ライオンズのマイナーな選手
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西鉄から西武までのマイナーな選手をあげたいと思います。
春日 1979年山崎の故障で夏ぐらい出てた、現在楽天寮長
慶元 右打ちの好打者とおもったけど伸びなかった。 高山といえば高山郁男の方が今、SBで秋山の隣で
Pコーチやってるのを見た時には驚いたわ。
まだ球界にいたことに驚いた。 鴻野指名の翌年に石毛を指名、背番号7も剥奪、
西武は一体何を考えてたんだろう? 南海にドラフト1位で入団した投手の名取和彦
1シーズンだけで西武にトレード・・・
ドラフト1位がこういう仕打ちを受けるなんて
例がないのでは? >>221
君は若いね。
仕打ちどころか栄転だよw
ロッテの福間なんかがそうだったけど入団する条件に
どっかからトレードの話があったらすぐ出す、ってのが当時は多かったんだよ。 毎年大量に入団させてクラウン時代からいた選手はわずか数年でほぼ一掃したな
若手で残れた人って誰がいる? 横田って那賀高校時代は公式戦未勝利(すべて初戦敗退)だった >>228
福岡の地元スポーツ紙では
けっこうプッシュしてた 立花は元々レギュラークラスで軸として残した選手だろうしな。 後の渡辺久へと続く日本人選手の台湾球界への道を開いたし、しぶとい野球人生だな。
台湾へはチームメイトの郭泰源に誘われて行ったみたいだけど。
仲が良かったからね。 西鉄、太平洋時代に浜村って選手いたね。
高知商出身で確かロッテ有藤監督時代に請われてコーチやってた。 >>234
>>130
確か高校では江藤智の1年先輩で
ミスチルの鈴木以外のメンバーと同期。 その日月と同じ年に入団してこれまた1年で消えた蒲谷ってのもいたね。
まぁ、蒲谷の場合は社会人時代に交通事故に遭ったのが運の尽きだったけど。 >>237いま、横浜の育成コーチやっている人でしょう。
新人の年は何試合か出てたけど広岡に変わってほとんど守備固め。
だったね。 蓬莱は82年前期に、大田が守備で右手親指を骨折して欠場した次の試合に
2番レフトでスタメン出場、いきなり決勝タイムリーを打ってお立ち台に。
次の試合では、レフトの守備でファインプレーを連発。東尾-広岡を巡る内紛でムードが怪しくなったチームを救った。
大田も蓬莱の活躍に刺激を受け、2試合欠場しただけで4番DHで復帰。
右手親指を包帯でグルグル巻きにしたまま打席に立ち続けた。
この82年前期は6月に西武、阪急が10日に渡って一日交代で代わる代わる首位に立つ大混戦になったが
西武球場より平和台のスタンドの方が圧倒的に盛り上がっていた。
蓬莱は地元福岡の西南学院大学出身で、一際声援が大きかったな。
蓬莱は前期終盤で打撃不振に陥り、シーズン序盤は控えが多かった立花に取って代わられ
代走、守備固めの出場が多くなった。だが、中日との日本シリーズ第5戦で代打で出場すると
小松の内角速球を避けずに死球をもぎ取って出塁、スティーブの決勝タイムリーを生んだ。
例の一塁塁審・村田の打球キックで変わった流れを逃さない、執念の出塁と週ベで評価されていた。 スティーブやテリーは全然マイナーではないが、MLB時代のプレーは希少
1978 Giants
http://www.youtube.com/watch?v=cdvax94K23g
後にロッテ入りするビル・マドロックとチームメイト
レギュラー2年目の若き日のテリー 西武入り3年前
1979 Reds at Cubs
http://www.youtube.com/watch?v=Toa1_vr7Rn4
カブス、レッズ相手のダブルヘッダーで2試合連続サヨナラ勝ち
スティーブは第1試合でサヨナラヒット 西武入り前年の雄姿 >>237
蓬莱さんといえば、朝日ニュースターがまだ衛星チャンネルと名乗っていた時代に、
「サテライトナイター」の解説者の一人だった。
その朝日ニュースターがCSでの西武主催ゲームの独占中継権を得て、
今年17年ぶりにプロ野球中継を復活させる。 >>239
>西武球場より平和台のスタンドの方が圧倒的に盛り上がっていた。
西武球場って、広岡新監督で優勝した82年は前の年より客減ってんだよねー
平和台は平日の予備日にナイター1試合が入っただけでも満員札止めだったりした
辛口の広岡にまで「平和台のファンの、この熱狂こそが真の本拠地の姿ですよ」なんて言われる始末
高橋直樹が古巣ハム相手に一世一代のピッチングをやったプレーオフ第1戦もガラガラだったもんな
清原入団で一時的にファンは増えたけど結局チームのファンは根付かなかった
球場があんな山奥にある割には健闘したとも言えるがいつも相手ファンに圧倒されるパのヤクルトで終わってしまった >>244
わざわざ反論する気にもならねーよ便器
さっさ難波に帰れw 亀だが長谷川ってプロ入り当時の永田オーナーが
大俳優と同姓同名でゲンがよいという事で入団が決まったってエピがあったなw
で、日野茂が挙がってないな
選手としては芽が出なかったけど編成部門で根本さんの下で長年努めてた
ライオンズクラシックにも出てたからマイナーでは無いのか?w 日野茂を挙げるなら広瀬宰も挙げないとな。
どちらも中日から来て、太平洋・クラウン・西武と選手・コーチなどの形で在籍してた。
(ちなみに日野は西鉄時代に移籍)
もっとも、広瀬は99年に早世したけどね…orz
>>219
投手コーチとしての才能はあったみたいだから、人は見かけによらんもんやね 高山はプロ野球ニュースのオフ企画の野球知識クイズで優勝していた記憶がある。 ベーマガ最新号(開幕戦特集)に西武初年度開幕12連敗の記事があったけど
その記事に載ってた背番号37の眼鏡をかけた野手って誰?
あと背中だけだが山村善則の「Y.YAMAMURA」写真は貴重だと思う(確か弟の勝彦がいたのは西武初年度までだから)。 >>250
ちなみに西武初年度の背番号37は当時新人だった山川猛(阪神のイメージが強い捕手)。
でも山川って確か眼鏡はかけてなかったはずだが…。 >>166
福岡時代にも代走で起用されてたよ、子供心によっぽど脚が速いのかなと思ったけど
今、考えると懲罰起用だったのかなw 誰かさぁ。山口富夫投手の球種、フォーム知ってる奴おるか?
舟津隆介投手と。 泉沢彰投手
フォーム・・右下手投げ「サイドスローとアンダースローの中間あたりか?」
球種・・ストレート、カーブ、シュート、シンカー
1972年、ウェスタンリーグ時代
・「ボクは寒い東北育ちですが、これでも暑さには強いですよ。なにしろ都市対抗で鍛えたし
、南国九州へ移ってから夏場に強くなったですからね」こういって胸を張るのは
泉沢「西鉄」だ。8月の太陽がカッと照りつける藤井寺球場で行われた対近鉄6戦、7戦に
連投しても平気な顔。あの細いからだのどこにスタミナが隠されているのかと思われるほどだ。
これで19試合に登板し5勝「3敗」をマークしたが、カーブ、シュート、シンカーを巧みに
ミックスしてリリーフで好投している。都市対抗で名を売った投手だが、プロ入り後は
力不足で全くの泣かず飛ばず。それでも江田コーチは「よくなってきた。ストレートに威力が
出てくると申し分ないが・・・」とみている。稲尾監督も暇さえあればウエスタンの試合を
観戦、若手投手育成に力を入れているが、「泉沢はもう少し力強さが」といっている。
中村正義…73年 背番号10 74年 背番号51
及川宣士…73年 背番号30
倉田隆司…73年 背番号33
久木山亮…73年〜74年…背番号40
川藤龍之輔…73年 背番号49
貞山健源…73年 背番号57 74年…背番号62
佐藤一誠…73年 背番号58 74年…背番号48
吉村健二…73年 背番号59 74年…背番号49
坂本光則…73年…背番号61
鮫島康夫…73年…背番号62
岡田英樹…73年…背番号63
斉藤輝美…73年…背番号73→63
中川信秀…73年…背番号65
※ベースボールマガジン夏季号 平成10年7月1日発行「背番号は生きている」参照
1〜2年で消えていった、太平洋クラブ・ライオンズ第一期生の選手達
調べていて何だが、ハッキリ言って誰一人知らない >>259
知ってるのは川藤龍之輔くらいかな・・・。
もちろん幸三の兄ということで。 >>250
木村広投手
投球フォーム・・・右スリークォーター
球種・・・ストレート、カーブ、シュート、決め球はスライダー。「課題があるのはシュート。体をやや開き気味にして投げるので、曲がりが早く、打者に見極められている」
福岡時代末期に東尾や山下に次ぐ先発として投げてた古賀正明。
所沢移転を機にトレードされ、しかも大洋で12球団からの勝利をマークしたこともあって、ライオンズ時代のことは忘れ去られている… >>264西武、ダイエーで秋山に背番号を奪われてた人だったね。 >>259
及川は大洋で投げてたイメージしかないなぁ。
岡田は高校時代に元巨人の浅野啓司とバッテリー組んでたな。当時はエース浅野より岡田の方が大型捕手としてプロ注目の選手だった。
中川は72年夏の甲子園で優勝した津久見の三番ファースト。甲子園ではホームランも打ったスラッガーだったな。 >>264
小川は仮に80〜81年の頃に西武でブレークしてたら石毛を三塁に追いやってたかもね。 >>264
小川は無名の公立高校(浦安)のエースPとして大活躍し、夏の千葉県大会でチームはあれよあれよのベスト4。
体も小さく、まさかプロの内野手として1000試合以上も出場するとは…。 投手のキニー 先発して勝利した貴重な試合を観戦した。 大和田明、藤本和宏
何れも西鉄では芽が出ずに、移籍先の広島で開花した。 佐藤玖光
この人も広島へ行ったが(ライオンズにいたのは西鉄末期と太平洋1年目)、広島では長年打撃投手を務めてリーグ表彰された。
そういや“あぶさん”に出てきたことも何度かあったな。 ホークスを退団した山村打撃コーチの弟も西武の最初の年まだいた。 垣内と同郷だった芝崎投手、30試合位は登板したと思うが。 >>288
唐人町の寮ができた後も太平洋時代(もしかしてクラウン時代も?)まで玉屋旅館が球団に使われていたとは・・・w >>291
そうなんよ S50年の名鑑に載ってた 今ももってるけど
ライオンズの寮は 香住丘寮 → 玉屋旅館 → 大円時寮 → 百道寮
多分 球団でなく個人で(家族?)すんでたんじゃないかなぁ? 昔の週べににも選手年鑑号に住所が載っていて
〇〇旅館気付になってたから 子供心に???だった記憶がある
藤井は単身赴任だろうけど
巨人の星の星一徹も中日コーチ時代名古屋の旅館住まいだったな >>295 Wiki で調べたら 大久保博元のアカデミーの講師をやっているみたい。
西武初期にいた外野手の加倉
投手の菊村 っていたな。 >>297
犬伏はデーブと雄星の問題の時に唯一デーブ寄りの意見を言っていたが
そういうことだったのか 西鉄時代の河原明
大分商業で甲子園出場
通算何号かの記念ホームラン打たれる
今は焼肉屋 きのう亡くなった相馬は選手としてはマイナーだったな。
1990年前後のあて馬の帝王だったけど。 東京ガス硬式野球部の五月女章副部長って
76〜81年にライオンズ所属だった五月女豊投手の弟?
出身校は同じだけど。
ttp://www.tg-baseballclub.com/locker_room/staff.html 大原徹也って少し印象あるけど、1年もレギュラー取れなかったな。
暗黒期の79、80年 行沢に代打送られたらそのあとショートに入ったこと多かった。
石毛入団したらほとんど出番なくなった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています