1983年のプロ野球
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掛布が江川を打ち込んだ年で通算3本 10打点
2ランと満塁の1試合6打点の試合があった 山本浩二サイクルヒット達成の三塁打は
余裕でアウトのタイミングでベース上でボール持って待ってた掛布が
空気読んでわざとタッチを遅らせたもんな。
で、セーフの判定後に安藤監督共々茶番抗議(笑)
ワンサイドゲームの終盤だから許されたが、接戦なら八百長疑惑持たれただろ 1983はもう阪神は現代の縦縞ユニだったのかな
もうバースも入って打っていたようだし
阪神のあの水色のユニだけはあり得ないな
70年代の空気を引きずっていて暗い時代
オイルショック、米不足、安保闘争など
灰色のイメージのある寂しい暗い時代
85年のトップバッター真弓から始まる鮮烈な縦縞ユニで
日本の新時代も夜明けとなった
相撲も憎い、憎いと言われた北の湖から
正統派ヒーロー千代の富士が出て来た。 >>129
野球人気のピークって1983年だよな
と間違えた >>129
ホーム用は縦縞帽とセットで前年の82年にリニューアルしたが、
ビジターは変わらず79年モデルの青ユニを継続。
翌84年からビジターも黒帽にグレー地に縦縞のユニに変更。 グレー縦縞に替わった時は曇天に雨って揶揄されてたのにな。
85年ですっかりイメージが変わった。 それまでグレーって近鉄だけだったのが
阪神以降、ビジターユニを水色からグレーにするチームが増えたな ロッテ、5月上旬までの謎の快進撃も
結果は断突の最下位
しかし山本一義は何をしに川崎まで行ったのか不明だ 広島はこの年から9年連続Aクラス 優勝3回 90年以外は優勝争いと
最も安定していた時期と言えるが観客に飽きられつつあったのが痛かった >>135
勝ちすぎて優勝の喜びの味わいが薄くなっちゃったんだろうか? 独走した西武に対し、南海は11勝13敗2分と大善戦。打倒西武に力を使い過ぎではあったが、その姿勢は評価された。今のソフトバンクに対し、このような戦いをする球団はいないだろうな。 独走を止めるより確実に勝てる相手に全力尽くしてAクラスだもんな >>138
よく犬作戦肯定派は噛みつき作戦は上位に無駄なパワー使いすぎて下位に勝てずめちゃくちゃになると言うけど、これで成功したチームがあるわけでもないし、噛みつき作戦でボロボロになったチームもそんなにあるかと >>137
何しろホークスは南海時代からポストシーズンの弱さには定評があるからな。 >>140
その最たるものが2004年〜2010年にかけてだろうなw いわゆる鶴岡黄金期でも日本シリーズ制覇できたのが
杉浦四連投の年と第一回東京五輪(予定)の年だけか >>134
古葉長期監督でなければ広島監督の話もあったんだろうけど >>143
やらなくてよかった
打撃コーチとしての手腕は認めるが監督としては… 巨人角が自己最高成績の年だと思うけど山本浩二や衣笠を抑えた記憶がないんだよな 確かに、エース抜きで勝てと言われても
厳しいものもあるよね。 広島はライトルを切って結果長内,山崎,長嶋がブレークしたが
ライトルが残留していたらもう少し優勝争いが面白くなっていただろうか 加藤英が広島にトレードできたのがこの年のはず
でライトルの穴埋めに期待されたが外れ
で、後半から長内が抜擢されプチブレイク
優勝はできなかったが前年度Bクラスから巻き返し、翌年の優勝の礎にはなった
山崎の外野手コンバートはこの年か?
最初はセカンドだったはず
外野手コンバートで鉄壁の外野手ができた 日テレのクソみたいな資料読みってこの年あたりから始まったような
「原は言います、4番としてのうんぬんかんぬん…おっと打ち上げた!」とかを小川とかが言ってた
んなポエムで原が打点王なったし数字も高かったから味をしめた わかりやすい情報と感動の共有のため資料をフル稼働た新しい実況!とか売り込んでいたような 巨人のこの年のシーズン最終戦、巨人の最終回の攻撃に堀内恒夫が現役最終打席で豪快なホームランをスタンドに叩き込んだ
この人、野手でもかなりの結果を残せたんじゃないかな? ノーノーついでに1試合3発とか
紅白戦にファンサービスで登板した王から特大アーチを放って
王の花道をズタズタにしたとか ブーマーが西宮で場外ホームランを打ったら
配られる予定だった幻のブーマーパン 演出くさくなりだしたのは、確かにこの年辺りからだとは思う
解説者もタレント揃いだったし
青田昇、金田正一、村山実etc とくに日テレの実況はひどいよね
あれじゃみんなみなくなるわ
うざいもん 実況が大げさになってきたのは、当時の新日ブーム立役者・古舘伊知郎カゲキ実況の影響 >>163
古舘のせいでそういうアナウンサーが増えた
ヘンなあだ名つけたり、プロレス以外F1や世界陸上でも実況してたが 小川さんは、優勝を覇権と言ったりレフトスタンドを左翼にアーチをとか
割と難しい言葉を羅列する人だった
古舘伊知郎に影響与えたのが日テレ吉田慎一郎
この人が絶叫の走り
ただこの人は絶叫だけどポエムはなかった
ポエムを本格化したのが船越
当時、視聴率30超えたお化け番組だっただけに、周囲も期待してたんだろうな 原が打席に立つたびに実況がうざかった記憶があるわ
打点王のこの年が走りじゃなかったか
ポエム読売も原が最初だよな
4番としての役割がどうのとかくどくどと言ってんのな >>62
参照 日本プロ野球記録
↓
http://2689web.com/1983.html
この年はヤクルトから貯金7を稼いだのが奏効した
もっとも10年後にそのチームの久々の日本一になって
高木が前年の調停問題で解雇された訳でw 11月1日火曜日、快晴の後楽園で初の日本シリーズ観戦。当時は13時開始だったが、後楽園は自由席の行列が
外堀通りや白山通りに長くできるので8時半くらいに開門していた。
試合は巨人が9回裏2死から篠塚・原・スミスの3連打で同点、西武は東尾から森に代えて中畑がサヨナラ打。
森って中日の監督の森繁和、いまのヤクザ面からは想像もつかないほど頼りなかった。
その後、新宿伊勢丹?で文化放送の野沢那智の公開放送に行った。今年なんかナイター終わって帰るのに皆さん
苦労してたみたいだけど、デーゲームでそういう時間が取れたのも有難かったね。那智さん、パックインミュージック
の頃から聴いてたけど、2010年の中日−ロッテの初戦の日に訃報を知ってとっても悲しかった。 「三年計画の2年目」
80年代におけるセ・リーグの順位の変遷は、毎年のように上位争いをしてきた巨人と広島、そしてAクラスは共に1度ずつで下位に低迷し続けた
横浜大洋とヤクルトといったように、ある程度はっきり分かれていた。当時優勝争いとは無縁だった大洋の80年代唯一のAクラス入りが、83年
だった。
球宴明けの7月以降を4ヶ月連続で負け越し、17勝30敗と失速した前年の後半戦を引きずるような83年のスタートだった。4月は15戦で3勝しか
出来ず、5月も浮き沈みが激しく借金2ケタを数えたチームは中日と5位争いをしていた。この間、横浜スタジアムで10連敗を喫するなど5月末まで
地元で2勝11敗1分けと弱かった。個々を見ても初の開幕投手に指名した遠藤一彦が6月3日まで1勝5敗、打線の援護も毎回2点以下だった。
開幕ローテーションに組み込んだ期待の2年目・右田一彦は広島戦以外では滅多打ちに遭い3連敗、防御率9.45で中継ぎに降格した。
打線でも切り込み隊長に指名した移籍の加藤博一が不振で日替わり一・二番コンビを余儀なくされて攻撃のバランスを欠いていた。
調子を取り戻したのは6月に初の月間勝ち越しを決めてからの事。ここで中日、阪神をかわし4位に浮上すると、7月には遠藤にようやくエンジンが
かかり首位と12差ながら3位で折り返した。それ以降は4連敗が一度もなく、9月下旬からの8連勝も効いて4年ぶりのAクラスと5割を勝ち取った。
原動力となった遠藤は8月からの12連勝を含む18勝を挙げて最多勝、ベテラン平松政次は8勝のうち巨人戦4勝1敗と巨人キラー健在を示して
巨人の全球団勝ち越しを阻止した。打ではロッテから移ったレオン・リーが30本塁打で98打点、ジム・トレーシーも3割をクリアするなど助っ人
コンビが打線に厚みを加えた。
指揮官の関根潤三にとっても監督生活唯一のAクラスと5割、83年を「3年計画の2年目、成功と言えるでしょう」と振り返った。練習をあまりしない
チームに活を入れるため前年秋に行った伊東キャンプでは、長島茂雄が79年秋に行ったものと同じ練習量を関根は選手に課していた。その猛練習
から遠藤や高木豊、屋鋪要がレギュラーを掴んで、シーズン成績からも計画実現への手応えがあったのか関根は「長島が来た時のために選手を
準備した」と認めた。「三年計画」というのはもはや“85年長島大洋”のためといった感じだった。 (了) >>167
古舘に影響を与えたのってQRの戸谷さんだろ >>133
60年代は逆に、グレーのビジターユニの
チームばっかりだったのだよ。
70年代前半辺りから青系が増えた。 >>174
>>133だけど無知でスマン
阪神も昔はグレーの「OSAKA」ユニだったのか どういうことだ?
3勝2敗で王手をかけた状態から連敗→日本一を逃すのは
他の年でもあったことだし…。 西本をリリーフさせたのが球団史上最大の汚点だな。
「日本シリーズの決定的瞬間」っていう文庫本に書いてあったが、
藤田は江川を投入しようとしたところ、王が「西本でいきましょう」と助言。
日頃から江川を「嫌な奴」と罵り、胴上げ投手にはしたくないという邪心が生んだ愚行。
翌年以降の王政権の迷走を見事に予告した第6戦だった。 でも江川ってそれまで2試合とも打ち込まれてたんだし
単に西本の方が信頼できると思ったからじゃないの? 本来ならこの当時の巨人の抑えは角だけど、肘を痛めてて日シリには登板不可能に近い状態だった。
西本は81年日シリでの活躍もあって首脳陣の信頼度も高かった。結果論だけど
鹿取とかをうまく使い分けてたら・・・ この年の日本シリーズ
リアルタイムで見たかったなぁ 前にもこの板の「巨人優勝あれこれ」スレでも書いたが
この頃(1983年)フジテレビの日曜18時からスポーツ天国ってな
スポーツ番組があってその中で「大山家の御父さん」こと
大野しげひさが担当していた「やじうまデータランド」で
巨人と西武が日シリで対戦したらどっちが勝つ?と言うのを
やっていて色々なデータを基に西武が勝つ!と言っていた。
これを見て暫く大野しげひさを目の敵にしていた当時小5のアホな俺。
結局この年は西武が2勝3敗から連勝して日本一になってこの番組の
スタッフもホッとしていたんじゃ無かろうか? この時代のセリーグの投手はバッティングがうまい選手が多かった 特に巨人の投手
その中でも江川はこの年は本塁打3本打って打率は2割8分6厘と下手な野手よりよっぽど打っていた
同投手は前年も3本塁打を記録している テリーリー 背番号77
一か月くらいは活躍してインパクトあった 「名調教師と荒馬」
球団史上最高勝率を29年ぶりに塗り替える圧倒的な強さだった。連覇を目指して臨んだ83年西武のシーズンは、二期制が終わりこの年から始まる
はずだった変則プレーオフも実施させないほどの強さだった。円熟期に入っていた選手がスタートから実力を発揮、初勝利こそ開幕4戦目だったが、
4月は4連勝2回を含む10勝5敗1分け。同じく開幕ダッシュに成功したロッテと5月上旬までは首位を奪い合ったが、5月7日に首位に立ってからは、
最後まで先頭を走ってゴールテープを切った。唯一の首位攻防といえる5月17日からの鹿児島での対ロッテ3連戦も、初戦は石毛宏典の走者一掃
と大田卓司の1号、2戦目はテリー・ウィットフィールドと片平晋作の一発で相手先発・中居謹蔵をKO、3戦目はエース・東尾修の好投に立花義家が
逆転2ランで応えて大田も2発4打点の快勝、3連勝で7ゲーム差と突き放す独走の始まりとなった。
6月を終わってもわずか18敗、早くも貯金を25として2位・日本ハムとの差も12ゲームがついていた。毎月勝ち越し、全球団相手に勝ち越しの圧勝
レースを演じた西武の打線を牽引したのが田淵幸一だった。7月13日の骨折離脱まで70試合で29本塁打、田淵が本塁打を打てば22勝2敗1分の
「田淵神話」まで生まれた。田淵不在の後半戦もテリーとスティーブ・オンティベロスの両外国人に山崎裕之、大田、石毛らが打って穴は埋まった。
9月1日のマジック25点灯後も、20試合で優勝決定というハイペースだった。投手陣は安定感抜群で東尾、高橋直樹、松沼兄弟、杉本正の5人で
先発ローテーションを回し、五本柱の先発登板は130試合中125試合にも上った。5人は86勝のうち70勝を稼ぎ出すなど、全員が二桁勝利を
挙げた。
投手編成の妙と強力打線構築で連覇に導いた広岡達朗監督だったが、前年同様その手綱を緩める事はなかった。田淵、高橋、大田らへの厳しい
注文は勿論、夏場に軽度の脇腹痛を起こした松沼博への二軍通告、三回KOの大黒柱・東尾に二軍降格を匂わせた事もあった。極めつけは
マジック点灯の2日後、投げた6投手全員が失点して大敗した試合後に出した西宮での外出禁止令。荒馬ともいえる選手を相手に緊張感を保たせ
ながら、毒舌を交えた正論で押し通す調教師・広岡の頭の中には「妥協」の二文字は微塵も無かった。 (了) 伊勢「広岡さんのやり方はどこも同じ。軍隊式の管理野球そのもの。真逆が三原さん。見事なまでの放任野球だった」 5ゲームプレーオフ込みのマジック
オールスター前の阪急戦で40いくつかで点灯したと思ってたら一度消えてんだな
9/1の2位・日ハム戦を前に11.5差
直接対決7試合、プレーオフ5試合で理屈上ハムに自力の目が残ってたとw ミニプレーオフも1回ぐらい見たかったなあ
廃止翌年から混戦とか嫌がらせかw 前後期制導入(1973年)
DH制の導入(1975年)
んで前後期制廃止のこの年はミニプレーオフなんて制度があったのか
変則的なルールで新たにこれまでのシーズンとの差別化を図っているように見える
少しでも野球ファンに注目されるために新しい制度をどんどん取り入れるパリーグの体質はこの時代から既にあったんだな これはもう一切肯定的に評価しないほうがいいよ
決定時点でマスコミファンに苦し紛れもここまで来ると見苦しいとボッコボコに叩かれた愚策
適用3シーズンとも独走優勝でさらに叩かれる
廃止になってそれ見たことかと笑われ、翌年の西近混戦で129試合目で優勝決定するも
「昨年までもプレーオフがあれば」という声はほとんど上がらなかった >>175
ひよっこ晋三稀勢の里なはずが
ひよっこ 数字とれない
晋三 加計砲
稀勢の里 怪我
どうしてこうなった 巨人がアウトを取る度に
ドドドン、ドドドン「ア〜ウ〜ト〜」
ドドドン、ドドドン「ア〜ウ〜ト〜」
ってやってたのは83年だけか 今のCSよりは合理的かと思う。
理想はCSもプレーオフもない単純な1シーズン制だけど。 >>199
稀勢の里とひよっこには頑張ってほしいよね。
あとはどうでもいいがw この年(1983年)の5月5日の後楽園球場の巨人対阪神で
阪神に1点リードされていた巨人は9回裏2死から原の2ランで
逆転サヨナラ勝ちした。当時小5だった俺はTVで見ていたが
スタンドにギリギリ入る打球だったな。ちなみにこの日は
ロッテの落合も逆転サヨナラ2ランを打っていたりする。
こっちの方の相手は忘れたw >>203
2アウト1塁の場面で相手投手は山本和行だったね。
打った瞬間、平凡な外野フライで試合終了かと思ったw
巨人が阪神を3タテ。翌日阪神ファンのクラスメートが「もう知らない」ボヤいて落ち込んでたな 少なくともパリーグは。
セリーグは前半の巨人独走が6月に失速し、広島が浮上。
オールスター前は広島が首位で折り返し、8月以降は2球団によるマッチレース。
9月に入り広島が急失速し10月1日からの最後の直接対決3連戦前に息切れ。 この年が視聴率ピークやったんやな。
人気最高の巨人が負けて西武に覇権が移った。
巨人に黄金期が来なかったんで徐々に離れていったんやろうな。 翌年から王が監督となり3年連続V逸。
85年の阪神フィーバー、西武黄金時代到来で巨人人気に陰りが。 野球年スレ見ればなぜこのあたりで一旦人気が落ちたかが書いてある >>180
事実かどうかもわからんし、事実だとしても西本に替える決断をしたのは藤田
坊主にくけりゃ袈裟まで憎いアンチ王か知らんが酷い言いがかりだな
そもそもこの時点までいかに江川が打たれて西本が抑えてたか把握してんのかよ? 広岡が何度も口にしていたが、
先発した1、4戦でKOしたが、江川はリリーフだと異常な力を発揮するから
もしリリーフで来られたら負けだと諦めていたら西本が来た。
そこへコーチの森が、前々日に130球を投げてヘバリ切った西本なら攻略できると。
ベンチも石毛が「逆転しようぜ」と音頭を取って意気揚々となった。 >>212
江川本人はリリーフを非常に嫌がっていた
現実に、長嶋が監督の時に何度かクローザーテストしてるが結果が良くなく、先発に固定したら2年連続で最多勝
よって広岡の江川評はサンプル不足の上に良くない結果をごまかしてのもので、的外れ
西本が快復不足というなら、江川だって西本の前日に100球以上投げて、バッティングで足を痛めて治療まで受けてる
現に同日に西本の次に登板して金森にサヨナラ打を許して負け投手
最初から江川出してれば逃げ切れた説は全く共感できない
で、本当に王が藤田に諫言して西本になったの?
ソースは?
仮に実話としても最終的に諫言を受けいれて西本を投入したのは藤田なんだし、責任は藤田が負うべき問題だろ ちなみに江川は、第一戦で自身はKO負け、第二戦でのライバル西本完封が堪えた?のか
休養にあたる翌日になんとブルペンで200球近く投げこんでスポーツ紙の1面にされてる
堀内がバカにするようなコメント出してたね
江川本人は必死だったんだろうが >>213
西本のリリーフ登板の件は日本シリーズの決定的瞬間って文庫本に詳しく書かれてる。
あの場面はテリーと山崎を角でいって、ラストを江川で抑える、
または角に任すってプランはなかったのか?
故障上がりでも角の変則モーションには戸惑ったはず。 文庫本wwwwwwwwwwwwwww
どうせ宝島あたりのムック崩れだろ、と思ったら松下茂典の新書か
結構嘘混ぜて、裏も取らない人だよこの人
角投入ないよ
少しでも戦力化したかったら1,4戦のビハインド展開のどこかで登板させてる
一発があって左も苦にしないテリーにいきなりぶち当てるとかいう発想がおかしいし
なんで山崎まで角で行って、江川に代えなきゃいけないんだ
左右の対応もおかしい 第1戦の0-6で迎えた5回裏
第4戦の4-6で迎えた9回表
山崎に定岡がダメ押しホームランを打たれて4-7とリードが広がった後
ここらへんで角を試してみる余裕すらなくて、いずれも定岡で行った(続投させた)
ってことはもう定岡>角って位置づけにしかならなかったのだろう ノンフィクションといえど、こういう証言の類は
AとBでいってることが違う(片方の言い分だけ採用)
あとから事実に合わせて証言者の記憶がうまいこと修正されている
いろいろ作ってる「読物」の要素が多分にあると思ってて
むしろ当時の新聞なりの談話を一次資料として引いてくれる方がまだ正確かもしれない
それを、読んでる人が「はあそうなんだ」で思う分にはいいけど、
それが事実だと他人にまで押し付けるのは難しいと思うんだよね この年のシリーズ敗退をきっかけに今日に至るまでの巨人凋落が始まった気がする。 原はこの年までは順調に伸びてた感じがあったなぁ
王巨人になってからは叩かれてた印象しかない 83 2700
84 4300
85 3870
86 3870
87 3870
88 6000
優勝できない名門の四番ってことで叩かれるのはやむを得んかもしれんけど
この給料の叩かれ方が可哀想だった。86年の更改では吉村に抜かれた
いまならFAを視野に入れた大幅昇給で複数年って所だろうに >>221
これ、普通の選手だったらとっくに
チームに三行半を叩きつけているよね。 >>221
85年の10%ダウンから、2年続きの現状維持。完全に優勝することが前提なんだな。 >>221
当時のロッテ・日ハムだったらこんなに給料くれないだろ。 >>218
そんな根拠で事実じゃないと決めつける方が妄想w >>224
落合みたいな消化試合の鬼が1億貰ってるわ >>224
日ハムの柏原は原と同じくらいもらってた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています