「弱体化投手陣」

前年ヤクルトに逆転を許し、リーグ3連覇を逃した長島巨人にとって、投手陣の強化は79年への重要課題だった。ドラフト会議を欠席してまで
意地を通して獲得した江川卓は、球団自ら出場を自粛して5月いっぱいまで使えない。交換相手だった小林繁の13勝、191回1/3イニングの
穴を埋めなければならず、「江川問題」の代償の大きさが炙り出されていた。V2に貢献した左腕クライド・ライトの退団も先発陣弱体化に
拍車をかけた。残されたのは堀内恒夫、加藤初、西本聖といった右腕揃い。先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
ライトに代わる左腕先発の補強は急務といえた。

79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
江川と入れ替わって二軍に降格した。
チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
から姿を消した。

79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の14勝だけに終わった。それも痛かったが、堀内、加藤、江川ら右の柱が
いずれも2ケタ勝利に届かなかった誤算もあった。ライトの退団は致し方ないにしても、小林の放出は江川獲得の意地と天秤にかけると、
損得としては如何ほどであったか。確かにその後の江川の功績を思えば、トータルで得ではあった。しかし仮に江川は獲れずとも、小林残留
の上に、ドラフトでも関係者が悔やんだという東芝府中・落合博満を予定通り2位以上で指名となったら・・・。仮の話に結論は無いが、少なく
とも76年から3年間で49勝という右のエースが抜けた大きな穴と左腕不足が、長島の解任を早めた事実は残った。 (了)