「マニエルおじさんとフェイスガード」

「もうロッテのガムは噛まないよ」と近鉄のチャーリー・マニエルが怒った表情で話したのは、6月9日のロッテ戦で八木沢荘六から受けた
死球で右下顎を骨折して入院していた西宮の病院での事だった。近鉄は当時、2位阪急に6差の独走中で原動力マニエルの打棒は開幕から
猛威を振るっていた。前期打ちに打っていた中での死球は、内角攻めに苛立ち少々のボール球でも踏み込んで打ちにいっていたのが仇と
なったが、マニエルは「ニシモトの笑顔を見るために打つ。すぐオレは戻って来る」と西本幸雄監督に早期復帰を誓い、病室には自身の
レントゲンと八木沢の写真を貼って闘争心をかき立てた。
マニエルの離脱後3勝6敗2分けと失速したチームを、同時期9勝1敗1分けの阪急が一時は抜いた。だが西本に「マニエルおじさんの遺産を
道楽息子たちが食いつぶした」と言われた門下生が奮起、攻守に大活躍の平野光泰や井本隆、村田辰美らの頑張りで最後の南海3連戦に
2勝1分けで阪急を抜き返して前期優勝を決めた。

マニエルの骨折は全治2ヶ月と診断されていて「プレーオフに出られれば」といった所だったが、死球から19日後の6月28日に退院すると、
後期が始まって1ヶ月ほどした8月4日にアメフト選手顔負けのフェイスガード付きヘルメットを着用して復帰した。その試合ではいきなり代打で
2点適時打、3日後から四番で先発出場して後期も13本塁打を打ったばかりでなくナインに与えた勇気も大きかった。
フェイスガード着用という闘志を見せた大きな理由として西本への強い忠誠心があった。前年まで3年間のヤクルト在籍時に監督の広岡達朗
から厳しく扱われた反動もあったとは思われるが、西本とはとにかく気が合い通訳なしで1時間半話し合う事もあった。西本はプライドを尊重
してきたが、身振り手振りを交えてのコミュニケーションには、マニエルもすっかり感激していて「選手の心を知っている。グラウンドで力を出せる
よう大事に考えてくれるから大リーグでも監督の出来る人だ」と心酔し切っていた。

フェイスガード付きヘルメット着用については、患部を守る事や内角に臆せず打撃に臨む事も理由だったが、米マイナー時代にも顎に死球を
受けていて医師から「三度目の直撃は日常にも影響が出る」と忠告されていた事も理由の一つだった。
球団で用意したフェイスガードだったためサイズが少し大きく、上下して打ちづらくなり後期は少し成績が落ちたもののリーグ優勝に導いて
MVPを獲得したマニエルおじさんは勿論、道楽息子たちにしても西本親父をとにかく勝たせたい一心だった。 (了)