手を大いに刺激した。
開幕2戦目から早くも出現したのが、背番号50の駒田徳広だった。史上初となるプロ初打席満塁本塁打を放ったのはあまりに有名だが、駒田自身
「運が良かった」と思える事象が重なった。一つは正一塁手の中畑清が試合前練習で石渡茂の打球を右手首に受けて骨折した事、もう一つが相手
球団である大洋の先発予想が前年イースタンで打った7本塁打中3本を打っていた右田一彦だった事から、助監督・王貞治が12年目の山本功児を
差し置いて監督・藤田元司に駒田スタメン起用を進言してくれた事だった。第2打席にも久保文雄から2点適時打を放ち、猛打賞に6打点と実に
派手なデビュー線だった。満塁での強さはプロ初打席にとどまらず、4月末の大洋戦でも逆転となる決勝の走者一掃二塁打、中畑が復帰していた
ため右翼手で出場していた5月6日の中日戦でも小松辰雄から同点の走者一掃三塁打といったように、売り出した時から“満塁男”だった。この年は
86試合で52安打ながら、打点47の勝負強さを見せた。
駒田の満塁弾でデビューから6日後の開幕7戦目に、谷間の先発で登板したのが2年目・19歳の槙原寛己だった。槙原のデビューも派手で、阪神
打線を「打たれて当たり前」と思いながら延長10回で被安打5奪三振9の完封で抑えた。初回いきなりキム・アレンと北村照文の一、二番に連続
死球でスタート、それでも開き直って三番・佐野仙好を三直、四番・掛布雅之から三振を奪って波に乗った。2戦目の登板となったヤクルト戦でも
1失点完投、その次の大洋戦でも味方打線の逆転もあって3失点ながら3試合連続完投勝利を挙げた。5月14日の中日戦での2安打完封で開幕
からの連勝を4まで伸ばした槙原、結局最後までローテーションを守り前半と後半で6勝ずつを挙げるコンスタントな活躍で12勝9敗1Sの成績は
新人王に相応しかった。
50番トリオで一番実力が上ではないかと言われていたのが吉村禎章だった。デビューも前年に3打席のみだが一足先に済ませていた吉村は4月
15日に初安打を打ち、17日に怪我の松本匡史に代わり一番打者でプロ初先発を果たした。6月29日から3試合連続本塁打を打つなど代打や
途中出場が中心だったが84試合出場で打率.326と高く、85年以降の3年連続3割打者の片鱗を見せた。吉村は当時を「レギュラーとの力の差を
感じたしきつかったけど、若い頃だったから苦にならなかった。球場に行くのが楽しくて仕方なかった」と懐かしんだ。
吉村は通算1000安打に僅か及ばず98年に引退、駒田は横浜へのFA移籍で寿命を伸ばし2000本安打の金字塔を打ち立て00年までプレー、
槙原は3人の中で最も長い19年間の現役生活で159勝56Sの成績を残した。自身の81年の初優勝時「長島遺産」と言われた藤田監督だったが、
「50番トリオ」の83年の成長は次期監督・王貞治への“藤田遺産”の引き継ぎと声を大にして言っても良かったのではないか。 (了) 今だったら江川の成績なら2億円くらいは行ったかな?
40歳くらいまで現役を続けたかも >>648
いや、分からんぞ
35歳ぐらいでスパっと辞めそうな気がする 衣笠は初の3割を目前にしながら
120試合目大洋戦で5打数ノーヒットで.297に落とし.292でシーズン終了
もう3割無理だと思ったが >>648
単年で更改してたらこんなものかな
多分FAを見越して複数年の大型契約がどこかで結ばれるだろうから
3億はいってたんじゃない
09-10
年俸1,500万で入団
09-10 (1,500→2,500)
16-12 最多勝 奪三振 (2,500→6,000)
20-08 最多勝 防御率 奪三振 MVP (6,000→18,000)
19-12 奪三振 (18,000→24,000)
16-09 (24,000→20,000)
15-05 (20,000→20,000)
11-07 (20.000→18,000)
16-06 (18,000→25,000)
13-05 (引退) いくら直近3年間が凄かったとはいえ、16勝9敗で年俸ダウンというのも、かわいそうな気がする 6000万円になった時は巨人史上ON以来の3人目と
書かれてた 82が19-12の年で
83が16-9の年
この辺のさじ加減が難しい
82は好成績だったけどV逸
83は成績を落としたけどV奪還(ただしシリーズでは西武に敗北)
82 19-12 18,000→22,000
83 16-9 22,000→25,000
84 15-5 25,000→22,000
こんな感じでどうだろう?
まあこの辺で大型複数年が結ばれて成績と年俸がリンクしなくなるだろうが 15勝でダウン
そんなことしたら、モチベーションなんか保てなくなるだろうな 原と並んで50周年V逸の大戦犯扱い
4年連続でクリアしていた200イニングを割り込む
この辺がマイナス評価要素かな
現実は4,400→4,800の微増
理不尽なのは同じ15勝(11敗)の西本が5,000万で投手トップに
この頃の巨人は原が吉村に抜かれたり
理不尽な査定が多かったな >>655
チンケな数字しか残してない癖に大型契約結ぶ現役の奴らに爪の垢を煎じて飲ましたいな。 今はFAがあるから仕方がない
たとえチンケな成績であっても、チームに必要不可欠な選手であれば尚更 それでもメジャーと比べたらまだ期間も金額もたいしたことないんだけどな
この点に関してはソフバンがまつなかで大失敗した後遺症という面が大きいけど >>652
>>655
現代だと、ポスティングなんかもあるからね この年の今日、球界で2つの大記録が誕生
(福本豊が盗塁の世界新記録樹立&大杉勝男の両リーグでの1000本安打達成) >>68
ただ面白いことに、投手コーチには殆ど招集出来てないんだよね。
監督の在任期間で一緒に共にしたのは、河村英文の99.00年くらいだよね。だからなのか、仰木の下で育った選手は、そんなにいないイメージ。阿波野とか平井とか
育成面よりも酷使して、しばらく鳴りを潜める選手が多いイメージ。 >>93
あの当時ですら、もうすでに中堅ベテランがセンターラインだし、そう考えると、かなりの偉業なんだけど、通算成績と相まって、ザ弱小チームのエースってイメージが強いよね。 >>341
単なる一シリーズの1つくらいにしか思われて無いんじゃないかな。今でこそ、その当時の山田久志や福本、ブーマーとか、中日側も田尾や大島、小松とかで凄いメンツだってなるけど、当時の阪急や中日の立ち位置考えると、地味の中でも地味な下手すると84年以上に空気なシリーズで終わりそう。 この年の日本シリーズは最高の結末だった
悪役(讀賣)の悪あがきも含めて >>666
おまけに捕手がドカベソw
まあその捕手もベストナインなんかもらっちゃったし
ホームラン王も出たし 二遊間もそこまでトシでもない
ただカズについてはその年を除けば孝に次ぐ二番手という感じだった 落合なんか首位打者を取ってダウン提示
そりゃ荒れ狂うわけですw チーム自体が最下位だったからとはいえ、首位打者なのにダウン提示って
ムチャクチャにも程があるよね タイトル3つ→タイトル1つ
これで減俸だったら、選手も唖然だろうよ 数年後、後輩の横田がルーキーイヤーから2年連続3割の偉業達成!
なのに「同じような成績だから」現状維持
本人「仕方がない」 アホの横田か! >>26
阪神と横浜の久々の優勝だったからな
日本シリーズの結果も(●●○○●●)で共通している 西武清原の白パンツビジターユニや金本の縦縞カープユニみたいなもんか 落合選手の野武士ユニ
落合監督の山田版ドジャユニも パ・リーグ、2シーズン制廃止
駒田徳広、史上初のプロ初打席満塁本塁打
藤田平および山崎裕之、2000本安打
野村収および古賀正明、全球団から勝利
高橋三千丈、史上初の無補殺完封勝利
福本豊、ルー・ブロックの記録を破る通算939盗塁
大杉勝男、史上初の両リーグ1000本安打 全球団勝利も交流戦のせいで全然珍しくもない記録になってしまったな >>686
それは前年。
この年は10年ぶり甲子園開幕(対ヤクルト)ってことで話題にもなった。 >>687
失礼。昭和偶数年で日米野球無い年やから甲子園で開幕戦出来たんやな。4年後も同じく。 そっからは試合数が増えて大震災の開幕延期でしか甲子園で開幕してない >>689
1993年4月10日〜11日(日)中日2連戦 阪神が甲子園で開幕戦を行うこと
これ自体が最近は珍しいからね 「水先案内監督」
前年オフの伊東キャンプを経て迎えた大洋の83年シーズンは、4年ぶりのAクラスと勝率5割という結果を残した。監督の関根潤三が実施した
伊東での地獄の猛練習は若い選手を鍛え、沢村賞に輝いた遠藤一彦を筆頭に高木豊や屋鋪要、金沢次男といった選手がチームの骨幹と
なった。関根が「巨人がやったのと同じメニューだ」と言った練習を課したのも、全ては“長島大洋実現”のためだった。
大洋は土井淳監督退任の81年オフから長島茂雄の招聘に熱心で、関根就任も長島への下地作りともいわれた。79年巨人が伊東キャンプを
行った時は2年後に日本一になったが、長島は退任して浪人の身だった。関根にしたら「今度はある程度出来上がった戦力を引き受けて」との
思いだったのか。
長島は80年に巨人監督を退いてから93年に再任するまでの間、非公式も含めて7球団から監督就任のオファーを受けたが、中でもこの時の
大洋は熱心なものだった。83年も若手に「とにかく走れ」と言い続けた関根も、自身が“水先案内監督”である事を認めていたぐらいで、猛練習
の理由として高木に対して「仮に長島が来た時、そういう選手が欲しいんだ。お前をそういう選手にしておかないといけない義務がある」とまで
言ったほどだった。
まだ控えの層が薄い事や、先発投手の枚数が足りていない点はあったが、エース遠藤の一人立ちや新打線の機能で6月以降3連敗が一度
のみと安定して、最大12あった借金を完済した発展途上の大洋の存在は、長島の目に魅力的に映ったはずだった。この年のペナントレース
中にはその気になってきた長島だったが、周囲の声も手伝い日本シリーズ後に正式辞退の連絡を大洋に入れた。ともあれ終盤の8連勝、
優勝した巨人に13勝11敗2分けとリーグ唯一の勝ち越しを決めたのは見事だった。
育った若手にレオン・リーとジム・トレーシーの両外国人、長島が監督時代に欲しがっていた途中加入の若菜嘉晴という正捕手候補も揃える
チームの刷新を見るに、関根も球団もかなり「本気」になっていたが、関根は87年にもヤクルトで長島への水先案内監督を引き受けて、またも
若手を育て上げる役を演じた。 (了) >>14 >>17
ミドルネームは『スティーブ』
フルネームは『テリー・スティーブ・リー』 >>689
そして、3月中に開幕ということになったからね >>693
全米ドラフト一巡目だったんだな。
彼が乱雑に使ってた住居がゴキの巣窟となり、そこをドン・マネーに与えたことが、マネーの退団の要因だった。 テリーリーって2ヶ月ほどの出場で10HRしたんだよな
何で解雇したんだ?よほど脱臼が酷かったのか? >>696
まあ、酷かったのだろうね。
単純な成績だけみれば、クビ切るものではないからな。 >>698
でも、1984年はメキシカンリーグで110試合に出て.351、18本、92打点、OPS1.015の好成績残してるんだよなあ。 ドカベンに盗塁されるなんてはずかしい! からじゃないのか >>701
晩婚で、結婚してすぐ亡くなったんだな。 戦力的には巨人広島と差は無かったのにBクラスに低迷した前年の覇者中日
何がダメだったんだろう? >>703
打力はさほど衰えてなかったが、投手陣がいまいちだったんだろうなあ。特に都が、前年出来過ぎとはいえ、大きく成績落としてしまった。
あと延長規定が変わり、引分が激減したのもあるかもね。 >>704
延長規定が変わった事で、7回同点で牛島投入で引き分けに持ち込む戦術が使い辛くなったのが全てかと。
前年も130試合の半分以下の64勝しかしてない(しかも巨人、阪神よりも勝ち数が少なかった)チームだし、
前年4位に沈みながらも5割以上だった広島が本来の調子を取り戻せば、こんなもんでしょと。 この頃の中日は、上位→下位→上位→下位
てな感じで、順位が変動していたね >>701
オルセン採ったから溢れてしまたんやな。
当時は支配下3人一軍2人やから。 79年にいたスタントンと勘違いしてたわ
ラムは前年だったな
ストローターは他球団でも活けた気もするが 44マグナムやアースシェイカーとこの年からジャパメタ全盛期に入ったな 香川伸行のプレイをYouTubeで見たが、相手二盗時、捕球してから二塁に送球する動きが意外に俊敏だった。
あの腹で、ていうと失礼だが、、、 >>709
ジョンストンとかいうのもいたよな どうもややっこしい 巨人定岡、阪神小林、ヤクルト松岡、ハム工藤、ロッテ水谷と出だしは好調だったのに
途中から出れば打たれ状態になってたな 巨人の定岡はこの年不調だったので翌1984年に出た
ケイブンシャの大百科シリーズの「1984年巨人軍大百科」の
表紙から外されたそうだ。思えば1983年開幕から巨人の人工芝球場で
負け知らずと言う記録を6月4日の後楽園での広島戦で止めて
しまったのも定岡だったな・・・・・・。 >>713
そりゃまあ、他チームだって多かれ少なかれ研究はするだろうからね