「ライバル対決」

球界には同じポジションのライバル、主に投手同士の直接対決を避ける傾向にある。有名なところで80年代の小林繁と江川卓、5年ほど前の
田中将大と斎藤佑樹などが当たるがいずれも、マスコミが好奇心を煽り立てるように書いた記事で当人たちが本来の力を出せなくなる事を首脳陣が
恐れて避けるケースが原因だった。球宴の場でも、比較しやすくなるといった理由で同じ試合にライバル同士が登板する事はほとんど無かった。
「トレンディエース」と言われた日本ハム・西崎幸広と近鉄・阿波野秀幸の対決も、両者が入団した87年以来なかなか実現しなかった。初対決は
3年目となる89年、3強による優勝争いが佳境に入った10月8日の事だった。当日はカード最終戦、藤井寺球場に2万人以上の観衆が詰め掛けた。

試合は序盤三回まで両軍無得点、西崎はいてまえ打線、阿波野は先発9人全員が右打者の打線を抑えていた。動いたのは四回裏、西崎が三番の
ラルフ・ブライアントに44号となるソロを浴びて均衡が破れた。それでも六回まで西崎は、その1失点だけに抑えて意地を見せた。対する阿波野は
優勝争いの負けられないチームの雰囲気の中でゼロを並べ続けた。ほとんどが近鉄ファンというビジターの熱気に飲まれたのか、七回裏に西崎は
金村義明に適時二塁打を打たれ2点目を失うと、気落ちした状態で投げた高めの速球を次打者・山下和彦に捕らえられる6号2ランを打たれて7回
4失点で降板。阿波野は最後まで集中力を切らさず、6安打完封してライバル対決を制した。
最終的に一方的な展開になったのも片や逆転優勝の望みを持ち、もう片方は後半戦健闘しているダイエーにも離されて5位に沈んでいるという
所属球団の差を考えれば致し方無かった。

直接対決はその後2度しかなく、二度目は翌90年夏で両者とも8回を投げて勝敗付かず、三度目は91年の開幕戦で4−2と西崎が完投勝利で
雪辱した。直接対決は1勝1敗の五分に終わった二人、通算勝利では西崎が阿波野を50勝以上も上回り、優勝回数では阿波野が西崎を2回多く
リードしたばかりか西崎が経験し得なかった日本一も経験できた。他にも各年での成績などあらゆる面で振り返れば、野球人生においての
“ライバル対決”でも、これまた五分といったところだった。 (了)