1993年のプロ野球
ttps://twitter.com/ryokn_10/status/588342211122569220
メッツのアンソニー・ヤング
92年2勝14敗4.17
93年1勝16敗3.77
当時日本でも話題になっていて、
流石に大リーグはスケールが違うと思った記憶
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 佐々岡ってこの年がなければ通算で勝ち越してたよな
って書こうかと思ったけどこの年がなくても通算負け越しだったのね メジャーもアリなら
1996年のジム・アボット
2勝18敗… やっぱり津田さんの逝去がカープの人たちにショックだったんじゃないかな、と思う。オールスターの日に訃報を聴いたが、その時点ではまだAクラスとBクラスの境くらいだったと思う。
5月にオープンしたばかりの福岡ドームに行って、夜中洲の辺りで「福岡済生会病院」を見掛けたが、よもやそこに津田さんが入院されていて亡くなるとは。 上にもあるが高木豊がファーストで 2割6分 3本
しかもほとんど3番固定 当時の横浜って選手いなさすぎ 80年代の大洋セカンドつったら、
当時のファンは高木を思い浮かべるだろうけど、
末期はファーストだったんか まるでイメージが湧かんw
でも調べ返したらローズが来た年だったのね
そして翌年の駒田獲得につながる訳か
5年後の日本一につながったのだから、
血の入れ替えという意味で実を結んだ感じだ 高木は前年から肩がダメになってて、ならばと強肩二塁手のローズを獲って三塁に回して、遊撃を前年レギュラーを勝ち取った進藤と、前年三塁を守った石井琢朗で
競わせる腹積もりだったけど、最早高木の肩は三塁からの送球も苦しいくらい弱り切ってて、結局、石井琢朗を三塁に、高木を一塁に回さざるを得なかったんよね。
ちなみに高木が三塁定着した際の一塁は長内、畠山、佐伯辺りを想定していたみたいだが。
シーズン中、近藤昭仁監督が「"一塁を除いて"リーグ最高の守備力」と公言した内野陣の更なる強化との名目で一塁守備なら日本一と称されながらも、巨人では
中畑コーチとの確執等が噂されていた駒田をFAで獲得し、FA資金を捻出する為に屋鋪等と一緒に解雇されたという。 長打のないロートルの一塁切って浮いた金で強打者補強
理に叶ったやり方に見えるが長年見てきた当時のファンはどう思ったやら 駒田が強打者といえるのか微妙だな
5番に1ランク上の打者がいれば連覇できたかもしれん 高木切っただけじゃなく屋舗、山崎、大門、市川、欠端ら生え抜きベテラン総解雇のうえ
解雇じゃないがヒゲ斎藤もこの年引退で大洋色一掃だったから長年のファンは悲しかったんじゃない? 外人ピッチャーも記憶にない
ロースだけで他3枠何に使ってたんだ
やり方上手ければもっと勝てた >>678
禍根を大きく残しそうな補強ではあったが結果的には大成功だったな >>681
ブラックスもいたんだけどね
その2人が打線の中軸にいるうちに優勝してほしかった オールブラッグス
9人のブラッグスが試合前に整列してハカを踊る >>680
阪神のお家騒動はもはや「お家芸」レベルだけど、横浜も大概だよね 大洋横浜は監督より選手の発言力の方が強かったという点で前時代的な体質だった
マシンガン全盛期もリーダーだった石井が音頭を取って監督批判をすればフロントが動き、
それを察知した権藤は逃げ出し、森も実態は解任なのに辞任という体で辞めさせられる
そんな有様だった >>686
そんな石井も、衰えが目立った晩年にはチームを追放される憂き目にw >>687
その村では横浜がシリーズに出るとシリーズがNHKのBSかラジオ中継しか受信できないな >>664
エースが1人で借金12だから、チームが最下位というのも致し方ない… 阪神に霞んでいたが実は横浜も暗黒時代だったんだぞ… 当時の広島は二年連続で阪神より順位が下になり、大洋と仲良く暗黒席にまたもどるのかという絶望だった
史実は阪神が暗黒に戻り、広島横浜仲良し暗黒はそっから10年あたりしたらはじまり、15年ぐらいこんな状態になった >>672
その津田氏が亡くなられたのは、この年の今日のこと
オールスター中継の中で津田氏の訃報が報じられたのは衝撃だった >>676
優勝のためなら、背に腹は代えられないと思っている
ファンもいたことだろう >>681
まず93年まで一軍登録の外国人枠が2な
94年に枠が3に拡大されようやく投手も獲得するようになったが
そうそうたるハズレ外国人投手の山を築く
そもそも大洋時代から外国人投手の獲得がほとんどなく
名スカウトとして名高い牛込氏も投手獲得に感しては素人同然と言って良いだろう 大洋時代の外国人投手なんて元南海のスタンカくらいしか知らん この年は横浜がヤクルトに4勝22敗と記録的な負け越しを喫したのだが、
1991〜94年にかけて9勝17敗→14勝12敗→4勝22敗→15勝11敗と、隔年でここまで顕著に相性が変わるのも不思議だ。
普通、4勝22敗で徹底的に苦手意識が染みつくはずなのに翌年は勝ち越す(15勝11敗)のも不思議だ。 日本ハムのユニフォームが変わったけど
オープン戦までは前のユニフォームだったはず
大沢監督とオレンジ&白帽子の組み合わせはその時期しか見られなかった >>703
オープン戦までは旧ユニフォーム→公式戦では新ユニフォーム
これ、星野氏が中日監督1年目に使った手法だな >>700
翌年のヤクルトが池山古田飯田伊藤など主力の故障者続出は関係あるかもな >>704
今だとユニフォームが売れなくなるから絶対に認められない方法だ >>705
特に古田の場合は、チームの根幹を成していたから、
故障するしないでチーム成績の差が顕著だからね ヤクルト黄金期は野村が監督だったことも大きいが、古田がいなければ優勝なんて一回も出来なかっただろうな 野村の優勝もヤクルト時代の97年が最後だからね
その点は三原に近い 00年代の横浜暗黒時代はオフの駒田獲得の為に大洋組を大量リストラした罰 >>710
単に木庭スカウト時代の選手が峠を越えたのと大魔神・白薔薇の退団が低迷の原因、あと西武時代の成績が自分の実力と勘違いした岐阜の貯金箱の監督就任も。 長嶋は私の履歴書、5年前ぐらいのサンスポの連載でこの年4番を固定できない、
貧打(12球団最下位の打率)で3位になったことで落合が本当欲しかったというを
事を強調してた。槇原のFA引き止めと完全試合、駒田の移籍は私の履歴書には書いてたが
サンスポには未記載 結果的に成功だったとは言え93年の落合を熱心に取りに行くというのもよくわからんな 結果的にそうだったのかも知れんけど、
松井の良き師匠を期待したとかないのかな 93年の巨人は記録的貧打だったからねぇ
レギュラーで250以上打ったのが川相くらいしかいなかった 当時のダイエーの資金力なら松永じゃなくて落合を獲れたはず
駒田はオリックス、松永は巨人に行くべきだった シーズンオフ、落合選手が巨人にFA移籍した事についてコメントを求められた王貞治氏が
「彼も最後は優等生で終わりたいのでしょう」と話していたのが印象的でした。 原シンパ(俺もだけど)とかは反対してたかも
でも落ち着いて考えれば、この年の貧弱打線を見ると、
普通に妥当な補強だった。
何より松井がその背中を追って立派な四番になったのだから
数字以上のものがあった。 長嶋が監督だったから、そんな発想が出てきたんだろうな 広島が19年ぶりの最下位だった。
このシーズンが暗黒落ち最初の予兆 >>723
達川の引退と津田の逝去がねぇ・・・・。 達川の引退理由がいまだにわからん
肩も衰えてなかったし その達川といえば、91年にも一部で引退報道が流されていたよな
どこから流されたのかも分からないし、日刊スポーツでは一言も触れられていなかったが 達川があと2年ぐらい現役でいたなら、少なくとも佐々岡の5勝17敗という成績は無かったと思う この年の日シリで西武が負けてからパリーグは日シリで2002年までの間に2回しか勝てず苦しむことになる
今では考えられないことだが何があった そらFAと逆指名よ
当時はまだセパの人気格差が大きかったし >>716
記憶違いかもしれないけど、この年のジャイアンツって開幕前ぐらいには
「史上最高打線」とか銘打っていなかったっけ? >>731
世間で期待されてたかは知らんけど、
俺が個人的に期待してた
記録的大外れだったがw やっぱり野球はネットの整備途中だった90年代が最高だな
今はユニフォームが洗練され過ぎて、選手も似たり寄ったりの優等生ばっかでスターオーラ0だから刺激が無い 未だに10代の頃の顔を維持しているのだから、ある意味若い 当時から老け顔だった松井や古田なんて、今でも見た目や体型が当時と大きく変わらないから今は若く見える 古田は若く見えるけど松井は年齢不詳って感じだな
顔がでかすぎて判断に困る 岩隈は2001年の時はイケメンだったけど今は随分老けた 上原や松中も20年ほぼ変わらないから若いよな
宣銅烈なんて中日入団時の34で凄い貫禄があった 松中昨日のスポーツ番組出てたけど浮腫みすぎでヤバかった 大橋穣のウィキでこんなのを見付けた。
1993年からヤクルトでコーチを務めた際には、上田阪急の御家芸であった走塁戦術「ギャンブルスタート」を伝授した。上田は1970年代後半に、無死または一死の場面で三塁走者に対し、打球がゴロと判ってから走る一般的な「ゴロ・ゴー」だけではなく、バットがボールに当たると同時に走り出す「当たり・ゴー」、さらにはバットに当たる前から走らせる「ヒット・エンド・ラン」の三種のサインを状況に応じて使い分ける戦術を考案して実行し一点をもぎ取っていた。上記のような局面での「当たり・ゴー」と「ヒット・エンド・ラン」は、打者がライナーを打ってしまった場合等には逆に併殺打になるため、非常にリスクの高い作戦であった[6][7][8]。
ヤクルトは、大橋がコーチに就任する直前の西武ライオンズとの1992年の日本シリーズ第7戦、7回裏一死満塁、1-1の同点の場面で、代打杉浦享のセカンドゴロの間に三塁走者の広沢克己が本塁で封殺されてこの回を無得点に終わると、延長10回表にエースの岡林洋一が力尽きて犠飛により1点を失い、1-2で敗れて日本一を逃した。ヤクルトの敗因としてこの広沢の走塁死がクローズアップされたため、監督の野村克也は大橋から「ウエ(上田)がやっていたあれは、どういうケースで(打者、走者が)どういう条件でやるんだ?」と聞き出し[2]、キャンプでは大橋の指導の下、その走塁戦術を練習させた。同じ顔合わせとなった1993年の日本シリーズ第7戦、8回表一死三塁、3-2とヤクルト1点リードの場面で、三塁走者の古田敦也が三塁ベースコーチの大橋に「行きますから」と小声で伝えて「当たり・ゴー」で本塁に突入し、広沢のショートゴロの間に生還して追加点を挙げ、ヤクルトは4-2でこの試合に勝利して15年ぶりの日本一を達成した。 今の選手は真面目過ぎてキャラが立ってない
90年代まではレコード出したり、オフのかくし芸に出たりと漫画や珍プレーで茶化されるぐらい個性的だった
その反面、監督はチー牛主体からフレッシュに若々しく様変わりしてるが その頃とは時代が違うんだよ
いつまで昔を思い出してウットリしてんだジジイ 松永も今じゃ鹿児島で幼稚園児相手に体育を教えたり、水泳大会のゲスト解説に呼ばれたりする 今は真面目じゃないと
マスゴミに叩かれるからな
キモい時代だよガキ 松永は幼稚園児に砂遊びを教えてるんじゃなかったのかW 小宮山が開幕6連勝くらいしてたけど結局負け越してた ハドラーの方が優良外人だったのか(´・ω・`)
17-16以外、あまり記憶にないが しかも8番打者ながら打率.300を達成
シーズン2回のサヨナラ打
得点圏打率はリーグトップという勝負強さを見せた >>757
当時のヤクルトのれっきとした主力だったんだけど 終盤の練習中に山本昌広が松井達とかいう雑魚の打球鎖骨に受けて骨折、20勝と防御率1点台とドラゴンズの優勝が消し飛ぶ
延長15回、無死満塁からクリーンナップが内藤に3者連続三振…
今思い出しても悔しすぎる、絶対ドラゴンズ優勝してたよなあ
ついてなさすぎだろ >>763
7イニング、スコア7-1で山本昌投手を降板させたものの9回に8失点してチームは逆転負け、
山本投手の16勝目が消えてから3日後の出来事でしたね。
この試合が余程堪えたのか、翌年の10月6日は山本昌投手先発で
7回終了時点でスコア9-0であるにも関わらず完投させ、
その結果、いわゆる10.8では山本投手はブルペンに入りはしたものの、
事実上登板不可という状況に。 >>757
後年、その内藤が中日に移籍したんだけど、その際はどう思ったんだろうか 阪神佐藤53打席連続無安打のおかげで
トーベの存在を思い出した まさか、こんなところでトーベの名を聞くことになるとは