【1975〜】第1次長島巨人【〜1980】
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同一監督で、前年最下位のチームを優勝させたのは
90番長島だけだったと思う・・・。 >>3
近鉄・梨田監督
2000年最下位→2001年リーグ優勝 >>4
梨田もやっていたのですね。勉強になりました。 野球殿堂板の住人は、この時代から観始めた人が多いと思うな。 1975年…長島巨人1年目。
王選手、オープン戦でケガをして出遅れる。 広島市民球場に行くと、ノーガードの馬鹿試合ばっかりやってたような 8柴田
5高田
7張本
3王
4ジョンソン
9柳田
6河埜
2吉田
1小林
代打、山本功・淡口・柳田・原田
左ばっかりだ・・・(^^ゞ (トレードの真相)直接話を聞きたいから、今からミスターん家行って来る(`Д´)!! 弱い巨人の免疫がなかったから、いらつく試合展開が多かったね。 >>9
ジョンソンと柳田は逆 ジョンソンは6番
河埜と吉田も逆 この頃の河埜は低打率だが吉田はけっこう打つ 90番のエースは
小林、新浦、江川・・・
堀内が全盛期を下っていった頃ですね >>13
至上、最高の5番バッターでしたっけ?
平松(洋)に、ぶつけられておかしくなった 1975年の開幕オーダー
中 柴田
三 富田
左 高田
右 末次
一 柳田
二 上田
捕 矢沢
遊 河埜
投 堀内
75年、ジョン損・・・慣れないサードを守り、打撃も不振だった。
76年、ジョンソン・・・優勝決定した広島市民球場でのHRなど活躍。本職のセカンドの守備も、
溜め息が出る程に美しかった。
その後・・・メジャーの優勝監督、オリンピック・WBCのアメリカ監督。
数奇な運命な人だな。 長島の「しま」の文字、一般紙、スポーツ紙などほとんどのメディアでは第1期は「島」表記だったけど、
週刊ベースボールだけはあくまで「長嶋」表記だったね。
もっとも、後楽園などの各球場スコアボードではどこも「嶋」だったけど。
当時は手動式スコアボードも多かったから文字をペイントするのも大変だったろう。 >>19
柳田はもうちょっと長くスタメンで使って欲しかったね。
OHが左なもんだから五番に右の大砲が欲しくてシピンを獲得したんだろうけどね。
オレはやっぱ「36番」の柳田が好きだったなぁ。
顔は怖かったけどw 巨人が負けることは非常に気分がいい。最下位ならば超最高。老害球団会長のおじいちゃんもフラストレーションの余り病院送り→棺入り♪ 新浦をホントよく使ったね。勝ち試合でも負け試合でもw。
‘ピッチャー新浦’のアナウンスがあると、「またかよorz」と思ったヒトも多かったと思う。 加藤初、張本の獲得
これが第2次政権でのFA狂いの基なのかも?
夢よ再びって・・・ 監督初年度は色々な意味で凄かったらしいけど
やっぱり長島批判はあれだけ負けが込んでもタブーだったんだろうか? 最下位でも観客動員増加、視聴率UP。
いい監督だ。 1977年(昭和52年)
高橋良昌投手は45試合(先発1・リリーフ44)に当番して、
地味ながら活躍したのに、その年で引退しちゃったんだね あと、同じ1977年
3連戦の初戦と2戦に西本が中盤(5回くらい?うろ覚え)
からリリーフして最後まで投げきって、3戦目、なんと先発してた
今の時代ではあり得ない 「第1次長島巨人」開幕投手
1975年 堀内
1976年 堀内
1977年 堀内
1978年 堀内
1979年 新浦
1980年 江川 >>37
移籍先(ロッテ)で、という意味ではね。庄司モナー。 ピンチの場面に左の中継ぎ(確か小俣)をつぎ込み、先発の小林を一旦ライトへ避難させた後、
次イニングの頭から再登板させたことがあった。
幸いライトへ打球は飛ばなかったが。 外国人選手
1975年 ジョンソン
1976年 ジョンソン ライト
1977年 ライト リンド
1978年 ライト シピン
1979年 シピン クルーガー (バーフィールド)
1980年 シピン ホワイト
高橋善、小川、上田、山本和・・・
意外といぶし銀的な選手が多く、それらの選手が大好きだった あれ、ヤマモトコージって巨人だっけ?と思った小学生時代 やっぱ1975年の最下位が強烈だね
なんであんなんなっちゃったの?? 新旧の交代時期に監督になったんですね。
初年度なんか長嶋自身が「俺が代打で出てやろうか」と何回も思ったはず。
今から考えてみると野村、古田みたいにプレーイングマネージャーしても良か
った。おそらくファンも「代打長嶋監督」と・・・ これまで選手として、ちゃらんぽらんだった長嶋さんが
監督になった途端に、偉そうなことを話し出して
びっくりしたそうだ。
クリーン・ベースボールは、いまだに理解出来ない・・・。 >>50
2割2分で15本程度でも
ジョンソンよりましだしね >52 もし現役だったらそのくらいの成績だったかも・・・
この年に島野修が1回完投したらしいですが、できたら詳細を教えてほしいで
す。もう少しチャンスを与えても良かったと思ったもの。
ファンの野次のなかで「代打長嶋」という野次もあっただろう。 >>49
王さん金属疲労
V9ナイン軒並み 衰え
森引退
ジョン損
1975年の最下位は、日本が第二次世界大戦で負けたようなもので
V9時代にけじめをつけるには、いい機会になった。
(戦争で犠牲になった方には申し訳ないが・・・)
しかしその後1978年から、3年連続してV逸。
自分自身がけじめをつけた・・・。
73年オフに川上が退陣、そして長嶋が現役引退即監督就任という段取りがあ
ったらしい。川上の説得に長嶋は来年も現役したいと言ったらしい。
どっちにしろ74と75年の優勝は厳しかった。 王がオープン戦の阪神戦で怪我したんだよな。
だから開幕オーダーもあんな悲惨なものに。 派手な引退試合の蔭でひっそりと、V9を支えた捕手が引退した。
数年後、その捕手はヤクルトのヘッドコーチとなり日本一に貢献。
吉田、矢沢も頑張ったんだけどね・・・ 第一次長嶋政権の時、自分は小学生でした。記憶に残ってる事と言えば、ピッチャー新浦!王選手の756号、淡口のお尻ふり打法、小林のトマトジュース&王のナボナのCM、杉下ピッチングコーチのマウンド迄の華麗なステップ V1V2の頃の後楽園ホームランファンファーレ
ズンチャカタッタッズンタッズンタッ
「第1次長島巨人」ドラフト1位
1975年 定岡正二
1976年 篠塚利夫
1977年 藤城和明
1978年 山倉和博
1979年 (ドラフト会議不参加)
1980年 林泰宏 藤城って演歌歌手になったよね。そういえば柳田もだね。 V9野球をヤクルト 西武に持ち込んだ広岡ー森コンビ
藤田さんも王さんも勝てなかったねえ・・ >>59
1976年に巨人に移籍してきた張本が「オロナミンC」のCMに出演していたのだが
何かホント張り切っていてね…。
『ジャイアンツの張本です』と力強く言っていたのが印象に残っている。
この年からですよ。巨人の選手が「オロナミンC」のCMに‘大挙’出演するようになったのは。 王さん756号の試合で完投勝利したのは
前年までヤクルトにいた浅野啓司。
最初はメガネの投手だったけど
後にコンタクト変えたのかメガネしなくなった。
逆に堀内がメガネかけるようになったのは
この年からだっけ。 今も張本のオロナミンCの看板みかけるよ。33年も経ってるのか。 うちの田舎は、松島容子のボンカレーと大村昆のオロナミンCの看板があるよ。新人の西本が3連続四球を出したのって、カープ戦だよね? >>70
松島じゃなくて松山ね。
平成7年に柴田選手のオロナミンC看板を千葉県船橋市で見かけました。
元祖オロナミンC・大村昆師匠のも隣り合わせにありました。
さらに、もう5、6年前だけど同じ千葉の印西市で
水原弘の金鳥アースと由美かおるの同アースマットの看板を目撃した。
昭和47年製作のレアモノですが果たして現在もあるかは不明です。
他に浪花千栄子のオロナイン軟膏や南利明のジンセンアップってのもありました。 大村昆さんの片隅に黄金バッドやアタックNo.1は、ありますか? >>64,>>66-68
「ボク、ジョンソン。オロナミンC、オイシイデスネ〜」 1年目は最下位だったけどオープン戦から調子悪かったのかな。
それとも開幕したとたんに負け始めたのかな。 都内の米屋で柴田、高田のポスター見ました。たぶん オロCの奴。あと埼玉のバッティングセンターで王の
一本足のポスター見ました。 スタンドの応援「かっとばせ〜」っていつから始ま
ったんですかね?スカパーで見ると80年にはすで
にあったようですけど? >>75
リポビタンDのCM、王の後は現在まで続く、俳優二人によるアクション編となり、
初代は勝野洋と宮内淳のテキサス&ボンの太陽にほえろ!コンビだったね。
「ファイト一発!」のフレーズはこのときから。 >>71
そういうのって盗んでいくマニアがいるから気をつけた方がいいね。 >>26-27
サード柴田
ライト王なんて何試合ずつあったの? サード高田の間違いじゃないのかな?ライト王は756号を打った後で、
ホームランを打ち込んだ外野スタンドの近くに王を行かせる為に、長島監督が
敷いた。ちなみにその時は一塁に山本功児がついた。
長嶋に育てられ、酷使で潰された新浦。
江川獲得で人生滅茶苦茶にされた、特に小林と新浦。江川が来なければ,この二人の未来はもっと明るい筈。
世界の王さんに、嫌われいじめられた江川。
柳田の打球で選手生命断たれた末次w
しかし、末次は金田正一に、間違った助言して、腱を駄目にした。
末次と柳田の仲は険悪なの?
金田と末次の仲はどうなの?
金田はあの事がなければ500勝出来たと豪語してる。
http://orz.2ch.io/p/1!.19.64/gimpo.2ch.net/meikyu/1245741970/?t=%90V%89Y
http://orz.2ch.io/p/1!.19.64/gimpo.2ch.net/meikyu/1245741970/?t=%8F%AC%97%D1 王のCMでナボナ以外で記憶に残っているもの。ボンカレーと真っ赤なブルーバード 90 をゲットしたいな〜
ところで札幌円山での四球連発時に、「柴田は入団当時ピッチャーだったな」
と、呟いたとか
危うくサードどころか、ピッチャーまで・・・。 >>85
ビクトリアとカメラのドイも。
土井正三「ドイはカメラの王さんです」
王 貞治「ドイをよろしく」 青田さんがコーチで復帰して“地獄の伊東キャンプ”にユニフォームを着て参加していたのだが
そのときの背番号が『88』だったんですよ。某スポーツ紙に写真が載ったのを見たのでね。
うん、これは「来シーズンは期待できるな」と、そのときは思ったのだが…。 この頃の、ビジター水色のユニが一番好きだなー。
交流戦などでオールドユニの企画があるけど、無理だろうな・・・。 このころ(1976年〜79年)に王選手の専属打撃投手を務めていたのが、山口富夫さんでしたね。 湯口がいれば新浦みたいになれたと思う。
かさらに飛躍していたかもしれない。 中畑はドラフトで1位指名されると思っていたが、高校野球をTV観戦していた長島が、篠塚を見てピーンと来て篠塚が1位になったらしい。当の中畑はかなりへそを曲げた。それで駒大三羽ガラスの、他二人の面倒を見るという事で、入団をオッケーしたらしい。 今思えば 篠塚1位 中畑3位 左キラー平田ドラフト外って神ドラフトだね
やっぱり伊東キャンプに尽きる。
これがなかったら80年代の巨人はなかった。 原田はほとんどといっていいぐらい代打しか出してもらえなかった。
なんかの野球雑誌にのってたけど、1回だけ小林対策として1番ライト
でスタメン出場したが、それだけだった。との本人のコメントがあった。
守備は下手だったんかな。
小学生のとき、左の代打陣の中で守備についたの見たことないから
打撃の人なんだ。
漫画「どくされ球団」の鳴海みたいな人なんだと思った。 つかさーいつの時代の話してんだよオッサン共ww
は た ら け よ 右翼線フェンス直撃の当たり、クッションを誤りオタオタ
「守備はあんまりうまくないーーーーっ」(吉田填一郎アナ・当時日テレ)
>>101の試合の実況だったかも なつかしいな
スタメンは年に1試合くらいはあったんじゃないかな 言われてみれば原田の守備なんて全く記憶がないなぁ。
淡口や柳田は代打で出てそのまま守備に就くというケースが多かったのに。 77〜78年の投手陣って、小林,新浦,堀内,ライト,浅野以外に誰がいた?第一次長島政権って、かなり打高投低のチームだったんだね。 加藤は77年シーズンの大半を病気か何か療養してた
78年には角もいた >>106
広島市民での長時間ノーガードの打ち合いが好きだった。 西本はフォアボール連発して、長島に殴られた話があったね 長嶋監督になって淡口ブレイク。将来の4番候補になり、よく阪神の掛布と比較されていた。
それなのに、昭和52年〜54年は不振だった。僕の中では謎。 当時の日本テレビ野球解説者
1975,76 別当薫 森昌彦 村山実
1977 森昌彦 村山実
1978 山内一弘 村山実 中村稔
1979 黒江透修 村山実 中村稔
1980 広岡達朗 国松彰 村山実 中村稔
77年は最小の2人体制。
村山は在任中、読売テレビと広島テレビを掛け持ちしていた関係で
森がイレブンナイターを含めて3連投したことも。村山と関係の深かった阪神、広島戦を除くと森が大半の試合を担当していた。
>>118
金やんは第一次ロッテ監督を退任後の79〜80年はフジテレビの解説者。
藤田政権に変わった81年に日テレに復帰した。 小林ー角ー小林のリレー。
阪神線で、藤田掛布と左打者。右投げの小林は分が悪い。
そこで小林をライトに、ライトの山本功がレフとに。
レフとの淡口に代わり、角。
角は期待に応えて藤田掛布を抑えた。
あとは小林が続投。
大洋戦で同じことしたら、今度は角が満塁本塁打浴びたw 79年の失速→5位がフロントの印象を悪化させたのも事実だが
もしAクラス入りしていたら地獄の伊東キャンプもなく
81年藤田政権での日本シリーズ制覇もなかっただろう。 >>121
失速は小林を放出したからだよね。
この年阪神で22勝。対巨人戦は8勝。
79年の失速の原因だった江川が、
「第一次藤田政権」では日本一の立役者。
何とも皮肉なものだ。 あの年は、中日の三沢も小林みたく打てなかった
サイドスロー恐怖症とか書かれていた 詳しいデータは分からないけど、
79年は今季〇度目の無得点負け
80年は今季〇度目の1点差負け
とかよく言われた記憶がある 80年もシーズン序盤で終了状態となって
夏場には長嶋辞任の見出しが出巻くってたっけ。
ある週刊誌に次期監督は藤田か牧野だと書かれてたけど、
6月頃に長嶋解任は既に決定していたんだろう。 長島巨人は采配ミスが多かった。
選手も使い捨て
にうら じょうべとか 週刊文春の川上監督らのOB座談会は恐ろしかった。
青田ヘッドの赤ちゃんのオシッコ発言なんてのもあった。 長嶋が「うんこ」だったら、王は「おしっこ」だっけ? >>128
大型補強にコンバート、若手の台頭などでV2の長島巨人も78年の2位、
さらに79年に小林の放出に土井、高田、柴田、張本の不振で5位。
危機感を抱いたそのオフ長島は阪神、阪急をVに導いた鬼の参謀・青田昇をヘッドに据える。
青田も選手時代の昭和28年以来の古巣再建に燃えていた。
そして長島・青田により約1ヶ月に及ぶ伝説の伊東キャンプとなったわけだ。
(世間は日本シリーズ第2戦という10/28からスタート)
禁酒はもちろんだが選手は昼食も摂らなかった、というか疲れ切って摂れなかった。
青田は広島が雨中の初日本一を決めた夜も布団の中で「雨だ♪」と密かに喜んでいた選手に
「なめんじゃねえ!雨でも槍が降ってもやるんだ」と一蹴していた。
結果そこから多くの主力をを育て上げた。
ところが年末に青田の“黒い交際”が週刊誌に掲載された。
その神戸の大物組長は実際娘の結婚式にも出席したと言われた程だった。
阪神、阪急、大洋では出なかった事が長島巨人に属した事でマスコミが書き立てたのだ。
記者が青田の自宅に取材した際、カッとなった青田が
「そんなもん皆やっとる。フン、“赤ちゃんのオシッコ”みたいなもんや」とやってしまった。
80年1月9日巨人は青田に厳重注意を処した。
すると10日巨人の“紳士”のレッテルを剥がしたいと週刊誌側が「二の矢、三の矢もあるよ」とくる。
これに慌てたセ・リーグ鈴木会長が巨人の処分はぬるいとしたため改めて巨人が謹慎三週間を処する。
だが結局週刊誌側が第二弾、第三弾を世間に放つ。
そして1/18にセが緊急理事会。「自主的に適切な処置を講ずるように」と巨人に命じた。
結局その夜巨人が青田を説得し青田が辞任する形となった。
伊東キャンプは長島の遺産とよく言われていますが
この青田の存在も陰の立役者と言っていいかもしれません。
巨人は江川問題で1978年のドラフトを
ボイコットしたけど、この年江川以外の新人を
補強しなかった影響はあったと
皆さんは思いますか? >>131
私見ですが影響は当然あったと思います。でも当時は今と違って情報が狭いから今でいう隠し玉がゴロゴロいました。
ドラフト外ってやつです。でも当時の巨人はまだ上から目線でアマ選手への配慮や気配りが横柄であったと思われます。
西武の王道戦略に被ってしまい、松沼兄弟とかプロ即戦力型を獲得できませんでした。
また育成システムも今とは比較できないくらい原始的だったと思われますので選手がのびませんでした。
実際に伊東キャンプがなかったら江川以外出てこなかったかもしれません。落合を獲得できなかったのも痛かったですね。
鹿取はキャンプで堀内、小林、浅野、加藤の投げる球見て「間違った所に来てしまった・・・」と思ったそうですね。
ただ定岡、藤城、田村ら西本を除いた同世代となら勝負できるかもと考えてたという話。
しかもその半月後に小林が例のトレードで阪神へ行き、サイドハンドが自分と田村だけになったから
可能性を感じたみたいな話をしてましたね。 おっと、ここまで「宮田征典投手コーチ」の名前が挙がっていませんが…。 背番号33原田
ヒット打った印象全くなし
守備に就いた印象全くなし 赤ちゃんのおしっこ話おもろいな。そんなことあったのか。 >>137
昭和51年
巨人VS阪神戦
末次のサヨナラ満塁ホームランの日に
代打でヒット打ってます。 昭和51年の巨人て思い入れがたくさんあって一つに絞れないな 昭和51年、初めて見たジャイアンツ戦が後楽園の巨人VS太平洋のオープン戦だった
>>131
ドラフトでてたら落合指名してた、ってのはマジなんですか?
よく聞く話だけどなんか胡散臭い 第1次長嶋政権時代に
各選手の背番号を織り込んだ歌があったよね >>144
>>145
ガセ。落合がブレイクした後に長嶋シンパが「長嶋は落合の才能を見抜いていた」と嘘の喧伝したのが定着しただけ。
この巨人指名話は落合自身も否定している。
社会人としてプロ入りに微妙な年齢であった当時の落合を誘っていたのは新人に不人気のロッテぐらいだったと本人が述べている(落合自身は長嶋ファンだったけどね)。 良く覚えていなのですが、長島という大選手が引退した年に、サードはなぜ富田しか用意していなったのでしょうか?トレードなどでサードを獲得していれば、あててジョンソンを獲って失敗することなかったと思うのですが。 富田はレギュラーでやれる力はあったと思う。
うまくいけばAv.280〜300 HR10〜20くらいやれたのでは?
でも、仮にそれだけの活躍をしても、長嶋の穴を埋めるのは難しかったと思う。
結局、サードのスター選手は、中畑・原あたりまで待たねばならなかった。
コンバートされた高田もよくやったが、長嶋のかわりにはなれなかった。
ひょっとしたら、長嶋監督は一度チームを壊してから、新しい巨人をつくりたかったのでは?
なるほど!どん底からチームを造り直そうとっしたのですね。 ジョンソン獲って失敗は結果論で当時はメジャーで40本打ってたバッター獲れて大成功でしょ
まあジョンソン獲得以前に名前忘れたがドジャースの内野手を獲得失敗してたし。 >>144
>>145
>>147
落合指名予定は本当。
当時親父が巨人ファンで報知新聞を
とっていたが、ドラフト翌日の報知に
ボイコットで指名の予定だった本荘高校の工藤、
東芝府中の落合も指名できずスカウトの努力が
水泡に帰した云々と記載してあった。 亀井のサードコンバート。高田みたいにうまく行くかな?
高田も前年は打撃はサッパリだったが。 森に代わる、メジャーの捕手を獲得するって話もあったような。
誰だったかな。。。 >>157
ファーガンソン・ステイーブンソン・・そんな名前だった
>>153
代打要員程度で使われて、ロッテあたりにトレードされたんじゃね?
特に原入団時の80年オフにトレードされた公算大。 >>159
交換相手は投手(できれば左)だろうな。
水谷(80年12勝)は無理だろうから
安木(7勝)小俣(6勝)倉持(18セ)も厳しいから
二軍投手あたりか? 長嶋がすぐ落合をトレードで取ろうとしたらロッテが定岡を要求してきた。 G+ジャイアンツヴィンテージの12月、1月再放送予定の
第一次長嶋巨人特集、激闘!巨人×阪神 長嶋監督編パート1&2っていつの試合が取り上げられてるの?
http://www.ntv.co.jp/G/
昨日のジャイアンツヴィンテージで
クライド・ライト初登板初勝利の試合が放送されてた
球種はスクリュー、スライダー、カーブ、シュート、ストレートらしい
スクリューは中塚?がチェンジアップと勘違いしていたが
76年の試合で、編集されてるけど40分ぐらい
王のギリギリ全盛期で本塁打打ってバンザイしながら一周する場面が
映されたりして凄く良かったな >>151
ジョンソンは43本打った年が確変だっただけ
他の年ではシーズン15本が最高の打者
メジャー最後の3年間のOPSよりは日本時代のOPSの方が高い
つまりはメジャー最後の3年間よりは日本では良い率系成績を残している
75年はともかく76年の成績はそこまで悪くないでしょ 巨人はV9時代、外人が必要なかったから、外人獲得戦術では他球団に明らかに
遅れをとった。
他球団がこの間、いろいろ失敗して学習、ノウハウが蓄積されているのに
巨人は何もしなかった。
ONが劣化したら、ドラフト制下では新人獲得も思うに任せられないから、外人が
必要になる、今のうちに勉強の意味で外人獲得に参戦すべきだ、くらいの意見を
昭和40年代に誰かがすべきだった。
無ノウハウでの最初の失敗がジョンソン、リンドだった。 ジョンソンは日本の野球に溶け込むのに時間を要した。
ポジションも違っていた。
その環境でいきなり大活躍を求められても気の毒な気がする。
実際、翌年はかなり働いた。
打撃だけならもっと優れた外国人は他球団にゴロゴロいたが、当時は今ほど重視されていなかった守備面での貢献度が高く、
総合的には、よくやったほうだろう。
リンドは、もともと打力は期待せずに獲得した選手。
これもそこそこにやったほうだと思う。
調子が上向いてきた時にケガをしたり、運も悪かった。 川上はV9時代、毎年のように外国人獲得をフロントに要請していたが拒否されていた。
巨人の純血主義とは実は単にケチって金をださなかったという話。
ところが長嶋が監督になり外国人を所望すると小正力は手のひら返しで快く応じた。
>>166
ジョンソンは別に失敗していないだろ
2年目はそこそこだったし
>>167
今ほど重視されてなかったというより
助っ人に守備力が重視されてなかったってだけ
>>169
だから他の年はメジャーでシーズン最高18本(15本は間違い)の打者なんだから
明らかに確変だった43本打ってたなんて強調する事は無いっての 新巨人の星が中途半端なとこで終わっちゃったな。
あれは作らない方が良かった。 >>171
いい歳したおっさんが死ねなんて言葉使うな
お前こそうざいし、死ね 「トレード論争」
このころの長嶋はトレード、特にV9仲間の放出を嫌がっていた。ハワイ出身で米球界にも精通していた佐伯球団常務の説得と難色を示す長嶋との論争は75年オフから続いた。
最下位となった75年はまず若菜嘉晴、田淵幸一、野村克也の捕手陣の獲得を目指したがこれは断られた。加藤初−関本四十四の交換の際は、
「東尾or加藤」という申し込み方をしている。太平洋とは若菜を断られても新鋭の遊撃手・真弓と末次利光の交換も噂されるなど巨人絡みのトレード話は多く飛び交った。
それでも富田との交換で張本を獲得し王が打棒を取り戻した事は事実で大リーグに興味を持っていた長嶋も認めるところだった。しかし同時に高橋一三を放出した事にはファンの反応も含め気になっていた。
日本シリーズで敗れた76、77年には複数他球団の方から10勝投手を相手に柴田、土井、高田らの獲得打診の話が殺到した。
ここでも佐伯の「商品価値の高いうちに」という説得が長嶋の前で幾度となく続いた。前任の川上哲治が金田正一や五番打者候補を次々補強した話や、
巨人を破った上田阪急が日本一のヒーロー森本潔を放出した事を引き合いに説明を続けた。結局この論争に終止符を打ったのは長嶋の「可哀想」という発言。
リーグVの年ぐらいは自身の思うようなチーム作りをしたい思い。しかし結果的にはそれが以後3年連続のV逸につながったのかもしれない。
ジャイアンツ・ヴィンテージ(12)激闘!巨人×阪神 長嶋監督編 Part1
http://tv.so-net.ne.jp/schedule/500257201012111930.action
<1975年4月20日 阪神戦>
堀内vs江夏、共に通算150勝目をかけた直接対決 江夏、8回までノーヒットノーランの快投で記録達成
<1976年8月11日 阪神戦>
柴田・高田の好走塁で引き分けに持ち込む
<1976年9月14日 阪神戦>
G-T首位攻防戦 王39号で土壇場の同点劇 田淵30号
<1976年10月10日 阪神戦>
G-T首位攻防戦 王通算713・714号連発で引き分け
<1976年10月12日 阪神戦>
G-T首位攻防・後楽園最終戦
淡口満塁弾 阪神痛恨の決勝タイムリーエラー
「内なる敵意」
第一次政権では外国人に長島も手を焼いた。長島巨人第1号の外国人選手デービー・ジョンソンは>>167の言う通り日本になかなか馴染めなかった。
田園調布の監督宅の近所に住居を用意してもらい、米国留学により英語が堪能な監督夫人である亜希子さんに世話役をさせるなど配慮した。
しかしそれでも溶け込めないジョンソンはいつもベンチの端の方で静かにしていた。ただボスに対する反抗は多かった。長島初Vの76年6月前半
日本でもできる親指の治療を理由に帰国を希望してきた。5月の14連勝で首位を快走してはいたが阪神がすぐ後ろを走る展開。
チームの士気に影響すると長島は突っぱねた。しかしそれでもジョンソンは約2週間帰国した。長島には納得できない出来事だった。
ジョンソンは起用法にも違和感を覚えていた。基本9人野球のアメリカに慣れていた元大リーガーのジョンソンにとって
試合中での投手野手の早めの交代や日々のスタメンの入れ替わりにプライドを傷付けていた。
クライド・ライトは野球になると気性の激しいプレイヤーになった。早めの交代ばかりか投手コーチが間を取りにマウンドに来ることさえも嫌った。
ライトは「首脳陣の言いなりで自己主張の無い選手こそクレージーだ」と日本球界の風習を批判した。
日本人選手にはスーパースターの長島、しかし外国人選手にとっては“オーは凄いと知っているがナガシマは・・・”といった存在。
現役時代からの称賛に慣れてきた長島はこうした批判や敵意には都度戸惑った。以降第2期政権まで「内なる戦い」という言葉を口にするようになった。
ジョンソンは因みに98年の来日時に長嶋のいる巨人でなく王ダイエーと外国人選手獲得アドバイザーとして一時とはいえ契約した。
助っ人外国人が一人もいなかったV9時代とは打って変わっての毎年による外国人補強を行った長島時代の巨人。
しかし>>168の通り、勝ち続けていた川上とて即戦力が欲しいのは当たり前。「哲のカーテン」に反抗していたマスコミからは
「外国人を獲らないのは川上の外国人嫌いのせい」だとされた。しかし川上はそれに真っ向反論した。
「とんでもない。外国人を獲ってくれと何度も訴えた。しかし正力(松太郎)さんも務台さんからも日本人だけでやれと命令された」
毎年のような五番打者獲りや金田ら他球団の主力投手補強はグループの意向で国産ジャイアンツを余儀なくされた影響からだった。 ジャイアンツ・ヴィンテージ(13)激闘!巨人×阪神 長嶋監督編 Part2
http://tv.so-net.ne.jp/schedule/500257201012181730.action
<1977年8月20日 阪神戦>
小林繁、阪神を完封
<1977年9月17日 阪神戦>
張本&リンド2ランHR、巨人優勝までマジック4 掛布18号3ラン
<1977年9月18日 阪神戦>
張本先制打を含む4の3、柴田16号で6回降雨コールド勝ち 巨人マジック3
<1978年4月20日 阪神戦>
小林繁→角→小林繁のリレーで巨人7連勝
<1978年8月20日 阪神戦>
河埜2ランで逃げ切り 堀内?新浦リレー
昨日のジャイアンツ・ヴィンテージ。別当薫さんの解説が懐かしかった。
当時の日本テレビ解説者は別当さんのほかに森昌彦さんと村山実さんと3人体制で、
77年は別当さんが大洋監督で抜けても補充せず、残りの2人で回しました。 http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20101227/bbl1012271601006-n1.htm
タイトルからして、エジリンかと思ったら…
涙が止まらない。江川の著書にも紹介されている事実だし、小林逝去当日にも同じ柏氏の追悼寄稿で
報知新聞に掲載されていたが、改めて読んでも… ジャイアンツヴィンテージで78年頃?
の試合を見たことがあるが、登板した角が
上から投げているのを見て驚いたよ(確か阪神戦)。
角ってその頃はオーバースローだったんだね 角は2年目の79年が不振で、伊東キャンプでサイドに転向した >>158 マニー・サンギーエンじゃなかったかな? 長嶋1年目は、監督として凡ミス多すぎたなw
4月の甲子園の阪神戦で、王を代打に出すのを忘れてw
連続試合出場をストップさせたり(9回裏田淵にサヨナラホームラン)
川崎の大洋戦?で内野手を使い過ぎて居なくなり、7回辺りから柴田がサードw
(ラジオで聞いていたが、解説の人がボロクソでしたw)
あと…この年から中日のリリーフエースだった鈴木孝政が「全く」打てなかった記憶有る。
この年の長嶋の唯一の?功績が新浦…
ブーイング浴びまくっても使い続けて、9月初め神宮のヤクルト戦で
14奪三振?で完封以降、覚醒し翌年からのブレイクに結びつけた。 落合が巨人にいたら
83
1中 松本
2遊 コウノ
3二 篠塚
4三 落合
5左 原
6右 スミス
7一 中畑
8補 山倉 落合が入団してたら背番号は2(上田引退)か6(土井引退)かな? 1位 篠塚 利夫 銚子商高 内野手
2位 岡田 忠雄 中京高 捕手
3位 中畑 清 駒沢大 内野手
4位 猪口 明宏 天理高 外野手
5位 山本 功児 本田技研鈴鹿 内野手
6位 柿木 孝哉 宮崎商高 内野手
8柴田
5高田
7張本
3王
4ジョンソン
9柳田
6河埜
2吉田
1小林 1975年 定岡正二
1976年 篠塚利夫
1977年 藤城和明
1978年 山倉和博
1979年 (ドラフト会議不参加)
1980年 林泰宏 長島第一次政権初年度の75年最下位の巨人を、
リアルタイムで見ていた俺の知人は
「当時はどの新聞も、最下位巨人に対して同情的な記事
を書いていた」と言っていた。
本当だったのかな?
アンチ巨人は歓喜しまくっていたんじゃないの? >>193
当たり年だね。3人も一軍で戦力になってる。 >>197
当時は巨人に限らず、今の様に表立って特定球団の批判はタブーとされていた時代。
まして長嶋を批判するという事になるから、
書く方も二の足踏んでいた。
シーズン当初は、王が肉離れで欠場したり、当たり前だが長嶋がいない。
開幕してしばらくは末次が4番(笑)そんな事で新米監督だし、しようがない雰囲気有ったのは事実。
そこに観客動員、テレビ視聴率共に大幅アップ。
人気が有ったから、批判しずらい雰囲気が有ったのは事実。
しかし長嶋のミスで、王の連続試合をストップさせたり、
5月入っても勝率二割前後だったり…余りに酷かったから
週刊紙から批判が高まって来て、夏に入る頃には報知新聞あたりも、
批判的な記事が増えていた気がする。
秋口にはコーチのクビとか、トレード話がかなり例年以上にドロドロしていた。 長島監督と王さんがベンチで喧嘩になったと云う話を聞いたけど、何が原因だったんですか?
王の連続出場を長島がスッカリ忘れてたとかですか? マスコミではONの批判はそれまでタブーだったのだがそれが破られたのが1975年だそうな。 >>200
表立って喧嘩になったという話は、知りません。
ただ週刊紙に長嶋と王の不仲が、取り上げられていたのは事実…。
二人の不仲説は度々出てたが、チームの不振と例の連続試合出場の件で
この年が一番緊張感有った気がする。
王の連続試合出場が切れたのは、甲子園の阪神戦…。
肉離れで欠場していた王は、代打で連続試合を継続していたが
新米監督が試合に夢中になりすぎて(笑)、自分の存在を忘れている事にきずいた王は、
ベンチで座る位置を長嶋の隣に移動したりしていたが、
それでも長嶋は気ずかずに9回の表が終了…。
テレビでその事を解説者(だれか忘れた)が『王の問題(新たな故障)でなければ、
監督のボーンヘッド』とボロクソでした。
その裏に田淵のサヨナラホームランで試合終了…この年は、万事がこの調子でした。 今季の金本の例もあるけど、
結局は連続試合出場という記録が、ある「無理」を経たうえでないと続行出来ないことを如実に
表してるとも言えるわけで、長嶋をフォローする気もないけど、それで不仲になるとかいうのも
何だかなぁ…という話ではあるわな。
満身創痍の状態なら、さすがに天然の新米監督でも出場させるのを忘れたりはしないだろうし。
原の末期に行った仕打ちを考えると、
案外と分かってて忘れたフリという線も考えられなくは無い気もするが。
そうだとすれば、いくら王がベンチ内で監督の目に入る位置に移動しようと意味がないわけだが…
不仲って言うか、現役時代から距離取ってたんじゃないの?
ON以外も浩二衣笠、秋山清原なんか一緒に飲みに行ったりする事なかったって言ってる
もっと言えば、主力同士仲がいいのってなんなの?ぐらい、巨人にいた松井辺りには、逆質問されるぐらい。 別にお互い嫌ってた訳じゃないんだが距離とってた方がいい結果出るんだろうな。
逆に王、張本のOH砲がON砲程の破壊力を持たなかったのは両者の仲が良すぎたせいかも? 俺はこの時代のプロ野球を、リアルタイムで見てみたかったよ
(当時俺自身は就学前だったから、もちろん記憶にはない)。
王の756号で国中が盛り上がり、
弱小球団の広島とヤクルトが初優勝して新しい時代の到来を予感させ、
江川問題で大騒ぎして、
野球ファンは結構楽しませてもらったんじゃないか?
もっとも、巨人ファンにとっては常勝チームでなくなったから
物足りなかったかもしれないが… 昭和53年までは
V9+張本
って感じだったが
昭和54年辺りから
高田中畑
柴田松本
土井篠塚 >>200
あの年はワンちゃんもミスターといろいろあったんだよ。表面にはあまり出さないけど」 あれは九州で負けた時だった。
4月のシーズンが開幕して間もなくだよ。広島に逆転負けした後、宿舎で全員絞られた。ミスターが“お前たちは命がけで
野球をやっていない。気迫のあるやつは今の巨人には一人もいない”なんて、怒鳴りまくったの。そしたら、終わってから
ワンちゃんが血相変えて来て“許さん!“って。ケガでスタメンに入っていなかった時期だったしね、ワンちゃんもイライラ
してたんだろうね。僕の部屋でビール飲ませて、落ち着かせたことなんかがありましたけど…。
http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/yutaka-sudou/KFullNormal20070424124.html >>208
っていうか、当たり前だけど王も長嶋も若い時は熱かったよね。
どうしても晩年の温厚な監督時代イメージするから想像出来ないけど、
長嶋なんか現役時代、燃える男って呼ばれてたものね。 >>206
常勝ゆえ、巨人のファンでさえ面白くないと感じてたのが当時。
長嶋が監督となり「これは面白い」と関心をひくことに。
ゆえに長嶋初年の成績は叩かれなかった部分もある。その後、優勝回数激減で結局は長嶋
ダメレッテルが貼られることになるんだけども。
>>209
伊東キャンプなんて
第二次政権の時に同じ事やるとは、到底考え難いもんな。 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍 嵐ヶ丘に一人立つ
われらが友よ 長嶋よ
きみのうしろに百万の
巨人の星が燃えている
がんばれ長嶋ジャイアンツ
1.東海の日出づる國の 逞ましき力をあつめ
巨いなる理想をめざし
進む者、我等ぞ、我等ぞ
意氣はつねに天を呑めり
おおお、勇め、進め 血汐し高く踊るよ
夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍 >>197
初年度選手長嶋のいない巨人軍を率いることになった監督長嶋に対して
厳しい批判はどのマスコミも、し辛かったとは聞いたことがある 夢があふれる長嶋野球
スリルスピードスピリット
行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら
走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍
来週くらいに、ABA深夜番組の「ユキチカ!」で特集するでしょ。
夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍 >>204
バリー・ボンズとジェフ・ケントなんか逆に不仲で有名なぐらいだからな 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍
長嶋は、現役晩年はコーチも兼任してたんだっけ?
現役引退直後に一度外から勉強するとかすればよかったかもな
いきなり監督業をするのは大変じゃないかな? 昭和54年、伝説の伊東キャンプ
全参加選手わかる方いますか? >>244
本当にアホだよな。常勝のイメージがあったから誰が監督やってもいけると思ったんだろうな 現在よりも、2.5倍幸せになれそう。今、落ち込む必要はありません。だって、将来は明るいのですから 1 王
2 上田
5 ジョンソン
6 土井
7 柴田
8 高田
9 吉田
10 張本 当時は長嶋を追い落としたとされる川上一派に腹が立ったけど、今となっては彼等の方が正しいと思う。 >>272 後半になると 代打淡口 → 捕手 矢沢 ってパターン多かったね。
杉山(あの問題を起こした方ではない)とか福嶋っていう捕手もいたな。 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人
当時のV9しかしらないファンからしたら何から何まで
想像できないくらいの惨劇だったんだろうなあ。 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人
第1次長島巨人の終焉が
高校球児・長嶋一茂の始まり。
39歳で就任して44歳で解任。若いね。 茂雄の引退直後に一茂がリトルリーグでプレイし始めたら
新聞記者やテレビ局が練習のたびに押しかけてきていづらくなってチームを辞めた 一次の長嶋監督は 王、張本以外の左バッターは相手が左投手が先発か替えると
ほとんど平田や中井に交代してたな。
淡口に代打した平田が二塁、二塁のシピンがライトへ
ってパターンが多かった。
1979、80年はちょうど柴田、高田、張本が不調で、
レフト淡口、センター柳田(80年はホワイト)ライト山本功って
夫人が多かった覚えがある。 >>295
1〜2点差で終盤になると守備固めで張本を引っ込めた試合も多かったな。
たまに8, 9回あたりで二宮とか中井の打席を見ることができた。
1979年も何気に暗黒の年だった。江川問題で世間からのバッシング、二度目のBクラス、
V9戦士の老弱、貧弱な投手力・・・。中畑、篠塚はまだまだ未熟だったし。
唯一の明るい話題は王の800号くらいだったような。 80年はベンチ内で内紛が起きていた。
落球、暴投、落球、ベース踏み忘れ、堕落返球、信じられないプレーが毎試合のように
起きていた。
川上派の嫌がらせは頂点に達していた。
本来は育成型の監督だったんだけどねえ
どこであんな欲しい欲しい病になってしまったのか 俺、柴田の600盗塁だったか記念の盗塁見に行った。
1977年の事。
初回柴田が一塁に出て、柴田の方を見てると、もう投手が投げる前から、
そわそわしてたので、走るぞ!と思ったら初球盗塁して成功した。
それが記念の盗塁で花束かなにか貰ってた。
張本、王、柳田のクリーンアップ爆発で小林の好投で
大勝(スコア忘れた)だった。 >>304>>306 79年は柴田、高田、張本 80年は柴田、高田、加藤初、シピン
が不調で長嶋監督が若手に切り替えようとしたが、ベテランから反感かったんだよね。
トレードに際しての張本の爆弾発言もあったし。
79、80年の巨人と南海 共通しているのって、
相手球団にとって、先発に左投手をぶつければ安心ってぐらい
両球団は左投手にやられてた。 夢があふれる長嶋野球 スリルスピードスピリット 行くぞ行くぞ行くぞ火の玉まっしぐら 走れ走れ長嶋ジャイアンツ 日本一だ読売巨人軍 新・巨人の星のシナリオが狂った。
78年は巨人の完全優勝という捏造までしないと辻褄が合わなくなってしまった。
>>310左投手と言えば 梶間、神部、山本和、で抑えは江夏。
相手ファンとしては王、張本、平田、中畑 を抑えれば後の人は・・。
って状態だったな。 >>313
その続編で、
「新・巨人の星U」ってアニメなかった?
(今で言うと3期に相当するのかな)
俺は観た記憶が一度もないわ
存在自体後から知ったし
調べてみたら79年の時に放送していたが、もしかして
黒歴史扱いになっているのかな >>295
一次政権時の長嶋監督は、左右病がひどかった
みたいだね(特に最下位の75年) 1975=クリーンベースボール
1976=チャレンジベースボール
1977=手作り野球
1978=スーパーベースボール
当時週ベでさえ半信半疑で特集した「手作り野球って何だ?」
そこに解はなかった。だが今ならクッキリ分かる。
あの後年欲しい欲しい病に取りつかれた長嶋が、この1977、まさに自前の選手をせっせと手作りしていた。
二宮を張本の守備固め専門で定着させた。西本田村定岡をセットで売り出し西本が一本立ちした。
脚だけで打はアマレベルと言われた松本を柴田の後釜に据える基礎を固めた。
阪神に通用しなかった小林がフォークを覚えたと見るや、辛抱強くローテに組み込み阪神キラーに変えエースぶりにハクをつけた。
現代なら拍手喝采ものの育成ぶりではないだろうか。
だが当時は、今なら暴挙ものの張本加藤の獲得にさえも世間は非難ひとつせず、強い巨人を取り戻す積極補強と評価した。
そんな世間の目に、半人前の選手を試合を通じて一人前にしていく1977の姿はかえって奇妙に見えたのかもしれない。
まあ、そのくらい当時は巨人に常勝が求められてた。おかしな世の中だったと思う。 >>316
新巨人の星も星Uも同じアニメ。Uになって主題歌とか若干のマイナーチェンジが
施された。
78年は巨人優勝という大捏造をして終わらせた所にリアルとの絡みに相当苦悩したと
思う。
最後に江川が出て来て星が声をかけて終わったと思った。
江川時代の巨人の星はさすがにちょっと描けなかっただろうね。 新巨人の星が1978年で連載が終わってよかったとつくづく思いました。 こんなスレあったんだ!
初めて公式戦見たのが この頃の広島vs巨人だった。(小林が最後の年)
「よくわかりました」(前)
75年4月11日の広島市民球場、中日は先発・鈴木孝政の力投で広島に3−1で勝ち連勝で6試合目とはいえ最下位脱出。
この時はまさか中日と入れ替わって最下位となった巨人がそのまま最後まで上がって来ないとは誰もが思いもしなかった。
この年、長嶋茂雄の監督1年目となる巨人は多くの“球団史上ワースト”が相次いだ。創立以来の最下位は勿論、全球団に負け越しも
初めて。さらには勝率、首位とのゲーム差、チーム防御率も2リーグ分立後ワーストだった。
4月10日に右打者で長打の打てる三塁手として“長嶋の後釜”で獲ったデーブ・ジョンソンが来日。26日ようやくにデビュー、王貞治との
「JO砲」が揃い27日にはそのジョンソンがヤクルト・石岡康三から来日1号となるサヨナラ弾が出るも翌日から4連敗。4月は4勝10敗
3分けで終わった。長嶋は「5月反攻」を宣言、5日の王のサヨナラ本塁打から4連勝したが長くは続かず、5月も結局10勝13敗。
6月以降も高田繁、土井正三、末次利光、富田勝といった右の主力打者を中心に王以外の打撃不振が続き、巨人を除く5球団の戦国
ペナントレース。9月には1分けを挟みこれも球団初となる11連敗。揚げ句の果てに10月15日の本拠地後楽園で広島に完封負けし、
リーグ分立後初めてセ・リーグ球団の胴上げを目の前で見る羽目になる屈辱も味わった。V9から2年、巨人ファンが黄金期の終焉を
思い知るにはちょっとショックが強過ぎた。しかし負ければ負けるほど観客が詰めかけたのも“初”、新記録となる280万人を突破したのも
初めてだった。
時には「長嶋巨人を励ます緊急大集会」が開かれたり、長嶋宅近くの多摩川のへりをプラカードを持った「長嶋コール」のファンが
デモ行進する現象まで起きた。
その長嶋の手腕にも問題が無いわけではなかった。就任時、王が主力選手たちに「色々あると思うけど皆で監督の指示通り動こう」と
前もって説明したのも選手時代、ミーティングの感想リポートに「よくわかりました」という平仮名8文字しか書かなかったという長嶋が
選手のレベルまで下りてきて指導する事は到底難しいと考えたからこそ。王に限らずチーム内全体に直感的・抽象的・天才的の長嶋へ
対する不安はあった。その不安が的中したにしても、そのダメージは想像以上のものだった。 (続)
「よくわかりました」(後)
開幕から低迷しても応援してきたファンの声援や同情も9月の11連敗あたりから次第に批判へと変わり高まってきていた。
まだ采配を揮っていない就任時でさえも長嶋への不安はあった。政権発足時「クリーン・ベースボール」を旗印に掲げたが、これには
前任者・川上哲治の堅いイメージを払拭しようという意図があり、その証拠に「川上派」とされた牧野茂が退団、藤田元司は大洋へ、
バッテリー部門に就くと予想された森昌彦も球団に残らず引退した。牧野に代わる参謀に関根潤三、バッテリーコーチは置かず
投手コーチ補佐に淡河弘を据えた人選を見ると長嶋が川上管理野球を“クリーン”にすべく意地を張っているように見られても仕方なかった。
采配面では開幕3連戦、いきなり3戦で延べ15投手をつぎ込み2敗1分け。まだ3試合だというのに「これからは総動員」と発言しナインを
惑わせた。4月12日はオープン戦の肉離れで代打に回っていた王を出し忘れ、連続試合出場を648で途切れさせた失態もあった。
1億円助っ人ジョンソンはメジャーでも74年の43本塁打以外は20本塁打未満の中距離打者だった二塁手。日本野球や風土になかなか
馴染めなかったカルチャーショックもあったが球団と首脳陣が大きなものを求め過ぎたのと不慣れな三塁守備で打撃を大きく狂わせた事も
否めない。
一貫しない采配は戸惑うナインにも影響し個人成績にも表れた。3割打者と20勝投手がともにゼロだったのは36年以来39年ぶり。
打率リーグ10位の王を除いて規定打席に到達したのは打率.264で21位の土井正三と、同.262で24位の柴田勲だけ。チャンスメイク
出来る選手がおらず王も打撃三冠で6年連続の打点王を守るのが精一杯だった。
投手部門でも堀内恒夫は入団以来10年連続の2ケタ勝利を挙げたものの10勝は自己ワーストで、18敗はリーグワースト。
数少ない収穫は打者での淡口憲治と投手の横山忠夫に2勝11敗の新浦壽夫。新浦は登板の度に相手スタンドから歓声が起きたほどで
新浦本人も「あの年は投げたくなかった、球場に行くのも嫌だった」ほどだったが、この経験と翌年投手コーチとなる当時評論家の杉下茂との
出会いが翌年に生きる事となる。現役時代はミーティングの感想文に「よくわかりました」とだけ書いていた長嶋も、監督となっての
この屈辱には人心把握術など監督業の難しさを自身でも身をもって“よくわかった”1年だった。そのオフ、王の負担を軽くするために
張本勲をトレードで獲得。他にも加藤初獲得のトレードや高田繁のウルトラコンバートなどの大改革。コーチ陣でも長嶋が選んだ淡河は
退団し広岡ヤクルトへ移り関根、宮田も二軍へ配置転換された。 (了) 一次政権最後の年の80年は不可解な怠慢プレーが目立った。
ボールを取らない、ベースを踏まない、走者にタッチしない。
異常な怠慢プレーが毎日のようにおきていた。
明らかに監督に対する嫌がらせだったのかも知れない。
1中 柴田→松本
2二 土井→篠塚
3左 張本→淡口
4一 王
5右 末次
6三 高田→中畑
7遊 河の
8補 吉田→山倉 張本が入ってるってことは76年→80年か?
なら、ちょっと違うだろ。
1中 柴田→松本
2二 土井→篠塚
3左 張本→ホワイト
4一 王
5右 末次→淡口
6三 高田→中畑
7遊 河埜
8補 吉田→山倉
張本は80年にロッテに移籍した時に
「巨人は間違った方向へ向かっている」と発言した。 「大きなプレゼント」
国内外を問わずクリスマスの日になるとプレゼントを交換するという光景を目にする事がある。プロ野球界でも75年の12月25日、17年で
2435安打の日本ハム・張本勲と11年で110勝を挙げた巨人V9時代の左腕エース・高橋一三プラス富田勝の交換成立が発表された。
球団史上初の最下位に終わった巨人と同じくらいに、2年連続最下位に沈み苦しんでいた日本ハムは既に大ナタを振るっていた。前年までに
大杉勝男、大下剛史、白仁天らが移籍。この張本の放出にて“東映色一掃”はほぼ完了したといってよかった。日本ハムはこの日張本を含め
5件のトレードを発表、入れ替えによる大改造はエース高橋直樹を放出する80年まで続いた。
一方、張本獲得の巨人は新しい相棒を得た王貞治の復活やデーブ・ジョンソン、高田繁らにも打棒が戻りチーム打率と得点が大幅増。
75年は10年ぶりに3割を切り打点もプロ入り以来最低の46打点だった当の張本も2年続けての高打率でリーグ連覇に貢献した。
しかし、成功をもたらしたこのトレード成立までは長い紆余曲折があった。
元々は即戦力投手欲しさに吉田孝司で近鉄・神部年男獲得を狙ったのが始まり。だが鈴木啓示に次ぐ二番手エースを、矢沢正と併用の中堅
捕手で獲ろうとしたあたり、川上時代まで長らく「球界の盟主」として君臨してきたが故の巨人の感覚のズレがあった。
巨人は神部を断られると、今度は74年新人王、75年初の二桁勝利を挙げた21歳のロッテ・三井雅晴に絞って交渉を開始した。すると
ロッテ・金田正一監督が「新浦でなら」と応じたため長島茂雄監督は「新浦はエース候補、高橋一三を代わりに出す」と返した。この頃は
高橋も74年、75年と振るわなかった事から「成績が悪かったから出されるのは仕方ない。ロッテなら監督は(元同僚)の金田さんだしいいか、
なんて考えていた」と覚悟は出来ていた。だが水面下では金田が「高橋一にプラス倉田誠で」と要求したため立ち消えになり、新たに
関本四十四と末次利光で三井獲りの案に変わっていた。
結局、太平洋・加藤初をトレードで獲得出来た事で投手補強は一件落着、三井獲りは幻となった。長島は即戦力投手と並行して獲得を目指し
た張本に焦点、日本ハム新監督で大学の先輩である大沢啓二と根気強く話し合い張本獲得にこぎ着けた。そこでトレード話が流れて宙に
浮いていた高橋と、ジョンソン加入で出番の減っていた富田の2人が交換相手となった。
V9以前の巨人は、金銭で他球団の選手を補強するケースが主。しかし、この頃は主力放出も厭わぬトレードを次々と敢行。張本など4件の
交換は補強による戦力アップだけでなく誰にでも「出される」という危機感を煽る意味でも効果的な“プレゼント”だった。 (了) 長嶋見てると、人間易きに流れることがよくわかる。
1次の時は、ドラフトには頼れなかったし、本人も若かったから
伊東キャンプのようなことができたし、やるしかなかった。
しかし2次の時は、FAに逆指名で良い選手取り放題。体力もないから
自分で鍛える意志なんてほとんどなし。選手の素質だけで勝てるから、
新戦術を練るなんてこともしない。しかも、団塊世代がそれを批判せず。
阪神なんかとは別の意味で黒歴史。 シピンを獲得したのがちょっとなぁ・・・。
あれで柳田が浮いてしまった。
張本、王が左だから右の強打を入れたかったし実際シピンも活躍したけど。
「史上最強の5番打者」が結局、一発屋に終わったのが無念。
しかし、大洋、よくシピンをタダでくれたなww もともとシピンはセカンドだが守備がザルなのでライトに回したんだね。
もし1次の時にFAがあったら標的になったであろう人って田淵、山本浩二、
衣笠、有藤、長池かな?大杉は王がいるから一塁はいらないし。 仮にFAの権利が10年目からだとして、まずは草とか足立、外木場、
衣笠あたりかな。特に最初の年はサードで衣笠取れたら大きい。
当時のヘッドコーチが衣笠の恩師の関根だったしね。
79年には花の69年(S44年)組が取り放題。伊東キャンプなんて
必要なし。 衣笠は75年にルーツがサードにコンバートしたんだから最初の年ってことはありえない。 衣笠が巨人に来たら、原は取らなかった
か中畑はいなかった 75年の時点でFAあっても捕手は田淵FA(10年未満)前だから、
他は・・。吉田とすっとこどっこいかな?
いや、最初からコンバート込みで衣笠とることはあるだろう。
昭和49年前半の衣笠のホームランペースは凄かったし。 昭和50年のスローガン「クリーンベースボール」って
要するに「川上時代のようなサイン盗みはしません」って意味だと思った。 ラストイヤーとなった80年はオープン戦ぶっちぎりの12球団トップ。
しかしシーズンインした途端につまづいた印象。
この年は開幕カードで当たった大洋に叩かれまくったね。
開幕戦の江川続投→逆転負けがすべてだった・・・ 1980年はシーズン入ったら、柴田、高田、シピン、中畑、河埜が大不調。
その代わり篠塚、淡口がレギュラーで活躍したけど、左投手が先発の時はやられてた。
平田、中井だけだもんな。控えの右で期待できたの。
張本はともかく庄司、小俣を出したのは・・。2人ともロッテに移ったこの年
後半からともにレギュラー(ローテーション)で大活躍した。
「昭和55年5月5日巨人5位」って見出しに関係者が激怒したとか
しなかったとか。それにしても秀逸なコピーだ。 >>346
野村を巨人にという構想はマジあったらしい。
長島が難色示したので流れたが、当時からソリは
合わなかったのかもしれない。
張本も、実はすでに74年シーズン後にトレードの話は
あったらしいが、これも長島が嫌ったようだ。首位打者の
獲得回数で張本がその年長島を突き放して単独1位になって
いたのがお気にめさなかったという噂。 75,76年の時点で12球団の捕手陣で野村を除いて一番良かったのは中日の木俣かな?
打撃、リード面をとっても。
吉田、矢沢を考えて断然違う。 >>354もし>>344のいうFAがあったらの話でした。抜けてた。
まだ田淵は76年時点で資格なかったと思ったので。 >>354
田淵は76年の時点でまだ正捕手だったのをリアルではっきり記憶してるぞ 田淵がFA獲ったとしたら79年ぐらいだから、ほとんど一塁との兼任
だったな。
西武では79年に数試合捕手したけど後は一塁かDHだったし。
江夏は野村解任騒動の時FA獲ってたと思うからどうなるか。 本当 笠間、庄司、山本功はかわいそうだった。
あまりにも高い壁だったから。
まだ山本功は外野でスタメンで出れたけど。
3選手とも移籍してから出番が多くなった。 笠間は古葉に潰された
オープン戦だが一試合で10盗塁きめさせて笠間自信なくしきっている。
わざと潰しに来たらしい
長嶋の伊東キャンプで若手を鍛えた情熱は、第2次には見られなくなった
FAによる金満補強に走ったのは御存知の通り 手間隙かけるのが面倒臭くなったのかな >>361
第2次の時、中畑ら伊東組から「あの時のような地獄のキャンプをやりましょう。」
と言われても「いやいや、今の若い子にあれやっちゃあ、潰れちゃうよ・・」
といつも返してた長嶋監督。
選手との関係が「兄貴分」から「おじいちゃん」に変わっちゃった。 第2次の時にあの情熱があれば、吉岡が巨人で大成したかも。 三木総理のクリーン三木の真似。
脱金権田中内閣という意味。
三木もアメリカの脱ウォーターゲイトニクソンのクリーンジョンソンの真似だが。
まあ、脱川上管理野球と読み取るのも可能だが。 >>362
潰れるのは若い選手じゃなくて自分だろう。
正直、楽することしか考えてなかった。 まあ、大物選手が「その気になれば自分の所で獲れる」状態になればな…。
オレだって、イイ女が「その気になれば、ヤレる」状態になったら、理性を
食い止める自信はない。 熱狂的な長嶋ファンは80年の長嶋を悲劇の主人公みたいに美化してるけど、
実際は巨人としては初めて三年連続で優勝を逃した上に、視聴率の低下とか
色々と問題もあったわけだし、本人なりに「若手と苦労する長嶋監督」より
「優勝する長嶋監督」がファンからも求められてると思ったんじゃないかなあ 79年になるとライト高田、レフト柴田の布陣もあった 「調教師不在」
ONが引っ張ったV9の時代から五番打者が多く入れ替わった巨人だが、OH砲となった長島政権となってからも末次利光、淡口憲治らが
五番を打ってしのぎ76年からの連覇に繋げた。特に77年の優勝は柳田真宏の働きが大きかった。柳田はシーズン4分の3で五番を打ち
打率.340、本塁打21、打点67の活躍で「巨人史上最強の五番打者」とまで言われたほどだったが、そのオフ巨人は大洋を自由契約に
なっていたジョン・シピンを金銭トレードで獲得した。柳田がいながらも獲ったのは安定した右の強打者をと考えた事が理由に挙げられた。
だが柳田が77年阪急とのシリーズで3度の得点機に凡退するなど13打数無安打に終わったのも大きな要因だった。
シピンは大洋での6年間で3割3回、166本塁打、467打点と五番打者にうってつけのタイプ。大洋ではライオンのような髪型と髭など問題児
扱いされていた不安はあったが、それも球団内規とはいえ長髪を刈り髭を剃ったため周囲やファンも「優等生に改心した」と期待が高まり、
長島監督も変身したシピンに「ユールックヤング」と言っておどけた。
しかし中身までは簡単に変えられず、内面は獰猛なライオンのままだった。大洋時代は一度も無かった暴力行為での退場が78年だけで
二度もあった。名門ゆえにマスコミの注目度も上がり、街で声を掛けられる事も多くなった影響でのストレスも暴挙の原因だった。髪を切った
のも「ガールフレンドの希望、野球とは関係ない」とシピンは入団の際に言い放っていた。しかし、このライオンを管理する“調教師”が
巨人には居なかったのも一因だった。
大洋時代は76年まで選手、コーチとして在籍したクリート・ボイヤーの存在があった。来日前の71年米でも同僚だったボイヤーは面倒見の
良さに加え、大洋取材陣にも「ジョン(シピン)こそナンバーワン二塁手」とシピンの肩に手を回しながら話してアメとムチを使い分けていた。
当時大洋の渉外担当だった牛込惟浩も「ボイヤーが抑えたからシピンはちゃんとやった」と振り返った。
それでも巨人での3年間でも2度の3割など中軸として期待に応えた。シピン獲得について誤算があったとすれば、30歳を過ぎた柳田が主軸と
して成長しきれなかった事であった。79年オフに柳田は阪急へトレード、シピンも80年に腰痛悪化などによる不振でオフに退団。長島巨人は
デーブ・ジョンソン以上の実績者を求めロイ・ホワイトを80年入団させたが、こういった大砲獲りは長島の第2次政権でも長く続いた。その中
で長島が調教師として高い評価を得た事は国内の大砲を含めても少なかった。 (了)
江川時代の巨人の星はさすがにちょっと描けなかっただろうね。
「悪たれ巨人」という少年漫画で、主人公が属する小学生チームが巨人多摩川グランドで
合同練習をしているシーンで、入団早々の江川が小学生数人にホームラン連発されていた。
79、80年のベテランの衰えがひどかったのは痛かったな。
特に柴田、高田、シピン(80年)。
中畑、松本、篠塚が出てくるときだったけど、若手への切り替えがスムーズに
出来なかった。 結局江川事件がすべてだろ。あれ以来巨人や長嶋への風当たりが強くなった。 79年だったと思うけど、クラウンを退団した石井茂雄を
急きょ獲得し序盤をしのいでたっけ。
あとこの年張本が急に衰えたのは目の視力低下が原因だったと
聞いたことがある。 第一次長嶋政権は「小林繁が支え、小林繁を放出して終わった」モノだと思う。 53年の夏の終わりには二位に4ゲーム差をつけていた。
絶対に優勝しなければいけない年だった。
小林、堀内、新浦、ライト、浅野、西本、角、小俣。
12球団随一の投手陣。
医学部目指た、高1の夏休み。
死ぬほど勉強した。
息抜きは巨人戦のナイター。
とてもアツイ夏だった。 >>39
今更だけど
それは甲子園で投手は角。
打者は藤田と掛布だったはずだ。 >>9
ジョンソンがセカンドで活躍したのはS51
その年は6番セカンド・ジョンソン
5番は末次
史上最強の5番打者・柳田 はその翌年のS52 松本が新人のときのS52
代走で出てきて、打者一巡でそのまま打席が回り、満塁HRを打った。
当時はセカンドだったんだが、 足>>>打撃 の評価の松本が打撃で派手な仕事をやってのけた。 昭和51年は、後楽園が日本初の人工芝を敷いた年。
この年のゴールデンウィーク、応募したちびっ子達をグラウンド内に入れて
人工芝の感触を楽しませようというイベントがあって、小5だった俺も参加した。
ちなみにこのイベントの歌のゲストは大竹しのぶだった。(笑) 1年目は最下位だったけどオープン戦から調子悪かったのかな。
それとも開幕したとたんに負け始めたのかな。 1年目は最下位だったけどオープン戦から調子悪かったのかな。
それとも開幕したとたんに負け始めたのかな。 長嶋一年目
1左 高田
2二 土井
3中 柴田
4一 王
5右 淡口
6三 ジョンソン
7遊 河埜
8捕 吉田
ジョンソンが働けば、そんなに弱い打線でもない ジョンソンってそんな守備上手かったの?
今で言うと誰クラス?
それから録画したジャイアンツヴィンテージ見てるけど新浦って投球テンポ速いな
もしかしたら投球の間が編集でカットされてるのかもしれんが 小柄な日本型ではない長身でダイナミックなセカンドって感じで初めての衝撃だった ジョンソンと入れ替わりで来たリンドが、またスケール小さい
セカンドやった。 野球ゲームでチームカスタマイズする時の投手は玉井、島野、四十四、藤城の先発陣
中継ぎ谷間先発で倉田、抑えは浅野
年間成績で藤城11勝9敗防御率⒊88とか胸熱 >>386
チラ裏もいい加減にしろ!
玉井9勝5敗
関本12勝12敗
倉田5勝4敗8S 「攻撃」
柴田勲・高田繁のV9コンビに、メジャー1803安打の実績を持つロイ・ホワイト、王貞治、若手成長株の中畑清のクリーンアップ。
あのジョン・シピンが下位に座り、控えにも淡口憲治や山本功児がいる80年の巨人打線は前年王者・広島にこそ迫力で劣るものの、他の
4球団には負けていないメンバーといってよかった。
前年リーグ5位の得点力の上に張本勲の放出による穴という課題は、伊東キャンプによる若手の底上げと大物大リーガーの補強で
十分埋まるという目論見があった。しかしそれは、開幕1ヶ月もしないうちに「見当外れ」の結果を見る事になった。
まだ30代中盤だった柴田、高田、シピンが揃って不振。特にシピンは4月15試合の出場で打率1割台後半、本塁打2だった。その後、投打が
噛み合い5月7日から5連勝。貯金2で首位広島に2差の3位という位置まで来たが、翌日からの12試合を2勝9敗1分けであっという間に
広島と7.5差の5位転落と厳しい情勢になった。そして、その元凶は攻撃力であるのは明らかだった。
5月を7勝12敗と負け越したのも、柴田に代わって先発出場していた淡口以外ほぼ全員が打てなくなった事にあった。11日の大洋戦では
長島が五回表、ホワイトにスクイズを命じたのを含め2スクイズ5犠打。1点差で競り勝ったが、なりふり構わぬ長島采配がこの年の巨人を
象徴するような苦しい試合だった。長島は「スクイズするのは勇気がいる、色々な意味で・・・」と吐露した。5月終了時のチーム首位打者は
中畑だったが、その打率は2割5分台の低さだった。
6月に入ると、その中畑が絶不調。6月以降は球宴まで打率.170、3本塁打、6打点の急降下。守備でも前半戦合計で12失策と足を
引っ張った。球宴前の巨人は王やホワイト、山倉和博の奮戦はあったが、前述のベテランに河埜和正ら中堅の不振もあり5位のままで
折り返した。
開幕前に「攻撃野球」の看板を掲げていた長島は優勝が日に日に遠のいていった事で、早々とその看板を下ろした。だが長島は攻撃野球の
不発以上に、自身の周囲が低迷により“攻撃的”に非難し始めてきた騒々しさに焦りを覚えていた。 (了) 80年
1三 中畑
2二 篠塚
3中 ホワイト
4一 王
5右 淡口
6左 柴田
7遊 河埜
8補 山倉 >>380
オープン戦は12球団中5位か6位。
しかし王が負傷し、開幕ベンチスタートが決まった時点で危ぶむ声もあちこちであったらしい。
当時の文献によれば評論家、解説者各氏はV9時代の疲弊が出始める時期になるとコメント。
スポーツ紙記者は揃って長嶋茂雄が選手・長嶋茂雄のいない巨人を率いて勝てるのか?と書き立てた。
しかしBクラス落ちはあっても大洋(その年、断トツの最下位予想)の下になることはないだろうと言われたが、結果は・・ 今のむさん批判をする星野
シゲヲのいる前で
さすが古狸だわな
ナベツネとシゲヲを捕まえる爺殺し
75年の1年前を73年という
計算出来ない痴呆老人なのに 76年
1中 柴田
2三 高田
3左 張本
4一 王
5右 柳田
6二 ジョンソン
7遊 河埜
8補 吉田 年末に中日新聞夕刊に杉下さんの回顧録の連載が有り、75年「恩師」天知俊一氏がどこからか杉下氏への巨人からの要請を伝え聞いたらしく「長嶋を助けてやれ」と背中を押したとか。
もうこの頃天知氏は入退院を繰り返してたが、76年3月巨人のオープン戦で岐阜に着いた時、訃報を聞いて急遽帰京した。
この年10月快晴の広島で前年最下位からの長嶋監督胴上げを果たしたが、杉下さんは「天国の天知さん、見て頂けましたか?」の心境だったと言う。泣かせる話である。
ここには書かれていなかったが、評論家を務めていた東京中日スポーツには各所に「杉下出禁」の貼り紙があったとの話がある。それでもなお万難を排した杉下氏そして天知氏の定見の広さが無ければ今頃巨人は二束三文のチームに成り下がっていたかも知れない。
こうした方々のお力添えもあって今の巨人が存在している事を広く伝えたい。
伊東キャンプの話も書かれていて、インコースを投げられなかった江川にはインコースの投球を徹底訓練したんだとか。 昭和52年、高橋という投手が45試合登板(先発1リリーフ44)
これが全く記憶にない
昨年の巨人で例えると、田原や高木康(左右の違いはあるけど)みたいな役割だったのかな? >>394
元東映の高橋良昌(善正)だね。
この年限りで突如引退し投手コーチ就任は寝耳に水だった。 >>390
長嶋と言うより、ジョンソンの不振と、明確なリリーバー不在で、先発総崩れが原因の気が 高橋と小川は75から77年の中継兼敗戦処理投手のイメージが大きいな。 当時は一流選手よりコーチのが年俸高かった時代だから
コーチ就任なら結構あっさり辞めてる
翌年の土井もそう 79年
1三 中畑
2二 篠塚
3左 張本
4一 王
5右 シピン
6中 柴田
7遊 河埜
8補 吉田 >>401
そのスタメンは79年に1試合もないよ。 >>398
小川邦和は昭和50年よく働いたけど
「もう長嶋さんの野球はメッチャクッチャだった」と後に話してたな。
結局その年、ベンチでスーやんと口論して気持ちが切れちゃったらしい。
52年までは巨人にいたけど。 1975年の一軍スタッフ
監督 長嶋
ヘッド 関根
打撃 福田
投手 宮田
守備走塁 須藤
同補佐 黒江
投手コーチ補佐 淡河
翌年から一軍コーチに残ったのは黒江だけだったな。関根、宮田、淡河は
二軍降格で 392 のスタメンはその年 1試合しかない。
おまけに 389のスタメンは、その年1試合もない。
もう一言、言わせてもらえば、382のスタメンは、その年皆無である。 392のスタメンは、7番吉田・8番河埜が正しいね。
河埜は翌年以降打撃開眼するが1976年はまだ非力だった。
あと5番は末次や淡口だね。柳田は左の代打カルテットの最後に温存されてたイメージ。
なお淡口は序盤戦は1番を打ち、10試合連続初回得点の記録樹立に一役買っていた。 53年は本当に惜しかった。
どうにかならなかったのか! >>407
1986、2001年同様に中日の中日による中日の為の「巨人に絶対優勝させない会」が発動されたからねw
後年、広岡がラジオ解説で静岡〜神宮の中日4タテを振り返り、
「巨人が首位を追い掛けてる時の中日って首位を勝たせてくれるんですよ。
私もヤクルト監督時代には中日に随分といい思いをさせてもらいました。」と語っていた。
1986年対広島 終盤9試合を8敗1分
2001年対ヤクルト 最終4連戦を4連戦。
いずれも僅差で巨人優勝できず。
86年は中日のほか阪神も終盤はの広島に勝たせていたのがありありとわかった。 >>395>>398
情報ありがとうございます
調べたら完全試合も達成してたとは
斉藤雅樹や槙原が晩年に中継ぎをやるような感じですかね >斉藤雅樹や槙原
高橋良昌はそこまでの投手じゃないでそw ロックフェラー帝国の陰謀 工作員 エージェント 謀略
で検索。 MLB】ヤンキース・黒田は7回を投げ4安打4四球8奪三振で無失点、今季4勝目 イチローは5打数3安打1盗塁 HOU 4-7 NYY[5/1]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1367375954/ 当時の明星か平凡・・だっけ。
佐々木信也が取材で伊東キャンプレポートって企画があって、
グローブ片手にグラウンドに潜入して、どの選手も笑顔で
和気あいあいに応対してくれた。
とても地獄みたいな練習やってた雰囲気には見えなかったな。 「大座談会」
28勝34敗8分、80年の長島巨人は7月になっても調子が上がらないまま前半戦の70試合を5位で終えた。1点差試合も8勝19敗と
接戦にも弱かった名門に、OB達が業を煮やしたのは球宴期間中の事だった。球宴出場組が2戦を終えて休養日となった7月21日、稲城市の
「東京よみうりカントリークラブ」では正力亨オーナーら球団関係者と川上哲治らOBによるゴルフコンペが開かれていた。そしてゴルフの後に
四谷の料理店で行われた「巨人軍OB大座談会・わが巨人軍再建計画」は23日と翌週30日発売の週刊文春によって2週に渡って掲載され、
後に物議を醸す事となった。
川上のほかに青田昇、牧野茂、藤田元司、国松彰、瀧安治が参加したこの座談会、内容は野球用具の扱いにファンへの姿勢や練習態度など
予想ほど辛口の内容ではなかったが。問題となったのは、やはり監督についての話題だった。司会進行の瀧からの「監督をトレードするのが
一番早いという声があるようですが」との誘いに対して川上が「「長島に監督の素質があるかどうかは答えられん」と言った事も対象だが、
長島の後任問題についての「俺は広岡とは親しいけど彼は巨人の監督になる意思は無いと思う。無いから解説であれだけの巨人軍批判が
できる。次は藤田監督というのは有り得る、牧野監督も有り得る」との発言はアルコールが入っていたとはいえ、後々藤田が監督、牧野が
ヘッドコーチに就いたために、長島の辞任について“陰謀”だとの説が多く飛び交った。陰謀であったかは未だに判らないままだが、この当時は
本社と球団の間でちょうど長島解任の検討段階に入っていた時期ではあった。
巨人内部で囁かれていた夏の“長島問題”だが、外部でも“予感”がしていた人物はいた。8月に西武監督の根本陸夫は藤田に自身の後任
監督の話も含めての投手コーチ就任を要請していたが、藤田は「ありがたい話だが、ちょっと・・・」と固辞。この反応に根本は確信とまでは
いかずとも巨人の激動が今後遠からず来るであろうとこの時に察した。 (了)
>>388 >>390
この年の大洋の投手コーチが、巨人を出された藤田元司。 「冷戦」
あの大座談会以降、巨人フロントと長島茂雄監督との間には目には見えない緊張感が漂っていた。藤田元司が西武投手コーチの要請を固辞
した8月、巨人でもやはり藤田をヘッド格の投手コーチとして送り込む案を長島に打診していた。7月を終わった時点で借金7の5位、低迷の
原因を長島の継投などの投手起用にあるとみたフロントとしては、現投手コーチの杉下茂よりも球団OBとしてチームに精通している藤田に、
遠慮なく長島采配を正す役割を期待していた。実際に7月終了時の個人成績を見ても左腕エース新浦壽丈、ベテラン堀内恒夫、期待の若手
だった定岡正二が揃って2勝止まりと期待を裏切っていた。江川卓と西本聖がチームトップの7勝を挙げていたものの江川が7敗、西本が
8敗と白星先行が出来ないでいた。若手の底上げと投手陣全体の整備をしようというフロントの81年人事案だったが、長島の同意を得る事は
なかった。長島はそれが良案であるかという以前に、座談会メンバーの1人であり「川上派」とされていた藤田が絡んでいた事によるフロント
およびOBグループに対する警戒心と反発心を募らせていたのだ。
その反発がグラウンドで出たのか、8月は7連勝するなど12勝7敗と勝ち越し3位に浮上した。ここでオーナーの正力亨は長島に監督留任の
条件として「勝率5割とAクラス入り」を命じ、マスコミにも明言した。クリアすれば留任、出来なければ退任。これでどちらにしろ長島との冷戦も
決着に向かうと正力が悩んだ末に考えた条件だった。
一方で現場は長島の意気込みとは裏腹に、9月は月末の5連敗など苦しみ9勝14敗再びBクラス転落。9月中頃には、長島がフロントに
提出した「2年続けての伊東秋季キャンプ」「宮崎春季キャンプでの室内練習場設置」といった案が次々に却下された。おそらく正力以下球団
フロントはこの時点で既に「5割・Aクラス」の条件に関係なく、3年連続V逸監督である長島の“解任”を決めていたのだろう。いずれにしても
一連の騒動のキーマンの1人だった川上哲治に事の真相を永久に聞く事が出来ないのが残念でならない。 (了) 今年の日シリを見て、1976年の阪急戦を思い出したよ
いいところまで行ったけど残念!みたいな >>420
投手構成が76年の阪急=楽天で76年の巨人=13年巨人似てるなと思う。
阪急は山田・足立・山口くらいしか使えないけど絶対的エース山田あり
足立のほうが巨人には強いが・・
巨人は絶対的エースはいないが小林・新浦・加藤・堀内・ライトが
それなりにいた。 Mrは1001以上の暴力男
だったんだろ?この頃。 暴力って西本と角の不甲斐なさにビンタしたり、サインを無視した張本を監督室で正座させて説教した程度でしょ? >>423
札幌のホテルで風呂上がりでバスタオル一丁のチョーさん。
角と西本を土下座させ、往復ビンタの嵐。
怒りで興奮状態のチョーさん、バスタオルがとれてフ●チン状態
になってるのも気付かなかった。
これ、角自身が語ってたその時の様子。
正座してる目の前で、ブラブラしてた。 >>420
やっと日本シリーズの話が出た。
張本、加藤初の獲得
新浦、小林繁の台頭
王の復活で76年77年連続リーグ優勝
でも全盛期の阪急には敗れた
76年こそ未だ巨人コンプレックスが残っていった
阪急が3連勝した後意識し過ぎたせいか第七戦まで
もつれたが、翌年は1勝4敗と叩き潰された
その阪急が翌年広岡森ヤクルトに負けるとは
戦前予想しなかった シーズン中に復刻ユニフォームを時々やってくれるんだけど、
この時代のユニフォームは自分が知る限りでは1度も着用がないんだよな。
やはり暗黒期として認識されているんだろうか? >>425
77年は4戦目で9回に逆転されたのが痛手だった
それも2死無走者からだからな >>427
その年暮に発売された週刊ベースボールマガジン社「写真で見る日本プロ野球史」の
昭和52年の項、日本シリーズに「流れを変えた第4戦」と書かれていた。 確かにこの第4戦、長年の巨人中心の図式が崩れる分水嶺になったよな。
特に第3戦はホーム後楽園に戻って延長サヨナラ勝ちだったし。
前年散々悩まされた山口から非力な河埜がホームランを奪った。
その勢いを押しとどめた蓑田の走塁、投手山田によるダメ押し打。
終わってみれば阪急の圧勝。
翌年巨人は江川問題で黒い組織になり下がり、盟主の座は西武が奪う。
巨人が絶対の存在でなくなる第一歩の日だったのかもしれん。 あと第5戦の先発がルーキーの佐藤って・・。
山田、足立の温存。で第6戦以降対策か?って思ったら
4回で佐藤降板させ、白石を挟んで逆転したら山田の投入だった。
余裕あるチームだ。って思ったのを覚えがある。 79年と80年の巨人って左投手恐怖症になってたな。
梶間、神部、山本和
とやられてた。
左打者に比べて右打者が軒並み不調だったのもある。
同じ時期にどうようだった南海も同じだった。けど巨人が最下位にならなかった
のは投手陣が南海より断然よかったのと、パの方が主力左投手が多かった。
ってのもあったかな。 78〜79年は新浦が前半戦絶好調で20勝できるか?という勢いだったのに必ず夏バテを起こして失速してしまった。
糖尿病患っていたことも影響していたのか。
それにしても78年は惜しかった。優勝できなかったかな... >>462
あんな使い方されてて夏バテとか糖尿病の前に酷使し過ぎ。
78年〜79年はセーブ王のタイトルに最多勝まで取りそうな勢い。
というか先発に救援に大車輪の起用。解説者も「新浦はいつ壊れてもおかしくない」
と言われる程の酷使。
それでやれ、夏バテだとか糖尿病が影響とか、あまりにも当時を知らな過ぎだよ。 >>431右の代打陣は実質平田と中井しかいなかったからな。
庄司や二宮は守備要員しか使われなかったし。 というか右の代打が3人も4人もいるチームなんて今まで存在しない。
それと長嶋第1期巨人の売りの一つが
左打者打、淡口、山本功、原田の3人衆。
当時江本曰く、「下位打線でホッとしてる
代打で左打者が3人出てくるんだからたまったもんじゃない」と言ってた。 中井って何気に初打席ホームラン放っているんだよな。
あと>>425-429であった1977年の日本シリーズ第4戦、
二死二塁でバックホームしたのは守備固めの二宮だった
(その前の8回裏に勝ち越しHR打ったのは直前までレフトの守備だった張本)
当時二宮のバックホームを高田がカットしなかったらアウトだったんじゃないかと盛んに言われていたな。 三田学園から淡口、山本功、羽田とプロのレギュラー選手が
三人も一時期に集中して出たのは凄い。 >>437
当時の週刊ベースボールによると
「高田は根っからの内野手じゃなかったから失敗した。カットするときは普通は半身で構えるものだが、
高田は二宮の返球を正対して捕球し振り向いてバックホームしたから蓑田の生還を許した」とあった。
確かにそのコンマ数秒が命取りにも見える、まさにギリギリのホームインだった。
前年からずっと賞賛されていた長嶋の外野→内野コンバートが、初めて凶と世間に認識された重要なプレーだった。 でも、長嶋はそれがわかってたから、翌年から中畑清を育成しだしたんだと思う
あるいは高田繁が衰えだしたとか
77年
1柴田2高田3張本4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
78年
1中畑2篠塚3シピン4王5張本6柴田7河埜8山倉 78年の中畑は5試合で3打席しかないのに?
同じく篠塚も3試合で7打席。 79年と勘違いしたんだろ
中畑も篠塚も79年は出番が大幅に増えた >>440
そのスタメンはまるっと76年だな。
77年はすでにジョンソンはいないよ。そこには土井が入る。
もしくはダメ外人リンド。
あと末次は眼を負傷していたから5番は柳田。
ところどころに差異はあるけど懐かしいね。 この6年間のイメージ
75年 ぶっちぎりの最下位なのになぜか大人気
76年 ペナントレース・日シリともジェットコースターのような面白さ
77年 独走でリーグ連覇したけど日シリではあっけなく敗退
78年 リーグ3連覇OKと思ってたら終盤息切れしてヤクルトに競り負け
79年 上々のスタートだったのに終わってみたらまさかのBクラス
80年 とにかくもどかしい、歯がゆい1年 柳田を史上最強の五番打者と持ち上げていたのに
見限るのが早かった。 世代交代としたら、長嶋はよくやった方だとは思うが
76
1柴田2高田3張本4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
80
1中畑2篠塚3ホワイト4王5淡口6柴田7河埜8山倉
実際81年は、高田と王と原が入れ替わっただけでも独走だった訳だし 俺は長島といえば世代的に第2次長島巨人時代しか知らないが、とにかくマスコミが長島をヨイショして(特に日テレ)
長島を叩くのはタブーという暗黙の了解があった9年間だった
第1次政権時代はマスコミの長島叩きはあった?
テレビ・新聞・週刊紙など、媒体は何でもいいから御存知の方がいれば教えて頂きたい 広岡森のヤクルトに終盤逆転優勝許した78年くらいから
カンピューター野球とか普通に批判はあったよ 「巨人が優勝を逃したのは長嶋の采配ミスにある。長嶋は、野球を知らないのではないか」(BY水原茂) >>417にもあるけど、週刊文春OB座談会が有名だな あの時(80年)は柴田、高田、王、シピンが衰えからの不調。張本を前年放出。
若手切り替えで松本、篠塚が出始めた時だったからな。
ドラフトで原を抽選であててなかったら本当に翌年もぞっとした。
正に典型的な投高打低のチームになって外人頼りだもんな。
数年後の山本浩二、衣笠が引退後の広島みたいになってたかも。 超大物外人デーブ・ジョンソン
メジャー100勝投手クライド・ライト
そのあとがリンドとかクルーがーとか
急に外国人が小粒になった。 「累卵の危機」
球宴前で既に優勝が厳しいものとなっていた巨人にとって、もはや9月以降の焦点は正力亨オーナーが公に厳命した「勝率5割・Aクラス」の
条件をクリアして、長島監督が留任するか否かに絞られていた。8月からは阪神、大洋と3位争いをしていた巨人、7連勝などで一時は3位に
浮上し2ヶ月ぶりの5割にも復帰したが、9月にまたも負けが込み月末の5連敗で借金7となり、順位でも大洋に抜かれて4位に後退し後ろにも
0.5差で阪神が付く展開。3チームとも残りは10試合余りでAクラスの可能性はまだあるものの、5割以上を目指すには厳しい状況となった。
その上、残り12試合のうち6試合は独走で首位を走る広島との対戦とあって、長島留任は累卵の危機だった。
10月1日、ヤクルト戦の試合前の後楽園球場貴賓室で長島は代表の長谷川実雄と会談。そこで長谷川に“辞任”するように持ち掛けられ、
長島も納得せざるを得ないという旨の返事をしていた。それでも長島は完全降伏をしたというわけではなかった。それもこれも、たとえ望み薄で
あってもオーナーの提示条件をクリアさえすれば81年もきっと指揮を執れると信じていたからだった。
その日の試合では序盤から打線が繋がって快勝。中7日で先発した古賀正明が鹿取義隆らの救援を仰ぎながらも6勝目を挙げた。翌日も
江川卓が8安打を浴びながら、若松勉のソロ本塁打1失点のみに抑えて完投。ゲーム差では10以上離れている2位・ヤクルトに連勝した。
ラスト10試合に望みをつなぎ、意気軒昂で次に2連戦を戦う広島に着いた長島ら巨人ナイン。だが4日に遠征先で長島を待っていたのは、
またも3日前に話し合ったばかりの長谷川との試合前会談だった。 (了) 今の長嶋もこの時代を語りたがらない印象があるけどやはり黒歴史なのだろうか。解任の真相を語ってくれないよね。 >>447
第一次時期は小3〜中2だったけど、もうめちゃくちゃ叩かれてたよww
特に投手起用のメチャクチャさ、一点差負けが多いことについて
かなり批判されていた(ちなみにうちで購読してたのは日刊スポーツ)。
もっとも長嶋さんだけが非難にさらされていただけでなく、阪神も
相当やられてたんだけどねw 吉田義男もブレイザーも安藤も
めちゃくちゃ叩かれてた。掛布も田淵もかわいそうなくらいイジメられてた。
今の野球関連のマスコミはむしろ、かなり優しくなったと実感するよ。 宮田って引退後から1975年に投手コーチになる前は何してたの? 翌年の藤田監督から野球を見始めた世代だったけど日テレで天覧試合と引退試合を繰り返し放送していた記憶有。81年〜83年は優勝や日本一は伊東メンバーだったし全て長島の功績の雰囲気だった感じが。一次政権を知らない世代だったので、何故解任されたの?と思っていました。 >>457
ラジオ関東(今のRFラジオ日本)の解説者。 第一次長嶋巨人1年目に生まれたものですが
S52の日本シリーズの話が聞けるのは嬉しいです
S51、54の日本シリーズは注目されますが、
翌52、55年はほとんど取り上げられる事はないですからね >>458
>全て長島の功績の雰囲気だった感じが
それは解任後の新宮正春、柏英樹などの長嶋宣伝屋ライターの貢献が大きい。
実際は広岡、野村など球界関係者の間では、長嶋の采配では優勝は無理だというのが一致した見方だった。 でも伊東組は藤田や王が来たらだらけだしてきたんだよな
特に王の時は長嶋派が公然と王批判しまくり雰囲気がもう暗黒球団の分解状態、解説もそうだった
藤田派の原や斎藤が使い方が悪いと批判して王を助けなかったのも悪いけど 第1次長嶋巨人は2年目(76年)と3年目(77年)にリーグ優勝するも
日本シリーズで上田阪急に敗れた。しかも2年続けて地元後楽園で
上田の胴上げを見せ付けられた。ファンはきっと
「いつかは上田の目の前で巨人の胴上げを見せ付けてやるっ!!」と
思っていたに違いない。が、上田は78年ヤクルトに日シリで敗れると
あっさり監督を辞任。巨人ファンは目標を失ったかも知れない。
それから2年後の80年、第1次長嶋巨人は無念の終焉。それと入れ替えに
上田が阪急の監督にあっさり復帰。江川事件や青田コーチの舌禍事件、
そして長嶋監督の辞任にも負けず巨人を応援して来た人には
「この野郎・・・・・・」と思ったに違いない。俺は72年生まれなので
第1次長嶋巨人の事はリアルでは知らない。この頃大人だったら上田に
激しく憎悪を抱いていただろうな。それ以上に腹が立つのは阪急ブレーブスと
言うチームが殆ど跡方も無い状態になった事だろうな。何でも阪急本社の
小林公平と言うバカ親父が宝塚歌劇を選んでブレーブスを切ったらしい・・・。
第1次長嶋巨人の一員だった張本勲氏は77年の日シリで打撃賞を貰ったそうだが
チームが惨敗したので「こんなの貰っても意味が無い!」と打撃賞のトロフィーを
宿舎の床に叩きつけて壊したそうだ・・・・・・。日ハムの監督時代家庭の事情とかで
監督業をシーズン終盤ですっぽかした上田とブレーブスを切った後バブルに踊らされて
阪急本社を滅茶苦茶にした小林公平。このバカ2人は今でも好きに成れない!!
長文スマヌ。 >>337
原もそうなんだよな
最初は藤田型の底上げ野球やるのが近年は金満路線しか取らない
>>463
同じ意味でバファローズを捨ててライナーズを選んだ田代和も叩いてくれ
オリックスバファローズはこんな歴史で成り立ってる 「隠密」
巨人フロントとしては長島を交代させるために、しかも解任ではなく辞任で終わらせるためにもその確証が欲しかった。10月1日の会談で既に
長島から辞意の意味を含んだ返事を得ていた長谷川代表ではあったが、それを確実にしたい思いがあったのか4日またも、チームが2連戦を
行う広島に出向いた。この会談で長谷川は辞任願の提出を長島に求めた。これが長島に動揺を与えたのかは定かではないが、試合は序盤
から劣勢。4回でKOの先発・西本聖ら3投手が合わせて8失点と広島に大敗。借金は6、4位大洋とのゲーム差も無くなった。残り試合も9と
なって長島の留任への目標「5割確保」に向けて、あと1敗しか出来なくなった。この頃オーナーの正力亨は渋谷区の自宅には戻らず、東京の
ホテルニューオータニに籠って長島の後任について思案していた。
フロントの動きも辞任に大きく傾き、チームの成績も振るわない。それでも「5割イコール留任」に執念を燃やす長島の気持ちが翌日から選手に
乗り移った。5日も広島戦、先発・定岡正二が6回まで山本浩二の39号による1点で辛抱していると、7回に淡口賢治の14号2ランで逆転勝ち。
3日空いて9日の阪神戦では、江川卓が3安打完封で15勝目。江川は小林繁との2度目の因縁対決に再び勝利した。10日の中日戦では、
またも定岡が好投。中盤6得点の大量援護にも守られ完投で8勝目、2敗以上出来ないチーム状況は最後まで変わらないが、長島にとって
希望の湧くような3連勝となった。
さあ翌日からは地元後楽園にて5日間で4試合を戦うぞ・・・。燃える長島をよそにその頃東京では読売グループの役員会が開かれ、次期監督
に藤田元司を据える事が決定した。さらには長島に「企画管理部長」のポストを用意、即ちフロント入りを勧める事があわせて決まっていた。
事態はフロントが半ば強引に、そして隠密に進めていったが、長島に対しては実にはっきりしないまま時は過ぎていった。(了) リアルタイムで知らないので面白い 88年の王政権末期は記憶有 >>465
これどこかからの引用?
もっと読みたいな。 訂正
×東京のホテルニューオータニ→○千代田区のホテルニューオータニ
渋谷の自宅って書いといて、東京のホテルではおかしいですよね。
×淡口賢治→○淡口憲治
お詫びして訂正します。 王政権のマスコミからの叩かれ方は鮮明に記憶有。
親父に聞くと80年の長島叩きも半端なかったと聞いた。
ただ、王政権では選手からも総スカン状態でしたが
伊東メンバー、当時は若手でしたが選手からは
スカン状態だったのでしょうか? 5割をなんとかクリアしようとしてたペナント終盤
負け投手になってしまった江川が選手の前で土下座して謝った
とか何かで見た気がする
間違ってるかもしれないんで話半分でお願いします >>460
S52年
阪急2勝1敗で第4戦九回表二死走者無し、2-1で巨人リード
そこから四球でランナー出てレギュラー成る寸前の蓑田が代走
二盗成功後代打高井が左前タイムリーで同点
その後山田久志が逆転タイムリーで阪急の勝ち
翌日第5戦山田が救援で胴上げ投手 >>460
S51は3連敗で完全に追い込まれた後3連勝。特に第6戦は0-7から劇的に逆転してあわやという展開だったけど、
S52は普通の展開で負けたからあまり印象に残らないかもね。実際は第3戦の河埜のサヨナラ3ランとか第4戦>>471の蓑田の好走塁など見どころも多かったけど。
あとS55も前年の江夏の21球が非常に歴史的出来事だったから、ごく普通に第7戦までもつれこんで終わったように見えてしまう。 '78-'80年途中のシピン在籍時って
土井('78年にDG賞獲得も同年限りで引退)や篠塚と
どういう風に併用してたの?
>>459
解説者以外には
開局まもない地元の独立局・群馬テレビで
ワイドショーの司会もしてたらしい。 >>473
'78は土井がスタメンの場合、シピンがライトを守り、そうじゃない場合はセカンド
篠塚はほとんど二軍で、松本がセカンドの控えだった
'79はシピンがメイン
'80はシピンが不調で篠塚がメインになった 「オーナー要求」
フロント、即ち読売グループでは既に「長島フロント入り」と「81年度藤田監督」が決まっている。それを知らないまま長島たち現場は10月の
残り試合を戦っていた。中でも長島は正力命令の「5割・Aクラス」に全力を注いでいた。地元の阪神戦を挟んで広島、名古屋と続いた遠征を
3勝1敗で切り抜けた巨人。条件は依然として厳しく、残り6試合で4勝1敗1分け以上でなければ5割に届かず、順位も3位ながら4位大洋と
1ゲーム差、残り試合数でも大洋が巨人より2試合多く残していた。
地元後楽園での4連戦が11日から始まった。最初は阪神戦、巨人2点リードの6回に相手先発・山本和行の2号ソロで1点差とされると、
今度は7回に西本聖の1号などで突き放す両軍先発投手の本塁打合戦。結果は西本の13勝目となる3安打完投、野手では五番・岡田彰布
以外全員無安打に封じた。翌12日は19年連続となる30号の40歳・王貞治と23歳の成長株・篠塚利夫による2本の2ランでヤクルトに快勝。
借金は残り1つとなり問題は5割よりも、大洋と1差で変わらぬ順位状況の方では、といった部分もあった。実際に翌13日には大洋が、優勝
目前でマジックを4としていた広島相手に3点差を逆転する勝利。試合の無かった巨人との差は0.5に縮まった。
大変なのは“3位戦線”だけでなく、安全圏かといわれた“5割の攻防”も同じだった。残りを3勝1敗か2勝1敗1分けなら5割確定だが、その4戦
全てが広島戦。広島は大洋に連敗したばかりで計3連敗中ではあるものの消化試合にはまだ入っておらず、巨人には嫌な相手といってもいい
首位チームだった。
勝っても勝っても光明が見えてこない長島巨人、14日の対広島戦を前に長島が出向いたのは、自身を呼び出した正力のいるホテルニュー
オータニだった。以前に長谷川球団代表より辞任願の提出を求められた経緯を考えたのか、会談の中で「ここにきて若手が育ちつつある」と
“先手”を打った長島に対し、正力はフロント入りの件を切り出し“辞任要求”をしたのだ。長島はそこで遂に辞表を提出する旨の返事をして、
戦地後楽園に向かった。 (了) >>476控え選手の中で右で打てる打者いないからな。あと中井以外は
期待薄。 >>477
上田とか鎚田とか矢沢とか山本和生とかだっけ 79年と80年の巨人は左投手が先発の時はほとんど勝ったイメージが無い。
80年の南海も同様。
順位の差は巨人と南海の投手力の差だった。
巨人の投手力が南海並みだったら3位もヤバかったかも。 長嶋は昭和55年、辞任(ホントは解任)した夜に
大学の先輩だった堀本律雄氏に電話して
「俺もう、人を信じられなくなったよぅ!」と嘆いたという。
ずっと陽の当たる人生だったから、生まれて初めて
人に裏切られたんだろうな。 スポニチが長嶋家に電話したら当然話し中だったが、なんと薄っすらと長嶋が「本当にダメなのか?」と会話している
のが聞こえて翌日「長嶋解任」の一面大見出しに。
今の携帯時代でも起きるかな? 52年のGWの巨人−大洋戦で柴田が通算何百(忘れた)盗塁を成功させた。
兄と見に行ったけど、柴田が塁に出るともう投手が投げる前から
柴田がそわそわしている様子がわかったので”走るな”って思ったら
あっさりと成功してた。
素人目に見てもわかる柴田の行動なのに、バッテリーは何も対策せず
決められるって・・。その試合は小林の好投、打線爆発で巨人の圧勝だった。 長嶋はもっと新浦を大事に使うべきだった(全盛期は4年間だけ)
75〜79はまともな左腕は新浦しか居なかった
新浦を要求した阪神を小林犠牲にして残した
唯一の左腕だろう
新浦程凄みのと素質があるのに
年間20勝以上
最多勝
沢村賞
が一度も無いし
70年代で最高15勝は
長嶋の起用方法が悪い
先発中3〜5日で年間40数試合で15勝〜20前後いくはずだ
リリーフなんか金で外人か他球団から強奪しろよ
大車輪起用で80年に壊したのは長嶋がA級戦犯
79開幕投手エースを、江川の勝ち星プレゼントするために救援
長嶋堀内小俣が安心仕切って談笑する表情見て最高にムカついた ×阪神を
○阪神の要求に対し、小林をトレードに出した >>484
いかにも当時を知らず、後の文献で知った現代厨の書き込みだな
小林は契約更改で投手の年俸の低さと年功序列の査定(どんなに勝っても堀内が上)で揉めていたのと、阪神キラーだったから阪神側の要求に一致した
リリーフを外人か他球団から強奪しろなんて言ってるが、当時リリーフ専門投手は少ないし、リリーフ専門が投手部門の最高年俸になったのは江夏がハムに移籍してからやっとだからな 小林は丁度離婚で揉めてて、慰謝料の資金が欲しかった。 杉下さんは最下位の投手陣を立て直したのと、藤田政権で花開いた若手投手陣の育成で十分だよ。
この人が引き受けてくれなければ巨人80年の後半40年弱の歴史は無かったかもね。 「散々な1敗」
15勝の勝ち頭・江川卓を立てた10月14日、ロイ・ホワイトの27号2ランと篠塚利夫の二塁打で3点を奪って広島・北別府学を二回でKO。
そこからまさかの展開だった。江川が四、六回にそれぞれ1点ずつを失い1点差。打線が三回以降は六回まで北別府を継いだ高橋里志ら
3投手に1安打に抑えられると、今度は江川が七回に三村敏之に同点弾、八回には山本浩二に力負けの一発を浴びて沈んだ。3発被弾の
江川はこれで阪神・山本和行を抜き被本塁打33のリーグワースト2位。チームもシーズン33度目の1点差負けで、1点差試合は16勝33敗。
接戦での継投や代打策など采配面は長島監督進退騒動の一因となっていただけに、長島にとってこの1敗は5割へ向けて1敗も許されない
崖っぷちの状況になっただけでなく、「工夫なき采配」のイメージがまた強くなったという意味で痛手となった。「33」が絡んだこの日は江川と
いい巨人といいまさしく“散々な1敗”であった。
2位・ヤクルトが残り13試合を全勝しても、自軍が残り7試合で4勝すれば優勝という絶対有利の状況下にあった広島・古葉竹識監督は長島の
1学年下ながら同じ歳の盟友で親交もあった。だが勝負の厳しさを知る古葉にとっては、序盤3点のビハインドにも到底諦めるわけにはいか
なかった。
一方、試合前に正力オーナーから辞表を出すように言われていた長島、その際に内諾もしてしまってはいたが条件をクリアさえすれば
フロントはきっと留任へ傾くと信じていたのだ。長島が「奇跡」を信じ続けたのが良かったのか、辞任へ腹を決めて吹っ切れたのが良かったのか
定かではないが、翌15日は前日と同じ二回までの3得点を、10日前にも広島相手に好投していた定岡正二がプロ初完封で守り切った。
残りは広島に移動して行われる19日からの2連戦。次の試合まで3日の空きがあったが、ここで巨人ナインに2つの点で追い風が吹いた。
一つは大洋が15日からの対ヤクルト2連戦に連敗して、Aクラスが色濃くなった事。もう一つは17日に広島がリーグ連覇を果たし、巨人が
戦う19・20日の広島戦が事実上の消化試合となった事だった。だが17日は広島の優勝騒ぎで、動きやすい日でもあった。大手町にある
巨人の球団本部では、人事についての最終確認が役員会にて行われていた。そしてNHK放送センターでもまた、動いていた。 (了) 77年の日本シリーズは巨人的にはしらけたな。
90年と似ているか? まあ、去年の阪神と一緒で歯が立たない感じだったな。西宮で山田足立に連敗、後楽園に戻って3戦は9回に島谷
の同点アーチで延長になり、やっと河埜のサヨナラ3ランで勝利。4戦は8回に張本の勝ち越しソロが出るも、9回2
死から「鉄仮面」藤井を歩かせ代走簑田二盗の後、代打男高井のレフト前タイムリーで簑田がヘッドスライディン
グで巧くベースタッチして同点、更に1人歩かせて投手の山田勝負に行ったらセンターオーバーで勝ち越しの2点
献上!
簑田のスライディングは上田監督によればスタートが悪いとされ、レフト強肩二宮からのバックホームを中継した
三塁高田の体勢を責められて、野球の差を見せ付けられた。
簑田は後に巨人に移籍して、12年後0−3の4戦目に1番スタメン。先制の犠牲フライで生還した時またもヘッド
スライディングで巧さを見せた。
伊原コーチの入団や鈴木尚広の出現まで、巨人の走塁技術はずっと他球団に見劣りしてたけどね。 75
1高田2土井3柴田4王5柳田6ジョンソン7河埜8吉田
76
1柴田2高田3張本4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
77
1柴田2高田3張本4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
78
1柴田2土井3張本4王5シピン6高田7河埜8山倉
79
1柴田2高田3シピン4王5張本6高田7河埜8山倉
80
1中畑2篠塚3ホワイト4王5淡口6山倉7河埜8松本 惜しい!77年1月ジョンソンは契約交渉決裂で退団してフィリーズ移籍。 長嶋って、とことんセカンドを変えようとしていたな
ジョンソン→リンド(笑→シピン→篠塚
そんなに土井を干したかったのか? 土井をショートに持って行ったこともあるから、干したいとは違うでしょ >>498
リンド以外のメンバーを見ればわかるだろ 河埜は川上最終年にレギュラーで11年間ショートに定着したから、次はセカンドの若返りを図ったんだろう。
今週号の週刊ベースボールの記録の手帳で、今年34歳の鳥谷の守備機会の激減が指摘されているが、
二遊間はこのあたりの年齢で手を打たなきゃならないと現場では見ているのか。 巨人の遊撃は固定できないよな。
河埜も長嶋巨人の時、ちょっと打てないと代打送られたな。
藤田監督の時はほとんどフル出場してたけど
王監督になった84年(西本和 等)から併用されるようになった。 河埜は長嶋巨人時代は75年の90試合を除くと120試合以上出場しているけどな
藤田監督の初年度に最初で最後の130試合フル出場 長嶋時代の河埜は2打席凡退すると代打を出されてたのが定番だったな。
吉田も同じ扱い。
小学3,4年だった俺ははチャンスで7,8番に回ると淡口、山本功の代打攻勢って
だって思ってた。 萩原、原田、淡口、柳田、後に山本功
左の外野手ばっかりw 萩原は76年に広島へ移籍して大活躍。6月市民球場G戦で高校からの同級生原田の打球をダイビングキャッチ
して鎖骨を骨折。それでも復帰してからも打ちまくり、10月16日古巣の優勝目前9回2死で小林から意地のヒット
は見事だった。その後翌年日本ハムから移籍の内田と左代打の2枚看板で活躍した。
萩原と入れ替わりで山本功児が入団、首位攻防戦の甲子園で5、7月と二度もそれも安仁屋から決勝打を打ってた。 右の代打は層が薄いというかほとんど人材がいなかったな。
槌田とか上田とか山本和生とか、
打ったのを見たことがなかった。 その3人にプラス庄司、二宮は守備固め要因って思ってた。
俺は。
それほど打撃に期待してなかった。 右と言えば中井もいたね
去年だったかな?若くして亡くなった 平田も中井も79年からだからね。
中井は79年2カード目の甲子園で山本和行から初打席初アーチだったが、生涯ホームラン3本は全て山本和行
からだったと思う。この試合では平田らも打って序盤のビハインドを中盤に打ちまくって逆転して勝った。 中井すごいなそれw ここに書かずに珍しい記録スレに書けばいいのに。
あそこはともすると名前ネタとか人事ネタに脱線してどうも面白くねえんだわ…
まあ中井のこれは用兵がもたらした側面が強いだろうから、「珍しい」の本来孕む偶然性はいささか薄いけど。 >>509
庄司は二軍で三冠王じゃなかったかな?
ロッテに行って正解だったな ファームの三冠王って、微妙だよな。
本当に実力あればシーズン途中に上に引き上げられるはずだから。 二軍の帝王のカラクリを元木の分かりやすい解説で教わる事になるとは夢にも思わなんだ >>516
庄司は一軍で使ってもらえなかっただけだろ
その証拠に、移籍した先ではすぐに不動の一番打者に 75年
1高田2土井3張本4王5末次6ジョンソン7河埜8吉田
↓
80年
1中畑2篠塚3ホワイト4王5淡口6河埜7山倉8松本 庄司、二宮、懐かしい!
昔、唯一回行ったファン感謝デーで、紅白戦が行われたんだが、どちらだったか、ホームラン打ったなぁ。 >>522
75年、張本は日拓
8 柴田
4 土井
7 高田
3 王
9 末次
5 富田
2 吉田
1 堀内、高橋(一)、倉田、関本、新浦、小林、横山、玉井、小川、高橋(良)
PH 萩原、原田、淡口、柳田、槌田、矢沢、上田 偽物山本浩二は王の控えだったな
こいつの顔が嫌いだった
ロッテにいってレギュラー→監督だった
山本小俣はロッテにいって花開いたな >>526
後の話しになるけど、巨人に山本幸二っ捕手もいたな その時の内野がハムに入って今は審判やってる中村稔。審判部統合前は「パの4村」と呼ばれて悪評だったが(笑)
名電からは78年鈴木伸良が投手で入るも長打力を見込まれて野手転向したが目が出ず山本雅夫とトレードで南海
へ。そこで捕手転向までして最後は阪神に。 「恩返し」
>>490
政界において水面下で一番動きやすいのは、総理大臣や渦中の人物が記者会見を開いたりするなど大きな出来事のある日だという。球界
でも人事や大型補強の話を進めるには表で大きな事が行われている時が良いとされる。80年10月17日は巨人フロントにとって、まさに
そんな日だった。チームは2試合を残し、前日から4日間試合が無く一時休戦。しかし17日のセ・リーグは、M2としていた広島が阪神と
デーゲームを戦い、ナイターで対象チームのヤクルトが中日戦。一日中に近い状態で世間の目が王手広島に向くのを狙ったのか、球団本部
では「長島解任」への最終確認が役員会で行われた。
水面下で動いたのは次期監督の藤田元司も同じだった。NHK放送センター内にあるスポーツ部のソファに座っていると、同じNHK解説者の
上田利治が現れた。「藤田さん色々お世話になりましたが、来年またユニフォームを着る事になりました。これからもよろしくお願い致します」
阪急の監督として再登板するため、退職の挨拶に来ていた上田の軽い気持ちの言葉だった。しかし、藤田は少し困った表情で「いやウエさん、
実は私にもちょっとありましてね・・・。まあウエさんも元気でやって下さい」と、どこか歯切れの悪い返答。この態度を不審に思い上田は、NHK
同様専属評論家を務めていたスポーツニッポンのデスクに、別れの恩返しとばかりに電話を入れたのだった。スポニチの野球担当記者は、
“藤田には何かがある”と色めき立ち、さらに“という事は巨人にも何かが・・・”と思い付くのにも時間はかからなかった。思えばこの恩返しは、
スポニチが4日後に報じた「長島解任」の見出しが躍るスクープ記事の始まりだった。 (了) さらに、一茂本人の口からは思わぬかたちで“長嶋家の実像”をさらけ出すような発言も飛び
出した。「新潮」は記事のなかで三奈との関係を「兄妹の絶縁状態は今も続いている」
と書いているのだが、これに関して一茂は冒頭のようにこう証言したのだった。
「(絶縁とは)何を持ってなのかな、と。話せば長くなりますけど、もともと長嶋家はバラバラで、
母の生前も6人そろって旅行に行ったことも、食事だってそろってしたことは一度もないです」
「僕は中学から家を出ましたし、弟(次男・正興)もアメリカに行った。去年手紙はやりとりしま
したけど、一度も会っていない。だいたい弟の所在を知る人間もいません。妹(長女のこと、
法廷では実名)にしても、会っても年に1回です。このように、基本的にバラバラなので、
もともとが家族断絶といってもよいと思います」
なんと、ミスターの現役時代からも含め、いわゆる“普通の家族像”などはまったくなく、
きょうだい間の交流も事実上の断絶状態であったことを明かしたのだ。
弁護士からは、「家族関係がドライということですか?」と補足質問があったのだが、
一茂は「ドライというか、これが普通だと思っていました」と受け流した 解任されてから解説になったけど長嶋は藤田王に当たりが厳しいこと言わず優しげな解説だった 巨人主催ウグイス嬢務台鶴さんは76年まで
78年か79年に山中さんが1軍アナウンスデビューした。
山中さん場内アナウンス歴1軍2軍含めて38年、通算3000試合以上は凄い 長島が憎んでたのは野沢のオッサン(川上)だから
藤田や王は一緒に戦った戦友感覚でしょう 務台鶴さんは通算何年やってたの?
画像とかないの
>>536
> 巨人主催ウグイス嬢務台鶴さんは76年まで 長島1年目
1高田2土井3柴田4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
長島最終年
1中畑2篠塚3ホワイト4王5淡口6高田7河埜8山倉
かなり世代交代してる 左の代打原田はチャンスに強く、起用されるたんびに打ってる印象だった。
右の代打山本和は全く打てなかった。 76年日シリ最終打席がこの人だったが
ピッチャーの堀内を代打に送ったほうが、よっぽどマシだったろう >>542
山本和が最後に三振したシーンは今でも覚えてるなあ
あーやっぱりね って子供心に思ったもんだ。 山本和生は、本来は守備固めで出てくる人なんだけど
左の代打陣は、萩原、原田、淡口、柳田、山本功児など豊富に育ったが、右の代打陣は人材不足だったな
槌田、阿野、上田、矢沢、大北、大竹、庄司、平田、二宮・・・、期待出来たのは平田くらいか 山本和を代打に出すときに長嶋がバントのポーズをしたんだよなw 山本和はサードフライを危なげに捕球してリーグ優勝したのが印象的 >>545
おぉ、中井雅之を忘れていた。
合掌。
あと、中司とかもいたな。 V1の前に高田が「V9時代はレフトだったから胴上げに間に合わなかったが、
サードなら参加できる!」と喜んでた。
なのに守備固めに回されたw 第1次長嶋巨人の1年目の1975年は球団史上初の最下位だったのは
皆さん御存じの通りだがアニメ「新巨人の星」の最初の方は
巨人が最下位になった1975年が舞台になっている。このアニメを
見て「俺この頃いい大人じゃ無くて良かった・・・・・・」
と思った(1972年生まれ)。ちなみにこの頃出たグレープってな
さだまさしが組んでいたデュオが出した「朝刊」ってな歌でも
さりげなく巨人をバカにした様な歌詞がある。
「♪「あら又巨人が〜負けたの〜かしら〜」なんて〜♪」って。 所で今年V9時代左のエースとして活躍して第1次長嶋巨人にも
最初の1年だけ在籍した高橋一三氏が亡くなったんだが
月刊ジャイアンツの追悼記事に載っていた一三氏のカラー写真が
第1次長嶋巨人の1年目の物だった・・・・・・。この人
巨人で最後に投げた試合が広島にリーグ初優勝を決められた
1975年10月15日の後楽園の試合だったらしい。しかもこの試合では
ホプキンスに痛恨の駄目押し3ランを打たれた・・・・・・。 1976年日本シリーズ第六戦、於:後楽園
深沢:バッター淡口、ピッチャーは先発山口
深沢:速い球打ったー!ライトバック、ずーっとバック!
土橋:あ゛〜!入った!
深沢:淡口のスリーランホームラン!7対5、7対5、その差わずか2点です >>558
LFのホームランジングルが脳内再生された
昔携帯の着信にしてたよ >>558
深沢:入った、入った、入った、ホームラン、ホームラン、同点、同点、同点、同点、ライトスタンド、同点、同点、7対7、同点ホームラン、柴田が一塁で跳び上がりました ttps://www.youtube.com/watch?v=NFjLMmmyUoU#t=1m10 第1次長嶋巨人1年目の1975年。余りにもの巨人の弱さに
湯原昌幸氏の歌う「がんばれ長嶋ジャイアンツ」ってな
歌が出たそうな。来年由伸巨人が悲惨な状況になっても
こんな歌出ないだろうな。ヤクヲタのさだまさしに
「♪あら又巨人が〜負けたの〜かしらなんて〜♪」って
馬鹿にされるか?あの禿! 来年の巨人はへたをすると75年の巨人に似ているな。
そう思ってたら、週刊ポストでも同じような事書かれている。 マイナンバー(奴隷番号)通知カードの受け取りを拒否しよう
マイナンバーをブログで公開した さゆふらっとまうんどhttps://www.youtube.com/watch?v=xSt6jiOKh_I ミスターの第二次政権の失敗は小粒な選手を揃えたほうが
自分にスポットライトが当たるという原則を忘れてしまったことだ >>537
藤田は完全に川上派だからそれはありえない。 >>564
主力の高齢化
参謀不在
主砲のケガ
正捕手の不在
外人失敗と載ってたな記事は読んでないが 昭和50年
1高田2土井3柴田4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
昭和51年
1柴田2高田3張本4王5末次6ジョンソン7吉田8河埜
昭和52年
1柴田2高田3張本4王5末次6リンド7吉田8河埜
昭和53年
1柴田2土井3張本4王5シピン6高田7河埜8山倉
昭和54年
1中畑2篠塚3シピン4王5張本6柴田7河埜8山倉
昭和55年
1松本2篠塚3中畑4王5ホワイト6淡口7河埜8山倉 >>570 昭和52年の5番は柳田。
末次がオープン戦の試合前の打撃練習中外野で柳田の打球を眼に
当たってしまい、ほとんど1年棒に振り引退した。 守備練習中じゃなくて、ランニング中だよ
おかげで、史上最高の五番打者が誕生したんだけどね >>568
藤田は川上派だけど、長嶋とは六大学つながりでそんなに険悪な関係ではなかったよ。
原が長嶋の後釜の監督になったのも、藤田が長嶋に頼んだのではと言われてるし。 >原が長嶋の後釜の監督になったのも、藤田が長嶋に頼んだのではと言われてるし。
ソースプリーズ
イカリやオタフクじゃないやつね >>575
実際に頼んだかどうかはわからんが、この本には、藤田が川上派の中核と言われながら、実は長嶋と良好な関係にあった
ことが、長嶋と原の関係を深めたと書いてあるな。
https://books.google.co.jp/books?id=lzbMCgAAQBAJ&pg=PA72&lpg=PA72&dq=%E5%8E%9F+%E9%95%B7%E5%B6%8B+%E8%97%A4%E7%94%B0&source=
bl&ots=dqAsgXYgYg&sig=kbzWSmP2em_BR2gjf3CRyD9X5No&hl=ja&sa=X&ved=0CEwQ6AEwCTgKahUKEwjQ4KKwtIrJAhVoJaYKHVk2D-E#v=onepage&q=%E
5%8E%9F%20%E9%95%B7%E5%B6%8B%20%E8%97%A4%E7%94%B0&f=false 最終年のコーチ陣は
青田、杉下、与那嶺と監督経験者が3人
青田はすぐ辞めたけど >>578
巨人が強くなり過ぎるのを危惧した青田の能力を良く知り恐怖を感じた他球団が、青田を辞めさせたんだよな 青田さんは、放言の多い豪快磊落な横顔と
参謀としての優れた知的な面が
分裂しているように感じて
掴みにくい人だった。 青田ヘッドは見て見たかったなあ
法螺話はエンターティナーとしての仮の顔で
実際は現実の野球を物凄く理解してる人だったと思う >>577
それ、ONマンセーの江尻の電波本じゃんwww
ちょっと読んだだけでありえないデタラメが書いてあるしw
原がコーチになって長嶋に心酔したとかwwwwwwwwwwwwwwwwww
原は現役末期長嶋の屈辱的な冷遇に耐えてたんだが。
原の代打に一茂出されれたときはベンチが凍り付いたんだぞ?
そんな本がソースなるかよ阿呆 >>581
お前も相当の電波だな。
青田は大洋の監督になったとき日本シリーズに出たら特別ボーナスを出させる
具体的な金額設定で契約したハッタリ野郎。
決壊は最下位w >>583
>具体的な金額設定で契約したハッタリ野郎。
ハッタリ野郎?
どういう意味?? >>585
日本語わかりますか?
日本人ですかあ?
俺に監督させたら優勝する、とハッタリ言って契約したってこと。 >>586
>>583
>日本シリーズに出たら特別ボーナスを出させる
↑
この文脈からなんでこうなるんだよ?
↓
> 俺に監督させたら優勝する、とハッタリ言って契約したってこと。
頭イカレているの? 頭いかれてるのはお前だろ
優勝なんか到底無理な最下位チームを優勝させるとパッタリかましたんだから >>583訂正
最下位じゃなくて5位だった。
あと「巨人のV9は必ず阻止する」というハッタリも言ってるなw
所詮口先だけのハッタリ野郎 >>588
このバカ!
そのシーズンの大洋の戦歴を知りもしないクセに、デタラメぬかすな!
ついでにセ・リーグ各チームの順位の遍歴も調べてから出直して来い! 青田昇って、ズームイン朝の入れ込み情報で毒を吐きまくるおじさんって印象しかない >>590
馬鹿はお前だw
さんざんでかいことぬかして5位で一年限りでクビ これが事実だボケッ 青田さんが喋っちゃったおかげで、野球賭博とかハンデ師とかどんな物か教えて貰った。
97年11月4日、不動産業の10億単位の借金の保証で巨人入りを薦める親父にガンとして従わなかった高橋由伸を
ヤクルトから巨人に翻意させる「ミラクル」を演じて世を去った。 80年の時、加藤初が干されてた感じだったな。
翌年藤田監督になった時に復活してた。
3本柱しか先発いなかったからもう1枚欲しいって思ってた時に
加藤初が活躍したのも大きい。83年も同じだ。
(血行障害で途中離脱したけど) 「決戦前ミーティング」
59勝60敗9分け、長島は僅かな奇跡を信じながら10月19日からの広島2連戦に臨んでいた。場所は広島、15日前に東京から出向いた長谷川
代表に辞任願の提出を求められた地で、長島にとっては運命の2日間の幕開けだ。眼下の敵・大洋は、この時57勝61敗9分けで残り3試合。
巨人が5割とAクラスを確保して長島自身の逆転続投の可能性を勝ち得るためにも、2連勝は必須条件だった。
この時の長島には、まだ運が残っていた。広島は2日前に優勝を決めていた事もあって先発メンバーに山本浩二、高橋慶彦、水谷実雄の名前が
無かったのだ。80年は先発の柱として成長しながら対広島戦2勝5敗と苦手にしていた西本聖だったが、盗塁王と大砲2枚がいない消化試合と
なれば話は別。最終回に打たれた衣笠祥雄の適時打のみに抑える完投勝利、遂に38日ぶりの5割にチームを導いた。
そして10月20日、勝つか引き分ければ5割以上とAクラスが自力で確定する一戦を前にした長島の顔は紅潮していた。9時から広島市中区の宿舎
「世羅別館」の広間で開いたミーティングで長島は「今日は何が何でも勝ちに行くぞ、3位になれば来年の開幕権も取れるんだ。有終の美を飾って、
81年はまた後楽園で会おう」とナインに闘志むき出しの“続投意欲”を見せた。この発言からも長島が“約束”を忘れておらず、希望を持っていたのが
わかる。ただオーナーや球団代表が一言“条件を達成しようがしまいが・・・”と言えば、こうした長い期間での行き違いは起こらずに済んだ。実際に
後の長島が「人事だからどう転ぶか分からない、逆転はあると思っていた」と言ったのだから、球団側の不手際も否めない。
奇跡を信じ続けていた長島だったが、朝のミーティング後にコーチであり仲間である土井正三を監督室に呼び「もしかすると、俺辞める事になるかも
しれない」と打ち明けたのを考えると、長島もやはり純然たるプラス思考の持ち主というわけではなかったのがよく分かる。 (了) 土井って長嶋と王両方で仲間で
人付き合いは上手いんだな 何で、王は1980年限りで引退しちゃったんだろ?
1980年の打率,236という不調はただの偶然だし、普通にあと4年で1000本塁打は楽々行った。
張本の通算安打数を抜きたくなかったのか?
それに、王が現役でさえいれば1982・84年は優勝できたし1983年の日本シリーズも勝ってた。 いや、土井は6年後に王巨人に復帰したが「土井は俺じゃなくてミスターの人脈だろ」と露骨に嫌がられた。まあ立教の後輩だし。
王解任の少し前、ラジオ解説で小林繁が「土井さんは優秀な方だと思うけど、チーム内での発言権があまり無くて生かせていない気が
する」とまで言ってた。 そうだったんだ
てっきり王のお蔭でカメラのドイのCMに出たと思ったから >>598
あと132本だよ、1000号まで。
もうあの時点の王は打率はボロボロ、ホームランも30は苦しい状態。
しかも年々衰えていく。とてもじゃないが4年で1000号は無理。
あと2年現役で900号は行けたかもだが、その場合かなり無様な
最期になるだろう。 >>598
最終年もチームで唯一30本塁打だったしなあ。
確かにそんな気もする。 >>601
1980年の王の不調はただの偶然だし、それまでの王の力量からすれば
132本塁打を4年で打つ事ぐらいいとも簡単だと思わないか?
41歳で30本塁打を記録した門田や山崎武司の例があるのに。 王が現役なら
原は獲得してないかも
原と王が並ぶってやっぱり不思議に感じる
81
1河埜2淡口3中畑4王5ホワイト6トマソン7原8山倉
82
1松本2河埜3篠塚4王5原6ホワイト7淡口8山倉
83
1松本2河埜3篠塚4原5スミス6王7駒田8山倉
中畑に出番なし >>604
中畑引っ込めるくらいなら、どう考えたって河埜引っ込めてショートに篠塚を入れるだろw
で、サード中畑セカンド原だろうが 2年続けて打率もホームランも落ちているのだがそれを単なる偶然と本人は受け止められなかったのではないだろうか。 長嶋退任直前に、南海の新監督の決まっていたブレーザーが門田と新浦のトレードを打診していた。長嶋政権続行なら、王引退の有無は別として、原のドラフト指名有り、松原とトマソンの獲得は無し。 39→33→30
300→285→236
この3年間、ホームランも打率も右肩下がりなのにそれを偶然とする
のは無理があるよ。
もし56年も現役続行してたら、トマソンと同程度の数字だったと思う。 大洋の本拠地が狭い川崎球場から広い横浜スタジアムに代わったのは
やっぱりデカイでしょう? 79年も33本だったんだから、81年以降の4年で1000号はやっぱり無理があったと思うよ 共にクリーンナップを組んだ、同じ在日で同年齢の張本と、『史上最強の五番打者』と謳われた柳田のトレードも、王の成績が下降した原因の一つとしてあるのかも知れないな V2時代から比べたら、80年のクリーンアップなんてしょぼいからなあ
79年以降だと王自体も代打が多くなった
でも長嶋茂雄は、王がスタメンだとクリーンアップから落とすことは一切しなかった
だからホームランだけは極端な落ち方は無かったのだろう 張本がロッテに去り、代わってスイッチヒッターのロイ・ホワイトがヤンキースから入団。80年は王が30本でホワイトが29本。
開幕の横浜で2発、6月の広島戦で3発で江夏からサヨナラアーチ、翌年藤田体制の日本シリーズで公式戦無敗の間柴に土を付けた
ライトへの流し打ち逆転2ラン!MLBを渡り歩いて来たとは到底思えないジェントルマンだった。 >>596
コピペするなら引用元出せよ。
最低限のマナーだぞ。 >>596
7行目
×勝つか引き分ければ5割以上とAクラス・・・ → ○勝つか引き分ければ大洋の結果を待たずして5割以上とAクラス・・・
お詫びして訂正します。 74年にV10を達成していたらこの年の監督は川上だったんでしょうか?
その場合長島の去就はどうなったのでしょうか? V9達成時に川上は勇退&長嶋監督就任を申し出ていた(と記憶している)からどの道長嶋監督になっていたでしょう。 >>610
最晩年なのにすげえ記録だな
王引退の翌シーズン 大学でたてのピチピチした原が22本塁打だからな。。 >>619
そうだったんですか
教えていただきありがとうございます
もしV9で川上監督が勇退していたら長島の為に投げる番場伴が見られたのか 杉下氏は、所属していた東京中日スポーツを「出禁」になりながらも巨人入り。でも師匠の中日日本一監督の天知俊一氏は
「行ってやれ」と背中を押した。76年の開幕を待たずに天知氏は逝去。
長嶋の苦境に、一見無縁と思われる他球団の人でも協力を惜しまなかった。これはなかなか無い事だと思う。
どうしても75年生まれの高橋由伸と長嶋1年目がシンクロしてたまらないが、当時と違って戦力はダブ付くくらい揃った。でも
全部ダメだったらとか、ってネガってしまう。
そう言えば、巨人で今の時期に入団が決まってた新外国人って、80年のホワイトが最初だった。MLBの開幕ロースター漏れ
を当てにしてたから。 80年はもうチーム内で酷い内紛が起きてたから王さんも俺と長島さんが
やめればこのチームも少しは良くなるんじゃないかと思ったのかも
でなければ我利我利亡者の王さんが簡単にやめる分けが無い 元々長距離打者だから。打率低くてもホームラン多ければいいわけだし。
金本や掛布でさえ、引退前はホームラン1ケタ。
それ考えたらすごいとは思う。王貞治は。 毎年のようにコーチが解任されていた
一年目は福田と須藤 >>627
台湾は親日
韓国は反日教育
とても大きな違いだろ >>623
50 ジョンソン
51 ライト
52 リンド
53 シピン
54 バーフィールド、クルーガー
そう言われてみればこの時期に入団が決まった外人ってホワイトが初めて
なんだね。新鮮な発見。 >>629
台湾が親日ってのもあんまり当てにならんし、一番大事な
のは日本人選手。 80年代から見た者から言わせてもらうとこの時代の試合を見ても全くつまらないです。 >>623
>長嶋の苦境に、一見無縁と思われる他球団の人でも協力を惜しまなかった。これはなかなか無い事だと思う。
とっくに川上が牧野とか荒川とか起用しただろ リアルタイムでは知らんけど。76年や77年って
今と違う熱気や活気が、昔の画面みたら伝わって来るんだよな
だからつまんない野球じゃなかった気はするが >>635
そらそうさ。
新監督となった長島が率いる巨人が球団史上初の最下位のとなり、それまでの国民的ヒーローから、無能監督と罵声を浴びせられた屈辱の昭和50年。
その翌年から連続優勝を飾るのだから、盛り上がらない訳がない。
しかもその間に王のホームラン記録も、700号フィーバー、ベーブルースを抜く715号、さらにハンクアーロンの記録を破る世界新記録の更新。
盛り上がらない訳がない! 80年代の巨人軍って、なんかアイドルみたかった
でもこの頃って、男臭い野武士の空気があって
それはそれで熱いなあとは感じる
今の時代
柴田や王貞治は確実に出てこないだろうな
高田がギリギリで坂本か
長野久義は末次?
小林は、何とか吉田クラスまでは行けたら >>632
見てないお前がなぜ「つまらない」と思えるのかw
>>635
75〜78は波瀾万丈の戦国時代で面白かった。
79,80は広島の天下だからつまらなかった。 >>635
そらそうさ。
パでは太平洋があんな恥ずかしいユニフォーム着て
ハルピコも規定打数いかなかったが3割打って
吉岡が309という低打率で首位打者になるのだから盛り上がらない訳がない! 阪急の黄金期だったし。76、78は前後期制覇で、77年はプレーオフでロッテが王手を掛けたが4、5戦連勝。 スカパーで昔の試合放送してるの知らないお爺ちゃんがいるなw
野球は80年代が人気のピークだね。70年代は暗い感じがするw 70年代の試合は鳴り物が無いから地味に見えるだけだよ。
試合内容自体はずっと面白いし、個性的な選手も多い。
試合時間も短い。レベルが高いかどうかはわからんけど。 鳴り物なくても熱さや熱気は伝わってくる
この頃って打撃力主体の球団が多いから
本当に試合が面白い 80年代はミーハー的な野球バブル人気だね。
原とか定岡とかCM出まくりだったし。
秋山がホームラン打ってからのバック宙とか、
メジャーでやったら殺されてもおかしくない。 最終年の開幕戦江川が大洋の
福嶋にサヨナラヒットを打たれる せっかく9回表に来日初戦のロイ・ホワイト2発目で3−2と勝ち越したのに、その裏初球をこちらも新外国人ジェームスに
センター右へ同点ソロ!次が河埜のエラーで代走屋鋪が二盗&山倉悪送球、無死3塁から福嶋に王のミットをかすめる
サヨナラ右前打!
ノムさんがうるさく言う、外国人への初球の入り方が悪くてよく叩かれてた。 >>627
妙にこの時代の巨人は旧外地の在日が多かったような 中畑がさっきテレビで監督よりコーチの方が辛いとの事
理由は自分の色が出せないから
コーチ時代の監督は長嶋 >>644
バク宙ホームイン。あれ子供心に相手に失礼だなあと思ってたよ
加藤発言なんかよりよほど挑発的にみえたね >>649
西武球場ならまだしも敵地でやったからね。
5年、10年前ならファン乱入暴行に発展すると思う。 76年までは、川上監督続投で長嶋は助監督兼代打の切り札がベストじゃなかった?
それなら75年はあんな事にはならず、
長嶋も生涯打率ギリギリ3割と2500安打と450本塁打を充たせた。 >>653
本名は長島。
本人曰く『私はヤマドリ(嶋)が好きです、ハイ。』 80年は柴田、高田、シピンが絶不調で干されて、
篠塚、淡口がスタメン多くなったな。
柴田は2000本安打打って、翌日からまたベンチだったって
前TVで言ってた。 >>655
でも開幕戦はその面々がスタメンだった
よく前年の秋の伊東キャンプで若手が鍛えられたとか言うけど
開幕戦では相変わらずベテランが並んで開幕スタート失敗 杉下コーチは駄目だった。
早めに交代させるべきだった。 もう前半戦で広島が独走、巨人に優勝の目は無かったから伊東組の若手に切り替えたかった。
柴田も花を持たせてもらって松本にセンターのレギュラーを譲ったが、最終戦の広島で9回表にダメ押しソロを放った。
これが長嶋1次政権の最終戦となり、旧知の藤田体制になってコーチ兼任での残留を要請され、1年現役が伸びた。
81年のシリーズではトマソン不振、松本故障で最終戦はスタメンだった。 http://www.my-favorite-giants.net/giants_data/result_year/1980.htm
この星取表によると、巨人は1980年9月終了時の成績が51勝59敗の4位だったのがその後猛烈な追い上げで貯金1での3位終了となったのがわかる
(優勝が決まった後の広島からは2連勝)
他球団は消化試合とか言いつつ、実際は巨人に勝たせていたんじゃないのかと勘ぐってしまう
当時の巨人の「勝ち越し&Aクラスなら長島続投」の情報が他球団に入っていたかどうかは不明だが、もし入っていたのならありえなくもない
今後も長島が監督なら巨人が勝手に自滅して戦いやすいと考えるだろうから 1980年9月終了時点の巨人の戦績を間違えたorz
(訂正前)51勝59敗
(訂正後)51勝58敗
当時の野球ファンの間では巨人の3年連続V逸は話題になっただろうな 80年は一度も優勝争いに絡めなかった
79年は5位に終わったが序盤は良かったそうだからこの80年よりはまだマシだったのかな? 江川−西本−定岡のローテ、打線も松本・篠塚・中畑・山倉らが成長していて長嶋監督も81年に向けてかなり
手応えを感じていたはず。それだけにこのタイミングでの解任は無念の一言だっただろう。翌年その通りの答え
が出たんだし。 長島氏は13日、宮崎キャンプを視察。
かつての教え子だった清原和博容疑者(48)が覚醒剤取締法違反(所持)容疑で逮捕された件について、
報道陣の問いかけにも「うーん…」と沈黙 >>657
誰が投手コーチが良かったの❔ 杉下コーチはマウンドに駆け寄る姿がバッタみたいでかわいい。 NPO誇大広告ハローワーク指導員バイトレベル
NOPハローワーク指導員(40代千本ノック)
NOPハローワーク指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題) >>658 あの後思ったけど、広島としては翌年の開幕戦を
巨人としたくなかったのかも?って感じだった。
日本シリーズへの主力の調整もあったけど。 >>109
対外的には肋膜炎と発表してたけど実は肺門のリンパ腫だったんだってね >>563
さだまさしは熱狂的な長嶋ファンだったけど解任事件で巨人ファン辞めたんじゃなかったっけ? 中畑がDeNA監督だった13年オフヘッドコーチの候補として名前
挙がってけど就任しなかったな体調の問題あったのだろう
DeNAの臨時コーチはやったことあったけど NPO誇大広告ハローワーク指導員バイトレベル
NOPハローワーク爆買い指導員(40代千本ノック)
NOPハローワーク爆買い指導員(冷暖房完備低所得者レビューアマゾンカスタマーさんコメント問題)
警察無視騒音問題 アリと猪木の「世紀の茶番劇」は76年6月26日土曜日の昼間。あれ日大講堂(現両国国技館)だったか蔵前国技館
だったか。
その晩後楽園のナイターで巨人が快勝して40勝一番乗り。翌日は9回裏3点ビハインドを当時の速球王鈴木孝政から
末次ジョンソンの2発で追い付きドロー。
リングサイド1万円(もちろん当時としては破格)より後楽園の方がはるかに面白い、って記事まであった。 79、80年の左代打陣は
起用されても相手が左投手(特に江夏)に代えると
右の平田や中井に代えられたイメージが大きい。
80年の4月の時、
シピンに代えて篠塚をセカンドで交代させていた。
後に代打淡口→広島江夏に交代→代打の代打で平田を
起用して最終回篠塚の所で代打中井を起用してた。
もし同点になって延長になったらベンチにだれがいたっけ?
って思ったけど、鈴木康がいたかな? 「目標達成」
>>596
朝から降っていた雨の影響から、開催が心配された10月20日は巨人にとってシーズン最終戦のデーゲーム。その雨も正午には上がり、予定通り
始まった。一番・柴田勲、二番・高田繁のコンビを57試合ぶりに組んだが、ここに“シーズン最終戦くらいは”という長島のV9仲間への情が透けて
見えた。一方、前日は25日に控えた日本シリーズへ向け山本浩二、水谷実雄、高橋慶彦の主力を温存した広島、この日は山本と水谷が戻り、
先発投手にも中3日で単独最多勝のかかった福士敬章を立てた。
独走で優勝した黄金期の広島とは力の差があったが、片やシリーズに向けての調整を含んだ消化試合、もう一方は何が何でも勝たねばならない
大試合とあれば前日同様巨人にも分があった。
福士同様15勝の巨人先発・江川卓が、初回にジム・ライトルの適時打で先制を許したが、3回にロイ・ホワイトの29号2ランで逆転、中盤にも柴田の
本塁打とジョン・シピンの犠飛で加点して主導権を握った。江川は目一杯だったのか6回になると山本浩の一発、7回にはマイク・デュプリーに適時打
を浴びて一時は1点差に詰め寄られたが、8回に角三男へ継ぐ長島自慢の新必勝リレーで広島の反撃を断った。9回に柴田の適時打でダメを押した
巨人は遂に勝利、61勝60敗としてかねてから言われていた単独3位と勝率5割以上を確定させた。長島は試合後、群がる記者団に対し「来年の事に
関しては、まず帰京してオーナー報告してからにしてください」と言ったが、逆転人事の手ごたえも掴んではいた。
ほぼフルメンバーで戦った広島だったが、監督の古葉竹識が試合前に長島のもとを訪れて「チョーさん、遠慮しないで今日は勝ってください」と、
同じ歳の友人として声を掛けていた。古葉にとっては、3日前に胴上げされた気持ちの余裕もあってのリップサービスのつもりだったのかも知れな
かったが、マスコミはそうは思えなかった。長島と古葉はの監督6年間は正に采配能力差が如実に出た期間、現役生活とは逆の結果が出ていた。
まさか組し易い長島の続投を願ってのエールでは無いだろうが、翌81年以降は退任まで優勝は84年の1度だけ、長島の後任として率いた藤田元司
の巨人に対しては3年間で一度も順位で上回る事はなかった。 (了) そういえば角って藤田時代にストッパーのイメージが大きいけど、
長嶋監督の最後の年からストッパーだったんだな。
当時の左のサイドって他に西武の永射ぐらいしかいなかったもんな。 >>679
当初は、ワンポイントの角→抑えの鹿取だったのが、途中から鹿取→角の順に変わっていったね
やはり、ボールの威力の差だったのだろうか >>678
この月曜の消化試合のデーゲームを最後に長嶋、杉下、与那嶺、土井の首脳陣が去り、王、高田、シピンが引退してチームを
去った。柴田も引退するはずだったが、藤田政権でコーチ兼任となり1年後日本一の試合にスタメンで引退を飾った。 今年クライマックスのファイナル第5戦は10月16日か。日曜だからデーゲームにして欲しいなあ。ちょうど40年目の記念日だし、広島に行く事になるのかなあ。 「激震」
98年球宴明け、メイクミラクルの声も届かぬまま首位横浜に13.5ゲームの大差をつけられていた頃、第二期政権の6年目に入っていた長島監督
に辞任問題が持ち上がった。93年の復帰以来二度のリーグ優勝に一度の日本一はあったものの、97年から2年続けてV争いにも絡めないような
V逸が濃厚な情勢。後任候補の具体名まで出るほど周囲は慌しかったが、9月中旬に球団が続投を発表して収束した。その1週間後からチームは
7連勝するなど最後の10試合を8勝2敗、翌年への興味を繋いだ。
長島の進退問題が出た事、シーズン終盤にチームが勝ちだした事でいえば80年も同じだった。10月を10勝2敗として最大借金8を貯金に変えて
留任条件といわれたAクラスと5割以上をクリアしたが、98年との違いは長島が留任とならなかった事だった。
勝利した最終戦の翌日だった。10月21日、午前から激震が走ったのは二つのスポーツ紙がニュアンスは違えど長島の退団を報じたからだった。
オーナーに呼ばれて球団本部に出向く長島の胸中は、確かに10月初めに辞任要求は呑んでいたものの、条件クリアと観客動員280万人からでも
分かる自身の落ちない人気もあってか半信半疑だった。正力亨オーナーらとの会談はわずか10分間、そこで辞めるよう言い渡された。上旬に
長谷川実雄球団代表が預かっていた辞任願が、ここに生かされた瞬間だった。
形はよく見られる“引責辞任会見”だったが、鵜呑みにする者は少なかった。気丈に語った長島は会見の中で、フロント入りを断った件と江川卓、
中畑清ら伊東で鍛えた7人の若手を挙げ「来年はきっと強くなる」といった件を話したのはせめてもの意地だったか。
長島は81年への意欲も虚しく、23年間慣れ親しんだ巨人のユニフォームを脱いだ。現役時代は好機に強く逆転打も数多く打ってきたが、監督生活の
80年秋では起死回生の一本はとうとう出なかった。 (了) 76年広島での最終戦優勝の祝勝会、長嶋監督以下全員が肩を組み「同期の桜」を合唱、帰京の機中では機長の
許可を貰って王が「僕らは今日優勝を決めました。とっても嬉しいです。少々の御無礼はお許し下さい。」とアナウンス
してからかなり騒いでたらしい。 「人気という名の権力」
思えば7月のOBによる大座談会を引き金とした長島解任劇は、読売グループおよび川上らと長島の約3ヶ月による闘争を経て幕を閉じた。
野球ファンやマスコミは、人気者を切るためにフロントと一部OBが共謀したのではと色めき立ったが、就任当初から囁かれていた長島の指揮にも
問題が無いわけではなかった。采配や個人記録忘却の失態など試合中での問題もさることながら、グラウンド外での統率にも支持を失った原因は
あった。
初優勝した76年のベロビーチ派遣選手の件では、腰痛のベテラン倉田誠と基礎体力が備わっていない一軍未経験の20歳・定岡正二を指名し、
成長著しい新浦寿夫と横山忠夫の若手二人を送り出さない人選ミス。77年は日本シリーズ前に柴田勲の日本ハムへのトレード話が浮上してしまう。
柴田に問われた長島は「俺は知らん、上が勝手にやっていると」言ってしまい柴田は唖然、おかげでトレードを推進するフロントと、仲間を出せないと
いう長島の微妙な関係性まで明るみに出てしまった。
ベンチ横にオーナー室が設けられたのもこの年。それまでも長島の采配に電話で物申してきた正力亨オーナーだったが、ベンチ横に陣取って公の
場で戦術について意見したのでは長島もたまらない。こうして長島の監督としての体は徐々に成されなくなり、選手の求心力も低下していった。
川上体制が終わってからというもの、契約更改の査定、一・二軍の連携不足、コーチ陣に「いい便をするための食事会」と揶揄されたホテルでの
コーチ会議などあらゆる面で現場主導からフロント主導へと変わってしまっていた。それでも解任された80年も、280万人の観客動員でダントツの
人気を誇っていたからか球団側は非難されたが、大型トレードを実行したのも純血主義を捨てたのも長島体制になってからであるのだから、
フロントも協力を惜しんでいなかったのは事実だろう。長島本人が意識しているか否かは別として、「人気」という名の権力の大きさを親会社と球団が
思い知った一連の騒動だった。 (了) >>29
先発完投勝利出来るのは殆んど新浦
締めくくりも新浦でセーブ
あの4年間でぶっ壊れたな
子供心にその内突然壊れるよ…長嶋さん壊れちゃうよ酷使だよと思ったら、80年度壊れたな
後楽園球場の20:54〜のリレーナイターの主役はピッチャー新浦だった
一番目立つよな >>685
お前の長文、誰もレスしてないだろ?
掲示板の書き込みとしておかしいんだよ。
スポーツライター気取りで片腹痛いわw
自己満足は自分のブログでやれ。
ここはお前の研究発表の場じゃないんだよ。 >>688
じゃあなんでレスがつかなくてスルーされてんの?
自演はやめようね>>688-689 面白い=興味深い って意味合いだぞ?
興味があったら書き込みに対して反応があるだろ。 須藤「昔は張本や落合でも大きいの1人補強だった。最近は見境が無さ過ぎる」
(ソース 週刊大衆) だらだら書かずに「〜〜こんなことがあったんだって」
みたいに3行ぐらいにまとめろよ・・ 76
76年10月16日の勝利投手は加藤、6回からリリーフしてセーブ小林。2人とも亡くなった、
ベンチにいた土井、山本功児、槌田が故人に。 塩月、中山、藤城投手、代打原田の成績は?
>>387
> >>386
> チラ裏もいい加減にしろ!
>
> 玉井9勝5敗
> 関本12勝12敗
> 倉田5勝4敗8S 張本は金田監督のロッテが獲得を狙っていたがハムが同一リーグへの放出を渋り、最初は阪神そして巨人が割り込んで来た。
するとロッテは怒って、同時進行していた三井と高橋一三のトレードを破談に。で、巨人はこれ幸いとばかり高橋に富田を付けて
ハムとのトレード成立。更に翌日、関本・玉井と加藤初・伊原のトレードを成立させた。
関本はこの年未勝利だったが、既に肩を痛めていて太平洋でも1勝のみ、翌年は山下律夫らとのトレードで大洋に。
玉井は最下位の年に夏に一軍に上がって3勝してライオンズでも期待されたがあまり勝てなかった。引退後は常勝西武のスコア
ラーを長く務めていた。
伊原はイースタンでは打ってたらしいが、一軍ではノーヒット。多分サードコンバートしたばかりの高田とショートでまだまだ未熟
な河埜の控えを期待しての獲得だったと思うが、2人が予想外に良かったので彼の出番は少なかった。77年限りで任意引退にな
ったが選手層の薄い古巣のクラウンが熱望して自由契約になり復帰、一年で所沢へ移転となったがそこから大サクセスストーリ
ーが始まった。
加藤は移籍初年15勝したが、オフの健康診断で肋膜炎が発覚して長期入院し7月にやっと一軍復帰。優勝の立役者を欠く事と
なった巨人は、ヤクルトの巨人キラーで近年不振だった浅野を獲得し、77年序盤の快進撃の立役者となった。 >>703
言いたいことだけ簡潔に書けよ。改行も変。
40年ぐらい前の話なのに「近年」という表現も変。 何か国語の教師みたいにいちゃもん付ける奴だな。国語の教師って性格曲がっててよく犯罪やらかす奴多いから
気を付けろよ! セラクリが4期目に突入するらしいがなんか第二期長島巨人並みの待遇と被る…
実写で1部しかやらなくてプリキュアを絶許した奴が多かったからか!?
もし80年に2chとかあったら藤田絶許する奴でスレが荒れてただろうな… 阪神が張本獲得したら
1二 中村
2遊 藤田
3左 張本
4捕 田淵
5一 ブリーデン
6右 ラインバック
7中 池辺
8三 掛布
200発超えそう 代打原田をお忘れ無く
>>505-506
> 長嶋時代の河埜は2打席凡退すると代打を出されてたのが定番だったな。
> 吉田も同じ扱い。
> 小学3,4年だった俺ははチャンスで7,8番に回ると淡口、山本功の代打攻勢って
> だって思ってた。 淡口、柳田、山本功、原田の左代打4枚は凄かったな。
原田は76年6月16日、9回表2死満塁完投目前の外木場から走者一掃の逆転3点二塁打が最高のシーン。 >>711
上田武司か山本和生くらいしか思い出せない。 萩原は75年後楽園での広島優勝にも76年広島での巨人優勝にも相手の9回裏の攻撃に登場する。
76年は9回2死で代打に出たが、小林からヒットで意地を見せた。 今夜の中止分は9/22の予備日に収まったが、マツダでもう1つ流れるとおそらく最終戦になる。
76年の最終戦優勝も、80年の長嶋最終戦も広島市民球場だった。 張本がロッテにトレードすることが決まった後、納会の時に王が張本の目の前で正力オーナーにトレードを止めるように迫ったらしい。
オーナーとの人間関係が悪くなるから止めるように張本が王に言って止めたらしい。 78年は吉田が病気で新人山倉が開幕からスタメンだったと思う 角が山倉のことをからかってナマクラさんと言ってしまい、山倉に頭を殴られたらしい >>711
79〜80頃は篠塚が少しやってたような気がする 1980年のTBS解説者には水原、牧野、森がいたな。
この3人が解説した試合で巨人が勝った記憶がないどころか、
解説する都度、激励も含め辛辣なコメントをしていた。 一番最初のトランペット応援は牧歌的でホノボノとしてる
大声援ではなく、一部だけが闘魂こめて〜○○うつぞ〜がなかなか牧歌的 >>727
上田和明ならそうだな
上田武司(名前あってるかな)のことかも 1976年、1977年と2年連続で第1次長嶋巨人に煮え湯を飲ませた
当時の阪急の監督の上田利治氏が亡くなったな・・・・・・。って
>>725の人が書いていたな。この上田氏が率いていた阪急ブレーブスは
小林公平と言う屑野郎のせいで跡形も無くなってしまった・・・・・・。 六番ライト淡口(もしくは山本功)に回ると 左投手にチェンジ(特に江夏)
すると代打平田。
その後の守備で二塁に平田が入って、シピンがライトに回ったシーンを
良く覚えている(そうじゃない場合もあるけど)記憶が多い(79年) >>730
この頃は阪急は円熟期、巨人はV9戦士が衰え若手の河埜は痛いエラー、淡口もとどめを刺せる満塁チャンスで足立の
シンカーに引っ掛かって投ゴロ併殺。自分的には勉強させて貰ったよ。勝つ事は難しいって。
こないだTVタックルに久々に河埜さん出てた。現役時代もそうだったがやたら色黒だった。 右の代打が平田と中井以外あてにできなかった長嶋監督1期時代
の印象あるな。
山本和、上田武、二宮、庄司・・・。
完全な守備要員の気分だった。それぐらい期待できなかった。
左代打陣に比べて。 >>733
しかし庄司はロッテに移籍し、山内一弘指導のもと一番打者としてロッテの優勝に大いに貢献した
二軍で実績のある庄司などを活かせなかった巨人は、その後の低迷はご覧の通り
そして、今なおその悪しき伝統は断ち切れてはいないのであった
(糸冬) 何故長島の名前出して助かったの?
>>576
> 藤田は黒い霧の時に長島の名前出して助かったからな そりゃ長嶋はアンタッチャブルだからに決まってんじゃん。
もうそこで捜査は「はい終了!解散!」みたいなもんでしょw
真偽不明だけどね 愛称がパンダだった福島知春。
巨人ラストイヤーは背番号13。
活躍の場を求めロッテへ移籍するもパッとせず引退。
引退後は早死。悲運の選手だった。 すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
7OQAQ 78年のV逸は7月にあったライト降板にキレて造反→そのまま退団も一因では? 友達を作るの同義語 - 類語辞典(シソーラス) - Weblio辞書
友達を作る
意義素
大勢の人と知り合って関係を深めること
類語
人脈を広げる ・ 交流の輪を広げる ・ 友達の輪を広げる ・ 友達をつくる ・ 友達を作る ・ 友達作りをする ・ 友達づくりをする
>>1 >>2 >>3
前澤友作 「お客さまを神様だと思ったことは一度もないです」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20120424/231350/ph001.jpg
https://i.ytimg.com/vi/owUEcOcQuZ8/maxresdefault.jpg
前澤友作 - wiki
高校に進学するも、ほとんど通わなくなる
その間、アルバイトをしていた
高校卒業後は半年間アメリカへ遊学
身長 162.1cm
Switch Style - wiki
メンバー YOU X SUCK - ドラム
(現在はZOZOTOWNを運営する株式会社スタートトゥデイの代表取締役)
「Suck」の使用はタブー| 英語学習サイト:Hapa 英会話
「Suck」といえば、「吸う」や「しゃぶる」などを意味し、性的な意味合いもあることから使用を避けられがち
日常会話では、いかがわしい意味
いかがわしい - Google 検索
いかがわし‐い いかがはし・い 【如何わしい】 《形》
1. どうかと思われるような様子だ。 疑わしい。 信用出来ない。  「 − ・い品物をつかませられる」
2. 道徳上よろしくない。 あやしげだ。 「 − ・い写真」
【接客】態度の悪い店&態度の悪い店員【通販】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/fashion/1526636162/
271 :2016/02/09(火) 00:53:47.58 ID:RE2sINiQ0
ZOZOはボッタクリだぞ
613 : 2016/03/31(木) 00:38:46.52 ID:8PrvZlzY0
ZOZOは
ダサいどーでもいいような安っぽい服ばかりで気に入った服を探す方が大変だ >>707
張本が加入していたら、阪神部屋の関取も一人増えたことになるな。 曽田が入団拒否した理由って何の?
長嶋監督の指名を唯一拒否したのは曽田だけ? >>686
そのあと現役を10年以上続けたのはすごい 王は1983〜84年まで現役続行すべきじゃなかったか?
1980年は打率が相当悪化して引退したが、79・80年のチームの不甲斐なさでモチベーションが失せてただけだ。
1981 .327 46 117 本塁打、打点の二冠返り咲き。自身初のリーグ・日本シリーズMVP両獲り
1982 .307 36 98 中日とのデッドヒートを制し最終戦で950本塁打、張本の3085本に並ぶ。2年連続のリーグ・日本シリーズMVP
1983 .277 30 85 試合終盤は下がるケースも増えるが、 西武との日本シリーズを制する。史上初の3年連続日本シリーズMVP
1984 .295 20 72 兼任監督。シーズン最終戦で1000本塁打を達成し有終の美、チームはV4 王は目の衰えが原因だから無理だろ。
本人も昔打てた投手のストレートに目がついていけなくなったと言ってるし。 1971年度 (130試合制度)39本しか打てなかった(本塁打王打点王)
1980年度 30本で絶不調
長島だって全盛期で30本打てない年度も有るし、野村門田も39本以下の年度もある
王さんは次元が違いすぎる スレチだが、門田といえば81年と83年に40本以上打ってホームラン王になっているけど、合間の82年はたしか19本くらいしか打ってなかった気がする。落合が32本で初の三冠王を取った年。
この年、門田はどうしたんだろう。 >>749
王は連日連夜自宅にファンが押し寄せてきて精神的に参ってた、というのも忘れてはならない。
時代とはいえひどい話だよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています