1979年のプロ野球
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衣笠が肩甲骨に死球を受ける乱闘になった試合
その後山本浩二が同点3ランとサヨナラ本塁打打ったんだっけ?
この年の日本シリーズって
江夏の21球以外はあんまり語られない印象なんだが
何か他にも名シーンとかあったの? 40年近くも前だからね。
あれ以外に名シーンといっても、思い出せないよ。
強いて言えば近鉄の2戦目の先発だった草が、ヒーローインタビューで第1戦の
先発に起用されなかったことの不満を仄めかしたとか…でも試合じゃないしな 第一戦を井本にとられた無念みたいなことが、新聞にデカでかと出ていたな。
まちにまった初めての日本シリーズに、今まで近鉄を引っ張ってきた草根が、シーズン大活躍といかずに、好調だった井本にとられたと。 日本シリーズ第六戦の井本の力投は凄かった。
中二日先発で完投勝利。
中二日の先発で日本シリーズ勝利は
これが最後ではないのかな。 エースは中3日で1、4、7戦投げるのがセオリーの時代 この年の西武の後楽園球場での日ハム戦では、
この年だけいたマルーフの打席の時に、福岡時代からのファンから、
「基〜!」!という声が飛んでいたらしい… 政治家はどうして「朝鮮飲み」をするんですか?
http://livedoor.blogimg.jp/defugon/imgs/3/0/30454123.jpg
朝鮮飲みは朝鮮の人が目上の人の前でお酒を飲むときの作法です。
それが何故、日本の国会答弁で“水を飲むとき”にやらなければいけないのでしょう? >>477
あの年の日本シリーズは最後の最後で大ドラマが待っていたわけだが、それまでは「チョンボシリーズ」と言われたくらいミスが目立ったな。
最たるものが第五戦、三村のフライをライトのマニエルが取れずに決勝点となったプレー(投げていたのは草魂)。
プレーオフで大車輪だった山口哲治も打ち込まれた。
平野は20打席以上もノーヒットだった。 「ヤクルトファミリー」(前)
日本シリーズ終了の翌日から来季の戦いは始まっているとはよく言われるが、それは全球団に言える事で頂点に立った球団でも、浮かれないように
との戒めの意味で使われる表現だ。下馬評を覆して阪急に勝って日本一になった78年のヤクルトも例外ではなかったが、ここではクールな指揮官
広岡達朗と球団フロントとの“内戦”という戦いが始まっていた。
日本一から一夜明けたオーナー報告の場で、広岡は「今年優勝したのは早過ぎました。たまたま勝ったようなもので、本当に力のあるチームになる
のはこれからです」と言った。日本一の余韻に浸って大喜びしていた松園尚巳オーナーの心は冷めたが、広岡にすれば「勝って兜の・・・」という本心
からの発言だった。引き続きチーム強化を図りたい広岡と、“ヤクルトファミリー”と言われるほど選手を可愛がる松園ら球団首脳が火花を散らして
いたのはこの時からだった。
76年シーズン途中に監督に就任した時から“火種”はあった。オーナーは「武上四郎を監督として育ててほしい」と広岡に頼んだ。69年のオーナー
就任以来、別所毅彦、三原脩、荒川博、そして広岡と続くヤクルト監督の系譜、生え抜き監督誕生は松園の悲願だった。広岡は当時まだ44歳、
初監督で理想のチーム作りに燃えていた事もあって、後任育成指令には少なからず煩わしさを覚えた。
それでも当初は蜜月関係にあった。染みついていた負け犬根性が顔を出した時には、選手に「やる気の無いものは行きたいチームを3つ書け、
トレードに出してやる」と檄を飛ばしたり、77年オフには森昌彦のコーチ招聘とユマでの初となる海外キャンプを認めるなど、オーナーは広岡をバック
アップしてきた。
猛練習や意識改革が効果を示して2年で覇権を取り安定期に入るかにも見えたが、フジサンケイグループを中心とした「広岡留任」の声が高まり武上
監督就任がずれ込んだのと、前述の日本一会見で松園は苛立ってきていた。歓喜に沸く球団やファンをよそに広岡はコーチ人事に着手、森を作戦兼
バッテリーからヘッドに昇格させた。さらに外部からは阪急・植村義信、大洋・近藤昭仁を呼び、堀内庄と丸山完二を二軍へ転出した。この編成までは
受け入れられたが、戦力の入れ替え案では悉く衝突を繰り返す事となった。 (続) 「ヤクルトファミリー」(中)
契約延長となった広岡は、マンネリ化を防ぐためのトレードを次々画策した。ロッテ・山崎裕之の獲得を狙って「投げてみないと分からない投手で計算
が立ちにくい」と評していた安田猛の放出を目論んだが、これに松園オーナーは「前から子飼いの選手は出したくないと言っているではないか」と
怒った。それならばと交換相手を替えて山崎獲得内定まで漕ぎ着けたが、放出予定の西井哲夫と渡辺進が渋って流れた。
安田については、守備面に不満を持っていたチャーリー・マニエルも合わせたトレードを近鉄に打診して、井本隆と神部年男を譲り受けることが決まり
かけたが、オーナーに続き安田本人が「他へ行きたくない」と拒否してご破算になった。それでもマニエルと神部を軸とした2対3の交換は実現、他にも
山下慶徳を南海へ放出するトレードを行ったが、「自分のチームでなくなった」とこぼしたように、松園にはチームが遠くへ行ってしまうような気がした。
一方で、ファミリーに固執しない約束でならと続投を引き受けたはずの広岡は落胆した。広岡によれば前年オフも南海の江夏豊と柏原純一の獲得が
内定しながら交換予定が折り合わず流れた経緯もあったとの事だった。選手側も多くがトレード案に対し残留を望んだが、猛練習や出番減少もあと
少し耐えていれば“家族的雰囲気”が戻ってくると考えていたのか。
秋からの監督とフロント、選手の関係がペナントレースにも影響して1分けを挟み開幕8連敗したが、5月に持ち直して27日には5割まで戻した。4位に
浮上して首位とも2.5差、さあ追撃という6月に広岡はオーナーに呼ばれた。そこで指導法を理由に森、植村両コーチの二軍異動を迫られた。
広岡は「コーチに指名した監督の私に責任がある」として応じなかった。オーナー注文は「厳しすぎる指導はチームワークを乱す」という選手からの
言い分のみというものだったが、皮肉にもこれでまたチームワークを乱されたヤクルトは、6月に2度の4連敗と開幕同様の1分けを挟んだ8連敗で
最下位転落、5位阪神とだけでも5差がついた。主力の不振も致し方ないチーム状況で、6月まで大杉勝男、大矢明彦、水谷新太郎が大不振、投手も
梶間健一の孤軍奮闘だった。
負けが込み8月に入ってもリーグの借金独占と好転しないチーム、その頃オーナーの意を受けて広岡に意見をぶつけるため真っ向対峙したのは、
弁護士を本職とする球団社長の佐藤邦雄だった。佐藤が広岡を球団事務所に呼んだのは、8月7日で立秋の事だった。(了) 「ヤクルトファミリー」(後)
ヤクルトの思わぬ低迷の一因として故障者続出というのがあった。オープン戦で酒井圭一が顔面骨折、6月には抑え役の井原慎一朗が右肘痛で
2ヶ月半、下旬には神部が右太もも肉離れ、若松勉が左太もも捻挫でそれぞれ1ヶ月離脱した。他にはデーブ・ヒルトンが7月から右かかと挫傷で
1ヶ月、右太もも肉離れの安田と左手腱鞘炎の角富士夫はシーズンの半分以上を休み、満足な状態で試合に出た事がなかった。こうした現象を
球団側が広岡や森、植村の課した厳しい練習に原因を求めた。
8月7日の会談で佐藤球団社長は、森と植村の二軍異動か休養を迫ったが広岡は首を縦に振らなかった。5日後には佐藤が遠征先の岡山まで連絡
もなく出向き、両コーチの降格を要求したが広岡は三たび拒否した。一連のやり取りからは、コーチではなく自身に責任があるという広岡に対して、
コーチ人事を攻め続ければ広岡から辞任を切り出すのではないかという球団の狙いが透けて見えた。球団社長が手を変え品を変えという形で手直し
を提案しても平行線のままだと、行き着く所は強権発動だった。8月17日に広岡へ一切知らせず、森と植村に「休養」を言い渡した。こうなると売り言葉
に買い言葉、責任の所在を説明する広岡に球団社長が「ならば君が辞表を出したまえ」と言うと、外堀を埋められたように広岡も怒って退陣を決意して
しまった。
その日の試合前、球団社長は2コーチの休養と“今日は”広岡が来ない事を発表した。試合中には弁護士を立てた広岡から今回の問題に関した全
600字に渡る声明文が届いて、後々辞任か解任かを巡る騒ぎにもなった。正式退団は8月29日、歓喜の日本一からわずか10ヶ月後の事だった。
広岡は「野球人の信念に基づいての退団を、お金の問題として見られたのは残念だった」と振り返った。ヤクルトファミリーの壁はとてつもなく高く、
前年の日本一ぐらいではフロントも選手も本当の意味での意識改革は出来ていなかったのだ。
翌年の監督に予定通り武上を据えた松園オーナーは、よく新人入団発表の場で「監督は技術を100%求める、私は人間性を無視してまで技術を
求めない」と言っていた。入団発表に選手の家族を呼ぶのも今ではどの球団でも恒例になったが、この頃のヤクルトが最初だった。 (了) >>491
酒井圭一はまるで戦力になっていないから彼のケガはヤクルト低迷の原因ではないぞ。 【告発者の名前と住所】
◎宇野壽倫 連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202号室
還暦無職・生活保護不正受給犯罪者の色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)はアルバイトをしていながらそのことを内緒にして申告をせずに
不正に生活保護を受給しています。「糞アリ貧乏人どもは一生死ぬまで汗水流してせっせと働いとればええんじゃい。おんどれら糞アリ貧乏人どもがちゃんと働かんかったら
ワシが遊んで暮らせんじゃろうが〜。ボケ〜。カス〜。アホンダラ〜。」が口癖で「金や金、金持うて来い〜。どアホ〜。」といつも大声で叫んでいるようなとんでもないクソ野郎です。
こんなクソ野郎の思い通りにさせてはいけません。みなさんどんどん匿名で役所や警察に密告してこのクソ野郎が遊んで暮らせないように人生の厳しさというものを徹底的に教え込んでやりましょう。
生活保護が受給されなくなった時点でこの犯罪者クソ野郎の場合は自殺するしか他に道がないでしょう。 こんな犯罪者クソ野郎をのさばらせていては世の中のためになりません。
このような犯罪者クソ野郎が存在していること自体正当に生活保護を受給している人の迷惑となるでしょう。
まずはこの犯罪者クソ野郎に渡ってしまった我々の大切なお金を取り戻しその上でみなさんの力でこの犯罪者クソ野郎を自殺へと追い込みましょう。
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色川高志 (あいかわ たかし)
〒125−0062
東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【色川高志という人物も生活保護受給者でありながら申告せずに内緒でネットストーカーなどのアルバイトを
している生活保護不正受給犯罪者です】
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111 「機は熟した」
V9以後のプロ野球はまさに群雄割拠で、74年ロッテは24年ぶり、75年阪急と78年ヤクルトは球団初となる日本一に輝いた。リーグ優勝の点でも、
75年広島のセ・リーグ初制覇は世間を騒がせた。
近鉄が12球団で最後となるリーグ制覇をしたのが、2リーグ分立30年目の79年だった。前年前期が9差の2位、後期はあと一歩の所で王者・阪急に
かわされた悔しさを胸にスタートした近鉄、5年以内に優勝させられず胃潰瘍もあり辞任を決意していた西本幸雄監督を、選手のみならず球団や本社
総動員で翻意させての再出発だった。フロントは神部年男らとのトレードで、ヤクルトからチャーリー・マニエルと永尾泰憲を獲得してバックアップした。
西本が「機は熟した」と言った事に間違いはなかった。開幕からの4連勝を皮切りに4月を13勝3敗の好発進、その後も勝ち続け5月末時点で31勝
9敗4分けと驚異の成績を挙げて、2位の阪急とは最大となる7差をつけた。4月は打率.420で9打点の梨田昌崇、5月は打率.427で15本塁打の
マニエルが打線を牽引した。投手陣では井本隆、村田辰美、柳田豊らの先発が力投、救援では香川正人の活躍も大きかった。
5月29日には既に前期優勝M18が点灯していたが、6月9日に背筋痛で成績不振の鈴木啓示が登録抹消した上に、ロッテ戦でマニエルが死球に
よる顎骨折で離脱した。エースと主砲を一日で失ったチームは2度の3連敗で失速して、1分けを挟み9連勝の阪急に首位を奪われ逆マジック「3」が
点灯したのは、6月23日で残り3試合の時だった。
しかし翌24日からの南海3連戦では、切り込み隊長・平野光泰が大活躍し24日は逆転打、25日は1試合3本塁打で連勝に貢献した。そしてM1の
26日で引き分けて75年後期優勝以来の“2分の1優勝”となる前期優勝を決めたが、この日奇跡のバックホームをして見せたのも平野だった。
後期は2差の2位、阪急とのプレーオフでは対戦成績で負け越し実績でも劣る事で不利と言われながら、1戦目は井本の好投、2戦目は一発攻勢で
山口高志を攻略、3戦目は2戦目まで計3イニング打者9人に対しパーフェクトリリーフの山口哲治が3回3分の1を被安打1の快投で胴上げ投手と
なりあっさりとストレートで下す悲願の初優勝、山口は1勝2SでプレーオフMVPに輝いた。
阪急時代での初優勝は5年目、近鉄では優勝まで6年をかけた西本は「優勝に立ち会えたのは本当に幸運」と言ったが、ナインや球団の熱意によって
与えられたともいえる契約6年目での優勝から出た本音だったのではないか。それにしても阪急と近鉄での長い歳月をかけた弱いチームからの
手作り野球が印象的な西本だが、それぞれ優勝させるまでにBクラス3度ずつを経験していた。現代でならいずれも途中で解任された可能性が高く、
西本の時代は実績ある監督に対して“機が熟す”まで待ってもらえる良い時代だった。 (了) >>495
死ねオナニーガイジ
下手くそで醜い文章乗せんな 広島が優勝を決めた阪神戦、
9回表に阪神が一点差に迫ってなおも無死一、二塁から
榊原の送りバントを江夏が処理して三塁封殺したが、
難なく三塁に投げた江夏のフィールディングに驚くと同時に
二塁走者川藤を変えずにそのまま使ってた事に驚いた。
川藤は80年まで盗塁を記録してるからまだ鈍足になるちょっと前か。 >>495
いつもありがとうな
単発の罵倒レスの方がよっぽどスレ汚しじゃボケが >>499
毎度毎度の自演w
こんな過疎板の過疎スレで単発がどうのとか頭悪いの? 駄文を貶されると発狂してすぐ擁護レスするからわかりやすい 7月まで小林いなくても巨人首位争い。
小林いたらね。 クラウンにいた石井茂雄(クラウン退団当時で187勝)を4月に急遽テスト入団させるも、
小林放出、江川6月まで出場自粛の穴を埋められるはずもなく、何とか700試合登坂だけは達成し引退、
巨人では2勝上積みに留まった。もっともクラウン時代は年間5勝するのがやっとで
200勝への道はかなり厳しかったが >>495
また書いて下さい。
楽しみにしています。 よくこんな稚拙な駄文を載せる気になるな
爺になると恥を感じなくなるのかな >>498
リアルに野球を見始めた頃は既に代打だった川藤が実は俊足だったとは… 何でそんなに攻撃的になるんかよくわからんな
確かに知ってる話ばかりだけど、こういうのもあっていいじゃん >>498
カープ優勝の動画見る限り川藤の足が早く三塁セーフだわ
これ逆転負けしても広島の優勝は変わらんだろうけど
阪神は2位ぐらいになれただろ 後期は、阪急が西京極のホームゲームで優勝を決めたが、試合は引分だった。
阪急の最後の打者(加藤英だったかな)が内野ゴロで凡退した直後、阪急の選手が喜びながらベンチを飛び出して、上田監督を胴上げをしていた。
ちょっと珍しいシーンだと思ったw この年から主がいなくなった平和台、全面人工芝にしたな。
2億5000万円かけたそうだが、ライオンズが去って慌てて導入を決めたのだろうか。 本来なら、ライオンズがいた時点でそれをすべきだったんだけどね 太平洋クラウン時代は行政に嫌がらせされ続けてたからな
無理な話よ それらが積もり積もって、「福岡を去る」という決断に達したわけだからね >>517
お前らの脳内には珍カスと虚カスしかいないのかw
これだから知恵遅れは困る >>517
お前らの脳内には珍カスと虚カスしかいないのかw
これだから知恵遅れは困る この年が強い阪急の最後の年だった。ただその終焉の兆しは見えていて
ウィリアムスと大橋の出場が減ってきて黄金時代を支えた守備に衰えが出てきている。
近鉄に3連敗を喫した喫したプレーオフ、第三戦の決勝点がこの年大橋と交替して
ショートに入っていた井上のエラーだったのが象徴的だった。 10回表の阪急の守備、無死一塁でバントを稲葉が犠打野選、その次のバントは三塁で刺せるのに、加藤秀が三塁を見もせずに一塁に投げたりしてた。
近鉄の先制点も島谷のエラーが絡んでいるし、やはり全般的に守備がおかしかった。 半期優勝も含めればこの年で阪急は10連覇だったね。 この年前期の土壇場に近鉄を逆転して阪急にマジック点灯したのに
日本ハム戦を山田で落としてる。こんな時には絶対勝つのが
阪急だったのに、って思ったのを覚えている。 130試合制なら阪急の方が近鉄よりも1ゲーム差で上だったんだよな。
もちろん最初から1シーズン制ならば、それを目標にやるわけだからそういう単純比較は無意味に近いかもしれんが。 あと、梶本は投手出身の監督にも関わらず、監督が梶本になった途端に阪急の投手王国が崩壊したよな。
翌年80年はさらに投手陣が酷くなったし。 短期決戦に弱い西本監督だが、この年も翌年もパのプレーオフは3連勝。
相手の監督が梶本、山内、と自分が監督をしていた時の選手だった人だから
見下ろして戦うことが出来たのかな。
逆に阪急時代の懐刀だった上田相手にはやりにくかったのかもしれん。 >>531
75年は逆に近鉄が上だったから
まあ、おあいこってことで 近鉄の顔ぶれってマニエルと永尾が来た以外は前年とほとんど変わってない。
前の年はDHだけレギュラーが定まらなくて、そこにマニエルが来たから
マニエル加入の分がほぼ丸まんま戦力アップになり、これでほぼ阪急と互角になった。 名前だけは知名度あってもどんな選手だったのか知られていない代表例として
この年南海に加入した王天上(本名はオーテンジオ)がいた。
成績だけ見ると.248 23HR(113試合出場、前期はDH・後期はライト)と
及第点と言える成績だけど、この年は門田がアキレス腱を断裂し終盤まで休んでたから
穴埋めとしてはかろうじて合格点かな? >>537
長打力のある右打者がいないチーム事情を考えればまずまずの成績だったんだけど
前期で16本塁だったのが後期は7本に落ちていて、どうも研究されてしまった感
が拭えなかった。翌年シーズン途中で解雇になる予兆はあったのかも。 日本では「王天上」だったがアメリカでのニックネームは
皮肉にも前監督の野村克也と同じ「ムース」だった この年公開された「太陽を盗んだ男」の中でジュリーが3つ要求したうちの一つが
プロ野球中継を最後までやれだったのは有名だが、そのカードは巨人-大洋だった。 そう言えばこの年から始まった西部警察の第1話で犯人の要求のひとつが
「近鉄-日本ハムで近鉄に勝たせろ」だった。
劇中では結局近鉄の鈴木啓が日ハムの高代にサヨナラホームラン打たれて負けるんだが
実際にそういう試合あったのかしら? >>541
79年5月26日の日ハムー近鉄で
鈴木啓示が高代に2発浴びて8-11で負けた試合があったが
サヨナラ負けではない 太陽を盗んだ男の劇中、ジュリーが第一の要求としてナイターを最後まで中継しろと言ったのは
自室で原爆を製作中にたまたま後楽園での巨人vs広島戦がテレビで中継されてて
当時の広島の抑えだった江夏が左キラーとして売り出す前の平田薫と対戦する終盤に
ナイター中継が21時になったため打ち切りになったのシーンが要求の原因に。
ただ、この当時は東京でも巨人戦しかナイター中継はしてなかったと思う。 >>543
テレビ東京(当時は東京12ch)が時折自社でヤクルト、大洋、西武戦を。
阪神、稀に阪急、近鉄戦をサンテレビ、KBS京都から同時ネットしていた。 >>543
じゃたぶんその試合の映像だ
ドラマはサヨナラホームランって設定になってるんだが
映像は何故かサヨナラっぽくなくて、まだ試合が継続している感じだったから 開幕12連敗の西武だが年間トータルでは5位南海と一敗分0.5ゲーム差しかなかった
両チームがライバルだったのは翌年の前期までだった 片や上がり目、片や暗黒時代への片道切符状態だからねw >>309
> 「弱体化投手陣」
先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
> 79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
> 3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
> 諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
> 江川と入れ替わって二軍に降格した。
> チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
> 再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
> Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
> から姿を消した。
>
> 79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の誤り14勝だけに終わった。
新浦寿夫は正しい15勝11敗15セーブ >>119
新浦さん〜村田さん〜鈴木孝政さん
ボクですら後楽園で79年に150q/h越えたこと有りません…
1981年度に日米野球で救援で最高148q/hです 甘くなってからです 終速なら納得します
1985年度最盛期過ぎてから北陸の地方球場デーゲームで152q/h出しました
20代後半でも速くなってます
79年に名古屋神宮では150出るのに 江川から逆転3ランのラインバック、引退後信じられないくらいの不運が続き挙句は事故死
あれほどのナイスガイがどうしてこんな仕打ちを受けなきゃならんかったのか! https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001140000120.html
寺尾 2作目が「江夏の21球」ですね。
山田(雅人) 西本幸雄さん(元阪急、近鉄監督)とは関西テレビ情報番組「なにぬねノムさん」でご一緒していた時に話を聞いていたし、
江夏さんは大院大高の先輩なんです。
寺尾 79年広島と近鉄の日本一決戦。広島江夏が9回無死満塁の大ピンチを抑えて優勝します。
山田 江夏さんの外角低めへの制球力は高校時代に砲丸投げをやってたから身についた。
寺尾 1死満塁から近鉄石渡がスクイズ失敗で代走藤瀬が三本間で挟殺にあった。2死から石渡三振で広島が日本一になった。
山田 西本さんは江夏は一生待っても押し出しがないからスクイズしたくなかったらしい。その前の佐々木が三振したから石渡も打てな
いだろうと、つい手が動いてスクイズのサインを出してしまった。 この年の今日、江川が阪神へ入団し、小林繁と即日トレードで讀賣へ移籍 >>553
そして小林はこの年、讀賣相手に8勝を挙げた 上田は、前年のシリーズの混乱の責任を取って辞任したけど、それがなければこの年も上田が阪急の監督をやっていたのだろうか。 1978年オフは田淵の世紀のトレードもあったから凄いよねw >>560
ちゃうで
田宮はん自殺は1978年の師走や >>395
この当時のライオンズは、田淵獲得のために真弓と若菜のレギュラー2人を放出したけど
その穴埋めをせずにシーズン入って守備ボロボロだったみたいだね。
野村を入れたけど、野村はもう守備で計算できる年時じゃないはずだし。
根本は補強しなくてもどうにかなると甘く見ていたのか? 西武が野村と田淵の獲得にゴーサインを出したのは堤の意向
球団持った直後の堤は選手に対してあまり詳しくなかったが
そんな自分でも知ってる選手なんだから一流選手に違いない
例え衰えていても何かしら役に立つ部分があるって公算だった >>564
ただドラフトで石毛、ロッテから山崎、南海から片平とその後は上手く補強した
田淵については明らかに出血覚悟のトレードだった
当時の田淵はすでに「打つだけで守れない走れない選手」という評価だった >>564,565
堤傘下のプリンスホテル野球部で中尾や石毛等と確保していたので、ゆくゆく彼らを入団・起用する腹積もりだったかもと。
只、プリンスホテル並びにライオンズの有望選手掻っ攫い振りに非難が集中したのと、中尾よりも更に若い伊東の確保の目処が立ったので、
中尾とかは他球団に行った(行かせた?)けど。 プリンスホテルは支度金を最高2500万出してたって言うんだから
貧乏なプロ球団より待遇が良かった 記憶があいまいなんだが、この年
後楽園球場の大洋戦で江川が救援登板して
最後に新浦が抑えた試合観戦した。 当時「江川投手 王選手を見習って」という横断幕が掲げられてたな >>572
王の人間性を知らんヤツが掲げていたんだな >>3
R.クルーガー(読売ジャイアンツ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構https://npb.jp/bis/players/41343848.html
子供時代なので記憶にないよ
左投手だったかな?
29イニングスじゃ見れない確率高い ジャイアンツヴィンテージ江川特集パート1 江川初勝利で新浦寿夫 4点差で救援した
最速終速143キロq/h近代の初速ガンなら新浦も江川も150連発だな
>>571
> 記憶があいまいなんだが、この年
> 後楽園球場の大洋戦で江川が救援登板して
> 最後に新浦が抑えた試合観戦した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています