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「有名人のスキャンダルを売りに購買欲を掻き立てていた当時の新聞が、
 (1911年)11月4日付け記事でマリの不倫記事を大々的に掲載した。
 相手は5歳年下、ピエールの教え子ポール・ランジュバン。
 彼は既婚だったが夫婦間は冷めて別居し、裁判沙汰にまでなっていた。
 マリは私生活の問題で悩むランジュバンの相談を聞くうちに親密になっていた。
 1911年10月末にブルッセルで開かれたソルベー会議には2人揃って出席し、
 マリは論文を発表した若きアルベルト・アインシュタインへ
 チューリッヒ大学教職への推薦状を書いたりしている。
 その最中の報道は、ランジュバンに宛てたマリの手紙を暴露し、
 他人の家庭を壊す不道徳な女とマリを糾弾した。
 その後も報道は続き、またも彼女をユダヤ人だ、
 ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだと、
 あらぬことを連日のように書き立てた。
 ついには記者がブリュッセルまで押し寄せ、
 マリは会議の閉幕を待たずに去らなければならなくなった。」

「ソーの自宅に帰ると、そこはすでに群集に取り囲まれ、投石する輩までいた。
 マリは子供たちを連れて脱出し、親しいエミール・ボレル夫妻が一家を匿った。
 政府の公共教育大臣はボレルにマリを庇うなら大学を罷免すると迫ったが、
 夫妻は一切ひるまなかった。
 ボレル夫人マルグリットはジャン・ベラン教授の娘で、
 彼女はマリを損なうなら2度と顔を合わせないと父を逆に脅した。
 騒動はいろいろなところへ飛び火していた。」