田淵ダイエーを語ろう
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両リーグの首位打者打率に勝率が負けた1990年から3年間 >>130
オリックス相手に3勝22敗が頷ける。しかし、3勝22敗って、平幕と横綱の対戦成績だよな。 >>130そのメンバーだったらまだ3番広永はうなずける。
4番有田は・・。 あと藤本博史も…
つーか、この面子なら藤本4番だろ。
あとは将来への期待込みで右田1番にして佐々木3番とか。 http://sta-men.jp/1990hawks.html
http://2689web.com/1990/FH/FH11.html
http://2689web.com/1990/FH/FH12.html
田淵なりに前日珍しく爆発した打線をそのままにって考えなんだろう
で、バナザードが前日か当日に出れないといい出して急遽4番だけ有田に
山本も肘?やっちゃったし岸川も抹消中
弱り目に祟り目とはまさにこのことだな
ちなみにこの試合前の成績は16勝42敗3分 .276 ゴセージが入団したためアップショーが二軍落ち
これにバナザードが不満を持った
ほどなくして二人とも退団 アップショーが日本で打てなくてバカにされてるのがバナザードは我慢できなかったらしいね
メジャー時代からの憧れの選手だったとかで メジャーは実績主義だから
メジャーで残した数字こそ最強の指標で、日本でどんなに上の数字残してもメジャーの実績が上なら格上になる
憧れの選手がバカにされてるのを見て、「お前ら日本人はこの人がどんなに凄い選手なのか分かってんのか?」という感情だったらしい だから実績のある元メジャーを連れてきても、年俸とプライドだけ高くて扱いに困ることもある
世界最高のリーグで実績を残してきたプライドがあるから、日本の野球に適応しようとしない
3Aでハングリー精神ある選手のほうがプライド無くて適応しようと努力するから成功しやすい側面もある 90年は、シーズン後に日米野球があった。平和台の試合で、村田が先発した。7勝15敗の投手が日米野球に先発するなんて、前代未聞の出来事だった。 >>126
あと若田部引き当てたことぐらいか
大田卓司は田淵に呼ばれてコーチになったが田淵解任時一緒に辞めようしたが
根本の引き止められて残留した ホークスファンの友人は阪神との大トレードが成功したのに
右田を失った事を悔しがっており、
阪神で1安打しか打てなかった右田がホークスに残っていれば
活躍できたと今でもボヤいてる。 >>144
まともなチームで投げてたらそんな数字にはならんからな。 サファテでもいればAクラス一回くらい入ってたな
健闘した初年度も井上矢野実が活躍した。
池田や斉藤学はきつかった あの当時の抑えは回跨ぎはもちろん、同点でも僅差で負けてる場面でも登板してたからな
それも7回くらいから投げることもザラ
1回限定で勝ってる状況限定でのみ安定感のあるサファテじゃ、あの時代なら分からん 村田は開幕から完投しまくって必ず夏場に調子落としてたね だいたい井上ですら他球団と比べたら抑えとしてどうなのってレベルなのに、それを池田とかにするとか狂気以外の何者でもなかった。 でもあのトレードは成功だったよな
池田と大野が大活躍した
出ていったのは誰も戦力にならなかった 大野は別に驚かなかったが、ややオワコン化していた池田が働いたのにはヒビった。
引退後の人生もあれで変わったし。 >>128何がきっかけで仲が悪くなったんだっけ?
確か、黒田は西武の作戦・バッテリーコーチだったのを
田淵が引き抜いたんだよな。法政大の後輩の関係でもあったし。 >>151
中日辞めた後の日刊の連載で田淵に下柳起用するように言ったら
受け入れらず田淵解任後根本が就任してからは受け入れてくれて起用された
根本は下柳を打撃投手させたりした >>156
田淵の迷采配ぶりに愛想つかして、田淵解任への弓を引いた
河村によると、田淵はニャンコ藤本に無茶な要求して
精神的に追い詰めたりもしてたそうだからなぁ >>142
そこらへんが実力ではなく実績第1と言われる所以なんだろなぁ。
メジャーは必ずしもその時代に最も働いてる選手が年俸トップにはならないし。 >>156
>>158
奇しくも黒田は古巣への復帰だったな。
片平晋作と一緒に西武に移籍した時の交換相手が、山村義則と山下律夫。
その山村もちょうど引退してコーチになったばかりだった。 村田って何かのブローカーになってるって本当?
wikiに書かれてるNPOは現在はやってない様子 黒田って森、田淵、野村って捕手出身監督の下でコーチを務めることが多かったな
13年、14年の阪神では内野手の和田だったが >>153
5対4だっけそのトレード
池田大野渡真利岩切⇔藤本西川吉田博之右田近田、でいいのかな? 黒田は91年オフクビになったんだっけ。
当時の新聞に権藤コーチとの軋轢とか書かれて田淵と新幹線車内
で並んで新聞読んでいるシーンが載ってたけど。
田淵とも確執があったんだ。 この年のダイエーって負け数もそうだけど
負け方がひどかったよな。
4回くらいで既に6−0みたいなことが多かった
試合にならない、話にならないって感じだった 権藤さん出てくるとあの頃思い出すよね
横のサブグラウンドで投手陣が練習していて、気軽にサイン貰えたりしたな。 25年野球見てるが一年目の田淵と達川が史上最低監督のトップツーだと思う 優勝しそうになったけど鈴木、権藤に殴られた
一年目の金田正泰が史上最低監督だろ スレチだけど有名なあの話は江夏ソースだからどこまで信用していいんだかわからんよ、とだけ書いておく >>165
そうそれ。
言葉は悪いが負ける分には構わないが、ハナから反撃する意欲がしぼむような展開が目立った。
チームが崩壊してる時に起きる典型。 田淵が就任してどう化学変化が起こるか期待したが、今思うと杉浦さん続投の方が・・・とも思わなくもない
しかし何より根本さんが来てくれたことが一つの分岐点
また根本さんを招聘した中内オーナーもナイス 田淵ホークスを強くするのは西武を強くするより過酷なミッションだったのだろうな。
文字通り命を削ってしまった。 >>172
「福岡で(よりによって南海のエースだった)杉浦さんじゃちょっと」という声が
経済界を中心に大きかった。
ほんの数年前に稲尾さんが福岡にロッテが移転してきたら
いくら年間席を買ってくれる、広告を出してくれる、といった生々しい現実的な
交渉までやってたのにぽしゃった失望の裏返しで その杉浦が裏方に回って地元財界人に挨拶回りを続け
酒の席を重ねた結果、信頼を得て福岡がまた野球を愛する街に
戻ったんだから分からんもんだ
太平洋クラウン時代のライオンズを追い出そうと躍起になってた時期もあるだけに よそもんがチームをめちゃくちゃにしやがって
さては西武の「草」かこのブタ野郎
と本気で憎んだもんだ当時はな
このところは仕事の合間にサンケイの「田一幸淵物語」
チェックするのがささやかな楽しみ >>171
それでもロッテみたいに最初から優勝する可能性を放棄し一年間のスケジュールを淡々と消化するだけのチームよりもまだマシだった。 田淵監督が今もずっと指揮を執っていたら強くなっていただろうな >>47
小川ヒロシ対決があったんだね。
高橋ヨシヒコがいる なつい!! >>47
小川ヒロシ対決があったんだね。
高橋ヨシヒコがいる なつい!! 岸川が地方球場で鈴木貴久の飛球をアシスト本塁打していた 今季のロッテ、ハムも酷いが、90年の田淵ダイエーに比べたらマシ。 山内孝徳を抑えにした時には、田淵は気が狂ったのかと思った
あんな球威のない、牽制がウマいだけの奪三振率が異常に低い奴を >>190
それ以上に、井上先発が愚作。短距離選手に、長距離走らすくらいの違和感があった。 牛ファンだったがバナザードとかアップショーが好きだった。西武戦でも打ってたしなw
しかし田淵は2人を首にした。こいつほんまモンのバカだと思ってた。 球威のある投手?そんなものが田淵ダイエーにいたとでも? 山内孝が抑えに回った時に解説者の誰かが
意気に感じるタイプの山内孝だからリリーフに適任だとかいう社交辞令を言っていた 20年ぶりに福岡を訪ねたが
若い頃ひとりケッと見上げていたシーホークに息子と宿泊することになろうとわ
まあドームと田淵は接点ないが それはさておき
スギがつき 根本がこねし天下餅 すわりしままに食うはボクチャン
だったら八方丸く収まっていたというのにね
と28年前に初めて迷い込んだ長浜屋で やはり息子とすすりつつ思った次第 ベンチで自ら配球指示をする権藤
他所のファンだが当時は衝撃なシーンとして見てたw >>202
死球のブーマーが、ダイエーベンチの権藤に詰め寄って行ったことが有った。 ブーマー「パスタイム、クダサイ
権藤「(無言で差し出す) 田淵時代の山本和範は干されていたのかな
打撃は例年同様良かったのに、出場機会が激減した記憶がある
しかし、この頃は色々酷かったね
阪神の暗黒時代なんかかわいいもんだろと当時は思ったよ >>206
1年目 左ひじ故障で後半戦離脱
2年目 レギュラーが左から岸川、大野、佐々木 指名打者も復帰した門田
岸川故障離脱で終盤はレギュラー
3年目 岸川故障からいまいち復活できず、大野も不調
門田も衰え目立つで守ったりDHだったりで3年ぶりに規定打席到達 田淵が円形脱毛症に悩んでた頃、
まっぴら君で「大栄製作所」が「エンケイ」と社名変更するというネタにされる 福岡クラシックのトークショーで田淵がユニフォーム作ったの
山本寛斎とか言ってたのみてダメだこりゃと思ったw 田淵ホークスの楽しみ方は酷い負け試合を肴に酒を呑む事だったからな そうおっしゃるが自分はあの時はハタチそこそこで酒の味もロクにわからず
選手に失礼と試合中は一切飲食せず
試合の前か後に缶ビール一本飲む程度だったからつらかった 練習嫌いの村田がエース扱い。そのせいか、投手陣の練習量の少なさは、球界屈指だったと言われている。
後年、移籍して来た工藤、武田一浩が呆れていた。 地元テレビ、ラジオ局も中継に熱が入ってない気がした。 近鉄ファンだけど本原という投手に痛い目にあった記憶ある
田淵時代限定の投手だったよね >>215
91年前半戦は、村田とローテの軸になった。故障辞退した近鉄の小野に代わり球宴に出場したが、後半戦は全く勝て無くなった。 >>217
その話聞く度に、なんか時空がねじれてるんじゃないかと思うわ。 >>214
福岡の地元球団復活に燃えて実況放送していたのは
RKBの隈部アナくらいだったかな 古い世代の地元アナはかつてはライオンズべったりの放送をしてたんだよなあ >>219
息子さんが早稲田でラグビーやってたね
バリバリのレギュラーで >>223
地元局より神戸のサンテレビのほうが多かった。
89年開幕前に発売された「プロ野球の悩み」というムック誌によると、
この年のKBCテレビは「ウチはオープン戦も含めて15試合中継します」と、
スポーツ部長のコメントも載っていた。 KBCラジオは全試合中継しだしたでしょ田淵になってから >>224
サンテレビ倒産危機をダイエーに救ってもらった恩があるからな >>224
そのサンテレビの中継の中にはKBCのメンバーでやっていたのがあったな。
河村英文と月俣幸三とか。 何か西武と言うか西武以前(クラウン、太平洋クラブ、西鉄末期)のライオンズ出身のコーチ
が多かったような。 初年度は弱いながらも後半はアップショー・バナザード両外国人がホームラン量産してチームも連勝して楽しめた
翌年の田淵就任からが暗黒だったわ 成績調べたけど、3番手位の成績だけどエースとは
この時代は弱かったの?
>>82
> 村田勝喜 初年度は華があったな。佐々木不振湯上谷不在でも打線は凄かった
投手では加藤伸一が故障なく頑張ったね このころは球団経営にも慣れてないのか
保留名簿に名前乗っけてるのに
その後に解雇とか信じられんことやって選手から訴えられてたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています