マリ・キュリー
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「1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。
 最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフで
 農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった。
 ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた
 一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキが惹かれ、ふたりは恋仲となった。
 しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、
 社会的地位の違いを理由に猛反対された。
 彼女は失意のまま契約の2年間を終えるとチェハヌフを去り、
 バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家で
 さらに1年間家庭教師の仕事を続けた。」

「1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した
 姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた。
 だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、
 ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、
 ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、
 留学するには蓄えが充分ではないこと、
 そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことが理由であった。」

「転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。
 結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは
 連絡を取り合っていた。
 そして9月、2人はザコパネで避暑の旅行を共にした。
 もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、
 彼は優柔不断で何も決断できずにいた。
 そのため2人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した。」

「一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、
 博士号取得後に数学者としての履歴を積み、
 またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。
 だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで
 何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学の老教授となった彼の姿が見られたという。」