元南海のマイナーな選手を懐かしむスレ その2
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そんなことだからいつまでたっても強化できなかったんだよな(ため息 身売り報道が出た時、このチームはオーナーの道楽でやってたと言われてた。 今のように経済効果とかいう言葉がなかったけど
オーナーはそれなりに経済効果がわかっていたんやろ。
阪神は路線がしょぼい会社なので、
定期券以外の切符代を計算していたかもしれないけどね 宣伝費っていうけど
近畿一円ならともかく球団持ったら全国に宣伝してることになるでしょ
そこまで経費として認めないとか国税当局に言われなかったのかな 南海沿線の観光資源は高野山や和歌浦。
遠来の旅行者に乗ってもらうために球団を持つメリットがある。
スポーツメディアが「南海」という名前を出してくれるのだから >>435
立ち上がりが悪くていっつも先制点を取られてたな 田嶋 大阪球場での初完投は覚えてるで
新人からビッグマウスで売ってたけどこの時はさすがに神妙だった
バックに助けてもらったからな キャラクターで売れようとする選手はどうもなあ…
まずは試合で結果出せよ、と。 フランチャイズの偏在が原因であることはとうの昔に分かってたのにな。 南海にもファンクラブはあったのかな
自分は子供の頃ブレーブス友の会ジュニアクラブの会員だった。 西武みたいに所沢のような遠い場所に球場を造って見に来させるよりも
ずっと良心的だと思ったがな。
なんばだったら会社帰りとか買物帰りにとか、寄り道できるじゃん。 日生球場だって一応、大阪市内のオフィス街の外れにはあったんだけどね。 >>463
あるんじゃないの?
俺の親父もロッテファンじゃなかったけど帰り道に一杯ひっかけがてら
川崎球場に寄ってたとか言ってた。88年10月のロッテ近鉄ダブルヘッダーも
行くつもりだったがすでに満員で入れなかったとか。 >>455
マイナー扱いは気の毒だ
知名度は巨人の一軍半選手より低いのは認める 二軍の選手でもテレビに取り上げられてたよね
未来の四番打者とか、次世代のエースとか。 大阪ローカルでもホークスの応援番組はあったのだ。
ゴーゴーホークス というラジオ番組。
この放送で二桁勝てるかもと言われていたのが81年ドラ1の金城信。 >>457
刀根健は「刃根」と誤植されることがあって
マイナー球団の悲哀を感じた。 「はね」じゃねえかw
まあ、「刃」も「と」と読めるけどな 大坪と大久保がともに投手で在籍していてややこしかった 同時期に大津という投手もいたな。
元西武というからちょっと期待できるかと思ったが、
元青葉ということでうまいと勘違いされた谷口みたいなもんだな。 >>474
おおつぼ・おおくぼ
読みが似てるだけでタイプは全然違ったよね。
大久保は静岡高校の時に盛んに「剛腕」と言われてたが
フォームそのものは普通のオーバースローであまり
特徴なかった。 スレ違いだけど同じ大久保姓で仙台育英にも剛腕と称された投手がいた。
広島に入団して、やっぱり活躍できずに引退。 >大坪投手
初登板を西宮で見たんだな
今から思えばスゴい偶然 思えば西宮も大阪も藤井寺もみんな無くなってしまったんだな
昭和は遠くなりにけり、か。 >>478
ファームでは勝ててたのに、一軍になるといいところを見せられなかったんだな。
そもそも登板機会も無かったし。
彼がもしサウスポーだったら慢性左腕不足だった当時のチーム事情にも合致して
そこそこ活躍できてたかもしれん 穴吹さんの時にやっと一軍で使ってもらえるようになったがその前のブレイザーの時は
完全に二軍塩漬けだったみたい。 活躍した、といえるのはきっちり抑えた場合だよな
左腕不足だからって実力もないのに登板してもポコポコ打たれたら仕事してることにならん
ブレイザー・穴吹時代によく使われていた竹口とか平沢などはこの類の選手じゃないの >彼がもしサウスポーだったら…
あまり意味の無い仮定では?
大坪投手がもっと使ってもらっても良かった選手だとは思ってましたけどね。 阪田、堀井
の両俊足選手は野村時代の代走外野守備固めのイメージしかない。 でも長年ブルペン捕手として貢献し1986年にはコーチも務めてる渡会 度会は先乗りスコアラーもやってたみたいだな。いつのまにか
近鉄に移籍してたけど。
ダイエーになってからかな?
今の選手名鑑(スポニチ)みたいフロントや裏方一覧載ってないから
良くわからないけど。 実績残せずに引退して、その後も球団に雇ってもらえただけで
僥倖だな 球団をかつて所有していたことすら知らない社員が増えているのを嘆いている
OBさんの話を聞いた。 別に嘆く必要ないけどね。
不採算部門であったことは事実なのだから。 >>502
ジョーンズのサインですわ。
後に近鉄でホームラン王になりましたな。
フルネームは「CLARENCE JONES」です。 一番島野?二番桜井三番富田四番野村五番ジョーンズ六番門田の時代か 門田って大怪我以前は強肩好守の右翼手で、中距離ヒッターなイメージ。 >>504
ありがとうございます
調べてみると・・・
ジョーンズ選手が在籍した昭和44〜48年ころのサインなんですね
大切に持っていようと思います 調べると1970年は一番広瀬・二番は古葉がメインでした。
三番から六番までは正解、七番高橋博・八番小池
エースは西岡三四郎と村上マッシー >>508
サインの下に背番号と思われる「4」と書いてあったので選手名鑑を見て、
ナイマン? ダットサン? トーラン? トーマス? キーオ? ネトルス? ハドリ? ピアース? ビュフォード? ロリッチ? ライトル?
と悩みながらジョーンズにたどり着きました。
貴重なサイン色紙ですネ。
いつまでも御大事になさって下さい。 さらに間違いが発覚失礼
ショート小池と高橋博士が併用
レフトは樋口でした 二番か六番
柳田とか青野という曲者もいました
エースは佐藤道の18勝だったようです >>485
懐かしすぎるでその名前
親父に連れられて大阪球場へ観戦に行ったとき、「(先発)ピッチャー・竹口」ってアナウンスが流れた途端、
一塁側応援席から「こらアカンわ」というため息にも似た呟きが其処彼処から聞かれたのを思い出すわ 竹口も平沢もあーあ
一瞬活躍した抑えの水谷もこの時代だったかな? >>516
代打で池之上とか山本雅が出て来たときにもそんな空気なかったっけ? 某漫画だと山本雅は出るたびに「グワアーン」とか一発かますんだよな。
いつ現実になってくれるんだろと思っていた、いたいけな少年時代。 >521
「まさかの雅〜!」
巨人時代はまさに左殺しやったわ 山本雅もそうやけど初期の山本和(のちにドラ)も
代打と言われても静かな観客が多かったね
南海の代打と言えば外山・マッシー・林の投手三本柱と
野村初期の青野・大塚あたりは期待できた そうだったな、山本雅は晩年巨人に行ったんだな。
思い出したよ。 >>433ほか
田島の陰に隠れていた同じ滋賀出身の西崎が
15勝して脚光浴びたんだよな。
>>504
帰国後アトランタ・ブレイヴスの打撃コーチになり
就任3年目から黄金時代が始まった。
その後同じく日本帰りのチャーリー・マニュエルが監督だった
インディアンズでも打撃コーチ。
>>526
これも滋賀出身の都(中日の左腕)が先発するときに
決まって先発出場してた記憶。 池之上も立石ももうひとつ決定力がない
センス池之上、ガッツ立石ということか >アトランタ・ブレイヴス
どこのマイナーかと一瞬思った >>516
「ホークスの先発ピッチャーは、タケグチ」
近鉄V2時代の日生や落合レオンがいた頃の川崎でそれを聞いた俺は
それはともかく、「ピッチャー森口」ぐらいでもあーっとなってた記憶があるから、
当時はもう山内新や藤田あるいはのちの両山内でもなければ勝てる気がしなかったんだろうね。 三山内が揃ってローテ投手として活躍してたのは82年だけかな 和と孝のルーキー年である1981年も、和は5勝、孝は7勝で戦力になってたよ。
ただ和の方は後半はローテーションから外れて中継ぎになったりしてたが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています