【1975〜】第1次長島巨人【〜1980】
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>>598
あと132本だよ、1000号まで。
もうあの時点の王は打率はボロボロ、ホームランも30は苦しい状態。
しかも年々衰えていく。とてもじゃないが4年で1000号は無理。
あと2年現役で900号は行けたかもだが、その場合かなり無様な
最期になるだろう。 >>598
最終年もチームで唯一30本塁打だったしなあ。
確かにそんな気もする。 >>601
1980年の王の不調はただの偶然だし、それまでの王の力量からすれば
132本塁打を4年で打つ事ぐらいいとも簡単だと思わないか?
41歳で30本塁打を記録した門田や山崎武司の例があるのに。 王が現役なら
原は獲得してないかも
原と王が並ぶってやっぱり不思議に感じる
81
1河埜2淡口3中畑4王5ホワイト6トマソン7原8山倉
82
1松本2河埜3篠塚4王5原6ホワイト7淡口8山倉
83
1松本2河埜3篠塚4原5スミス6王7駒田8山倉
中畑に出番なし >>604
中畑引っ込めるくらいなら、どう考えたって河埜引っ込めてショートに篠塚を入れるだろw
で、サード中畑セカンド原だろうが 2年続けて打率もホームランも落ちているのだがそれを単なる偶然と本人は受け止められなかったのではないだろうか。 長嶋退任直前に、南海の新監督の決まっていたブレーザーが門田と新浦のトレードを打診していた。長嶋政権続行なら、王引退の有無は別として、原のドラフト指名有り、松原とトマソンの獲得は無し。 39→33→30
300→285→236
この3年間、ホームランも打率も右肩下がりなのにそれを偶然とする
のは無理があるよ。
もし56年も現役続行してたら、トマソンと同程度の数字だったと思う。 大洋の本拠地が狭い川崎球場から広い横浜スタジアムに代わったのは
やっぱりデカイでしょう? 79年も33本だったんだから、81年以降の4年で1000号はやっぱり無理があったと思うよ 共にクリーンナップを組んだ、同じ在日で同年齢の張本と、『史上最強の五番打者』と謳われた柳田のトレードも、王の成績が下降した原因の一つとしてあるのかも知れないな V2時代から比べたら、80年のクリーンアップなんてしょぼいからなあ
79年以降だと王自体も代打が多くなった
でも長嶋茂雄は、王がスタメンだとクリーンアップから落とすことは一切しなかった
だからホームランだけは極端な落ち方は無かったのだろう 張本がロッテに去り、代わってスイッチヒッターのロイ・ホワイトがヤンキースから入団。80年は王が30本でホワイトが29本。
開幕の横浜で2発、6月の広島戦で3発で江夏からサヨナラアーチ、翌年藤田体制の日本シリーズで公式戦無敗の間柴に土を付けた
ライトへの流し打ち逆転2ラン!MLBを渡り歩いて来たとは到底思えないジェントルマンだった。 >>596
コピペするなら引用元出せよ。
最低限のマナーだぞ。 >>596
7行目
×勝つか引き分ければ5割以上とAクラス・・・ → ○勝つか引き分ければ大洋の結果を待たずして5割以上とAクラス・・・
お詫びして訂正します。 74年にV10を達成していたらこの年の監督は川上だったんでしょうか?
その場合長島の去就はどうなったのでしょうか? V9達成時に川上は勇退&長嶋監督就任を申し出ていた(と記憶している)からどの道長嶋監督になっていたでしょう。 >>610
最晩年なのにすげえ記録だな
王引退の翌シーズン 大学でたてのピチピチした原が22本塁打だからな。。 >>619
そうだったんですか
教えていただきありがとうございます
もしV9で川上監督が勇退していたら長島の為に投げる番場伴が見られたのか 杉下氏は、所属していた東京中日スポーツを「出禁」になりながらも巨人入り。でも師匠の中日日本一監督の天知俊一氏は
「行ってやれ」と背中を押した。76年の開幕を待たずに天知氏は逝去。
長嶋の苦境に、一見無縁と思われる他球団の人でも協力を惜しまなかった。これはなかなか無い事だと思う。
どうしても75年生まれの高橋由伸と長嶋1年目がシンクロしてたまらないが、当時と違って戦力はダブ付くくらい揃った。でも
全部ダメだったらとか、ってネガってしまう。
そう言えば、巨人で今の時期に入団が決まってた新外国人って、80年のホワイトが最初だった。MLBの開幕ロースター漏れ
を当てにしてたから。 80年はもうチーム内で酷い内紛が起きてたから王さんも俺と長島さんが
やめればこのチームも少しは良くなるんじゃないかと思ったのかも
でなければ我利我利亡者の王さんが簡単にやめる分けが無い 元々長距離打者だから。打率低くてもホームラン多ければいいわけだし。
金本や掛布でさえ、引退前はホームラン1ケタ。
それ考えたらすごいとは思う。王貞治は。 毎年のようにコーチが解任されていた
一年目は福田と須藤 >>627
台湾は親日
韓国は反日教育
とても大きな違いだろ >>623
50 ジョンソン
51 ライト
52 リンド
53 シピン
54 バーフィールド、クルーガー
そう言われてみればこの時期に入団が決まった外人ってホワイトが初めて
なんだね。新鮮な発見。 >>629
台湾が親日ってのもあんまり当てにならんし、一番大事な
のは日本人選手。 80年代から見た者から言わせてもらうとこの時代の試合を見ても全くつまらないです。 >>623
>長嶋の苦境に、一見無縁と思われる他球団の人でも協力を惜しまなかった。これはなかなか無い事だと思う。
とっくに川上が牧野とか荒川とか起用しただろ リアルタイムでは知らんけど。76年や77年って
今と違う熱気や活気が、昔の画面みたら伝わって来るんだよな
だからつまんない野球じゃなかった気はするが >>635
そらそうさ。
新監督となった長島が率いる巨人が球団史上初の最下位のとなり、それまでの国民的ヒーローから、無能監督と罵声を浴びせられた屈辱の昭和50年。
その翌年から連続優勝を飾るのだから、盛り上がらない訳がない。
しかもその間に王のホームラン記録も、700号フィーバー、ベーブルースを抜く715号、さらにハンクアーロンの記録を破る世界新記録の更新。
盛り上がらない訳がない! 80年代の巨人軍って、なんかアイドルみたかった
でもこの頃って、男臭い野武士の空気があって
それはそれで熱いなあとは感じる
今の時代
柴田や王貞治は確実に出てこないだろうな
高田がギリギリで坂本か
長野久義は末次?
小林は、何とか吉田クラスまでは行けたら >>632
見てないお前がなぜ「つまらない」と思えるのかw
>>635
75〜78は波瀾万丈の戦国時代で面白かった。
79,80は広島の天下だからつまらなかった。 >>635
そらそうさ。
パでは太平洋があんな恥ずかしいユニフォーム着て
ハルピコも規定打数いかなかったが3割打って
吉岡が309という低打率で首位打者になるのだから盛り上がらない訳がない! 阪急の黄金期だったし。76、78は前後期制覇で、77年はプレーオフでロッテが王手を掛けたが4、5戦連勝。 スカパーで昔の試合放送してるの知らないお爺ちゃんがいるなw
野球は80年代が人気のピークだね。70年代は暗い感じがするw 70年代の試合は鳴り物が無いから地味に見えるだけだよ。
試合内容自体はずっと面白いし、個性的な選手も多い。
試合時間も短い。レベルが高いかどうかはわからんけど。 鳴り物なくても熱さや熱気は伝わってくる
この頃って打撃力主体の球団が多いから
本当に試合が面白い 80年代はミーハー的な野球バブル人気だね。
原とか定岡とかCM出まくりだったし。
秋山がホームラン打ってからのバック宙とか、
メジャーでやったら殺されてもおかしくない。 最終年の開幕戦江川が大洋の
福嶋にサヨナラヒットを打たれる せっかく9回表に来日初戦のロイ・ホワイト2発目で3−2と勝ち越したのに、その裏初球をこちらも新外国人ジェームスに
センター右へ同点ソロ!次が河埜のエラーで代走屋鋪が二盗&山倉悪送球、無死3塁から福嶋に王のミットをかすめる
サヨナラ右前打!
ノムさんがうるさく言う、外国人への初球の入り方が悪くてよく叩かれてた。 >>627
妙にこの時代の巨人は旧外地の在日が多かったような 中畑がさっきテレビで監督よりコーチの方が辛いとの事
理由は自分の色が出せないから
コーチ時代の監督は長嶋 >>644
バク宙ホームイン。あれ子供心に相手に失礼だなあと思ってたよ
加藤発言なんかよりよほど挑発的にみえたね >>649
西武球場ならまだしも敵地でやったからね。
5年、10年前ならファン乱入暴行に発展すると思う。 76年までは、川上監督続投で長嶋は助監督兼代打の切り札がベストじゃなかった?
それなら75年はあんな事にはならず、
長嶋も生涯打率ギリギリ3割と2500安打と450本塁打を充たせた。 >>653
本名は長島。
本人曰く『私はヤマドリ(嶋)が好きです、ハイ。』 80年は柴田、高田、シピンが絶不調で干されて、
篠塚、淡口がスタメン多くなったな。
柴田は2000本安打打って、翌日からまたベンチだったって
前TVで言ってた。 >>655
でも開幕戦はその面々がスタメンだった
よく前年の秋の伊東キャンプで若手が鍛えられたとか言うけど
開幕戦では相変わらずベテランが並んで開幕スタート失敗 杉下コーチは駄目だった。
早めに交代させるべきだった。 もう前半戦で広島が独走、巨人に優勝の目は無かったから伊東組の若手に切り替えたかった。
柴田も花を持たせてもらって松本にセンターのレギュラーを譲ったが、最終戦の広島で9回表にダメ押しソロを放った。
これが長嶋1次政権の最終戦となり、旧知の藤田体制になってコーチ兼任での残留を要請され、1年現役が伸びた。
81年のシリーズではトマソン不振、松本故障で最終戦はスタメンだった。 http://www.my-favorite-giants.net/giants_data/result_year/1980.htm
この星取表によると、巨人は1980年9月終了時の成績が51勝59敗の4位だったのがその後猛烈な追い上げで貯金1での3位終了となったのがわかる
(優勝が決まった後の広島からは2連勝)
他球団は消化試合とか言いつつ、実際は巨人に勝たせていたんじゃないのかと勘ぐってしまう
当時の巨人の「勝ち越し&Aクラスなら長島続投」の情報が他球団に入っていたかどうかは不明だが、もし入っていたのならありえなくもない
今後も長島が監督なら巨人が勝手に自滅して戦いやすいと考えるだろうから 1980年9月終了時点の巨人の戦績を間違えたorz
(訂正前)51勝59敗
(訂正後)51勝58敗
当時の野球ファンの間では巨人の3年連続V逸は話題になっただろうな 80年は一度も優勝争いに絡めなかった
79年は5位に終わったが序盤は良かったそうだからこの80年よりはまだマシだったのかな? 江川−西本−定岡のローテ、打線も松本・篠塚・中畑・山倉らが成長していて長嶋監督も81年に向けてかなり
手応えを感じていたはず。それだけにこのタイミングでの解任は無念の一言だっただろう。翌年その通りの答え
が出たんだし。 長島氏は13日、宮崎キャンプを視察。
かつての教え子だった清原和博容疑者(48)が覚醒剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された件について、
報道陣の問いかけにも「うーん…」と沈黙 >>657
誰が投手コーチが良かったの❔ 杉下コーチはマウンドに駆け寄る姿がバッタみたいでかわいい。 NPO誇大広告ハローワーク指導員バイトレベル
NOPハローワーク指導員(40代千本ノック)
NOPハローワーク指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題) >>658 あの後思ったけど、広島としては翌年の開幕戦を
巨人としたくなかったのかも?って感じだった。
日本シリーズへの主力の調整もあったけど。 >>109
対外的には肋膜炎と発表してたけど実は肺門のリンパ腫だったんだってね >>563
さだまさしは熱狂的な長嶋ファンだったけど解任事件で巨人ファン辞めたんじゃなかったっけ? 中畑がDeNA監督だった13年オフヘッドコーチの候補として名前
挙がってけど就任しなかったな体調の問題あったのだろう
DeNAの臨時コーチはやったことあったけど NPO誇大広告ハローワーク指導員バイトレベル
NOPハローワーク爆買い指導員(40代千本ノック)
NOPハローワーク爆買い指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題)
警察無視騒音問題 アリと猪木の「世紀の茶番劇」は76年6月26日土曜日の昼間。あれ日大講堂(現両国国技館)だったか蔵前国技館
だったか。
その晩後楽園のナイターで巨人が快勝して40勝一番乗り。翌日は9回裏3点ビハインドを当時の速球王鈴木孝政から
末次ジョンソンの2発で追い付きドロー。
リングサイド1万円(もちろん当時としては破格)より後楽園の方がはるかに面白い、って記事まであった。 79、80年の左代打陣は
起用されても相手が左投手(特に江夏)に代えると
右の平田や中井に代えられたイメージが大きい。
80年の4月の時、
シピンに代えて篠塚をセカンドで交代させていた。
後に代打淡口→広島江夏に交代→代打の代打で平田を
起用して最終回篠塚の所で代打中井を起用してた。
もし同点になって延長になったらベンチにだれがいたっけ?
って思ったけど、鈴木康がいたかな? 「目標達成」
>>596
朝から降っていた雨の影響から、開催が心配された10月20日は巨人にとってシーズン最終戦のデーゲーム。その雨も正午には上がり、予定通り
始まった。一番・柴田勲、二番・高田繁のコンビを57試合ぶりに組んだが、ここに“シーズン最終戦くらいは”という長島のV9仲間への情が透けて
見えた。一方、前日は25日に控えた日本シリーズへ向け山本浩二、水谷実雄、高橋慶彦の主力を温存した広島、この日は山本と水谷が戻り、
先発投手にも中3日で単独最多勝のかかった福士敬章を立てた。
独走で優勝した黄金期の広島とは力の差があったが、片やシリーズに向けての調整を含んだ消化試合、もう一方は何が何でも勝たねばならない
大試合とあれば前日同様巨人にも分があった。
福士同様15勝の巨人先発・江川卓が、初回にジム・ライトルの適時打で先制を許したが、3回にロイ・ホワイトの29号2ランで逆転、中盤にも柴田の
本塁打とジョン・シピンの犠飛で加点して主導権を握った。江川は目一杯だったのか6回になると山本浩の一発、7回にはマイク・デュプリーに適時打
を浴びて一時は1点差に詰め寄られたが、8回に角三男へ継ぐ長島自慢の新必勝リレーで広島の反撃を断った。9回に柴田の適時打でダメを押した
巨人は遂に勝利、61勝60敗としてかねてから言われていた単独3位と勝率5割以上を確定させた。長島は試合後、群がる記者団に対し「来年の事に
関しては、まず帰京してオーナー報告してからにしてください」と言ったが、逆転人事の手ごたえも掴んではいた。
ほぼフルメンバーで戦った広島だったが、監督の古葉竹識が試合前に長島のもとを訪れて「チョーさん、遠慮しないで今日は勝ってください」と、
同じ歳の友人として声を掛けていた。古葉にとっては、3日前に胴上げされた気持ちの余裕もあってのリップサービスのつもりだったのかも知れな
かったが、マスコミはそうは思えなかった。長島と古葉はの監督6年間は正に采配能力差が如実に出た期間、現役生活とは逆の結果が出ていた。
まさか組し易い長島の続投を願ってのエールでは無いだろうが、翌81年以降は退任まで優勝は84年の1度だけ、長島の後任として率いた藤田元司
の巨人に対しては3年間で一度も順位で上回る事はなかった。 (了) そういえば角って藤田時代にストッパーのイメージが大きいけど、
長嶋監督の最後の年からストッパーだったんだな。
当時の左のサイドって他に西武の永射ぐらいしかいなかったもんな。 >>679
当初は、ワンポイントの角→抑えの鹿取だったのが、途中から鹿取→角の順に変わっていったね
やはり、ボールの威力の差だったのだろうか >>678
この月曜の消化試合のデーゲームを最後に長嶋、杉下、与那嶺、土井の首脳陣が去り、王、高田、シピンが引退してチームを
去った。柴田も引退するはずだったが、藤田政権でコーチ兼任となり1年後日本一の試合にスタメンで引退を飾った。 今年クライマックスのファイナル第5戦は10月16日か。日曜だからデーゲームにして欲しいなあ。ちょうど40年目の記念日だし、広島に行く事になるのかなあ。 「激震」
98年球宴明け、メイクミラクルの声も届かぬまま首位横浜に13.5ゲームの大差をつけられていた頃、第二期政権の6年目に入っていた長島監督
に辞任問題が持ち上がった。93年の復帰以来二度のリーグ優勝に一度の日本一はあったものの、97年から2年続けてV争いにも絡めないような
V逸が濃厚な情勢。後任候補の具体名まで出るほど周囲は慌しかったが、9月中旬に球団が続投を発表して収束した。その1週間後からチームは
7連勝するなど最後の10試合を8勝2敗、翌年への興味を繋いだ。
長島の進退問題が出た事、シーズン終盤にチームが勝ちだした事でいえば80年も同じだった。10月を10勝2敗として最大借金8を貯金に変えて
留任条件といわれたAクラスと5割以上をクリアしたが、98年との違いは長島が留任とならなかった事だった。
勝利した最終戦の翌日だった。10月21日、午前から激震が走ったのは二つのスポーツ紙がニュアンスは違えど長島の退団を報じたからだった。
オーナーに呼ばれて球団本部に出向く長島の胸中は、確かに10月初めに辞任要求は呑んでいたものの、条件クリアと観客動員280万人からでも
分かる自身の落ちない人気もあってか半信半疑だった。正力亨オーナーらとの会談はわずか10分間、そこで辞めるよう言い渡された。上旬に
長谷川実雄球団代表が預かっていた辞任願が、ここに生かされた瞬間だった。
形はよく見られる“引責辞任会見”だったが、鵜呑みにする者は少なかった。気丈に語った長島は会見の中で、フロント入りを断った件と江川卓、
中畑清ら伊東で鍛えた7人の若手を挙げ「来年はきっと強くなる」といった件を話したのはせめてもの意地だったか。
長島は81年への意欲も虚しく、23年間慣れ親しんだ巨人のユニフォームを脱いだ。現役時代は好機に強く逆転打も数多く打ってきたが、監督生活の
80年秋では起死回生の一本はとうとう出なかった。 (了) 76年広島での最終戦優勝の祝勝会、長嶋監督以下全員が肩を組み「同期の桜」を合唱、帰京の機中では機長の
許可を貰って王が「僕らは今日優勝を決めました。とっても嬉しいです。少々の御無礼はお許し下さい。」とアナウンス
してからかなり騒いでたらしい。 「人気という名の権力」
思えば7月のOBによる大座談会を引き金とした長島解任劇は、読売グループおよび川上らと長島の約3ヶ月による闘争を経て幕を閉じた。
野球ファンやマスコミは、人気者を切るためにフロントと一部OBが共謀したのではと色めき立ったが、就任当初から囁かれていた長島の指揮にも
問題が無いわけではなかった。采配や個人記録忘却の失態など試合中での問題もさることながら、グラウンド外での統率にも支持を失った原因は
あった。
初優勝した76年のベロビーチ派遣選手の件では、腰痛のベテラン倉田誠と基礎体力が備わっていない一軍未経験の20歳・定岡正二を指名し、
成長著しい新浦寿夫と横山忠夫の若手二人を送り出さない人選ミス。77年は日本シリーズ前に柴田勲の日本ハムへのトレード話が浮上してしまう。
柴田に問われた長島は「俺は知らん、上が勝手にやっていると」言ってしまい柴田は唖然、おかげでトレードを推進するフロントと、仲間を出せないと
いう長島の微妙な関係性まで明るみに出てしまった。
ベンチ横にオーナー室が設けられたのもこの年。それまでも長島の采配に電話で物申してきた正力亨オーナーだったが、ベンチ横に陣取って公の
場で戦術について意見したのでは長島もたまらない。こうして長島の監督としての体は徐々に成されなくなり、選手の求心力も低下していった。
川上体制が終わってからというもの、契約更改の査定、一・二軍の連携不足、コーチ陣に「いい便をするための食事会」と揶揄されたホテルでの
コーチ会議などあらゆる面で現場主導からフロント主導へと変わってしまっていた。それでも解任された80年も、280万人の観客動員でダントツの
人気を誇っていたからか球団側は非難されたが、大型トレードを実行したのも純血主義を捨てたのも長島体制になってからであるのだから、
フロントも協力を惜しんでいなかったのは事実だろう。長島本人が意識しているか否かは別として、「人気」という名の権力の大きさを親会社と球団が
思い知った一連の騒動だった。 (了) >>29
先発完投勝利出来るのは殆んど新浦
締めくくりも新浦でセーブ
あの4年間でぶっ壊れたな
子供心にその内突然壊れるよ…長嶋さん壊れちゃうよ酷使だよと思ったら、80年度壊れたな
後楽園球場の20:54〜のリレーナイターの主役はピッチャー新浦だった
一番目立つよな >>685
お前の長文、誰もレスしてないだろ?
掲示板の書き込みとしておかしいんだよ。
スポーツライター気取りで片腹痛いわw
自己満足は自分のブログでやれ。
ここはお前の研究発表の場じゃないんだよ。 >>688
じゃあなんでレスがつかなくてスルーされてんの?
自演はやめようね>>688-689 面白い=興味深い って意味合いだぞ?
興味があったら書き込みに対して反応があるだろ。 須藤「昔は張本や落合でも大きいの1人補強だった。最近は見境が無さ過ぎる」
(ソース 週刊大衆) だらだら書かずに「〜〜こんなことがあったんだって」
みたいに3行ぐらいにまとめろよ・・ 76
76年10月16日の勝利投手は加藤、6回からリリーフしてセーブ小林。2人とも亡くなった、
ベンチにいた土井、山本功児、槌田が故人に。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています