>>866
>> 1)カントールは無限公理は使わずに彼の極限集合論を作ったよ
>単にカントールは無限公理が必要であることを認識してなかっただけ

違うな
カントールやデデキントは、素朴集合論で無限を扱った
そうすると、ラッセルのパラドックスとか、無限集合からみのパラドックスがいろいろ出てきた

それを克服するために、公理的集合論が考えられた
だが、公理は、簡潔で使う用語と概念は最小限でなければならない
(∵ 未定義用語の使用は避けられないが、最小限であるべき)

公理の吟味の過程で、無限公理は必須とされたのだった
それは、カントールの集合論が整備されて後に、
集合論のパラドックスが明確に意識されるものになったのだよ!(^^

(参考)
https://sites.google.com/site/sendailogichomepage/files/ref/ref_07
仙台ロジック倶楽部
数学基礎論と消えたパラドックス
(抜粋)
集合論の研究者たちはよく冗談に“コーエン以前”をB.C. (Before Cohen の意)といい、
ゲーデル (Goedel) を B.C. の神 (God) であるといったりするが、
1960 年代には数学基礎論の各分野でこのような大事件が起きており、
まさに基礎論全体の変革期であった.

 60年代革命の激しさは、その教科書の変化によく現われている.

古き良き時代の教科書(例、文献[1])にはパラドックスから数学基礎論の誕生に至る歴史が悠然と述べられていたが、
革命後のもの(例、文献[2])にはパラドックスのパの字の解説もなく、それはもはや禁句になった感すらある.
(残念ながら日本では今もB.C. 時代のイメージが蔓延しているようで、それについては文献[5]の筆者のコメントを参照.)

 このような状況を踏まえた上で、なぜまたここでカビ臭いパラドックスの話を持ち出すかというと、
新歴30年を迎え、そろそろ新・旧基礎論を総括的に見直そうという気運が高まっているように思うからである.

最近次々と基礎論の専門誌の編集方針が変わったのだが、そこにもそういう動きが読み取れる.

■ 集合の世界のパラドックス