1989年パリーグペナントレース★2
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>>98
これは、失礼。高田と云えば、巨人の犬もしくは、巨人に関係する物の犬とイメージがあったのだが、意外だったな。 >>78-79
そのヤクルトが11年にあと一歩の所で優勝を逃してるのも…
ただ11年の監督は真中の前任だった現SDの小川だけど… 羽田、栗橋、淡口のベテランが揃って引退した近鉄。前年に梨田、福山の義父も引退してるから、一気に若返ったんだな。しかし、この年から次の優勝まで12年かかるとは思わなかった。それに日本シリーズで先発した阿波野、山崎、加藤、小野が全員移籍するとは‥‥ >>104
確かにこの年投げた投手で、近鉄一筋だったのって数えるほどしかいないな。
主力どころでは佐々木修ぐらいしかいない。
その佐々木も不調で優勝にはほとんど貢献できなかった。
あと、赤堀が高卒ルーキーで1軍で少しだけ投げてた。 >>103
その反省か90〜94のオリックスは
大規模な選手の入れ替えを断行したし… てか6年?もかかったら普通に入れ替わるんじゃないの
84年のV戦士が入れ替わったら95年のV戦士になってた、みたいな感じで >>107
でもブーマーとか松永とか看板選手でも遠慮なく
放出したぐらいだし… この頃のオリックスの選手で95年優勝メンバーになったのは
和製大砲でブレイクした藤井、ルーキーだった小川
あとは藤田から正捕手の座を奪いかけていた中嶋、守備のスペシャリスト本西ぐらいかな 伊藤隆偉もいた
当時は伊藤敦規のほうが名を知られていたけど >>112
晩年の福良ってあんまり記憶に残ってないな
さっと引退した印象がある その後、95〜96年優勝に貢献した選手もピークを過ぎたと思われたら
あっさりと放出したよなオリックスは
藤井や福良ぐらいか、オリックスに骨を埋められたのは
本西は阪神へ、小川は横浜に
中嶋はFAだったけど西武に
あとは移籍組だったけど馬場をヤクルトとかもあったな >>84
工藤は前年からおかしい。
>>85
いや先発のコマ不足が敗因だよ。 「終戦の地で」
最下位ロッテに対し自慢の打線が火を吹いて小川博から11得点、先発投手・今井雄太郎が一死しか取れず14球で降板しながら森浩二以降の
5投手が踏ん張って勝ったオリックスにマジック6が点灯した。前日の10月6日に消えたばかりのマジックを再点灯させたが、残り5試合中Bクラス
球団との試合が無い2位・西武や、残り7試合中4試合が西武戦という3位・近鉄と比べて、対戦成績15勝5敗1分けと相性の良いロッテ戦が5試合も
あるオリックスに、5年ぶりの優勝へ向けてマジックだけではない有利な条件が揃っていた。
しかし翌10月8日のロッテ戦で、村田兆治の前に藤井康雄の一発のみで惜敗すると、以後は投手陣の弱さを露呈した。9日の対西武最終戦では
ガイ・ホフマンら4投手が11失点で大敗、不安のまま10日から13日の間に行われるロッテとのダブルヘッダーを含む4試合へ入った。
10日も山沖之彦が新人・初芝清に満塁弾を浴び初回6失点KOなど17失点の惨敗、この3連敗で3位まで転落した。それでも12日のダブルを
2戦とも二桁得点と圧勝して、同日“奇跡の4連発”に沸く近鉄にゲーム差なしの2位と迫った。近鉄も残り2戦でのマジック2が灯っていたとはいえ、
最終の西武戦を考えれば14日のダイエー戦はプレッシャーがかかる所だった。その意味でオリックスは残る13日のロッテ、最終15日のダイエー戦
に勝てば十分チャンスがあった。そして近鉄に先んじて、ロッテとの一戦に勝つことは特に重要だった。
ロッテが中3日でオリックス戦未勝利の園川一美、オリックスが中4日の35歳佐藤義則で始まった13日は初回ブーマー・ウェルズ、二回は藤井の
一発、四回にもブーマーが39号アーチを架けたオリックスが自慢の打棒で3点のリードを奪った。しかし五回に佐藤義が捕まり横田真之の適時打と
愛甲猛の逆転3ランでKO、打線は園川と夏場から抑えに定着していた伊良部秀輝を全く打てず5安打の敗戦。結果マジック点灯時には有利と
言われた、ロッテとの5試合で2勝3敗という誤算だった。7月以降8連敗を含む1勝11敗に終わった佐藤義に加えて、定まらない守護神といった
弱投に足を引っ張られて最大8.5差を守れなかったオリックス、最終盤に見せたホフマンや山沖の中1日登板も実らなかった。そして前年の近鉄に
続き、川崎球場はある意味でパ・リーグの雌雄を決する“終戦の地”となってしまった。 (了) 「まさかの失速」
優勝争いの大本命である西武が109試合目となる9月16日、遂に首位に立った。前半までの低迷も、先発陣の巻き返しで6月からの4ヶ月で52勝
28敗と本領発揮。珍しく森祇晶監督も「日程的にゆとりがあり、勝算があった」と思っていたほど、流れは西武といった向きがあった。実際9月27日
現在では2位・オリックスに、3ゲーム差をつけて残り12試合の展開という絶対有利の状況だった。
だが、勝てなかった。肝心の10月に4勝7敗と負け越して、リーグ新となる5連覇を逃したのだ。7敗のうち1点差負けが4度、結果的にどれか1つでも
取っていれば優勝していた。
仕上げに向け「万全のローテーションで臨んだ」はずの森が最も悔やんだのは、“ブライアント・ショック”の4連発よりも、ダイエーに最大8点差を
逆転された試合だった。15勝のエース・渡辺久信の先発での2位転落だっただけに、投手コーチの八木沢荘六は「信じられない」と首を振り、森も
「記憶にない負け方」と声を絞り出すのが精一杯だった。
1日で首位を奪い返した後の10月7日に、またもダイエーに対して1−2で競り負けた試合も痛かった。20歳の村田勝喜に7回まで11四球を貰い
ながら、得点は押し出しの1点のみ。8回からは先発で勝ち頭の加藤伸一に抑えられて、結果2安打しか打てない敗戦だった。
終盤まさかの失速をした西武、森が就任してから「ストッパーらしいストッパーがいなかった」と抑え投手の必要性を痛感したシーズンだった。3年
連続でリーグトップの完投数を誇る先発陣だけでは、勝ち切れないぐらい他球団の打力がアップしていた。
ここで森は一つ記憶違いをしている。10月決戦の話をした上で、共に絶好調で負ける気がしなかったという渡辺久と郭泰源について、「万全の状態で
3試合ずつに登板させたにもかかわらず、1試合も取れなかった」と述懐しているが、10月6日の日本ハム戦に郭が完投勝利している。もはやその
前後の日で、ダイエーに痛い負けを喫したショックが大きかったということか。指揮官が勝った試合をも忘れるぐらいの失速で、西武は抑え投手探しに
走る事になる。 (了) 森が堤から屈辱的な一言を浴びせられた同じ日に、
ヤクルトが新監督野村克也を発表
昭和最後の名勝負からちょうど1年後の10月19日の話 この時の日本シリーズ前予想ってどんな感じだったっけ?? 近鉄有利だった? 「手薄な投手陣」
いつ、どの時代でも大きなゲーム差の逆転劇には、逆転する側にもされる側にも色々な要因がある。最大で8.5差、球宴折り返し時点でも2位・近鉄
との5差を逆転された89年のオリックスの場合、自慢の打線が前半戦は1試合平均5.5得点だったのが後半戦に4.6得点に減少した事は確かに
一因といえたが、やはり一番の原因は明らかに投手陣の方だった。
6失点以上の試合が7月までの77試合のうちでは16試合だったのが8月以降は53試合のうちで21試合、2ケタ失点については7月まで2試合
だったのが8月以降だけで8試合もあった。
後半戦は優勝5回の上田利治監督も投手の台所事情に苦しんだ。7月に入ってそれまで8勝2敗の佐藤義則が8月上旬まで5連続KO、同じく7月
から徐々に調子を落としていた山内嘉弘に代わり抑えに回ったが佐藤だが、二度続けて抑えに失敗したため8月下旬にすぐ先発に戻されるという
ドタバタがあった。さらに連戦続きの8月は、8勝(5敗)を挙げていたガイ・ホフマンが肩の不調を訴え10月まで帰国、佐藤でも務まらなかった抑え
には開幕から6勝を挙げていた酒井勉を配置した事で先発陣が手薄になった。従って8月以降のローテーションは佐藤、星野伸之、山沖之彦と、
4月以来先発がなく中継ぎに回っていた今井雄太郎の4人に谷間の先発を組み合わせて臨む形になった。しかし佐藤が9月26日に勝つまで8連敗
するなど7月以降1勝11敗、山沖は後半戦6勝4敗と健闘したが7月以降の12度の先発のうち6度で5回も持たずに降板し防御率は6点台で、
ついに規定投球回にも届かなかった。今井も8月で40歳なったとあって、先発再転向後は1勝するのが精一杯だった。
手薄な投手陣の中で前半7勝、後半8勝を挙げてリーグの最高勝率に輝いた星野は孤軍奮闘の活躍だった。特に敵地に強くビジターで9勝1敗と
頼もしく、9月から閉幕までは負けなしの6連勝と勝負強さを見せた。優勝を逃した後、上田監督は「土台作りの一年」と負け惜しみともとれる言葉を
発したが、あるいは23歳になった若き左腕の一本立ちが“土台作り”としての感触を得ていたのかもしれない。 (了) >>126
(了)とかいらねぇから
書き込まない努力をしろ ハムの大島が2年連続皆勤。2年間で258安打を積み上げて、翌年2000安打を達成。中日時代の最後の2年くらいを思うと、予想外の記録達成だった。 >>130
大島が近藤監督から祝福のキスをうけたのはこの年だっけ? 佐藤義則と山沖が両方とも防御率5点台
こんなのが先発ローテーションに並んでたんだから優勝なんかできるはずもなく
そういえば佐藤ってこの年と翌年と連続で開幕6連勝したよな
結局失速して残りのシーズンひたすら負けまくったところもまったく一緒 おもえば、門田補強せず、投手補強してたらオリックス優勝してたのでなないかと。 「ライバル対決」
球界には同じポジションのライバル、主に投手同士の直接対決を避ける傾向にある。有名なところで80年代の小林繁と江川卓、5年ほど前の
田中将大と斎藤佑樹などが当たるがいずれも、マスコミが好奇心を煽り立てるように書いた記事で当人たちが本来の力を出せなくなる事を首脳陣が
恐れて避けるケースが原因だった。球宴の場でも、比較しやすくなるといった理由で同じ試合にライバル同士が登板する事はほとんど無かった。
「トレンディエース」と言われた日本ハム・西崎幸広と近鉄・阿波野秀幸の対決も、両者が入団した87年以来なかなか実現しなかった。初対決は
3年目となる89年、3強による優勝争いが佳境に入った10月8日の事だった。当日はカード最終戦、藤井寺球場に2万人以上の観衆が詰め掛けた。
試合は序盤三回まで両軍無得点、西崎はいてまえ打線、阿波野は先発9人全員が右打者の打線を抑えていた。動いたのは四回裏、西崎が三番の
ラルフ・ブライアントに44号となるソロを浴びて均衡が破れた。それでも六回まで西崎は、その1失点だけに抑えて意地を見せた。対する阿波野は
優勝争いの負けられないチームの雰囲気の中でゼロを並べ続けた。ほとんどが近鉄ファンというビジターの熱気に飲まれたのか、七回裏に西崎は
金村義明に適時二塁打を打たれ2点目を失うと、気落ちした状態で投げた高めの速球を次打者・山下和彦に捕らえられる6号2ランを打たれて7回
4失点で降板。阿波野は最後まで集中力を切らさず、6安打完封してライバル対決を制した。
最終的に一方的な展開になったのも片や逆転優勝の望みを持ち、もう片方は後半戦健闘しているダイエーにも離されて5位に沈んでいるという
所属球団の差を考えれば致し方無かった。
直接対決はその後2度しかなく、二度目は翌90年夏で両者とも8回を投げて勝敗付かず、三度目は91年の開幕戦で4−2と西崎が完投勝利で
雪辱した。直接対決は1勝1敗の五分に終わった二人、通算勝利では西崎が阿波野を50勝以上も上回り、優勝回数では阿波野が西崎を2回多く
リードしたばかりか西崎が経験し得なかった日本一も経験できた。他にも各年での成績などあらゆる面で振り返れば、野球人生においての
“ライバル対決”でも、これまた五分といったところだった。 (了) >>137
>>138
おまえらが去れよ。邪魔すんな。
この人の書き込みで当時の詳細な記憶が甦り楽しく読んでる俺達みたいなのも多いんだ。 >>135
実際打線に厚みが出てチーム打率が前年より高くなった
>>136
98年の日本シリーズにこの頃のパリーグのメンバーが結構出ていたな >>122
抑え投手の補強が西武にとってとても重要なポイントになったよな >>136
ナンバーで江夏山田が西崎阿波野にインタビューして「直接対決がないなんて信じられんよ」と言ってた。そりゃ興行としては最低のローテーションだもん。
20年たって山田が「ダルがマー君や涌井と投げ合ってる。自分が東尾村田鈴木と投げ合ってたような感じが蘇ってきた」と喜んでた。 >>134
酒井勉 9勝7敗9S 抽選で引き当て渡辺智男を抑えて新人王に輝く
ガイ・ホフマン 9勝6敗 前年10勝の古溝が不調の中、唯一の先発左腕
地味だけど投手の補強も当たってるんだよなあ >>134,145
オリックスを黒船と感じ、必死こいて優勝出来る戦力に整えたって感じだね。
それが今では戦力強化や集客よりもオーナーの顔色ばかり伺う集団に(´・ω・`)
逆に言えば「オーナーのご機嫌取ってれば我が身は安泰」とオーナーに甘え切って
いるとも。
それは良いけど、唯一の先発左腕って・・・・・・、この年15勝とエースに上り詰めた
星野が居たろ?w オリックスは投手陣の弱さを言われたが、後半戦の失速した一因に、松永のスランプもある。最終的に3割を保ったが、8、9月の下降は痛かった。 >>146
失礼
完全に勘違いしました(´・ω・`)
星野と上述の2人はまあまあだが、佐藤義、山沖の防御率5点台コンビの不調だね。
あと、前年頭角を現した新ストッパー山内が前半戦で馬脚を現した。
これで佐藤義、次いで酒井が抑えに回って今度は先発投手が不足という悪いサイクル 何だかんだでブーマーと門田のハイタッチがVやねんの一番の原因だろう。 >>150
当時現役の姿見てりゃ知ってることだが山田はヘロヘロだったから無理だよ
最終年なんてアンダースローで投げてるだけの投手になってたからな
もう1年現役続行したら山田の個人成績もチームも星を落としたに違いない
やっぱ膝がイカれると野球選手はアカンね >>148
オリックスは投手がこんな感じだから、ドラフトでは即戦力投手が何が何でも欲しかった。
野茂を抽選で外して、ウェーバーで順番が回ってきたときには目ぼしい投手は残っておらず
苦し紛れにパンチ佐藤を指名。 >>154
エース同士の対決を避ける為イマイチ盛り上がらないから。 「二人の救い主」
前半戦でチームが思わぬ低迷をすると、急場しのぎとしてトレードなどの緊急補強をしたり、二軍にいる若手を思い切って登用するケースがプロ野球
ではよく見られる。そうした光景を89年の西武から見られるとは、全く予想できない事だった。5月を終わっても13勝18敗2分けの5位という不振は、
王国といわれた主力投手陣と、清原和博やタイラー・バン・バークレオら野手陣の不調に、開幕前からの故障者の続出にあった。エースと目した
工藤公康が1勝も出来ず6連敗、前年新人王の森山良二も右肩を痛めて不在の上、高山郁夫や石井丈裕らも穴を埋める働きが出来ていなかった。
石井と同じく即戦力新人として期待されてきた渡辺智男が、デビューしたのは6月2日の事だった。ただ、プロ初登板はダイエー相手に二回途中まで
7失点でKOの散々な黒星スタート。2戦目は中6日の9日で、2失点完投ながら打線の援護無く連敗。三度目の登板だった17日に、5安打完投の
プロ初勝利でダイエーに仕返しをした。しかしその後また3連敗で1勝5敗となって球宴折り返し、防御率も5点台だった。本来ならここで中継ぎ
もしくは二軍に降格していた可能性もあったが、当時の西武の苦しい台所事情が渡辺智には幸いした。
8月3日に5イニング無失点のロング救援で2勝目を挙げたのが起点となり、先発に戻った次回登板から3連勝するなど、後半戦だけでいえば
近鉄・阿波野秀幸と並び最多の9勝を挙げて8、9月の西武快進撃に一役買った。新人王はほぼ一年通して働いたオリックス・酒井勉に譲ったが、
規定投球回到達22人の中で被本塁打が最少の12という内容で2ケタ勝利の活躍だった。
打者では米国3Aから、6月に加入したオレステス・デストラーデが救世主になった。メジャーでは通算12安打1本塁打だったデストラーデ、20日の
デビュー戦での2打席目で初本塁打すると7月末までに10発、8月も10発、9月8発とコンスタントに打って、規定打席未到達ながら32本塁打を
放った。規定打席未満の30発クリアは87年ボブ・ホーナー、88年ラルフ・ブライアントに次ぐ3人目の記録だった。
逆転優勝こそ逃したが、二人の救い主は首脳陣やファンの期待に十分過ぎるほど応えた。さらに90〜92年の間には渡辺智は31勝(18敗)、
デストラーデは3年連続本塁打王で122本塁打と活躍。西武球団史上で“最強の三年間”といわれる期間において、二人は救世主からチームを
支える実力者となっていた。 (了) 渡辺智男の初登板は覚えているわ。テレビ中継されていた。
7時に中継始まった時にちょうど、マウンドに輪ができていて
ダイエーが大量リードして試合の大勢が決まっていたわw 規定打席未満の30発クリア
83年の田淵幸一も達成してるはず ホーナー、ブライアント、デストラーデが
立て続けに規定未満で30発とか凄い時代だったな、そういや。 >>156の下から4行目
×→規定打席未満の30発クリアは・・・3人目の記録だった。
○→規定打席未満の30発クリアは・・・外国人では3人目の記録だった。
の誤りでした。お詫びして訂正します。 >>160
> お詫びして訂正します。
お詫び?
どこにお詫びの言葉があるの? 「入れ替え」
阪急からオリックスに親会社が代わってもブレーブスを率いる事となった上田利治は、前年4位だった新生球団のスタートとして大幅に空気を変える
必要があると感じていた。フロントと一丸になっての“門田博光獲得レース”では、近鉄を逆転する意地の大型トレードだった。これまでもマンネリ化
打破や活性化の必要性を口にしてきた上田だけでなく、年々低下していた阪急打線を考えても不惑の大砲獲得は、待望していた刺激剤だった。
上田が監督に復帰した頃の阪急もそうだった。力の落ちたチームを変えるべく、リーグ4連覇の英雄を次々と入れ替えた。水谷実雄との交換で
加藤秀司は広島へ、ロベルト・マルカーノは自由契約でヤクルトに移籍した。
若手の抜擢ではさらに強い刺激を与えてきた。動きに衰えの見えた遊撃手・大橋穣に代えて新人の弓岡敬二郎を起用、三塁手・島谷金二も21歳で
両打ちの松永浩美に取って代わられた。左翼手にも4年目の小林晋哉をレギュラーにした上田、ベテラン捕手の中沢伸二が22歳の藤田浩雅に
マスクを譲ったのもこの頃だった。若手たちは成果を上げて、84年の6年ぶり優勝に貢献した。
その弓岡と藤田が代わられる立場になったのが、門田獲得の89年だった。ブルーサンダー打線構築の影で、遊撃に起用した小川博文と正捕手に
据えた中嶋聡は、主力に比べて打率は低かったが共に我慢強く使われた。
小川は9番で先発出場した開幕戦で、近鉄・阿波野秀幸から適時二塁打、次の試合でもロッテ・小川博から初本塁打といきなりエース級を打った。
奇しくも弓岡が抜擢された当時と同じ新人だった小川は、トータル115試合に出場し打率.247だったが優勝した近鉄には.302と相性が良かった。
弱冠20歳の中嶋はリードに苦心し自慢の強肩はさほど見せられず、盗塁阻止率は28.7%でリーグ5位だったが、リード面は評価されゴールデン
グラブ賞を受賞した。守備だけでなく打つ方でも、意外性のある打撃を見せた。猛打賞を記録した5試合は、守りに好影響だったのか5戦全勝という
験の良さだった。
惜しくも優勝を逃した89年当時は、“強力打線の安全牌”と言われる事もあった小川と中嶋だったが、二人はその後も戦力となり95、96年のリーグ
連覇と19年ぶりの日本一にも貢献、皮肉にも入れ替えが報われたのは上田が敵将となっていた頃だった。 (了) >>163
近鉄は金銭で大丈夫だと交渉を進めていましたが、途中でこじれて決裂となったそうです。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
QK0XR 衝撃事実拡散
【創価学会の魔の正体は、米国が仕掛けてるAI(人工知能)】
創価を日本統治に利用してる組織がCIA(米国の極悪クソ諜報、スパイ)
創価の活動家は、頻繁に病気や事故に遭うけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってる
災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すから、定期的に米国のAlが科学技術で災いを与える。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもん
パトカーの付きまとい、芝刈機音、ドアバン、ヘリの飛行音等も、米国が仕掛けてるAIが、人を操ってやってる。救急車のノイズキャンペーンに至っては、サイレンで嫌がらせにする為だけに、重篤な病人を作り出す冷徹さ
集スト(ギャングストーカー、ガスライティング、コインテルプロ、自殺強要ストーキング)以外にも、病気、痛み、かゆみ、湿疹かぶれ、臭い、自殺、殺人、事故、火災、台風、地震等、この世の災い全て、クソダニ米国の腐れAIが、波動(周波数)を悪用して作り出したもの
真実は下
http://ss.fan-search.com/bbs/honobono/read.cgi?no=12029 >>50
>>86
大宮龍男と鹿取義隆をトレードで獲得したのも
このシーズンの内容も関係しているだろうな >>5
西武VS近鉄やロッテVSオリックスも地上波全国ネットナイターでやっていた ブライアントの三発目、ナベは前々日の
投球数が響いて打たれたのだろうか。 「投げ込み不要論」
投手コーチとして有名な権藤博の指導法の一つに「投げ込み不要論」がある。今では“肩は消耗品”が常識となっているが、現役時代の苦い経験を
もとに試合どころかブルペンでも投球数を抑えるよう指示したのは中日コーチ時代の40年近く前の事で、当時までには無い教えだった。権藤が
二軍から一軍投手コーチに昇格した時の監督は近藤貞雄で、投げ込み不要論の提唱は近藤がコーチ時代に権藤の酷使を止められなかった反省
からの持論であり、60年代当時から過重な投げ込みには反対し続けていた。中日時代からキャンプでの投げ込みを隔日にして、大洋監督時代では
“休肝日”ならぬ“休肩日”の導入が話題になった。
89年に日本ハムの監督に就いた時も近藤の方針は変わらなかった。ブルペンでの投げ込みを減らし、余った時間は筋力トレーニングに充てた。
柴田保光らベテランや、87年のプロ入り以来2年間よく投げた西崎幸広はこの方針を歓迎した。しかし高校時代から投げ込んでフォーム固めや体力
強化をしてきたタフな若手にとっては、容易に受け入れ難いものがあった。特に前年最多勝を獲った23歳の松浦宏明は「キャンプで投げ込まない
なんて、とても勇気が要ることなんです」と強く抵抗した。
若手の不安は的中した。松浦は皮肉にも開幕してすぐ故障して離脱、6月に復帰も7月に再度離脱して1勝に終わった。前年最優秀防御率に輝いた
河野博文は、絶不調に陥りプロ5年目にして初めての未勝利だった。6年目24歳の津野浩は、3年ぶりの2ケタ勝利には達したが防御率5.50で、
前年より2.5以上も下げた。豊富な投手陣と近藤の手腕で優勝争いの予想もあったが、西崎以外の若い力が機能せずチームは5位と期待に沿えな
かった。
目論見が崩れても近藤は「キャンプのブルペンで投げる200球より、オープン戦で投げる20球の方が身に付く」と持論を崩さなかったが、前半戦まで
5割近辺で3位争いをしながら後半戦16勝33敗と大きく負け越したのでは、評論家たちに失速の原因を「投げ込まない事でのスタミナ不足」といって
近藤理論に求められるのも仕方のない事だった。 (了) >>172
いつも、ありがとう。
興味深く読んでる。 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) 10.12の西武−近鉄ダブルヘッダーだっけ??
ブライアントに打たれ、
マウントにがっくり膝をついて
打球の行方をただ呆然と見送る渡辺久の姿が忘れられない。
俺もまだ若かったなあ・・・(遠い目) >>175
この年の10.12もそうだが
西武は冬季五輪開催年に優勝してしまうと
翌年は災難に遭うな…
92年→翌年ヤクルトにリベンジされ日シリ敗退
94年→翌年オリックスの優勝胴上げを見届け
98年→翌年ホークスの初Vを許す
02年→翌年伊原退任、稼頭央メジャー移籍 逆にいえばそれだけ冬季五輪イヤーに優勝できてるのが凄いといえるが。 >>157
何故だかわからないが水島新司が居酒屋でテレビを見ているシーンが
流れていなかったか?
>>176
こういうデータもある
59年→6年ぶりのBクラス
69年→黒い霧事件で大揺れ
79年→最下位
89年→10.12などで優勝を逃す
99年→ダイエーに初優勝を許す
09年→前年日本一からBクラス ブライアントのダブルヘッダー四連発、
初回の外野フライ時点で配球を変えとけばな… >>181
あの試合で近鉄が2連勝して近鉄に残り2試合でマジック2が付いたけど
実は裏でロッテVSオリックスのダブルヘッダーも川崎でやっていて
オリックスが2連勝して、オリックスの優勝の可能性も他力だけどまだあったけど
次の日にオリックスがロッテに負けて近鉄のマジックが1に減って
近鉄の優勝がさらに近づいた(ちなみにその試合のロッテの先発は園川だった) 近鉄ベンチもブライアントには高めの速球で攻めて
来ると分かっているだろうから彼に指示しただろう。 勝ち越しホームランを打たれたナベQはブライアントキラーで
いつもはインハイのストレートで抑え込める楽な相手だった
あの打席の時だけ打たれたって振り返ってたな ダブルヘッダー1戦目が郭&久信VS高柳
2戦目が高山VS阿波野、1戦目敗戦で終ってた。 石毛がダブルヘッダー第1試合先発阿波野じゃ
なくて高柳だったことに驚いたそうな。
感覚が「高柳ってw」みたいな。
実は牛ファンだった俺は第2試合が「高山w」だっ
た。確か3回ぐらいでノックアウトしたと思った。 巨人は近鉄を破り日本一になったが、
巨人は当時のパリーグの6球団(前身球団含む)と
対戦しそして日本一もコンプリートした記念すべき
年だったが巨人は楽天には日本一にはなれず、
ホークスはセリーグ全球団と対戦&日本一を
達成しているのでホークスの方が偉い。 >>186
優勝するにはダブルヘッダー連勝しか無い近鉄は、第1試合に阿波野をリリーフ投入する事も考慮に入れて、第2試合の先発に回したんよね。
一方1勝1敗で優勝へ大きく近付く西武は第1試合に郭を立てて必勝を期したが・・・・・、ブライアント3連発で第1試合を落とした事で全てが裏目
に出てしまったという感じ。 第二試合先発高山だがライオンズはもう投手残っていなかったのか。
森の性格からして第一試合落とした時のために二戦目の先発投手用意しているかと思ったが。
そんな余裕が無いほどお互い過密日程で消耗していたのか。 森の本読むと10.12より5日のダイエー戦で序盤8点リードの展開から
12対13の大逆転負けを喰らったことの方がターニングポイントだったと書いてある スポーツニュースで「後半だけならダイエーは2位」というフレーズを何度も聞いた記憶があります。
あとは「閉店前の・・・」 西武の豊田スコアラーは森監督に配球を叱責されたとか。
高めの速球一筋では幾らブライアントでも順応されるよ。 うろ覚えかもしれないが件のダイエー戦の後に
西武は川崎でロッテとのダブルヘッダーがあったと
思った。当時最下位独走中のロッテ相手に第一試合
大差で勝ったんだけど「そこまで取らなくても」と
思った点差でそのため第二試合は疲れで
落としてしまった。ボーナスステージだから
確実に二つは取りたいという気持ちだったと思うが
ロッテ投手陣がひどくても手加減できないほど
焦っていたのだろうか。またああいう逆転がある
かもという焦りがあったのか、ブラ砲連発の前の
西武の試合振りには悲劇への前兆がかなりあった。 だから鹿取取った。
もうピークは過ぎたと思われてた鹿取が、あそこまで長くやるとは予想外だった。
堀内は予見してたけど。 カトリ?もうオワコンだろ?
ってかなりの人が思ってたが…
後のデニーもそうだが、セのイマイチなサイド投手が上手くハマったなぁ。 玉木正之が西武の応援歌の「ミラクル元年奇跡を
呼んで〜♪」の歌詞は作詞家が阪神ファンなため、
ライオンズの応援歌のつもりで作詞したのに、
いつの間にかタイガースの応援歌になってしまった
と言ってたな。タイガースの優勝はミラクルがなけ
ればないがライオンズはチーム力がしっかりして
るためミラクルなど必要なく優勝できると。
ただこの歌詞はミラクル(バファローズが)
(平成)元年奇跡を呼んで(優勝)とも読める。
実は近鉄の優勝を予言していた? 所沢移転前の弱小球団がわずか4年目で優勝ってのが十分ミラクルだろ
同じような条件でダイエーが10年
それ以下の新規球団の楽天が9年かかってるのにたいして 当時の西武(つうか堤義明氏)の資金力と根本さんの影に日向に暗躍する策士振りを思えばミラクルという感じはしないな。
年々目に見えて強くなっていったし。 買収した時点ではボロボロだったけどその分堤や根本の好きなように出来たからね
阪急を買収したオリックスがその辺の問題で苦労したのとは対照的 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています