数学を初めとした理系の学問と哲学について
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数学と哲学は(開)近傍にある、もしくは、そこに類似の学的構造がある
ということは無いのかと考えて、数学板にスレを建てました。
ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、
ホワイトヘッド、フレーゲ、クリプキ、ゲーデル、パスカル、ベルクソン、
ブール、パースetc.と、数学者と哲学者と兼ねた人物が多かったり、
数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多いのではと思い、
共に高度な論理性と抽象性が要請される点など、両者には共通の構造が
あるのか否かをここでじっくりと考えていきたいと思います。 >>243
ラッセルは哲学者でもあるので、プラトンのイデア論のような考え方を支持していますよ。
まず、私が数学実在論というのをどういう意味や観点で述べているのかを
説明してみます。たとえば、地球は地球上に人類がいなくても、いなかった時代でも、
地球として実在していますよね。つまり、地球を認識する主体が宇宙に存在していなくても、
地球は実在している。人間がいない時の呼称は、もちろん地球とは呼ばれてはいないけれども、
今の地球と呼ばれるものと同じ惑星が実在していた。
数学実在論もそれと同じです。たとえ数学を扱う人間や主体が世界にいなくても数学は常に
実在している。地球に類人猿しかいなかった古代においても数学は実在していただろう、
という観点です。あと、数学実在論はその源泉として、プラトンのイデア論がある
という考え方は、イデア界という一種の完全な天上世界が想定されていて、そこにこそ
すべての本質や真実在、数学的真理があって、私たちの感覚器官で認識できる物や概念、
現実世界は、その完璧なイデア界の不完全な投影図に過ぎないというのが、プラトンのイデア論です。
つまり、数学や論理の一部に矛盾があることは(ゲーデルの不完全性定理、ラッセルのパラドクス)
、イデア界の完全性を破綻させ矛盾に追い込むものでなく、むしろそのことで斉合性を
得られると考えられます。なぜなら、私たちの住むこの世界や人間、人間が構築する概念は
不完全であり、完全なる真の世界はイデア界にこそある、という理路だからです。 私たちは五感で捉えられるこの世界や宇宙を完全なもの、普遍で現実そのものだと認識するけれど、
たとえば、目の見えない人や耳の聞こえない人のように感覚器官が一部制限された人たちの
ことを想像してみるとイメージが掴みやすくなるかもしれない。その人たちにとって、
この世界や宇宙は五感を自由に使える人たちと比べると、不完全な形で表象されている訳です。
それと同様のことが五感を使える私たちにも言えて、五感以上の感覚器官やセンスデータが
付与されれば捉えられるようなイデア界のような完全なる天上世界があるにもかかわらず、
それを五感や身体という、ある意味で、感覚器官が一部制限された状態にある人間には、それを
十全には認識できないと思考実験してみれば、私たちの五感だけでは世界の実在を完璧に捉える
ことが出来ない、と言えなくもないだろう。
このように言うと神秘主義的な話に聞こえるけど、実はそうでもない。たとえば、
棋士とAIが電脳戦を戦って、AIの差す手があまりにも斬新で将棋の定石や歴史にないものであり、
名人でもそのAIの指すアルゴリズムや意味を解読できないような一手があったりする。
そして最終的に、そのような奇手を放ち続けるAIが名人に勝利したりする。
このことの意味は、人間の既存の認知機能では解析出来ないレベルのAIのアルゴリズムや
ゲーム戦略がブラックボックスとしてAIには実装され、実在している、ということが分る。だから、
人間の脳に将来AIチップでも埋め込まれることになって、その認知機能が拡張したり、
人間の知能が飛躍的に高まれば、これまで分からなかった種類のアルゴリズムが解読できるように
なるかもしれない。そして人間には解析出来ないそれらの高度なアルゴリズムは常に最初から
実在しているのだけど、認識する人間の側が不完全であるので、それを現状では解読できない、
という理路になる。これが少し形而下的に表現したプラトンのイデア論のイメージ。
神はややこしくなるので、話から割愛しました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています