「アグレッシブ」(後)

須藤大洋と巨人との自力の差は、6月以降の成績にしっかりと表れた。球宴前まで常に2位はキープしていたが、6月と7月は2ヶ月連続負け越しで
球宴後すぐの7月末には、遂に中日と入れ替わり3位に転落した。この2ヶ月では、勝ち頭だった新浦が1勝も出来ず3連敗したのが痛かったが、
開幕投手にも指名して右のエースと目した中山が先発では8月下旬まで7連敗したのは一番の誤算だった。安定していた右の松本豊、左の岡本透と
いった中継ぎ陣も打ち込まれる事が多くなってきていた。大洋は6月からの2ヶ月で、3連敗と4連敗を2度ずつ、5連敗1度で最大9あった貯金を使い
果たしてしまった。

借金生活に入り巨人と12.5ゲームの大差をつけられた大洋の8月以降は中日、広島との2位争いの戦いだった。5月以上にパチョレックが打線を
引っ張り、打率.446に24打点で2年ぶりの月間MVPを受賞した8月は、野村と遠藤が3勝ずつを挙げて月間勝ち越し、この間は2位から4位の
順位が目まぐるしく入れ替わった。8月は広島が15勝9敗と星を伸ばし、シーズン初めて2位に浮上した。この頃の広島は不振の大野豊を救援に
回していたが、大洋でも同じベテラン左腕の新浦を中継ぎに回して中継ぎ強化を図った。打線では2年目の宮里太が三番に座り、安定した打撃で
ジョーイ・マイヤーとパチョレックの両外国人へのつなぎ役になった。
9月はいきなり8連敗の中日が2位争いから脱落、巨人のリーグ優勝が早くも8日に決まり、激しい争いはといえば広島と大洋の2位争いだけだった。
一時大洋は広島に3.5差をつけられたが、二村忠美の連夜の決勝打もあって8日からの敵地3連戦に全勝、一度は残り16試合時点で2位を
奪い返す粘りも見せた。残り少ない最終コーナーの10月も4連勝して猛追、最終試合となる広島戦に勝てばタイとはいえ11年ぶり2位と7年ぶりの
5割確保という所まで来ていた。

左腕を苦手とする広島に村田辰美、岡本透、新浦の左投手による1失点リレーで最終戦を“取りに行った”須藤だったが、打線が0勝3敗と苦手の
佐々岡真司の前に3安打完封負けで2位と5割と逃した。ただ、須藤も「ホッとした」と言ったように7年ぶりのAクラスは無事に成ってアグレッシブな
シーズンは終わった。目立った補強の無い状態で健闘した大洋は、翌年は5位ながら90年と全く同じ64勝で、須藤は3年目の92年5月頭に成績
不振で辞任した。92年はわずか22試合の消化と早い段階での休養だったが、2年間の戦いを見るともう少し監督生活を続けて戦国時代だった
90年代前半のセ・リーグに旋風を起こして欲しかった。 (了)