1979年のプロ野球
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アメリカ長期滞在キャンプの為、国内オープン戦不参加のままぶっつけ本番で臨んだのが大失敗。
余談だが、新本拠地こけら落としの2日前、4月12日の阪急戦は初めての平和台里帰り(10、11日は西宮開催)だった。 >>284
ちなみに10年後のダイエーの初平和台も西武戦だった 空き家になっての初戦とダイエー本拠地初戦はともに西武がビジターだったわけか・・ 今年、西武が最下位になったらこの年以来の出来事になる。 結局は、>>274のとおりになりました。
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141007-00010006-fullcount-base 前年1、2位のチームがBクラスに転落した始めての年
その後92、97とパでも08、09、14に発生した…
逆パターンは
62セ、97セ、08パ、14パ 熱闘日本シリーズで初めて全試合ハイライト見たけど、江夏の21球以外は淡々とした印象しかないw でも前年は大杉の疑惑の判定で大揉めだし、二年連続でシリーズ史に残る大会になったね。 根本陸夫が飯田徳治、別当薫に次いで両リーグ最下位監督に 西武は弱かったけど観客動員が100万人突破したな。
西武沿線の人たちが多くいったのが大きい。
特に所沢以西の人なんか今まで近くて神宮だったから
近くに球場&球団が出来たのはうれしいだろう。 BS NHKを今すぐ見よう
ノムさんが詳しく解説してるで! >>140
土井はその前年にフロントによって引退に追い込まれてる。
.285打ってダイヤモンドグラブ獲得していたのに(((^_^;) >>295
後輩(篠塚)に道を譲ったんだよな
しかしその翌シーズン、巨人は大洋からシピンをトレードで獲得し、長島はセカンドのレギュラーとして無条件で起用した
土井曰く
「シピンにセカンドを渡す為に引退したのではない!」
痛烈な批判をマスコミに向かってブチまけたの当然の事だった >>297
シピンは78年からジャイアンツなんだがw
うそこいてなにがたのしいんだか クルーガーという外人投手が巨人入りしたが全く通用せず
「ボク クルーガー オウチエカリタイ」と当時人気番組
「鶴光のオールナイトニッポン」で笑われていたな
背番号も小林がつけていた19だった記憶が 8月8日
元横浜の銚子選手
エースとして出場した甲子園の晴れ舞台で、顔面に打球食らって病院送り…。
元巨人の江川選手
ナイター登板時、投手ライナーを打たれ思わずマウンドにしゃがみこむ >>300
銚子は右足だったような…
早い回で気の毒だったね >>298
シピンが巨人に入団したのがS.53だから、土井とシピンはチームメイトとして一緒にプレーしているな
しかしそのシーズン、正二塁手は土井でシピンはライト
シピンは土井が引退した後のS.54にセカンドに再コンバートされたので、>>297あながち間違いではない
S.53、打率.285、27犠打(セ最多)、ダイヤモンドグラブ賞を獲得した土井がそのオフにユニホームを脱いだのは、篠塚にレギュラーを譲るため、と言うのは結構有名な話
そして翌年コーチに就任した土井が、篠塚ではなくシピンをセカンドに起用した長島監督に対する不満を、長島監督本人に直接言わずにマスコミに漏らした話も、これまた有名 西武のマスコットのレオが登場したのはこの年だっけ? 「考える虎」
シーズンオフに新球団社長へ就任したばかりの小津正次郎のチーム大改造により変身した阪神、「江川騒動」によって獲得した小林繁や
田淵幸一放出の大トレードで獲った真弓明信ら新加入は15人。球団創設初の最下位だった前シーズンがフロントには堪えたのか、初の
外国人監督ドン・ブレイザーを招聘して“考える野球”を導入する事で変革を狙った。コーチ陣も例外ではなく5人が加入、中でも3年連続
チーム打率リーグ5位の打線テコ入れのため呼んだ中西太打撃コーチは新生阪神の目玉だった。
スピードとガッツを前面に出すため、ブレイザーは移籍組の真弓、竹之内雅史、若菜嘉晴をスタメンに組み込む新打線を形成。藤田平を
故障で欠くも、代わって一塁に回った佐野仙好が初の3割。若武者24歳の掛布雅之と、前年不振だった来日4年目のマイク・ラインバックが
共に入団以来最高の本塁打と打点を記録した。リーグトップのチーム打率と本塁打(本塁打は広島とタイ)を誇った打線は新エース小林と
チームを牽引した。
阪神は序盤こそ考える野球に戸惑い下位に低迷するも、6月2日にデビュー戦の江川卓をKOして最下位を脱出すると6・7月を連続して
月間勝ち越しと反撃開始。球宴明けいきなりの6連勝で初めて貯金3としてGW以来の3位に浮上した。8月になるとさらに熱く、分が悪かった
夏の長期ロードも4勝無敗の江本孟紀と3勝無敗の小林の活躍で10勝5敗1分けと大きく勝ち越した。対照的に1ヶ月強も首位を走り続けた
中日が息切れして、様相は中日の失速と同時にスパートをかけて17日に奪首していた広島と阪神のマッチレースとなったかに見えた。
阪神はピタリと16日から1週間で4度も首位・広島にゲーム差なしと肉薄しながらロードを終えていたが、皮肉にも地元甲子園に戻って4戦連続
完封負け。広島戦3タテを含む合計6連敗を喫すると、その後9連勝まで伸ばした広島に7.5差まで離され終戦。最後は10月に巻き返した
大洋と中日に抜かれ4位に終わったが、夏場以降の優勝争いを演出して貯金1ながら3季ぶり5割以上と健闘した。
ブレイザーは翌年もあの電撃辞任まで貯金1の3位、4連勝中だった。勿論まだ100試合以上を残していたが、シンキング・ベースボールの
浸透度と2年間の戦績を踏まえると、ブレイザー辞任以降考える事を止めて、再び路頭に迷う虎を見るのは残念でならなかった。 (了) 1遊 真弓
2二 榊原
3三 掛布
4左 竹之内
5右 ラインバック
6中 スタントン
7一 佐野
8捕 若菜 この年も、セ・リーグの一塁手ベストナインは王だったが、明らかに大島の数字が上だった。どれくらいの票差だったんだろうか? >>306
だとすると、読売はこの先
大失速するわけですねw 「弱体化投手陣」
前年ヤクルトに逆転を許し、リーグ3連覇を逃した長島巨人にとって、投手陣の強化は79年への重要課題だった。ドラフト会議を欠席してまで
意地を通して獲得した江川卓は、球団自ら出場を自粛して5月いっぱいまで使えない。交換相手だった小林繁の13勝、191回1/3イニングの
穴を埋めなければならず、「江川問題」の代償の大きさが炙り出されていた。V2に貢献した左腕クライド・ライトの退団も先発陣弱体化に
拍車をかけた。残されたのは堀内恒夫、加藤初、西本聖といった右腕揃い。先発と救援の両刀使いだった新浦寿夫を先発に専任したとしても
ライトに代わる左腕先発の補強は急務といえた。
79年に入団したリック・クルーガーはライトと同じ左腕ではあったが、アメリカではメジャー通算17登板の2勝とマイナー暮らしが主で、直近
3年間の3A生活では殆どが救援登板だった。変幻自在のフォームに決め球のシンカーという典型的な救援タイプ、長島は早々と先発起用を
諦めた。4月は3登板のみ、5月は1日に幸運な来日初勝利以降、初先発を含む7試合に投げた。しかし防御率4.42ともう一つ、6月頭に
江川と入れ替わって二軍に降格した。
チームは前半戦、中日との首位争いでトップに立っている事が多かったが、7月に中日に奪首されると再びクルーガーが一軍に呼ばれた。
再昇格後はワンポイントなどショートリリーフでの出番が多くなった。だが結果は上がらず、7月以降の防御率は5.19。チームが8月に入り
Bクラスに転落すると、まだ来期を見据えるような時期とゲーム差ではなかったが、7日のヤクルト戦を最後にクルーガーは一軍のマウンド
から姿を消した。
79年の巨人投手陣において、先発左腕の勝利数は新浦一人の14勝だけに終わった。それも痛かったが、堀内、加藤、江川ら右の柱が
いずれも2ケタ勝利に届かなかった誤算もあった。ライトの退団は致し方ないにしても、小林の放出は江川獲得の意地と天秤にかけると、
損得としては如何ほどであったか。確かにその後の江川の功績を思えば、トータルで得ではあった。しかし仮に江川は獲れずとも、小林残留
の上に、ドラフトでも関係者が悔やんだという東芝府中・落合博満を予定通り2位以上で指名となったら・・・。仮の話に結論は無いが、少なく
とも76年から3年間で49勝という右のエースが抜けた大きな穴と左腕不足が、長島の解任を早めた事実は残った。 (了) ブラデントンキャンプからの帰りに
ポルノ雑誌を持ち込み、税関で止められて恥ずかしい思いをした東尾 1979 巨人〇度目の零封負け
1980 巨人〇度目の1点差負け 阪急は、この年から梶本が監督になったけど、あの抗議事件が無ければ、
この年も上田がやっていたのだろうか。 あと球団フロントとあまり関係がうまくいっていなかったという話もあった
ような気がする。 優勝した監督がシリーズ遅延で引責辞任
↑
今のオリなら考えられない話 >>313
>>315
年間チーム得点がワースト2位だったからな…
これじゃ今年のオリみたくなるのも無理も無い…
ちなみに最下位だった75もワースト2位、
93は3位ながら借金2で年間チーム得点ワースト1位 >>304
ブレイザーはこのあと古巣南海の監督になったけどそこではチーム低迷
やっぱり戦力たりなさすぎると監督が誰でも手のうちようがないな 江川が世間から非難轟々の嵐で謹慎生活で孤立してヒッキー化していた江川を金やんが
特訓でシゴいてシゴきまくった
血反吐吐くほどノックを受けて江川も吹っ切れたようだった >>309
落合きても、いきなり一軍はないとは思うが
1中畑2篠塚3シピン4王5張本6高田7落合8山倉 >>329
これだと、セカンド落合、ショート篠塚、センター高田、ライトシピンか? 中畑とオチでサードの定位置争いだろ。負けた方がトレード。
中畑の方が元気を買われ起用されたんじゃなかろうか?
オチはバッティングフォームをいじられ低迷 近鉄にプレーオフで3連敗で、結果として強い阪急の終焉の年になった
まあこの時点では阪急が翌年5位まで落ちるなんて
誰も想像していなかっただろうけど あなたは40代ですか? ドーハの悲劇ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? >>334
腰痛完治の加藤英司だけが輝いていた79年 >>334
そして、2年後に上田監督が復帰することもだな。 >>337
プレーオフに負けたとは言え、年間の勝率は6割を軽く越えていたし、近鉄より上だった。山田は21勝してるし、島谷も102打点。ちなみに、MVPはマニエルだが、次点は加藤では無くて山田。 近鉄の打線が凄すぎた
打ち込まれた試合ばかり見た気がする 近鉄に負けたとはいえ、この年の阪急も十分強かったんだけど
黄金時代を支えたレギュラー陣の中で大橋とウイリアムスの
出場試合がこの年減っている。
鉄壁だった守備力の衰えが少しづつ現れていたと思う。
近鉄とのプレーオフ第3戦の決勝点は
大橋に代わってショートに入ってた井上のエラーだった。 大橋は余りにも打てなさすぎw
ウイリアムスも当時の外国人としては、今ひとつ打撃が物足りない 近鉄が前期優勝の足踏みしていた時に
山田、加藤、福本等が
栗橋、羽田等にハッパをかけたというエピソードを聞くと
同門意識のようなものがあったみたいですね。 西武の海外キャンプから、日本国内オープン戦無しは無謀にも程がある。 小林繁が、江川の生け贄にされたのは、有名だが、小林繁の登板日の相手の先発は、必ずと言っていいほど、加藤初が、生け贄として捧げら記憶がある。 ふむ
4/10 加藤初
5/3 西本
5/22 西本
6/1 加藤初
6/22 加藤初
7/8 堀内
7/27 加藤初
8/15 浅野
9/5 新浦
9先発登板中4つが加藤初先発だね >>350
サンクス。そんな、罰ゲーム以上の事をさせられて、その後も、巨人に長く在籍できたなあ。しかも、この頃、セゲヲに干され気味で、扱いも悪く。翌年のセゲヲ解任は、笑いが止まらなかっただろうなあ。 >>348
案の定、最下位に終わったもんな。
しかし、現段階での”西武ライオンズのシーズン最下位”は、後にも先にもこの年だけ。
いかに、根本さんや後に監督になる広岡さん、森さん…が良かったかということよ。 >>348
一番割りを喰ったのはマルーフとミューサーの新外国人2人かな。
日本の投手に慣れる時間すら与えられずにいきなり実戦投入で
マルーフはトップバッターとしては及第点で何とか適応できたけど、
ミューサーは案の定さっぱりダメで前期限りであえなく解雇・・・ 沿線民でよくタダ券もらってみに行ったけど
南海戦以外はまともな試合になる感じがなかったなあ 南海と西武の弱さが際立ったシーズン。しかし、3年後に日本一になる西武と、前年から20年連続のBクラス街道を行くことになる南海・ダイエー。この時点では、どちらも予想出来なかった。 数年のうちに西武の黄金時代が来ることは分からなくても仕方ないけど
南海がしばらく低迷しそうだというのはある程度予想できたと思うけどなあ
泥まみれ野球とかいってそれまで築き上げてきたものを完全にぶち壊しちゃったし しかし、広岡監督が一番警戒していたのは南海ホークスだった
曰く『あそこは投手陣がいいですからね、一番気をつけなければいけないチームですよ。』 野村退団後の南海には投壊状態の印象しか残ってないなぁ >>359
いくらなんでも、16年連続負け越しや、20年連続Bクラスの超長期低迷は予想出来ない。 しかもこの年は門田がキャンプ中にアキレス腱を断裂してシーズンの殆どを
棒に振った(終盤にやっと復帰)しな。
外国人のメイはそこそこ打ち、王天上も数字だけなら及第点な感じだったが >>363
投手陣がガタガタ。前年は4・01だったチーム防御率が4・86。飛ぶボール、圧縮バットの影響もあるが論外。開幕戦で藤田学が故障で離脱も響いた。 広岡西武後半の昭和59〜60年頃には、山内トリオに井上祐二、さらに藤本修二や加藤伸一など、戦前は投手王国予感させるに充分な布陣だった。
結果論だけで物を言ってはいけない。 この頃の南海は左投手(特に先発できるのが)がほとんど居なかった。 昭和59年頃はすでに山内新一は燃え尽きた後だし
毎年毎年投手のコマが足りないんで当時の南海をよく知ってれば
投手王国誕生なんて言葉は間違っても出てこない 広岡は若手選手が好きだったから、将来的にそうなりそうという
ニュアンスだったなら分からんでもない >>367
実際に広岡がそう発言しているのだから、それはないも何もないだろ スレチだけど昭和59年頃は藤田引退、金城と山内新一は衰えて放出が重なった時期
畠山、加藤といった高卒選手に期待しないと厳しい状況
ちょっとどころかかなり投手王国からは程遠かったと言わざるをえない
危機感から新井と山口トレードしたんだがこれがまた球史に残る失敗でなぁ… しかし井上、畠山、藤本、加藤と、デビューした頃の高卒投手達の素材は本当に素晴らしかったな >>366
広瀬監督いわく
投手不足で引退してた上田(ジージョ)を復帰させたりしたけど
他球団との差は目をおおうばかりで監督した三年間は辛いだけの日々でした、と
生え抜きで野村放出後のミスター南海と呼べる存在が
これだけ言ってしまうくらい当時のホークスは… 当時、同級生が被ってたプロ野球帽で南海だけいなかった >>373
あの恥ずかしい西武の帽子かぶってた奴いたのか 西武は移転先の所沢(埼玉県内)で球団の知名度を上げるために子供の通う学校近辺で
西武の帽子を無料配布してた。 8月に広岡の解任。
腹心の森ヘッドコーチと植村投手コーチの休養発表に
反発して。 この頃のヤクルトの家族主義はちょっと行き過ぎていて
外様に排他的な一面もあった 森と広岡はこの後も親密な関係だったのに、
西武時代の84年途中で対立して今は・・。
森が98年ぐらいに巨人監督に就任って言われた時
広岡は「森のような性格が巨人監督に合わない」って
言ったんだよな。 >>382
ファースト 片平
セカンド 河埜
サード 藤原
ショート 定岡
の内野陣は、それほど悪く無かったよ >>383
この面子はマシだったがそこから
片平トレードで放出
河埜チーム事情でポジション転々
藤原、穴吹監督就任に伴い引退してコーチ就任
定岡アキレス腱を切って引退 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています