1989年パリーグペナントレース★2
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そもそも白幡は、西武時代はDH出場がメインで
捕手としてはほとんど出場してないよ。 伊東が戻るまで仲田
打撃が全然だったね
大久保、白幡など打撃の良い捕手はいたけど、森は捕手については打撃軽視だった。
今の銀仁朗も酷いしw 森に限らない西武の伝統かw 仲田は開幕前にシーズン10安打を目標とか、本気で話してて
記者の失笑を買ってたっけ・・・ 打撃の良い捕手はポジションコンバートされるのがライオンズの伝統。
田淵・大成・和田禿・貝塚・G.G.・友哉。 4月に西武球場で8回途中まで完全試合ペースだった西崎幸広投手から
チーム初安打となる本塁打を打ったのは大久保捕手だったような。
この年の工藤公康投手は過度の飲酒が原因なのか、
肝臓が腫れて骨に食い込む程で、
ともすれば命にかかわる重症だったらしいですね。
しかし、デストラーデ選手が加入してからの西武の勢いは凄かった記憶があります。
中継ぎの西本投手が(相手チームから見て)憎らしいほどに好投していたのが印象的でした。 西崎投手の完全を阻止する本塁打は清原選手でしたか。
嘘を書いてしまい、大変申し訳ありません。
>>76様、ご指摘ありがとうございました。 この年の3強に対しての世論は、
去年悔しい思いをした近鉄に優勝させてやりたい
西武は勝ち過ぎなので、あまり優勝して欲しくない
オリックスはどうでも良い
こんな感じだったかな? >>78
今年の大混戦のセリーグに良く似てるな。
近鉄=ヤクルト
西武=巨人
オリックス=阪神
ヤクルトは前年ある意味で悔しい思いをしてたし。(2年連続最下位) >>78
そのような風潮があった様な 印 象 がある ブライアント4連発の試合の後、清原和博が
「(ワシが買った)ランボルギーニ明日入港や」
とまるで他人事の様に言ったらしいけど、
やっぱりこの頃から何処か野球に
真面目に取り組んで無かったんだな。 「平成版ベビーギャング」
アイデアマンで有名な近藤貞雄は、若手を積極登用する事でも知られる監督だった。中日時代は牛島和彦や平野謙、大洋時代なら久保文雄に
大門和彦、高橋雅裕らを次々戦力にしていった。近藤の場合は、ただ若い選手を使うだけでなく新人の抜擢でも有名だった。中日では曽田康二、
中尾孝義、上川誠二、大洋でも相川英明に高橋一彦を起用、不足部門を中心とした現有戦力に刺激を与える手法だ。球団常務・大沢啓二の推薦で
日本ハム監督に就任した89年も、近藤はやり方を変えなかった。8年前のV戦士の衰えもあって野手の層が薄く「投高打低」というチーム事情、
近藤でなくても社会人出身の即戦力野手に頼らざるを得なかったのだ。
プリンスホテルからドラフト1位で入団した中島輝士は、前年ソウル五輪で四番を務めたスラッガー。開幕戦でいきなり穴吹義雄(南海)以来33年
ぶり2人目となる新人開幕戦サヨナラ本塁打を放つなど2安打3打点の好スタートを切ったが、その後は苦しみGW前には一時打率が2割を切った
事もあった。本塁打6本に留まっていた事もあり、7月頭から約二ヶ月間の二軍落ち。再昇格後は、閉幕まで3本塁打5打点を挙げて何とか来期に
繋げた。
俊足のアベレージヒッターだった鈴木慶裕は一番打者候補として、ドラフト2位で入団した。開幕から主にトップバッターを打っていたが、中島と違い
適応力の違いを見せつけ6月末まで3割をキープして力を発揮した。9月には67年の巨人・槌田誠以来新人では2人目の代打満塁弾という勝負強い
一面も見せた。
将来のレギュラー候補としての第一歩といえる2人の一年だったが、課題も残った。中島はオープン戦から手を焼いていた内角攻めを克服できずに
本塁打は一桁止まり、しかも中島がアーチを放った試合で勝ったのは、サヨナラ弾の開幕以外でもう1試合だけ。2勝6敗1分けと本塁打を打った
試合での勝率と運の悪さも目立った。鈴木は夏場以降のスタミナ切れで、最終的に打率が2割5分台まで落ちた。足でもチーム2位の22盗塁と
健闘したかに見えたが1試合3盗塁死を含めて失敗も13回、成功率62.9%では近藤得意の機動力野球も展開しづらかった。
近藤は投手中心のドラフトになった翌シーズンも酒井光次郎、有倉雅史を起用。かつて81年の優勝に貢献した島田誠、古屋英夫、高代延博の
「ベビーギャング」に代わる“平成版ベビーギャング”で強豪チームとの差を少しでも埋めようと近藤も、そして大沢らフロントも必死だった。 (了) 東尾が引退、森山、伊東、田辺が開幕間に合わず、工藤が絶不調
バークレオ全く打てない、奮闘していた高山もオールスター明けからは全く勝てなくなった
これでよく3位になれたと思う
デストラーデ加入や渡辺智男が6月から戦力になったのが大きかったのかな この年の西武は、抑えがいなかったのが一番大きいと思う。
試合終盤でひっくり返されて負けることが多かった。 >>84
それでも単純に戦力だけなら西武がナンバーワンだろう。
得失点差なら3強で一番だけど、抑え不在で竸った試合を落としまくったのが響いた。 近鉄もブライアントはすごいけど、その他の打者は大したことないんだよな。
チーム打率や得点数などは、西武とオリックスに大きく負けてる。
本当にあのブライアントの4連発だけで優勝したと言っても過言でない。 >>87
金村の不調、村上の故障離脱もあり、羽田や淡口がスタメンで5、6番で出てたくらいだからね。 近鉄は確かリベラが貢献度がけっこう高かったはず。
打率やホームラン数は大したことないけど
10月になってからホームランを量産して
全ていい所で打ってた記憶がある。 トレーバーのが期待できるから
今なら他球団でリサイクルされるてだろうが 89年オフ、フジTV珍プレー好プレー
何かと粗暴な乱闘メーカーの近鉄リベラ(元ボクサー)について
武豊「今度(日ハム)近藤監督にはリベラとやりあって欲しいですね」
石毛「うちも秋山が足引っ掛けられて怪我しましたしね〜、パ・リーグの選手は怒ってますよ」
序盤は金村欠場のサードを埋めた上、打でも勝負強い選手ではあったが、それ以外は何かと問題児 そりゃリベラからしたらあそこまで優勝に貢献したら大幅アップを要求してもいいよね。
それが上手くいかなかったんだろう。 本当に元ボクサーだったのか
道理で見事なフックだった訳だw この年オープン戦の「プロ野球ニュース」で西本幸雄に
「近鉄はドットソンをとって、どっと損した」などといわれる始末 もし、高田が、この年も、ハムの監督を務めてたら、近鉄、オリに相当嫌がらせしてそう。前年が、余りにも酷かっただけに。そうなると、西武が、最後に優勝してた可能性大だなあ。そして、大島が、サヨナラホームランで、キスされることもなかった。 ハムは前年も対西武9勝14敗3分、対近鉄10勝16敗でほぼ同じくらいの負け越しで
優勝争いが佳境に入ったラスト5試合で言えば対西武4勝1敗、対近鉄0勝5敗で
むしろ西武の方に嫌がらせしてたでしょ。
特に9月半ばの東尾−阿波野の投げ合いを1-0で制してほぼ安全圏に入ったと
思った直後にハムが近鉄に3連敗して息が吹きかえったのは、勘弁してくれと思った。 リベラはホームランを出迎えた藤瀬コーチの頭を子供にするかのようにポンポン >>98
これは、失礼。高田と云えば、巨人の犬もしくは、巨人に関係する物の犬とイメージがあったのだが、意外だったな。 >>78-79
そのヤクルトが11年にあと一歩の所で優勝を逃してるのも…
ただ11年の監督は真中の前任だった現SDの小川だけど… 羽田、栗橋、淡口のベテランが揃って引退した近鉄。前年に梨田、福山の義父も引退してるから、一気に若返ったんだな。しかし、この年から次の優勝まで12年かかるとは思わなかった。それに日本シリーズで先発した阿波野、山崎、加藤、小野が全員移籍するとは‥‥ >>104
確かにこの年投げた投手で、近鉄一筋だったのって数えるほどしかいないな。
主力どころでは佐々木修ぐらいしかいない。
その佐々木も不調で優勝にはほとんど貢献できなかった。
あと、赤堀が高卒ルーキーで1軍で少しだけ投げてた。 >>103
その反省か90〜94のオリックスは
大規模な選手の入れ替えを断行したし… てか6年?もかかったら普通に入れ替わるんじゃないの
84年のV戦士が入れ替わったら95年のV戦士になってた、みたいな感じで >>107
でもブーマーとか松永とか看板選手でも遠慮なく
放出したぐらいだし… この頃のオリックスの選手で95年優勝メンバーになったのは
和製大砲でブレイクした藤井、ルーキーだった小川
あとは藤田から正捕手の座を奪いかけていた中嶋、守備のスペシャリスト本西ぐらいかな 伊藤隆偉もいた
当時は伊藤敦規のほうが名を知られていたけど >>112
晩年の福良ってあんまり記憶に残ってないな
さっと引退した印象がある その後、95〜96年優勝に貢献した選手もピークを過ぎたと思われたら
あっさりと放出したよなオリックスは
藤井や福良ぐらいか、オリックスに骨を埋められたのは
本西は阪神へ、小川は横浜に
中嶋はFAだったけど西武に
あとは移籍組だったけど馬場をヤクルトとかもあったな >>84
工藤は前年からおかしい。
>>85
いや先発のコマ不足が敗因だよ。 「終戦の地で」
最下位ロッテに対し自慢の打線が火を吹いて小川博から11得点、先発投手・今井雄太郎が一死しか取れず14球で降板しながら森浩二以降の
5投手が踏ん張って勝ったオリックスにマジック6が点灯した。前日の10月6日に消えたばかりのマジックを再点灯させたが、残り5試合中Bクラス
球団との試合が無い2位・西武や、残り7試合中4試合が西武戦という3位・近鉄と比べて、対戦成績15勝5敗1分けと相性の良いロッテ戦が5試合も
あるオリックスに、5年ぶりの優勝へ向けてマジックだけではない有利な条件が揃っていた。
しかし翌10月8日のロッテ戦で、村田兆治の前に藤井康雄の一発のみで惜敗すると、以後は投手陣の弱さを露呈した。9日の対西武最終戦では
ガイ・ホフマンら4投手が11失点で大敗、不安のまま10日から13日の間に行われるロッテとのダブルヘッダーを含む4試合へ入った。
10日も山沖之彦が新人・初芝清に満塁弾を浴び初回6失点KOなど17失点の惨敗、この3連敗で3位まで転落した。それでも12日のダブルを
2戦とも二桁得点と圧勝して、同日“奇跡の4連発”に沸く近鉄にゲーム差なしの2位と迫った。近鉄も残り2戦でのマジック2が灯っていたとはいえ、
最終の西武戦を考えれば14日のダイエー戦はプレッシャーがかかる所だった。その意味でオリックスは残る13日のロッテ、最終15日のダイエー戦
に勝てば十分チャンスがあった。そして近鉄に先んじて、ロッテとの一戦に勝つことは特に重要だった。
ロッテが中3日でオリックス戦未勝利の園川一美、オリックスが中4日の35歳佐藤義則で始まった13日は初回ブーマー・ウェルズ、二回は藤井の
一発、四回にもブーマーが39号アーチを架けたオリックスが自慢の打棒で3点のリードを奪った。しかし五回に佐藤義が捕まり横田真之の適時打と
愛甲猛の逆転3ランでKO、打線は園川と夏場から抑えに定着していた伊良部秀輝を全く打てず5安打の敗戦。結果マジック点灯時には有利と
言われた、ロッテとの5試合で2勝3敗という誤算だった。7月以降8連敗を含む1勝11敗に終わった佐藤義に加えて、定まらない守護神といった
弱投に足を引っ張られて最大8.5差を守れなかったオリックス、最終盤に見せたホフマンや山沖の中1日登板も実らなかった。そして前年の近鉄に
続き、川崎球場はある意味でパ・リーグの雌雄を決する“終戦の地”となってしまった。 (了) 「まさかの失速」
優勝争いの大本命である西武が109試合目となる9月16日、遂に首位に立った。前半までの低迷も、先発陣の巻き返しで6月からの4ヶ月で52勝
28敗と本領発揮。珍しく森祇晶監督も「日程的にゆとりがあり、勝算があった」と思っていたほど、流れは西武といった向きがあった。実際9月27日
現在では2位・オリックスに、3ゲーム差をつけて残り12試合の展開という絶対有利の状況だった。
だが、勝てなかった。肝心の10月に4勝7敗と負け越して、リーグ新となる5連覇を逃したのだ。7敗のうち1点差負けが4度、結果的にどれか1つでも
取っていれば優勝していた。
仕上げに向け「万全のローテーションで臨んだ」はずの森が最も悔やんだのは、“ブライアント・ショック”の4連発よりも、ダイエーに最大8点差を
逆転された試合だった。15勝のエース・渡辺久信の先発での2位転落だっただけに、投手コーチの八木沢荘六は「信じられない」と首を振り、森も
「記憶にない負け方」と声を絞り出すのが精一杯だった。
1日で首位を奪い返した後の10月7日に、またもダイエーに対して1−2で競り負けた試合も痛かった。20歳の村田勝喜に7回まで11四球を貰い
ながら、得点は押し出しの1点のみ。8回からは先発で勝ち頭の加藤伸一に抑えられて、結果2安打しか打てない敗戦だった。
終盤まさかの失速をした西武、森が就任してから「ストッパーらしいストッパーがいなかった」と抑え投手の必要性を痛感したシーズンだった。3年
連続でリーグトップの完投数を誇る先発陣だけでは、勝ち切れないぐらい他球団の打力がアップしていた。
ここで森は一つ記憶違いをしている。10月決戦の話をした上で、共に絶好調で負ける気がしなかったという渡辺久と郭泰源について、「万全の状態で
3試合ずつに登板させたにもかかわらず、1試合も取れなかった」と述懐しているが、10月6日の日本ハム戦に郭が完投勝利している。もはやその
前後の日で、ダイエーに痛い負けを喫したショックが大きかったということか。指揮官が勝った試合をも忘れるぐらいの失速で、西武は抑え投手探しに
走る事になる。 (了) 森が堤から屈辱的な一言を浴びせられた同じ日に、
ヤクルトが新監督野村克也を発表
昭和最後の名勝負からちょうど1年後の10月19日の話 この時の日本シリーズ前予想ってどんな感じだったっけ?? 近鉄有利だった? 「手薄な投手陣」
いつ、どの時代でも大きなゲーム差の逆転劇には、逆転する側にもされる側にも色々な要因がある。最大で8.5差、球宴折り返し時点でも2位・近鉄
との5差を逆転された89年のオリックスの場合、自慢の打線が前半戦は1試合平均5.5得点だったのが後半戦に4.6得点に減少した事は確かに
一因といえたが、やはり一番の原因は明らかに投手陣の方だった。
6失点以上の試合が7月までの77試合のうちでは16試合だったのが8月以降は53試合のうちで21試合、2ケタ失点については7月まで2試合
だったのが8月以降だけで8試合もあった。
後半戦は優勝5回の上田利治監督も投手の台所事情に苦しんだ。7月に入ってそれまで8勝2敗の佐藤義則が8月上旬まで5連続KO、同じく7月
から徐々に調子を落としていた山内嘉弘に代わり抑えに回ったが佐藤だが、二度続けて抑えに失敗したため8月下旬にすぐ先発に戻されるという
ドタバタがあった。さらに連戦続きの8月は、8勝(5敗)を挙げていたガイ・ホフマンが肩の不調を訴え10月まで帰国、佐藤でも務まらなかった抑え
には開幕から6勝を挙げていた酒井勉を配置した事で先発陣が手薄になった。従って8月以降のローテーションは佐藤、星野伸之、山沖之彦と、
4月以来先発がなく中継ぎに回っていた今井雄太郎の4人に谷間の先発を組み合わせて臨む形になった。しかし佐藤が9月26日に勝つまで8連敗
するなど7月以降1勝11敗、山沖は後半戦6勝4敗と健闘したが7月以降の12度の先発のうち6度で5回も持たずに降板し防御率は6点台で、
ついに規定投球回にも届かなかった。今井も8月で40歳なったとあって、先発再転向後は1勝するのが精一杯だった。
手薄な投手陣の中で前半7勝、後半8勝を挙げてリーグの最高勝率に輝いた星野は孤軍奮闘の活躍だった。特に敵地に強くビジターで9勝1敗と
頼もしく、9月から閉幕までは負けなしの6連勝と勝負強さを見せた。優勝を逃した後、上田監督は「土台作りの一年」と負け惜しみともとれる言葉を
発したが、あるいは23歳になった若き左腕の一本立ちが“土台作り”としての感触を得ていたのかもしれない。 (了) >>126
(了)とかいらねぇから
書き込まない努力をしろ ハムの大島が2年連続皆勤。2年間で258安打を積み上げて、翌年2000安打を達成。中日時代の最後の2年くらいを思うと、予想外の記録達成だった。 >>130
大島が近藤監督から祝福のキスをうけたのはこの年だっけ? 佐藤義則と山沖が両方とも防御率5点台
こんなのが先発ローテーションに並んでたんだから優勝なんかできるはずもなく
そういえば佐藤ってこの年と翌年と連続で開幕6連勝したよな
結局失速して残りのシーズンひたすら負けまくったところもまったく一緒 おもえば、門田補強せず、投手補強してたらオリックス優勝してたのでなないかと。 「ライバル対決」
球界には同じポジションのライバル、主に投手同士の直接対決を避ける傾向にある。有名なところで80年代の小林繁と江川卓、5年ほど前の
田中将大と斎藤佑樹などが当たるがいずれも、マスコミが好奇心を煽り立てるように書いた記事で当人たちが本来の力を出せなくなる事を首脳陣が
恐れて避けるケースが原因だった。球宴の場でも、比較しやすくなるといった理由で同じ試合にライバル同士が登板する事はほとんど無かった。
「トレンディエース」と言われた日本ハム・西崎幸広と近鉄・阿波野秀幸の対決も、両者が入団した87年以来なかなか実現しなかった。初対決は
3年目となる89年、3強による優勝争いが佳境に入った10月8日の事だった。当日はカード最終戦、藤井寺球場に2万人以上の観衆が詰め掛けた。
試合は序盤三回まで両軍無得点、西崎はいてまえ打線、阿波野は先発9人全員が右打者の打線を抑えていた。動いたのは四回裏、西崎が三番の
ラルフ・ブライアントに44号となるソロを浴びて均衡が破れた。それでも六回まで西崎は、その1失点だけに抑えて意地を見せた。対する阿波野は
優勝争いの負けられないチームの雰囲気の中でゼロを並べ続けた。ほとんどが近鉄ファンというビジターの熱気に飲まれたのか、七回裏に西崎は
金村義明に適時二塁打を打たれ2点目を失うと、気落ちした状態で投げた高めの速球を次打者・山下和彦に捕らえられる6号2ランを打たれて7回
4失点で降板。阿波野は最後まで集中力を切らさず、6安打完封してライバル対決を制した。
最終的に一方的な展開になったのも片や逆転優勝の望みを持ち、もう片方は後半戦健闘しているダイエーにも離されて5位に沈んでいるという
所属球団の差を考えれば致し方無かった。
直接対決はその後2度しかなく、二度目は翌90年夏で両者とも8回を投げて勝敗付かず、三度目は91年の開幕戦で4−2と西崎が完投勝利で
雪辱した。直接対決は1勝1敗の五分に終わった二人、通算勝利では西崎が阿波野を50勝以上も上回り、優勝回数では阿波野が西崎を2回多く
リードしたばかりか西崎が経験し得なかった日本一も経験できた。他にも各年での成績などあらゆる面で振り返れば、野球人生においての
“ライバル対決”でも、これまた五分といったところだった。 (了) >>137
>>138
おまえらが去れよ。邪魔すんな。
この人の書き込みで当時の詳細な記憶が甦り楽しく読んでる俺達みたいなのも多いんだ。 >>135
実際打線に厚みが出てチーム打率が前年より高くなった
>>136
98年の日本シリーズにこの頃のパリーグのメンバーが結構出ていたな >>122
抑え投手の補強が西武にとってとても重要なポイントになったよな >>136
ナンバーで江夏山田が西崎阿波野にインタビューして「直接対決がないなんて信じられんよ」と言ってた。そりゃ興行としては最低のローテーションだもん。
20年たって山田が「ダルがマー君や涌井と投げ合ってる。自分が東尾村田鈴木と投げ合ってたような感じが蘇ってきた」と喜んでた。 >>134
酒井勉 9勝7敗9S 抽選で引き当て渡辺智男を抑えて新人王に輝く
ガイ・ホフマン 9勝6敗 前年10勝の古溝が不調の中、唯一の先発左腕
地味だけど投手の補強も当たってるんだよなあ >>134,145
オリックスを黒船と感じ、必死こいて優勝出来る戦力に整えたって感じだね。
それが今では戦力強化や集客よりもオーナーの顔色ばかり伺う集団に(´・ω・`)
逆に言えば「オーナーのご機嫌取ってれば我が身は安泰」とオーナーに甘え切って
いるとも。
それは良いけど、唯一の先発左腕って・・・・・・、この年15勝とエースに上り詰めた
星野が居たろ?w オリックスは投手陣の弱さを言われたが、後半戦の失速した一因に、松永のスランプもある。最終的に3割を保ったが、8、9月の下降は痛かった。 >>146
失礼
完全に勘違いしました(´・ω・`)
星野と上述の2人はまあまあだが、佐藤義、山沖の防御率5点台コンビの不調だね。
あと、前年頭角を現した新ストッパー山内が前半戦で馬脚を現した。
これで佐藤義、次いで酒井が抑えに回って今度は先発投手が不足という悪いサイクル 何だかんだでブーマーと門田のハイタッチがVやねんの一番の原因だろう。 >>150
当時現役の姿見てりゃ知ってることだが山田はヘロヘロだったから無理だよ
最終年なんてアンダースローで投げてるだけの投手になってたからな
もう1年現役続行したら山田の個人成績もチームも星を落としたに違いない
やっぱ膝がイカれると野球選手はアカンね >>148
オリックスは投手がこんな感じだから、ドラフトでは即戦力投手が何が何でも欲しかった。
野茂を抽選で外して、ウェーバーで順番が回ってきたときには目ぼしい投手は残っておらず
苦し紛れにパンチ佐藤を指名。 >>154
エース同士の対決を避ける為イマイチ盛り上がらないから。 「二人の救い主」
前半戦でチームが思わぬ低迷をすると、急場しのぎとしてトレードなどの緊急補強をしたり、二軍にいる若手を思い切って登用するケースがプロ野球
ではよく見られる。そうした光景を89年の西武から見られるとは、全く予想できない事だった。5月を終わっても13勝18敗2分けの5位という不振は、
王国といわれた主力投手陣と、清原和博やタイラー・バン・バークレオら野手陣の不調に、開幕前からの故障者の続出にあった。エースと目した
工藤公康が1勝も出来ず6連敗、前年新人王の森山良二も右肩を痛めて不在の上、高山郁夫や石井丈裕らも穴を埋める働きが出来ていなかった。
石井と同じく即戦力新人として期待されてきた渡辺智男が、デビューしたのは6月2日の事だった。ただ、プロ初登板はダイエー相手に二回途中まで
7失点でKOの散々な黒星スタート。2戦目は中6日の9日で、2失点完投ながら打線の援護無く連敗。三度目の登板だった17日に、5安打完投の
プロ初勝利でダイエーに仕返しをした。しかしその後また3連敗で1勝5敗となって球宴折り返し、防御率も5点台だった。本来ならここで中継ぎ
もしくは二軍に降格していた可能性もあったが、当時の西武の苦しい台所事情が渡辺智には幸いした。
8月3日に5イニング無失点のロング救援で2勝目を挙げたのが起点となり、先発に戻った次回登板から3連勝するなど、後半戦だけでいえば
近鉄・阿波野秀幸と並び最多の9勝を挙げて8、9月の西武快進撃に一役買った。新人王はほぼ一年通して働いたオリックス・酒井勉に譲ったが、
規定投球回到達22人の中で被本塁打が最少の12という内容で2ケタ勝利の活躍だった。
打者では米国3Aから、6月に加入したオレステス・デストラーデが救世主になった。メジャーでは通算12安打1本塁打だったデストラーデ、20日の
デビュー戦での2打席目で初本塁打すると7月末までに10発、8月も10発、9月8発とコンスタントに打って、規定打席未到達ながら32本塁打を
放った。規定打席未満の30発クリアは87年ボブ・ホーナー、88年ラルフ・ブライアントに次ぐ3人目の記録だった。
逆転優勝こそ逃したが、二人の救い主は首脳陣やファンの期待に十分過ぎるほど応えた。さらに90〜92年の間には渡辺智は31勝(18敗)、
デストラーデは3年連続本塁打王で122本塁打と活躍。西武球団史上で“最強の三年間”といわれる期間において、二人は救世主からチームを
支える実力者となっていた。 (了) 渡辺智男の初登板は覚えているわ。テレビ中継されていた。
7時に中継始まった時にちょうど、マウンドに輪ができていて
ダイエーが大量リードして試合の大勢が決まっていたわw 規定打席未満の30発クリア
83年の田淵幸一も達成してるはず ホーナー、ブライアント、デストラーデが
立て続けに規定未満で30発とか凄い時代だったな、そういや。 >>156の下から4行目
×→規定打席未満の30発クリアは・・・3人目の記録だった。
○→規定打席未満の30発クリアは・・・外国人では3人目の記録だった。
の誤りでした。お詫びして訂正します。 >>160
> お詫びして訂正します。
お詫び?
どこにお詫びの言葉があるの? 「入れ替え」
阪急からオリックスに親会社が代わってもブレーブスを率いる事となった上田利治は、前年4位だった新生球団のスタートとして大幅に空気を変える
必要があると感じていた。フロントと一丸になっての“門田博光獲得レース”では、近鉄を逆転する意地の大型トレードだった。これまでもマンネリ化
打破や活性化の必要性を口にしてきた上田だけでなく、年々低下していた阪急打線を考えても不惑の大砲獲得は、待望していた刺激剤だった。
上田が監督に復帰した頃の阪急もそうだった。力の落ちたチームを変えるべく、リーグ4連覇の英雄を次々と入れ替えた。水谷実雄との交換で
加藤秀司は広島へ、ロベルト・マルカーノは自由契約でヤクルトに移籍した。
若手の抜擢ではさらに強い刺激を与えてきた。動きに衰えの見えた遊撃手・大橋穣に代えて新人の弓岡敬二郎を起用、三塁手・島谷金二も21歳で
両打ちの松永浩美に取って代わられた。左翼手にも4年目の小林晋哉をレギュラーにした上田、ベテラン捕手の中沢伸二が22歳の藤田浩雅に
マスクを譲ったのもこの頃だった。若手たちは成果を上げて、84年の6年ぶり優勝に貢献した。
その弓岡と藤田が代わられる立場になったのが、門田獲得の89年だった。ブルーサンダー打線構築の影で、遊撃に起用した小川博文と正捕手に
据えた中嶋聡は、主力に比べて打率は低かったが共に我慢強く使われた。
小川は9番で先発出場した開幕戦で、近鉄・阿波野秀幸から適時二塁打、次の試合でもロッテ・小川博から初本塁打といきなりエース級を打った。
奇しくも弓岡が抜擢された当時と同じ新人だった小川は、トータル115試合に出場し打率.247だったが優勝した近鉄には.302と相性が良かった。
弱冠20歳の中嶋はリードに苦心し自慢の強肩はさほど見せられず、盗塁阻止率は28.7%でリーグ5位だったが、リード面は評価されゴールデン
グラブ賞を受賞した。守備だけでなく打つ方でも、意外性のある打撃を見せた。猛打賞を記録した5試合は、守りに好影響だったのか5戦全勝という
験の良さだった。
惜しくも優勝を逃した89年当時は、“強力打線の安全牌”と言われる事もあった小川と中嶋だったが、二人はその後も戦力となり95、96年のリーグ
連覇と19年ぶりの日本一にも貢献、皮肉にも入れ替えが報われたのは上田が敵将となっていた頃だった。 (了) >>163
近鉄は金銭で大丈夫だと交渉を進めていましたが、途中でこじれて決裂となったそうです。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
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QK0XR 衝撃事実拡散
【創価学会の魔の正体は、米国が仕掛けてるAI(人工知能)】
創価を日本統治に利用してる組織がCIA(米国の極悪クソ諜報、スパイ)
創価の活動家は、頻繁に病気や事故に遭うけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってる
災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すから、定期的に米国のAlが科学技術で災いを与える。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもん
パトカーの付きまとい、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音等も、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下
http://ss.fan-search.com/bbs/honobono/read.cgi?no=12029 >>50
>>86
大宮龍男と鹿取義隆をトレードで獲得したのも
このシーズンの内容も関係しているだろうな >>5
西武VS近鉄やロッテVSオリックスも地上波全国ネットナイターでやっていた ブライアントの三発目、ナベは前々日の
投球数が響いて打たれたのだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています