数学を初めとした理系の学問と哲学について
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数学と哲学は(開)近傍にある、もしくは、そこに類似の学的構造がある
ということは無いのかと考えて、数学板にスレを建てました。
ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、
ホワイトヘッド、フレーゲ、クリプキ、ゲーデル、パスカル、ベルクソン、
ブール、パースetc.と、数学者と哲学者と兼ねた人物が多かったり、
数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多いのではと思い、
共に高度な論理性と抽象性が要請される点など、両者には共通の構造が
あるのか否かをここでじっくりと考えていきたいと思います。 >数学とは神の言葉ですか?
分からないですけど、少なくともデカルトやライプニッツは数学の完全性の保証人として
神を持ち出したというのはあります。ちなみに新井紀子先生の著書に「数学は言葉」と
いうのがあります。 濃度で考えていけばいいんじゃないんですか
ℵ3とℵ3なら、同じだと言えるだろうし。 最近は哲学者兼数学者みたいな人がいないようでつまらない 「オッカムの剃刀」は、
必要が無いなら多くのものを定立してはならない。少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない
というものだから、神や霊界、超越論的なもの(たとえば、カントの「もの自体」)などを捨象、棄却
する発想で、現代でも機械学習でこのオッカムの発想を導入し、学習がオーバーフィッテイングに
陥るのを防ごうとしているようだ。 >>6 そう思います。
>>7 「心の哲学」というものはありますが、「心の数学」は聞いたことないですね 尋常じゃないくらい頭が悪いのですが、東京大学理学部数学科に入りたいと思っています。
猛烈に努力をすれば可能でしょうか? >>10
どのくらい悪いのか気になるけど、5年とか10年とかの単位で時間をかけていいなら可能性はある 認知科学者の苫米地英人は、数学だけで飛び級でイエール大学の博士課程と
カーネギーメロン大学で博士取っている。後者の大学は人工知能の研究で
有名な大学です。数学だとプリンストン大がイメージされやすいけれども。
AICの赤池弘次は東京大学理学部数学科ですね 「オッカムの剃刀」やゲンツェンの「カット除去定理」、「赤池情報量規準」に共通して
いるのは、一種の最適化であったり、最小化なのでしょう。最小二乗法もそのようで
あるし、疎行列や次元削減によるデータ圧縮も、非常に数学的な発想に基づいた
アプローチであるように思われます。複雑で錯綜した要素をシンプルなものに構造化、
もしくは還元する。 >>11
なんとか2〜3年で合格したいのですが無理ですか?
ちなみに白チャートすらあまり理解できません。 政府は17日に開いた未来投資会議で、大学入試センター試験に代わって導入される
「大学入学共通テスト」に、プログラミングなどの情報科目を導入する方針を確認した。
第4次産業革命を推進するうえで人工知能(AI)などを使いこなせるIT(情報技術)
人材は不可欠。将来的な不足が見込まれており、人材の育成を急ぐ。安倍晋三首相は
「AIやビッグデータなどのIT、情報処理の素養はこれからの時代の
『読み書きそろばん』」とした上で、「大学入試において国語・数学・英語のような
基礎的な科目として情報科目を追加し、文系・理系を問わず学習を促していく」と述べた。
高校では2022年度に、共通必履修科目としてプログラミングを含む「情報I」を新設する
ことが決まっている。今後は林芳正文部科学相が中心となり、22年度に入学した生徒が
受験する24年度の大学入学共通テストを目安に情報科目の導入に向けた検討を進める。
プログラミング教育の強化には、高度な知識をもつ教員の確保が急務だ。文部科学省の
調査によると、15年5月時点で情報科の担当教員5732人のうち、情報科のみの担当は
2割だった。 数学など他教科との掛け持ちは5割で、情報科の免許を持たないが特例で認められた
「免許外教科担任」が3割。文科省は各自治体の教育委員会に対し、免許保有者の
計画的な配置や、現職教員の免許取得などを促し、大学入試に対応できる教育現場の体制を
整える。
経済産業省によると、国内のIT人材は30年までに最大79万人不足する見込みだ。会議に出席した
フューチャー会長兼社長の金丸恭文氏は「AIを理解し、戦略的に活用する人材が決定的に
不足している」と指摘した。潜在的スキルを持つ統計学専攻などの大卒者は、日本の年間
4千人弱に対し、米国は2万5千人、中国は1万7千人と日本を上回っている。 >>14
頭のいい高校生でも1年から勉強を始めて3年で合格できるかどうか分からないレベルだから厳しい 統計の林知己夫も東京帝国大学理学部数学科卒。
データ改ざんばかりの世の中だけど。 >>1
数学板の人らは、哲学書などあまり読まなそうだなあ >>20
「文系」「理系」っていう分け方がよくない。そこで分離される。 >>20
俺は読んどるで
大学の教養でも哲学履修したし
哲学と数学は紙一重や 神学書を尋常じゃないくらい読みまくったらどうなるのでしょうか? >>22
対象から本質と構造を抽出するという点で、数学と哲学は案外似ているのかも 数学⊂哲学ではあるかもしれんが、哲学⊂数学ではないな。
哲学なるものは雑多な寄せ集め過ぎる。 >>27
日本では日本の方が有名だし、中国では中国の方が有名ですよ。 >>26
それは似ている点ではなく両者が属すカテゴリの性質だ
ほとんどの学問に共通している
物理:対象(物理現象)から本質(支配法則)と構造(記述する数式)の抽出
文学:対象(文学作品)から本質(作者が伝えたかったこと)と構造(表現手法)の抽出
等々
数学と哲学では対象も本質も構造も抽出方法も異なる >>30
>数学と哲学では対象も本質も構造も抽出方法も異なる
それなのに、歴史上の著名な数学者は、なぜ哲学者も兼ねているのだろう、
というのがこのスレの趣旨じゃないのかな。異なるように見えて、数学と哲学の
間には、実は位相不変量のある同相写像のような同相構造があるのではないか、
という話をしている。>>22の人も述べている通り 有名人なら誰でも我がことの如く振る舞う神学のはした女肥溜め吹き溜まり >>29
そういうことじゃなくて、世界的に見て、一番有名な国はどこかという話です。
やっぱり1位はアメリカになるのでしょうか? ていうか単純に数学を始めとする理学系の学問も哲学も「真理の探究」っていう部分が同じなんでしょ >>31
哲学と数学の似た構造を話し合うスレで学問全般に当てはまる的外れなことを言ってたから指摘したまで
トマトと私について語るとき「トマトと人はともに地球上にあるから案外似たようなもの」というのは過度に一般化しすぎているだろう?
著名な学者が複数の分野で業績を残している例はよくあり、また数学者かつ哲学者であった人より数学者かつ物理学者であった人の方が多い
そのため哲学者兼数学者がいてもそれは特筆すべきことではない、と感じる
なぜ殊更に哲学と数学に共通構造があると考えるのか説明してほしい
>>22も
>哲学と数学は紙一重や
の根拠を教えてほしい
このスレで哲学と数学に共通した何かがあると述べている人はいずれも、学問全般に共通したことを述べているか理由を述べていないかのどちらかだ >>36
その理屈が正しいのなら、>>30が例で上げているような文学者が数学者をも兼ねているケースがもっと見られないと矛盾しないかな。美学者が数学者を兼ねているケースや法学者(ライプニッツは例外的に該当するけど)が数学者を兼ねている例がもっと
あっても良さそうな気がするけど。ベイズとかは牧師でもあったので、そこに神学者の要素を見ることも不可能ではないと思うけど。数学者かつ文学者は、少ないんじゃない。サルトルは哲学者かつ文学者だけど、数学者ではないというパターンだけどね。 エリオット・ソーバー(Elliott Sober, 1948年 - )はアメリカ合衆国の哲学者。
ボルチモア出身。ハーバード大学においてヒラリー・パトナムの下で学び、Ph. Dを取得。
現在はウィスコンシン大学で教鞭を取り、1989年よりハンス・ライヘンバッハ教授職、
1993年よりウィリアム・ヴィラス教授職を勤めている。2003-2005年にはアメリカ科学哲学会会長。
専門は生物学の哲学および統計学、確率の哲学。生物学の哲学においては、自然選択説、
系統分類学の方法論、最適化理論、利他主義の進化や集団選択、創造論やインテリジェント・デザインなど、
統計・確率の哲学においてはベイズ主義や尤度主義、あるいは赤池情報量基準(AIC)などに基づく
モデル選択などを巡る論文・著作を多数発表している。 >>36
>>20に対しての>>22であって>哲学と数学は紙一重っていうのはあくまでも個人的な考えやろ
スレタイに対して「哲学と数学には共通部分があります!」って言ってる訳でも無いんだから根拠はいらないだろうに
一個人的考えに根拠を求める必要性も根拠の提示の義務もないやろ >>37
確かに指摘通りだ。私が間違っていた
哲学者兼物理学者も多かったから数学哲学物理学の間には共通した何かがあるかもしれない
>>40
説明義務は無い
ただどうしてその考えに至ったのか気になったから根拠を求めた >>41
数学・哲学・物理学を論理積で考えていけば良さそうだね 哲学なんてポエムだろ
学問と呼べるものではない
ましてや数学と比べるなんて笑える 教養過程教員ぐらいだからなあ
哲学に変なロマン持ってるの。 数学と比べられたと思い込むあたりでお察し
教養も余裕もない 哲学一本で食えよ。数学だけはダブるな。ダブり要らない。 客観的認識能力より、主観の方が絶対速いわけで。共存共立しないからね。 日本の哲学者は哲学者ではなく
「哲学者学者」ばかりだ 数学は、公式の意味をどこまで深く考えるかがあると思います。結構苦痛なので、数学苦手な子は、もうこのへんで、次の機会にな!どと逃げます。公式の意味をしゃぶり尽くすほど味わえる人は当然数学得意だらうし、哲学でも考え続けるイメージ >>1 ベルクソンはどういう意味で数学者と呼べるんじゃ? ベルクソンは数学者ではないけど、数学について哲学しているよ
ベルクソンの純粋知覚や純粋記憶の概念は、現代の脳科学や人工知能の
考え方と近いと述べている学者もいるよ >>57
そんなことを言い出したら、シュペングラーの『西洋の没落』も数学史から始まるし、
フッサールもドゥルーズも数学の本質に関する思索をしてるわけでしょ。
そもそも、現代科学に取り組もうとすれば、何らかの形で数学と向き合うのは自然なわけで、
それだけで>>1みたいに数学者の範疇に入れてしまったら、
現代科学に論じる人間は、ほとんどが数学者になってしまう… >>58
>>1には、> 数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多い
と書いてあるよ。つまり、ベルクソンやドゥルーズらはそれに該当するので、
>>57は別に矛盾した記述ではないんじゃないの。だから、正しく表現すれば、
現代科学を論じる人間は、ほとんどが数学的思考を有しているだろう、という
風になる。 科学哲学などもそうなるのかな、と。 少し修辞的な表現となるけど、剰余類の考え方を使って、
数学aと哲学bの間には、未知のxを法とする合同なり、同値関係がある、
と考えてみたりするのは、面白いんじゃないの。
a≡b(mod.x)
mod.xによって、aとbが合同となる同値類としての剰余類が
数学と哲学の間にはあってもいいだろう、という話じゃないかな。
>>1の述べていることはね 哲学の素養が一切なくとも、真の数学理解が
進むと考えるのは、浅慮だろうな 数学の素養がなくても哲学は出来るけどな
つまり数学>哲学 小室直樹・副島隆彦・ロバートキヨサキ、鴨頭の信者の俺から見ると
日本では数学は計算というイメージだけど
欧米では論理学というイメージ
日本では何でんでもかんでも突き詰めるとすべて「数字」になる
欧米やイスラエルでは逆で突き詰めるとすべて「言葉・会話・言語」になる >>65 功利主義(幸福の数値化)にIQ(知能の数値化)、EQ(感情の数値化)と、
なんでも数字にする発想は、欧米人に由来するんやで。 AIをやるために数学の勉強をはじめて、
とても楽しいと知りました。 ロジックと、数学と、プログラミングが
近い関係にありますよね。
ややこしくなるのは、
and nand or とかの記号が、
ロジック、数学、プログラミングで
それぞれ変わる点ですよね。
^ これたしかandですよね。 おれは論理学は幾何学だと思うね
推移律はいくらでも中間を埋めれるということだから 多角形は、頂点の数で分類すれば群構造として表せる。
三角形同士ならば、直角三角形、鋭角三角形、鈍角三角形の群構造で表せる。
andは∧、orは∨、排他的論理和ならXOR。
数学と論理学とプログラミングはほぼ同じ。
楽しんでいきましょう♪ インドも西洋なのか?
ローマ数字で数学やってたら不便でしょうがなかったと思うが なおPh.DのPhは哲学(Philosophy)の略
すべての学問は「広い意味での哲学」の部分集合なのだ じゃあ、>>76とは逆の発想してみようか。
哲学を諸学問の基礎体とすれば、数学はガロア拡大体と考えればいいかもね 別にそういうイメージでもいいけど
本来の哲学というのは
「全てを知ること(という営み)」なので
数学も物理も文学も経済学も結局どれだけ進歩しても哲学の一部なんだわ >>78 それはそうかもしれないが、そうであれば、
現在哲学と呼ばれているもの(哲学科で教えられているような哲学)は、
本来の哲学ではないとも言えそうだ。 「自然科学」や「人文科学」と同じ
分類のための単なる名称 神学の橋田女と科学の女王
どうして差がついたのか
慢心、環境の違い >>79
文学部哲学科の哲学は言葉遊び、学問ですらない。 素朴に疑問なのだけど、科学哲学を学ぼうとする場合、科学や数学的な基礎知識がない状態で、
つまり、文系で、どうやって科学を哲学できるのかが謎なんだけど。
だから科学哲学であれば、理系でないとまともに扱えないではないかな。
文系だとせいぜい科学史にアクセスできるだけで、科学の本質に迫ることは困難だろう。
コンピューターサイエンスへの哲学的考察についても同様で、理系でないと厳しいでしょ。 >>85 科学哲学や科学史って、理系出身者が普通じゃないか?
東大なら最初からそれ専門でやるんだろうけど。 >>85
文学部哲学科の連中の「論文」を読んでみ。笑えるから。
科学用語の意味をデタラメに使った言葉遊びだよ。 >>89
なら、彼らはポモ厨と化しているんだね。なんで哲学科なのに、ソーカルさえ読まないんだろ。 >>90
ソーカルなんか読んだら自爆するだろ
知らないフリしてるんだよ >>92
文系哲学は科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装っているのだろうね。
ただそれが科学の側から見ると、疑似科学の言説となっているので、そういう文系哲学は
嘲笑の的となるのだろうよ ここの人たちって、そういう人の論文本当に読んでるんですか?
そもそもそんな論文存在するんですか? お互い相手をよく知らずに罵ってるだけだから、ネット上でこの種の議論が実を結ぶことはない
最低でもアカデミックな身分の保証された場を用意しないと つまり、読んでもいないのに批判してるわけですね
とても科学的な態度とは思えませんね >>96
検索して調べた結果、英語で書かれている哲学の論文はある。
言葉を定義して議論を論理的に展開したり、他の科学の結果を使って議論を展開したりする手法もある。
だが、幾つかの哲学科のシラバスを検索すると、哲学科で教えていることは、
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語の習得や、数理論理の基本を除くと、
雑多な寄せ集めの内容になっていて、哲学科では何やっているのかよく分からない。
哲学の論文の内容としては、数学や自然科学、社会科学、人文科学の諸分野の内容だけでなく、
芸術(美しさの捉え方の問題)や文学(?)を論文の題材にしてみたりしていて、何でも論文の題材になるみたいだ。
だが、芸術は本来言葉より完成が先にあって成り立つから、言語を用いて、哲学で分析しても仕方ないだろう。
哲学全般に共通する基本的な問題意識としては、…とは何か? という形になるようだ。
これは、扱っている対象を定義可能なときは、その対象を定義したら論理的な議論をすることになる。
(こちらは、方法論としては、数学の手法とほぼ同じ)。或る意味で数学につながる。
もし、扱っている対象を定義出来ないときは、個々人で捉え方が違うということになって、終わりのない問題になる。
(そちらの例には「認識するとは何か?」が挙げられて、そういった類の問題や対象は、何が何だかよく分からない議論に終わる)。 >>96
>>99の下から6行目の一部を訂正(漢字訂正):
芸術は本来言葉より完成が先 → 芸術は本来言葉より感性が先 >>96
>>99の上から行目の一部も訂正:
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語 → 古代ギリシア語やラテン語といった特殊な言語 >>96
>>101にも訂正すべきところ(「」でくくった部分)があるから、>>101は以下のように、再度訂正:
>>99の上から「4」行目の一部も訂正:
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語 → 古代ギリシア語やラテン語といった「ような」特殊な言語 数学だと、自然数は「ペアノの公理」を使って定義できて、それで問題が完結する
(経路でいえば閉じている)のに対して、哲学だと、「自然数とは何か?」や
「自然数は、本当に自然なのか?」その前にそもそも「自然と、不自然を分かつものは何か?」、
「数とは何か?」といった感じで、哲学ではその問いや前提自体を幾らでも分岐させて、
その論を展開することが出来る。そして最後に、「自然数の本性は、不自然である」のような
哲学的な帰結を導くことも出来る。「ラッセルのパラドックス」なら素朴集合論に存在
する矛盾を導いて、フレーゲの論理学に矛盾があることをラッセルが指摘したものであり、
それは数学や論理学上での話だけど、こういうことをあらゆる素材、美学含めてなしうる
のが哲学の持つ機能の一つだと言えよう。それだけ、哲学は自由度が高いのだろう。 だから、経路でたとえると、数学は閉じている(自己完結している)のに対して、
哲学は、経路が閉じていない(自己完結していない)ので、その議論は延々と
続くことになる。ある哲学者aがxと主張しても、別の哲学者cが、それはyだと
言って、こうした突っ込みや解釈の差異が延々と無限に続いていく傾向にある
のが哲学。そういう哲学的営為を無駄と思うか、下らないと思うか、実は、
結構、有益なんじゃないか、と思うのはその人の考え方や感性、必要性にも
よるだろう。 >>99->>104
具体的な論文名が出てきませんね
どうせ読んでないんでしょうね
とても科学的な態度とは思えません
ググって題名調べて終わり、あなたたちが毛嫌いしてる、頭の中の哲学者そのものではないですか? >>93
>文系哲学は科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装っているのだろうね。
>>99
>だが、幾つかの哲学科のシラバスを検索すると、哲学科で教えていることは、
>古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語の習得や、数理論理の基本を除くと、
>雑多な寄せ集めの内容になっていて、哲学科では何やっているのかよく分からない。
実際に読んでもいない論文を、シラバス見て専門用語並べただけで内容がわかった気になれるんですね
科学批判批判は文系哲学なのでしょうね >>105
>具体的な論文名が出てきませんね
>
>どうせ読んでないんでしょうね
哲学の論文を読むことは、哲学者がすることだろ。
哲学専攻の人でなくても哲学の論文が読めて内容が分かれば、
他の分野の専攻者でも哲学の論文が読めて、哲学科とかの存在意義がなくなってしまうじゃん。
高校の倫理の一部は哲学の内容になっているだろ。 >>106
>科学批判批判は文系哲学なのでしょうね
そもそも、批判するとは何か?
批判するという現象の解明だけでなく、
批判的な態度を諸分野に生かさないことには、これといった意味がないと思われる。
客観的に見たら、批判するとは何か? という問いへの答えは
唯一つではないどことか、人によって答えは異なる。この問いは終わることがない。 自己批判に向かうことで学問的に真摯な振りをしたいのかもしれないけど、
科学批判にも多様な形があり得ると暗に認めちゃって墓穴掘ってる >>106
>>108の一番下の行における訂正:
唯一つではないどことか、 → 唯一つではないどころか、 >>109
>科学批判にも多様な形があり得る
それだと、むしろ個人的な考えが強く反映されるということになる。 もしかしてカントも知らずに倫理の教科書がどうとか言ってるのか
無知はある意味で最強というが… >>112
カントの純粋理性批判や西田幾太郎の思想とかのことは、
多少は高校の倫理の教科書にも書かれていたぞ。 数学の場合は、なるべく解が求まる方向で動いていくけど、
哲学の場合は、問いそのものをメタ視点で新たに問い直す方向で
動いていくので、そもそも端から解の収束を目指していない感じが
する。哲学はむしろ、一般解を縦横無尽にスライドさせていき、
解を転覆、無化する傾向さえ感じられる。
ふーん、なるほど、そのような変わった物の見方や捉え方もあるのだな、
というように、哲学は人々が客観的・一般的であるとみなすものを
「実はそうではないよ」と説く。数学にもそういう要素がある。たとえば、
人間の直観的な認識から、虚数や無限小などの概念は現れてこないだろうから。
グラフ理論などでも、2つの或るグラフGとHを直観的にだけその経路を見てしまうと
全然別物に見えるものでも、その頂点と辺の接続状態だけに注目すると、それらに
同型と呼ばれるものがあるように、数学にもメタ認知的な要素があるだろう。 >>107
つまり、論文を読んでもないのに批判してるんですか?
科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
てかそんな人の存在すらまだ示されてないですけどね
今までの議論で示されたのは、論文も読まずに哲学者を批判するレベルの低い人がいる、ということだけです >>115
>科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
>
>てかそんな人の存在すらまだ示されてないですけどね
科学の哲学と科学とでは、手法が全く違う。
科学の哲学では、(大規模な)設備を使った実験はしないのではないか。 >>116
科学では実際に論文を読むことなくグーグルで上っ面かじっただけでもわかったことになるんですか? アホみたいに税金使って実験したところで、結局グーグルするんだったら、実験なんかしなくてもよくないですか? >>96
論文の存在を証明できないので、虚学ですね なるほど、そんな論文ないんですね
では、藁人形論法して喜んでるような低レベルしかいないということですね >>117-118
自然科学に限らず、人文科学や社会科学の諸分野にも、数学が応用されている分野は
かなり多くあって、実験や観察、観測を繰り返して経験的な方法で法則や事実をつかみ取る手法や、
行った実験や観測の数値が何故そのように出て来たのか?
ということを問題にして逆に実験や観測の数値から法則や事実を取り出す
というような方法論はある。これらは、(応用)数学をしていれば、分かるときもあると思う。
>>115
>科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
書く内容が違ったような気がするが、フランスの大学入学資格試験であるバカロレアには
哲学の試験が含まれていて、フランス人は、大学に入る前までに哲学の手法を身に付けているようだ。
日本の大学だけでなく、フランスの大学にも、哲学科に相当する学部或いは学科はあるだろう。
これは、科学を理解していなくても哲学している人物の例に当てはまるのではないか? >>121
>これは、科学を理解していなくても哲学している人物の例に当てはまるのではないか?
でも、あなたはシラバスの題名だけ読んで済ませようとして中身を読まないので、本当にそのような人がいるということは示されてませんよ?
あなたの妄想ですよね、今の所は
早く示してください?
あと私は数学とか自然科学はある程度はわかりますからね
知ったかしてないで、科学を理解していなくても哲学している人物、の存在性を示してくださいね 科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装って、論点をずらし続けて私が諦めるのを待つのはやめませんか(笑)? >科学を理解していなくても哲学している人物、の存在性を示してくださいね
日本ではニーチェがやたら人気があるけど、典型的な科学音痴の哲学者っぽいよね。
ニーチェは哲学者というより、文学者に近いイメージだね。デリダも科学音痴っぽい、
同じく文系修辞哲学という感じがする。
ドゥルゥーズ・ガタリの場合は、数学や科学の知識はあるけど、それらがポモ的に
恣意的に乱用されすぎている嫌いはありそうだ。とにかくそれらが、比喩やポエジーの
ように使わているので、読者を煙に巻くのが目的なのかと訝られても多少は仕方ない点もある。
>ID:foR26SUlは、興奮しやすいヒステリックなタイプなので、冷静な議論を要する
科学や数学、哲学のいずれにも向いてないだろうなw >>124
ある無矛盾な公理系τの任意のモデルに対してある論理式φが常に真となるならば、τからφがLKにおいて証明可能となることを示せ
わからないんですね
ようやく人の名前が出てきましたね
たとえば、どの論文が科学音痴なんですか? >>123
>科学を理解していなくても哲学している人物、
>>121の後半に書いたことから分かるかも知れないが、
フランスの大学に入ろうとするフランスの高校生の中でも文系の人達がその例に当てはまる。
フランスの高校の段階では、特別な人を除き、多くのフランス人高校生は科学を理学部のように学んではいないし、
高校の段階で哲学する手法を学んで身に付けているから、彼らは哲学しているといえる。 >>125
だから、その辺りの事情はアラン・ソーカルの「「知」の欺瞞」に詳しく書かれて
いるから未読であれば、参照するといいよ。ちなみにソーカルは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの数学教授とニューヨーク大学の物理学教授を兼任する
学者。専門は統計力学と組合せ数学。一般には、ポストモダニズムへの批判者として
最もよく知られる。 >>127
ソーカルさんの本では、どのような人がどのような意味で科学音痴だと書いてあるんですか?
本当に読んでるはずなら答えられるはずですね >>128
君のような人が典型的な科学音痴だとそこに書いてあるよ。
嘘だと思うのなら、自分で読んでみなさい。
他人にネットで聞いて楽しようとするなんて、それこそ君の批判する
内容(読みもしないで批判)そのものだろうね。自己言及の矛盾に陥っているよ。 >>129
ある無矛盾な公理系τの任意のモデルに対してある論理式φが常に真となるならば、τからφがLKにおいて証明可能となることを示せ
でもあなたこれわかりませんよね >>129
読んだなら答えられるはずですね
答えないということは、よんでないということです >>132
君はもしかして、不勉強で怠け者の反知性主義者?
>ある無矛盾な公理系τの任意のモデルに対してある論理式φが常に真となるならば、τからφがLKにおいて証明可能となることを示せ
馬鹿の一つ覚え? より深刻なのは、明快な思考と明晰な書き方を放棄することが
教育と文化に与える悪影響だと我々は考えている。
(中略)
評論家ケイサ・ポリットがいみじくも否定しているように、
「ソーカル事件の喜劇は、もしかしたらポストモダンの思想家たち
さえ、お互いの書くことが本当は分かっていないのではないかと
思わせてくれることだ。彼らは、一つの聞き慣れた名前とか用語を
次へと移ることでテクストを辿っていく。まるで睡蓮の葉から葉へと
跳んで濁った池を横切っていく蛙なのだ」。
意図的に分かりにくく書かれたポストモダニズムの著作とそこから
醸し出される知的不誠実は、知の世界の一部を毒し、すでに
一般大衆の間に蔓延している軽薄な反‐主知主義に拍車をかける
ことになる。ポストモダニズムにおける用語の曖昧さと具体的な
現実からのほぼ完全な遊離は、状況をさらに悪化させる。 ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズらの著作に見られる
科学的な厳密さに対する気のない態度は、フランスでは1970年代に否定
しようもない成功をみたし、その影響は今日でも十分大きい。このような
知の傾向は、フランスの外へと、特に1980年代と1990年代には英語圏
に浸透していった。これとは逆に、認識的相対主義は、1970年代に主として
英語圏で(たとえば、「ストロング・プログラム」に伴って)発展し、
後にフランスにも広がった。
以上、「知の欺瞞」からの引用だけど、ソーカルは、認識的相対主義にも
科学的なタームが恣意的かつ出鱈目に使われていることを批判している。
要するにソーカルが批判の対象にしたかったのは、>>134みたいな人間。 >>136
ある無矛盾な公理系τの任意のモデルに対してある論理式φが常に真となるならば、τからφがLKにおいて証明可能となることを示せ
わからないんですね >>137のようなスタイルのやり取りが、ソーカルが批判した典型的なポモ思想家のやり方ね。
何の脈絡もなく、テキストに書いてある通りの証明問題をただ書き写しただけなのに、
それで自分が知的優位に立てると中二病的に妄想する。あとは、ソフィストよろしく
くだらない詭弁を弄したり、不毛な揚げ足取りに終始する。つまり、典型的な構ってちゃんの
詭弁家だね。このようなバカな人間になるのを避けることが、賢明な人間のあり方だろうね >>138
これは先ほどの問題よりも重要です
また、近くに線路や高い所はありますか? >>128
ドゥルーズとかラカンとかクリステ婆とか 願望
文学部哲学科の哲学は言葉遊び、学問ですらない
現実
ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズらの著作に見られる
随分と矮小化されてしまったけど、まあこんなもんだよね 科学の影響を受ける以前の哲学のほうが面白い
プラトンは自然科学から距離を置いてたし ソフィストの空っぽの頭蓋骨叩くとピタゴラス音階でいい音しそう 何かを皮肉ってるようで実は何も考えてない
とは>>145のことか >>142
実際学問のふりしたポエムみたいなもんだしね >>147
>>142を読んでその返答が出てくるのは理解不能 ところで文学やポエムが社会に必要かと言うと
それは明らかに必要なんだから
哲学も必要なんだろう >>137
お前はわかるのかよ?
証明はどこで読んだんだ?
証明読んだなら証明の概略言えるはずだよな?
言ってみろよ?
言えないのだったら138に土下座して謝ったほうがいいんじゃないか?
ゲーデルの完全性定理を微分幾何とか他の分野の数学者に質問したって答えようもないだろ。
お前の議論と言うか難癖のつけ方は卑怯だ。クズだな。
まず証明の概略を答えてみろ。
答えられないのか? >>153
τの極大無矛盾な公理系Tを形成して、T内の論理式を構成する形式的文字列それ自身を対象とみなしてモデルMを構成します
τ|-φ⇔T∋φ⇔T|=φ
τ|-φでない⇔T∋φでない⇔T|≠φ
このようにすると、Tはτのモデルとなります
今、無矛盾な公理系τの任意のモデルに対して論理式φが常に真となるのに、τからφが証明可能でない、と仮定します
τ∪{¬φ}は無矛盾となりますから、完全性定理によりモデルMが存在して、M|=¬φが成り立ちます
しかし、これは、任意のモデルに対してφが真であるという仮定に反します >>154
無矛盾ならモデルが存在するということの証明の概略を質問してるんだよ。
例えば微分幾何の難しい定理の系をどこかの本から持ってきて代数的整数論をやってる数学者に
「わかるかよ?、わかるかよ?」と絡んでも答えようもないだろ。
それで横から「お前はわかるのか?」と質問されて定理から系の証明の解説をネットで見つけて答えても答えになってないから。
文学部哲学科の連中は自分でもわからない事を相手にもわからないだろうと高を括って知ったかぶりをするんだよな。 >>140
自分で勝手に線路でも高い所でも探して逝ってくれ。
あ、線路はダメだ。電車止めないでね。 >>155
>>154
>τの極大無矛盾な公理系Tを形成して、T内の論理式を構成する形式的文字列それ自身を対象とみなしてモデルMを構成します
>τ|-φ⇔T∋φ⇔T|=φ
>τ|-φでない⇔T∋φでない⇔T|≠φ
>このようにすると、Tはτのモデルとなります
読めないんですか? >>157
こちらの質問の答えになってないよね。
わからないんだね。
知ったかぶりがバレていることも分からないんだよね。 >>162
あなたが数理論理がわからないので、>>157が証明になってることもわからないんだと思いますけど あ、τの極大無矛盾な公理系、というのは間違えですね
τの言語に、∃を含む論理式∃xAに対して定数記号cを追加した言語に、公理∃xA→Acを追加した公理系τ'に対する極大無矛盾な公理系、ですね >>163
モデルの構成の概略を言ってみろというこちらの質問の意味も分からないんだね。
証明の中心部分がどこだかわかってないようだね。
お前が証明を読んでいないのがよくわかるよ。
証明読んだことないのに、知ったかぶりしてたんだねwwww >>167
あ、τの極大無矛盾な公理系、というのは間違えですね
τの言語に、∃を含む論理式∃xAに対して定数記号cを追加した言語に、公理∃xA→Acを追加した公理系τ'に対する極大無矛盾な公理系、ですね >>167
あなたの住所を特定して、殺害せよ、という問題がわかりません >>167
自殺もできないのに数学ができるんですか?
できませんよね フランスのグランセコールの試験で「説明する」という単語について考えて
文章を書いて答える哲学の問題が出されたことがあったみたい。
その問題の意図は全然よく分からん。
哲学の場合、そればかりしていると、バカになりかねないぞ。 >>169
>>171
>>172
警察の方を待っているんですか? >>177
ゲーデルに詳しいの?それなら、ゲーデルがその完全性定理の導出に用いた
スコーレム標準形や非範疇性定理をどのように扱ったのかを説明してみて。
それで、あなたの実力の真贋を判定してみるから。逃げないでね。 >>179
こんな簡単なこともわからないとか、恥ずかしくないんですか? >>182
なら、しなければならないことはわかりますよね?
わからないんですか? >>185
わかりました、自殺をしようと思います
ありがとうございました א0 + 1 = 0א0
א0 = 1 - 0א0 >>147
ポエムと言えば、ラカンに師事していたイリガライ(ベルギー出身の
女性の哲学者・言語学者)の哲学における、数学や論理、科学(流体力学など)
の使用方法が出鱈目だと、ソーカルが滅茶苦茶、批判していて、ほとんど
お笑いの域に達していた。ただ公平を期すると、ソーカルにも少し問題が
あると思うんだよ。なぜなら、哲学という宇宙なり概念空間において、
ソーカルのような科学の視点だけでそれを誤っていると断罪してしまうのは、
どうなのかな、と感じるから。
そもそも科学や数学と哲学ではゲームのルールが違うのだから。
ただ、イリガライは女性における科学の不可能性を牽強付的に
フェミ思想にも結び付けていたようだから、そこは確かに極端では
ありそうだが。科学では扱えない哲学的な内容を科学や数学のタームを用いて
表現すると、多少はポエムっぽくなるのも仕方ないかもな ヴェイユ妹のなりきりみたいで微笑ましいな
まあ愚弟だと本格的にガッカリだが女や女の腐ったような人文ならたいていの兄は許容範囲だろうし 文学部哲学科って暗いし殺伐としてるし病的な奴多いしキモいよ。
自分がわからないことを人もわからないとタカを括って知ってかぶりしてマウンティングだろ。
周りを煙に巻くために理数系の用語を使うけど理数系の人には知ったかぶりがバレバレ。
自分の知ったかぶりがバレないように相手をやり込める手法ばかり考えているのかね?
まあ、殺人予告と自殺予告はやめてくれ。 本だけ読んで哲学した気になっちゃだめだろ。常日ごろ
他人ははらわたのちぎれる様なみじめで悲しい思いをして
自分の信念をつかんで生きてるんだから 教養教員やら左翼のじいさんばあさんに信念なんてないだろ
せいぜい自分のポストを現実社会がどうなろうとも死守する以外はなーんも考えてなんていない たぶん、文学や哲学などは、どこか性格に鬱屈した部分があったり、変人的な要素が
ない人らには、どうでもいいものなんだよ。だから、リア充でこの世に自足している
ような連中や明朗で素直な人間には哲学など用はないものだろう。その極端な例が、
ここで自殺なり、殺人なり、多重人格の演技性自己愛障害の人がいたが、あのくらい
狂った人間でないと、哲学とか本格的にコミットできないのかもよ。
ニーチェとか発狂してたでしょ。屈折した物の見方やひにくれたニヒリスト、
斜めからものを見るタイプは哲学向きだな。だから、普通の人は適度な距離感が
いるだろう。中島義道とか見れば分かる通り、明らかに人格がおかしいよ。
明るいのが嫌いと言ってたな。性格のことだけど。
ならば数学好きは、どんな性格なのか。 余計なことを気にしない方がいいよ
特に相手を利用しようとして首突っ込んでくるのは止めようね 数学なんて要は単なる数遊びなんだから、
哲学なんかとは全く関係ないと思うけど...
昔の日本の数学者って育った時代の雰囲気もあるのかも知れないけど、
何でもかんでもやたらにものを深刻に考える傾向があるみたい。
自殺した新谷卓郎先生とか自殺はしてないけどw上野健爾先生とか。
欧米の数学者はただ単に数遊びが好きだから数学者になったって感じだけど...
日本の数学者ってたいがい変わってるね。 数より幾何なんだけど
あんまり頭よくない人は数とか式とかそっちばっかり気にするよね >>201
お前が今やってるインターネッツもその数字遊びの数学のおかげなんだがな 文系の哲学が理数系の用語の意味を誤解するくらいならまだましな方で、
最初から理解する気がないとしか思えないように見えるのが酷いと感じる。
ラカンとかがそれ。
最初から用語の意味なんかどうでもよく、周囲の人を煙に巻けばいいと思っているようだ。
理数系の人から見ればデタラメであることはすぐわかるのだが、理数系の人は読みはしないだろうと思っているのか、
何か言われたって無視していれば、その批判を周りの文系連中はわからないから大丈夫だろうとタカを括っているのだろう。
そこを有効な批判手段を考えついたのがソーカルだったわけだ。 ソーカル事件は大陸系の哲学者たち(=ポエマー)が適当に科学用語使うのを咎めたのであって、科学哲学と科学哲学者を咎めたわけではないことを勘違いしているやつが多いね
科学哲学やってる人間は元々理系だった人が圧倒的に多いよ アメリカだと科学者/数学者 兼 科学哲学者/分析哲学者の人間はいまだに結構いる 時間で考えてみると、数学、科学、哲学のアプローチの違いが分りやすく
なるかもしれないよ。
数学は、時間を定量化しうる客観的な物や実在だと考える。
アインシュタインの一般相対性理論では、質量のある物体は周りの時空を曲げる。
ここでも、一応、客観的な時間の存在は想定されている。
哲学では、ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
ハイデガーにも似た概念があり、それは実存論的時間概念という。
根源的な時間という真の時間が主体に現れる・到来するのは、その実存が
本来的な自己となった場合に限られるようだ。簡単に言えば、真に自分らしく
生きている時に、充実した真の時間が現れるということ。世間での一般的な
生き方の模倣の中には、真の自分も真の時間もないとハイデガーは言っている。 ハイデガーの思想によると、人間には「本来的な自己」と「非本来的な自己」
の2者があり、多くの人間は後者の非本来的な自己を生きることが多いらしい。
それを一般的な感覚で表現すれば、人生よりも生活重視ということになるだろう。
ゴシップ、井戸端会議、スキャンダル、流行、こういう目先の気晴らしの刺激に
振り回され続けるのが世間や非本来性の内にある自己で、それでは駄目だと
この哲学者は言っている。
すなわち、数学や科学はそれを解する万人に共通する物差しを提供するのに対して、
哲学は、その哲学者が提供する主観的な物差しに共感するか、しないか、の違い
というのはあるだろう。その哲学者の特殊な物差しから見えてくる特殊な世界と
いうのがあって、それに価値が見出せるか、それにかかわるのは時間の無駄で
無価値だと思うかの違い、ということだろう。だから好きにすればという感じ。
ただ、数学も哲学も物事の本質にアクセス・到達しようとする営為は一致していると
思うので、排他的論理和となるような関係ではないだろうよ。 >>210
>数学は時間を定量化しうる客観的な物や実在と考える。
そうは考えてないから。 >>1
>数学と哲学は(開)近傍にある、
ないから。
数学では開近傍という用語はあるがきちんとした定義があって、上のような用語の使用は全くデタラメ。
哲学で何か別の意味で開近傍という用語があるのか?近傍であって特に開近傍であるというその意味の違いは?
ラカンとかはこういうデタラメな数学用語の使い方をしていてソーカルに馬鹿にされている。 >>212
言い方がおかしかったね。通常の時間は、数学的な概念を使って
定量化や観測できるという意味。
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。
1.時刻。つまり、時の流れの中の1点のこと。
2.ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。
3.空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式を
なすものであり、一切の出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの。
つまり時間は、点や長さ、空間の概念を用いて表せるので、ユークリッドを
引き合いに出すまでもなく数学的に表せる。だから時刻や時間はプログラミング
で定量的に操作できる対象にもなる。なお、時間の流れに関しては、
過去から未来へと流れているとする時間観と、未来から過去へ流れているとする
時間観の2つがあるようだ。 Two charts on a manifold, and their respective transition map >>210
>ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
>定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
これは心理学の話題だな。 >>217
>>210がいっていることは心理学の話題に含まれる。
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間があることは、
心理学の話題に含まれる。時間をどう感じ(てい)るかは心理学の話題。
むしろ、心理学の話題として認知されていると思う。 >>217
それで、>>210が>>214でいっていることは、
心理学への数学の応用の話題になっている。 ある2つの点や集合が近いとか遠いというとき、そこには暗黙裡に距離の概念が
介在していると思うのだけど、この距離という長さに関してもその定義の仕方で
いろいろと異なった数学概念上の表し方が出来るだろう。
たとえば、リンゴとメロンの間にある質的距離であったり、数学と哲学にある
質的距離。各集合の内実に該当するいくつかの性質を要素や元として考えると、
その距離というものが近似的に論理として表せるのかもしれない。 数学を使った距離概念だと、2点間の距離はピタゴラスの定理を使って
表せる。微小距離の線素dsもそれで表せるし、ユークリッド幾何学では
このピタゴラスの定理で距離が定められている。ボヤイとロバチェフスキー
による双曲幾何学の概念を使えば、またそこから違った距離の概念を導き
出せる。その一つにあるポアンカレ円板モデルやクラインのクライン模型、
ポワンカレ上半平面模型、ベルトラミの擬球上では、無限遠点を伴うような
また別の距離が導き出せる。
あと、集合同士の距離なら、近傍サークルを定義したい時に使われる
「ハウスドルフ距離」という概念がある。これを実際の地理情報にそのまま
適用すると計算負荷が異常に高くなって非実用的になるので、、地形を複数の
ポリゴンに分割して、各ポリゴンの重心(代表点)を求め、そこから2つの
ポリゴンの重心間にある距離をもとに近傍やサークルとして考えていく、という
ハウスドルフ距離の近似的な計算のアプローチを取る。つまり、ハウスドルフ距離は
本来であれば2つの集合間の最短距離を定めたものの内から最大値(距離)と
なるもののことだけど、その近似的表現で地理上の近傍サークルや距離を
新しく定義したということ。
つまり言いたいことは、距離概念一つとってみても計量の概念を変えるだけで
いろいろと定義出来るということ。リーマン計量みたいな概念を使えば、
そこから「リーマン多様体」のように無数の幾何学も構築できる。林檎とメロンの
質や外観、カテゴリーに内在している距離や学問間にある距離、心理的距離というのも
数学上の概念を使って計量化できるかもしれない、という観点だよ。 距離関数、距離空間の用語ひとつで終わる話を長々とご苦労さん 行動心理学の成果は行動ターゲティング広告に使われている 数学が実在的か否かはともかく、とりあえず数学は人々に客観的なものであると
認知されている。それに対し、カントやニーチェの哲学では客観性=真理性
そのものの存在に対して否と言う。カントであれば、真の客観性や真理性は、
ブラックボックスとして「もの自体」という未知の領域Xにあるものと措定されるし、
ニーチェであれば、真理のすべてはパースペクティヴや解釈の違いによる現れの違いに
過ぎず、真理だと呼べるものは、この世界や宇宙には何一つ存在しないと述べている。
古典論理やライプニッツ、デカルトの近代数学の完全性などは、その真理の保証人
として、暗黙裡に神を前提としているのだろうけど、ニーチェの場合は「神は死んだ」と
なるので、そういう真理性の保証人となるような絶対真理みたいなものはない、と
いう立場になる。すべての真理はその主体との相関項で現れる相対的な暫定的なもの
(暫定・相対的な真理。だからその観点だと、数学も真の客観性を表すものでなく、
相対的で道具的、あるいは、有用・有効性の中において捉えられるものだという
解釈になる。
複雑な現代数学などは、むしろ、この相対的な真理性の方に入ってくるのではないかな
と感じているのだけど、違うのか。ゲーデルの不完全性定理もこっちに入りそうだけど。 ラッセルもゲーデルもプラトンのイデア論を源泉とする数学実在論者だから、
彼らの哲学的な立場では、数学は「イデア(真実在)」にあるようなものだと言えよう。
その意味は、数学を用いる人間という相関項や心がなくても、
それとは独立に数学自体が存在しているということだ。 数学より 1 の方が。第一に優先事項だ。高価で、可能性は大きい。 哲学者はもう1を手に入れることができないのかどうか。 文系だった時期あるから理系の方がよくできるという評価でした。 高等中学 付属 総合/専門カリキュラムだったけど。趣味は環境ビジネス。 数学が相対的に正しいかを問題視することは、例えば、√2 は有理数か無理数か? というように、
対象として数学的に見ても、大昔からあった無理数の存在性を問い返すのと同じようなことだわな。
有理数だけでは数学の理論体系の範囲はかなり狭まるから、通常は相対的に正しいかどうかは問題視しない。
いうまでもなく、数学が出来る人の中で、√2 が無理数であることに異論を唱える人は殆どいないだろう。
ニーチェとほぼ同時期に、数学者同士でも無理数の存在性をめぐる有名な論争があった。 ラッセルは数学の持つ必然性を説明するために、数学を論理学に還元しようとした。
それを現在の区分から言えば、正確には論理学と集合論への還元にあたるが、
ラッセルは集合論において、集合という外延的な存在者を認めず、命題関数という
内包的存在者を根本概念とした。これにより、数や集合という存在者を認めず、
個体と命題関数、命題だけを存在者として認めることにより、数学に解釈が与えられる
ことになる。また、論理学と集合論の公理さえ認めれば、数学の公理や定理をそこから
演繹することができる。こうした試みは「論理主義」と呼ばれ、ヒルベルトの
「形式主義」、ブラウアーの「直観主義」と並んで、20世紀初頭の数学の哲学の
代表的な立場の一つだった。 ここにラッセルの判断論を図式にまとめてみよう
関係<R>が対象<a>と<b>を関係付けているとき、そうして構成される事実を
<R (a,b)>と表記する。ここで()は、関係が作用する範囲を表すだけで、
独立して存在できる対等のまとまりを表していないが、<>で括られた部分は
独立して存在することができる。
「オセロ」、「デスデモナ」、「キャシオ」、「愛する」、「信じている」
という表現が意味する対象や関係をそれぞれ、<o>,<d>,<c>,<L>,<B>とする。
オセロが「デスデモナはキャシオを愛している」と信じている、という事実は
どのような構造をしているのか。 ラッセルの理論によれば、それは次の事実αである。
<B (o,<L (d,c)>)> ……α
つまり、<o>と<L (a,b)>という2つのものを<B>が関係付けていることになる。
また、別のラッセルの理論によれば、
<B (o,L,d,c)> ……β
となる。(対象と関係の一つ一つに<>を付けるべきだが、式が煩雑になるので省略) αは<L (d,c)>というオセロが信じている内容となる命題という部分を持ち、
これはαから独立して存在することができる。またオセロがもっと複雑なこと、
たとえば「デスデモナはキャシオをその若さゆえに愛している」と信じたとすれば、
命題となった部分の構造が複雑化するが、信じるという関係<B>は、オセロと命題の
間の二項関係のままである。
一方βは、そうした命題という独立して存在可能な部分を持っていない。
<L (d,c)>というものが仮にあったとしても、それはβの構成要素でなく、
その外部にあってβを真にするような事実である。そして、オセロの信じることが
複雑になればなるほど、関係<B>が関係付けるものの数も増える。そこでこの理論は、
多項関係理論と呼ばれる。 >>236 ふーん、そうなんだ
ただ、ラッセルやゲーデルの数学の哲学的立場は、数学実在論だと思うよ。
つまり、数学的な真理はアプリオリに実在している。だから各々の偉大な
数学者は、その数学的な真理をアプリオリを発見したのであって、
それを発明、創造したのではないだろう。たとえ、それが数学者同士での論争の末に
決着がついたものであれ、それはアプリオリに数学的な命題や真理としてあった、と
想定してみてもいいだろう。 たとえば、ギリシアの3大作図問題の一つに、角の3等分問題がある。
この場合、与えられた量の3乗根を求める必要があるためコンパスと
定規だけでは作図不可能であることが知られている。
「定規とコンパスを使って作図」とは、(1)定規は2点を直線で結ぶ(目盛りは使わない)、
(2)コンパスは円を描く、(3)あくまでも手順は有限回である、ということを意味している。
さらには、「作図可能」とは、全ての角において作図可能ということであり、
例えば、直角( 90度)のような特定のケースだけ、作図可能であっても答えにはならない。
1837年に、フランス人数学者ピエール・ローラン・ヴァンツェルによって解決されたもの。
それで、頂点の数が素数の正多角形で正3角形と正5角形はコンパスと定規で作図可能
なのはユークリッドの時代から知られていて、それから長い間、コンパスと定規で
作図可能なのはこの2つの図形だと考えられたいた。でも、ガウスは正17角形も
コンパスと定規で作図可能なのをある朝知った。つまり、ユークリッドの時代から
2000年も経て、その数学的真理を発見した。
だから、数学は創造ではなく、アプリオリに存在する真理の発見だと考えてみても
いいだろう。 >>237-242
数学は、神が独立に人間の精神の中に認識出来るように創造した、という広く広まっている見解をいいたそうだ。
ゲーデルは無神論者かどうかは正確には知らないし、取り敢えず、ゲーデルの数学実在論ではこの見解は通ると思う。
だが、ラッセルの哲学に則って、仮に、神が独立に人間の精神の中に認識出来るように数学を創造したとする。
すると、ラッセルは有名な無神論者だったから、ラッセルの哲学に則った上での見解では矛盾が生じる。
論理に一貫性がなくなるから、背理法が適用出来る。
よって、ラッセルの哲学に則ると、神の代わりに或る何かxが存在して、上の見解(仮定)は
或る神とは異なる何かxが存在して、数学はxが独立に人間の精神の中に認識出来るように創造した、という見解になる。
この神とは異なる何かxは何か? というと、xは神を創造した何かいわゆる神の創造者と解釈することになると思う。
なので、ラッセルの哲学に則ると、数学は、神の創造者が独立に人間の精神の中に、認識出来るように創造した
という見解になるであろう。この神の創造者(x)に基づき、X={ {x} | {x}⊂{x} ではない } という集合を構成する。
1):{x}∈X とする。すると、Xの定義から {x}⊂{x} ではないことになるので、矛盾が生じる。
2):{x}∈X ではないとする。すると、Xの定義から {x}∈X という条件も満たすので、やはり矛盾が生じる。
1)、2)から、何れにしても矛盾が生じる。この矛盾はXを構成したことから生じたから、背理法が適用出来る。
従って、背理法により、構成した集合Xは構成出来ないことになり、集合Xは存在しないことになる。
このようにして、ラッセルのパラドックスと同じようなパラドックスが生じる。
ラッセルの哲学の数学実在論に則ると、このパラドックスはxの存在性を仮定したから生じたから、
ラッセルの哲学の論理としては、背理法により、数学を創造した何か(数学の創造者)xは存在しないことになる。
従って、ラッセルは数学実在論者ではないといえそうだ。
上の議論では、人間は哲学することがある生物であること、及び人間は神を認識することがある生物であること、というごく自然な2つのことを仮定した。 >>244
数学と神が同じ意味としても、人間は哲学することがある生物であることを仮定すれば、
文章の表現の形は変わるが、>>243と大体同じ議論になる。このときは、>>243のx(数学の創造者)は「数学」になって、
同じようなパラドックスが生じる。そして、数学は存在しないという結論に至る。
これでは、数学の概念や定理などを発見しようがなくなるから、
やはり、数学と神が同じ意味だったとしても、ラッセルは数学実在論者ではないといえそうだ。 人間を形而上の存在として扱うのは違和感がありますね
仮に言語が形而上の存在であるとして
人間は進化の過程でたまたま言語という存在を探り当て獲得したのが正解でしょう
人間は根元的に山師だと思う 哲学をする上で、人間を形而上の存在として扱うかどうかは、立場の問題に過ぎん。
ラッセルは論理学者だから、ラッセルの哲学を考えるにあたっては、
論理的に議論を進めるのがよいだろう。 数学というイドラもスピノザの神もかなり早い時期に考察されてる 哲学の板にもここと同じ名前のスレが以前からあったから、
哲学の板にあるこのスレと同じ名前のスレで議論するのがいいんじゃないか?
神学の話は詳しくは知らん。 私は言語普遍性を信じる立場ですので
宇宙人が知的生命体であれば同じように言語を獲得するでしょうし、数学を獲得するでしょう
人間語と宇宙人語で相互に翻訳可能なはずです、細かいレトリックを除いて 数理的に記述された物理法則がねじ曲げられるようなマンガちっく異世界だといいね >>243
ラッセルは哲学者でもあるので、プラトンのイデア論のような考え方を支持していますよ。
まず、私が数学実在論というのをどういう意味や観点で述べているのかを
説明してみます。たとえば、地球は地球上に人類がいなくても、いなかった時代でも、
地球として実在していますよね。つまり、地球を認識する主体が宇宙に存在していなくても、
地球は実在している。人間がいない時の呼称は、もちろん地球とは呼ばれてはいないけれども、
今の地球と呼ばれるものと同じ惑星が実在していた。
数学実在論もそれと同じです。たとえ数学を扱う人間や主体が世界にいなくても数学は常に
実在している。地球に類人猿しかいなかった古代においても数学は実在していただろう、
という観点です。あと、数学実在論はその源泉として、プラトンのイデア論がある
という考え方は、イデア界という一種の完全な天上世界が想定されていて、そこにこそ
すべての本質や真実在、数学的真理があって、私たちの感覚器官で認識できる物や概念、
現実世界は、その完璧なイデア界の不完全な投影図に過ぎないというのが、プラトンのイデア論です。
つまり、数学や論理の一部に矛盾があることは(ゲーデルの不完全性定理、ラッセルのパラドクス)
、イデア界の完全性を破綻させ矛盾に追い込むものでなく、むしろそのことで斉合性を
得られると考えられます。なぜなら、私たちの住むこの世界や人間、人間が構築する概念は
不完全であり、完全なる真の世界はイデア界にこそある、という理路だからです。 私たちは五感で捉えられるこの世界や宇宙を完全なもの、普遍で現実そのものだと認識するけれど、
たとえば、目の見えない人や耳の聞こえない人のように感覚器官が一部制限された人たちの
ことを想像してみるとイメージが掴みやすくなるかもしれない。その人たちにとって、
この世界や宇宙は五感を自由に使える人たちと比べると、不完全な形で表象されている訳です。
それと同様のことが五感を使える私たちにも言えて、五感以上の感覚器官やセンスデータが
付与されれば捉えられるようなイデア界のような完全なる天上世界があるにもかかわらず、
それを五感や身体という、ある意味で、感覚器官が一部制限された状態にある人間には、それを
十全には認識できないと思考実験してみれば、私たちの五感だけでは世界の実在を完璧に捉える
ことが出来ない、と言えなくもないだろう。
このように言うと神秘主義的な話に聞こえるけど、実はそうでもない。たとえば、
棋士とAIが電脳戦を戦って、AIの差す手があまりにも斬新で将棋の定石や歴史にないものであり、
名人でもそのAIの指すアルゴリズムや意味を解読できないような一手があったりする。
そして最終的に、そのような奇手を放ち続けるAIが名人に勝利したりする。
このことの意味は、人間の既存の認知機能では解析出来ないレベルのAIのアルゴリズムや
ゲーム戦略がブラックボックスとしてAIには実装され、実在している、ということが分る。だから、
人間の脳に将来AIチップでも埋め込まれることになって、その認知機能が拡張したり、
人間の知能が飛躍的に高まれば、これまで分からなかった種類のアルゴリズムが解読できるように
なるかもしれない。そして人間には解析出来ないそれらの高度なアルゴリズムは常に最初から
実在しているのだけど、認識する人間の側が不完全であるので、それを現状では解読できない、
という理路になる。これが少し形而下的に表現したプラトンのイデア論のイメージ。
神はややこしくなるので、話から割愛しました。 >>253-254
数学実在論は、
@:認識出来る数学は無条件に実在することが仮定されていて、不完全な人間は数学を認識出来るに過ぎない、
という考え方か。どうやら、数学実在論では、認識出来る数学の存在性の証明は出来そうにないわな。
つまり、「数学の無条件な実在性の仮定」の「仮定(されていること)」を外して、数学実在論を、
A:認識出来る数学は「無条件に実在して、」不完全な人間は数学を認識出来るに過ぎない、
という考え方だと書き直すことは出来そうにないわな。
(もし出来るなら、「数学の無条件な実在性」の証明をして、@をAに書き直してみてほしいが)。
ここに、@とAとの間には、数学の無条件な実在性が「仮定されているか否か」という点において、
微妙なニュアンスの違いがあることに注意してほしい。
例えば、コップがあると仮定することと、コップがあると断言することが違うように、
仮定するのと断言するのとでは意味が違うだろう。
まあ、認識出来る数学の無条件な実在性の仮定の問題に帰着するだろうな。 >>254
バカが治って真っ正面から数学理解できるようになるといいね >>255
イデア界の実在の証明なんて出来る訳もないので、あまり厳密に考えないで、
一種の思考実験や仮想現実くらいに受け止めればいいのかと思われます。
「欲望の時代の哲学〜マルクス・ガブリエル 日本を行く〜」
http://www.dailymotion.com/video/x6ou6zm
なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/1/13
マルクス・ガブリエル (著) 清水 一浩 (翻訳) ベストセラー1位- カテゴリ 講談社選書メチエ
思想界では、新しい実在論がブームになっているらしい。上記の動画では
科学的な一元論や近代合理主義、高度資本主義が人々を抑圧する装置として
作動していると分析し警鐘を鳴らしている。多元的実在をすべて包括するクラス
としての世界は存在しないと、この哲学者は述べている。なぜなら、
そうした世界が存在するには、それが存在する意味の場が必要になり、
論理的な構造上、すべての実在を包括する世界自身は、その意味の場に入れないので、
それは意味をなさない、すなわち世界は存在しない、という理論になっている。
ラッセルもタイプ理論と記号法、クラスについての考察で似たことを述べている。
幾つもの命題関数を包括するクラス自身をそのクラスの要素として、他の
命題関数と同じように「ある」とはみなせないし、そうみなしてしまうことで、
それが言明として無意味になると述べている。張り紙禁止と書かれた張り紙は、
その言明をクラスとしての自分自身には適用しないことで、それが無意味な
矛盾した言明になることを暗黙のうちに回避している。
つまり「ある」においては、それに対応する別の階層の型があるという観点で
ラッセルの型理論の考え方だろう。オブジェクト指向のプログラミング言語でも
クラスの概念が使われているけど、そこでも類似のロジックが使われていると
言えるだろう。ラッセルは、このようにクラスの記述は、不完全記号であると
述べている。 >>257
半年前に国内でも広まった新しい実在論の話があったのか。
その実情の背景には、行き過ぎた工業の発展や人工知能(AI)の進歩により、個人の意味が問われたことがあるようだ。
だが、そういう時代の流れに乗らずに、レトロな生活をしている人も多くいる。
例えば、生活で使える環境にあるにも関わらず、今でも、パソコンやインターネット関連の製品は勿論のこと、
スマートフォンや携帯電話すら持たずに生活している人はいる訳でな。首都圏にもそういう人はいるようだ。
例の実在論の話は、そのような人にとっては、何かのきっかけでその話を知るまで、分からないんじゃないかね。
まあ、頑張ってな。 型理論ってラッセルが考案したんだな、知らなかった
圏論学ぶ哲学者がいるって聞いたけど、どんな風に使うの? ttps://note.mu/kuragem/n/n19ac075929cb
考えない日本の私 ? さとり世代として
くらげ 2018/05/22 07:35
「和を以て貴しと為す」というのは非常に美しい言葉ですが、
近代の日本人はこれを曲解して、
「全体の調和のためなら個人は犠牲になっても良い」という意味に捉えています。
「全体」のために犠牲になる個人、というとまるで戦時中のようですが、
結局のところ、日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっているような側面があるように見えます。
先ほど、「日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっている」と書きましたが、
正確には、「日本人は本質的に全体主義と相性が良い」のだと思います。
日本の教育課程では、理系科目を別にすれば、「論理」をほとんど扱いません。
理系科目にしたところで、問いに「論理的に答える」手法を扱うだけで、
「何かを論理的に考える」または「何かを論理的に主張する」といった手法は扱いません。 「どうしてこのような状況に陥ったのか」については、知識がないので議論することができませんが、
現状の問題として、日本人は論理的な思考や主張の手法を
(少なくとも中等教育まででは)あまり身に付けることができない、という事実があります。
全体主義は、目標と、そこに至る道のりがはっきりとしている時には機能するように思われます。
明治維新以降、日本には常に目標がありました。
それは例えばいち早く西欧に倣って近代化を達成することであり、
国体を護持し領土を拡張することであり、焼け野原から復興することでした。
しかし、日本はここに来て、はっきりとした目標と道のりを失ってしまったのです。
日本が掲げた目標は、どこかでは既に達成されていたか、
あるいは達成の手法が外部から指示されたものだけでした。
目標と、道のりがはっきりしていたわけです。 むしろ、さとり世代の特徴は、
「最初からいろいろなことを受容して、諦めている」という部分にあるのではないかと思います。
校内暴力や学生運動といったムーブメントが再び起こらないのも、
いろいろなものを「諦めて」いるからです。
不満があってもそれを変化させる方向にはエネルギーを使わず、受容し、
諦めることにエネルギーを使っているのです。
まさしく、ある意味で悟っているのです。 こうしたさとり世代の特徴は、「考えない日本」の極致のようなものだと思います。
私たちは考え方を知らず、考えることをしない社会に生まれて育っています。
何かを変えるためには、自分の頭で物事を考えなければいけないし、その能力は私たちにはない。
ついでに言えば、何かを考えないと明日食べるものがないわけでもない。
成熟した先進国にあって、考えない私たちは、物事を「そうである」ものとして受け入れる外ない、
ただ漫然と毎日を過ごす満足した豚です。
日本の本当の絶望は、少子高齢化とか人口減少とか経済の低迷などではありません。
本当の絶望は、誰も、そういった課題を解決する道のりを立てられず、
仮に物事を考えられる誰かによって策が立てられたとしても、
その実行を決断できる頭脳がないことです。
私は、このことに思い至る度に、すごく嫌な気持ちになるのですが、
それと同時に「まあ日本の将来なんてこんなもんだろう」と諦めている自分も存在し、
そしてカラオケにでも行ってこんなことはすぐに忘れてしまうのです。 >日本の教育課程では、理系科目を別にすれば、「論理」をほとんど扱いません。
>理系科目にしたところで、問いに「論理的に答える」手法を扱うだけで、
>「何かを論理的に考える」または「何かを論理的に主張する」といった手法は扱いません。
>現状の問題として、日本人は論理的な思考や主張の手法を
>(少なくとも中等教育まででは)あまり身に付けることができない、という事実があります。 数学科に入ったら先ずは既存の数学を理解するため必死に勉強するしかない。
これって、考えていることにはならないのでしょうか? エネルギーを使った模範として校内暴力や学生運動があがるような文を書くような人の言うことを鵜呑みにする必要はありません わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
(白取春彦「勉学術」) >>41数学哲学物理学の間には共通した何かがあるかもしれな
数学も哲学も物理学も自然現象を対象にしてるけどね >>41数学哲学物理学の間には共通した何かがあるかもしれない
数学は自然現象を対象にしてる
リンゴにとっての自然現象と
コップにとっての自然現象がある場合
数学がリンゴをコップに変えても普遍な自然現象を対象にしてる
(抽象化の概念) 5chのみなさんへ
満州先生の新著が出ますので、お知らせします。
「相対性理論はペテンである/無限小数は数ではない」
アマゾンのみの販売で限定百部です。
予約された方には特典として
私の生写真とパンティを差し上げます。
満州先生の秘書兼愛人おぽかたぱるこ 前にこれと似たようなスレで数学の人に論破されて殺人予告と自殺予告してた奴どうなったんだろうな? 高遠レイパーゴキブリるい劣等遺伝子近親相姦ニホンザルヒトモドキをの首を切れ殺せ 2chのお利口なみなさんへ
「相対性理論はペテンである/無限小数は数ではない」
のアマゾンレビューが出ました。
(一部のみ抜粋。詳細はアマゾンをご覧ください。)
「無限小数は数ではない」
これは「無限小数というようなものは実際は存在しない」
「無限小数は数として存在できない」ことを証明し、
カントール実数論のインチキを暴いた論文である。
現代数学はカントールの実数論の上に組み立てられているから、
この論文によって現代数学はガラガラと音を立てて崩壊する。
「解析学の大錯誤」
これは「一般的な無限小数には極限値はない」ことを証明した論文である。
この単純な事実によって、たとえば「有界な単調数列は収束する」
等の解析学の基本公理がすべて崩壊する。
その他、著者は「カントールの対角線論法」
「ゲーデルの不完全性定理」「ラッセルのパラドックス」
「射影幾何学」「非ユークリッド幾何学」
等を否定しているが、その論拠は実に単純な明快である。
わずか100ページ足らずの小著だが、世界を変える偉大な著作だ。 相対論は確かにインチキだろうが
実数とか射影幾何とかは実在するだろ 哲学の場合は
哲学する主体である自己の存在証明「我思う故に我れ有り」が最初にくるのだが
これは自己言及の形になってる
数学の場合は存在公理(同一律) ∃s〔s=s〕 が有り
自分は自分であるという感じになってる >>290
逆。
我在り、故に我思う。
だぞ。
在りの方が先になる。
対偶を取ると、
我思わなければ、我在らない。
なので。 491色川高志「井口千明の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」2018/10/18(木) 18:33:15.90ID:78662J73
龍神連合五代目総長・井口千明(葛飾区青戸6−23−19)の挑発
井口千明「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合四代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)
492盗聴盗撮犯罪者色川高志(青戸6−23−21ハイツニュー青戸1032021/02/03(水) 13:53:22.55ID:QtP78E4Z
●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父の逮捕を要請します」
長木親父&長木よしあき(盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−20
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父
高添沼田ハゲエロ老義父の住所=東京都葛飾区青戸6−26−6
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110
盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父の盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/愛人変態メス豚家畜清水婆婆(青戸6−23−19)の
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そして、大量浣腸。 勢い良く噴出!腸内洗浄状態です。
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