数学を初めとした理系の学問と哲学について
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数学と哲学は(開)近傍にある、もしくは、そこに類似の学的構造がある
ということは無いのかと考えて、数学板にスレを建てました。
ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、
ホワイトヘッド、フレーゲ、クリプキ、ゲーデル、パスカル、ベルクソン、
ブール、パースetc.と、数学者と哲学者と兼ねた人物が多かったり、
数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多いのではと思い、
共に高度な論理性と抽象性が要請される点など、両者には共通の構造が
あるのか否かをここでじっくりと考えていきたいと思います。 >>22
対象から本質と構造を抽出するという点で、数学と哲学は案外似ているのかも 数学⊂哲学ではあるかもしれんが、哲学⊂数学ではないな。
哲学なるものは雑多な寄せ集め過ぎる。 >>27
日本では日本の方が有名だし、中国では中国の方が有名ですよ。 >>26
それは似ている点ではなく両者が属すカテゴリの性質だ
ほとんどの学問に共通している
物理:対象(物理現象)から本質(支配法則)と構造(記述する数式)の抽出
文学:対象(文学作品)から本質(作者が伝えたかったこと)と構造(表現手法)の抽出
等々
数学と哲学では対象も本質も構造も抽出方法も異なる >>30
>数学と哲学では対象も本質も構造も抽出方法も異なる
それなのに、歴史上の著名な数学者は、なぜ哲学者も兼ねているのだろう、
というのがこのスレの趣旨じゃないのかな。異なるように見えて、数学と哲学の
間には、実は位相不変量のある同相写像のような同相構造があるのではないか、
という話をしている。>>22の人も述べている通り 有名人なら誰でも我がことの如く振る舞う神学のはした女肥溜め吹き溜まり >>29
そういうことじゃなくて、世界的に見て、一番有名な国はどこかという話です。
やっぱり1位はアメリカになるのでしょうか? ていうか単純に数学を始めとする理学系の学問も哲学も「真理の探究」っていう部分が同じなんでしょ >>31
哲学と数学の似た構造を話し合うスレで学問全般に当てはまる的外れなことを言ってたから指摘したまで
トマトと私について語るとき「トマトと人はともに地球上にあるから案外似たようなもの」というのは過度に一般化しすぎているだろう?
著名な学者が複数の分野で業績を残している例はよくあり、また数学者かつ哲学者であった人より数学者かつ物理学者であった人の方が多い
そのため哲学者兼数学者がいてもそれは特筆すべきことではない、と感じる
なぜ殊更に哲学と数学に共通構造があると考えるのか説明してほしい
>>22も
>哲学と数学は紙一重や
の根拠を教えてほしい
このスレで哲学と数学に共通した何かがあると述べている人はいずれも、学問全般に共通したことを述べているか理由を述べていないかのどちらかだ >>36
その理屈が正しいのなら、>>30が例で上げているような文学者が数学者をも兼ねているケースがもっと見られないと矛盾しないかな。美学者が数学者を兼ねているケースや法学者(ライプニッツは例外的に該当するけど)が数学者を兼ねている例がもっと
あっても良さそうな気がするけど。ベイズとかは牧師でもあったので、そこに神学者の要素を見ることも不可能ではないと思うけど。数学者かつ文学者は、少ないんじゃない。サルトルは哲学者かつ文学者だけど、数学者ではないというパターンだけどね。 エリオット・ソーバー(Elliott Sober, 1948年 - )はアメリカ合衆国の哲学者。
ボルチモア出身。ハーバード大学においてヒラリー・パトナムの下で学び、Ph. Dを取得。
現在はウィスコンシン大学で教鞭を取り、1989年よりハンス・ライヘンバッハ教授職、
1993年よりウィリアム・ヴィラス教授職を勤めている。2003-2005年にはアメリカ科学哲学会会長。
専門は生物学の哲学および統計学、確率の哲学。生物学の哲学においては、自然選択説、
系統分類学の方法論、最適化理論、利他主義の進化や集団選択、創造論やインテリジェント・デザインなど、
統計・確率の哲学においてはベイズ主義や尤度主義、あるいは赤池情報量基準(AIC)などに基づく
モデル選択などを巡る論文・著作を多数発表している。 >>36
>>20に対しての>>22であって>哲学と数学は紙一重っていうのはあくまでも個人的な考えやろ
スレタイに対して「哲学と数学には共通部分があります!」って言ってる訳でも無いんだから根拠はいらないだろうに
一個人的考えに根拠を求める必要性も根拠の提示の義務もないやろ >>37
確かに指摘通りだ。私が間違っていた
哲学者兼物理学者も多かったから数学哲学物理学の間には共通した何かがあるかもしれない
>>40
説明義務は無い
ただどうしてその考えに至ったのか気になったから根拠を求めた >>41
数学・哲学・物理学を論理積で考えていけば良さそうだね 哲学なんてポエムだろ
学問と呼べるものではない
ましてや数学と比べるなんて笑える 教養過程教員ぐらいだからなあ
哲学に変なロマン持ってるの。 数学と比べられたと思い込むあたりでお察し
教養も余裕もない 哲学一本で食えよ。数学だけはダブるな。ダブり要らない。 客観的認識能力より、主観の方が絶対速いわけで。共存共立しないからね。 日本の哲学者は哲学者ではなく
「哲学者学者」ばかりだ 数学は、公式の意味をどこまで深く考えるかがあると思います。結構苦痛なので、数学苦手な子は、もうこのへんで、次の機会にな!どと逃げます。公式の意味をしゃぶり尽くすほど味わえる人は当然数学得意だらうし、哲学でも考え続けるイメージ >>1 ベルクソンはどういう意味で数学者と呼べるんじゃ? ベルクソンは数学者ではないけど、数学について哲学しているよ
ベルクソンの純粋知覚や純粋記憶の概念は、現代の脳科学や人工知能の
考え方と近いと述べている学者もいるよ >>57
そんなことを言い出したら、シュペングラーの『西洋の没落』も数学史から始まるし、
フッサールもドゥルーズも数学の本質に関する思索をしてるわけでしょ。
そもそも、現代科学に取り組もうとすれば、何らかの形で数学と向き合うのは自然なわけで、
それだけで>>1みたいに数学者の範疇に入れてしまったら、
現代科学に論じる人間は、ほとんどが数学者になってしまう… >>58
>>1には、> 数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多い
と書いてあるよ。つまり、ベルクソンやドゥルーズらはそれに該当するので、
>>57は別に矛盾した記述ではないんじゃないの。だから、正しく表現すれば、
現代科学を論じる人間は、ほとんどが数学的思考を有しているだろう、という
風になる。 科学哲学などもそうなるのかな、と。 少し修辞的な表現となるけど、剰余類の考え方を使って、
数学aと哲学bの間には、未知のxを法とする合同なり、同値関係がある、
と考えてみたりするのは、面白いんじゃないの。
a≡b(mod.x)
mod.xによって、aとbが合同となる同値類としての剰余類が
数学と哲学の間にはあってもいいだろう、という話じゃないかな。
>>1の述べていることはね 哲学の素養が一切なくとも、真の数学理解が
進むと考えるのは、浅慮だろうな 数学の素養がなくても哲学は出来るけどな
つまり数学>哲学 小室直樹・副島隆彦・ロバートキヨサキ、鴨頭の信者の俺から見ると
日本では数学は計算というイメージだけど
欧米では論理学というイメージ
日本では何でんでもかんでも突き詰めるとすべて「数字」になる
欧米やイスラエルでは逆で突き詰めるとすべて「言葉・会話・言語」になる >>65 功利主義(幸福の数値化)にIQ(知能の数値化)、EQ(感情の数値化)と、
なんでも数字にする発想は、欧米人に由来するんやで。 AIをやるために数学の勉強をはじめて、
とても楽しいと知りました。 ロジックと、数学と、プログラミングが
近い関係にありますよね。
ややこしくなるのは、
and nand or とかの記号が、
ロジック、数学、プログラミングで
それぞれ変わる点ですよね。
^ これたしかandですよね。 おれは論理学は幾何学だと思うね
推移律はいくらでも中間を埋めれるということだから 多角形は、頂点の数で分類すれば群構造として表せる。
三角形同士ならば、直角三角形、鋭角三角形、鈍角三角形の群構造で表せる。
andは∧、orは∨、排他的論理和ならXOR。
数学と論理学とプログラミングはほぼ同じ。
楽しんでいきましょう♪ インドも西洋なのか?
ローマ数字で数学やってたら不便でしょうがなかったと思うが なおPh.DのPhは哲学(Philosophy)の略
すべての学問は「広い意味での哲学」の部分集合なのだ じゃあ、>>76とは逆の発想してみようか。
哲学を諸学問の基礎体とすれば、数学はガロア拡大体と考えればいいかもね 別にそういうイメージでもいいけど
本来の哲学というのは
「全てを知ること(という営み)」なので
数学も物理も文学も経済学も結局どれだけ進歩しても哲学の一部なんだわ >>78 それはそうかもしれないが、そうであれば、
現在哲学と呼ばれているもの(哲学科で教えられているような哲学)は、
本来の哲学ではないとも言えそうだ。 「自然科学」や「人文科学」と同じ
分類のための単なる名称 神学の橋田女と科学の女王
どうして差がついたのか
慢心、環境の違い >>79
文学部哲学科の哲学は言葉遊び、学問ですらない。 素朴に疑問なのだけど、科学哲学を学ぼうとする場合、科学や数学的な基礎知識がない状態で、
つまり、文系で、どうやって科学を哲学できるのかが謎なんだけど。
だから科学哲学であれば、理系でないとまともに扱えないではないかな。
文系だとせいぜい科学史にアクセスできるだけで、科学の本質に迫ることは困難だろう。
コンピューターサイエンスへの哲学的考察についても同様で、理系でないと厳しいでしょ。 >>85 科学哲学や科学史って、理系出身者が普通じゃないか?
東大なら最初からそれ専門でやるんだろうけど。 >>85
文学部哲学科の連中の「論文」を読んでみ。笑えるから。
科学用語の意味をデタラメに使った言葉遊びだよ。 >>89
なら、彼らはポモ厨と化しているんだね。なんで哲学科なのに、ソーカルさえ読まないんだろ。 >>90
ソーカルなんか読んだら自爆するだろ
知らないフリしてるんだよ >>92
文系哲学は科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装っているのだろうね。
ただそれが科学の側から見ると、疑似科学の言説となっているので、そういう文系哲学は
嘲笑の的となるのだろうよ ここの人たちって、そういう人の論文本当に読んでるんですか?
そもそもそんな論文存在するんですか? お互い相手をよく知らずに罵ってるだけだから、ネット上でこの種の議論が実を結ぶことはない
最低でもアカデミックな身分の保証された場を用意しないと つまり、読んでもいないのに批判してるわけですね
とても科学的な態度とは思えませんね >>96
検索して調べた結果、英語で書かれている哲学の論文はある。
言葉を定義して議論を論理的に展開したり、他の科学の結果を使って議論を展開したりする手法もある。
だが、幾つかの哲学科のシラバスを検索すると、哲学科で教えていることは、
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語の習得や、数理論理の基本を除くと、
雑多な寄せ集めの内容になっていて、哲学科では何やっているのかよく分からない。
哲学の論文の内容としては、数学や自然科学、社会科学、人文科学の諸分野の内容だけでなく、
芸術(美しさの捉え方の問題)や文学(?)を論文の題材にしてみたりしていて、何でも論文の題材になるみたいだ。
だが、芸術は本来言葉より完成が先にあって成り立つから、言語を用いて、哲学で分析しても仕方ないだろう。
哲学全般に共通する基本的な問題意識としては、…とは何か? という形になるようだ。
これは、扱っている対象を定義可能なときは、その対象を定義したら論理的な議論をすることになる。
(こちらは、方法論としては、数学の手法とほぼ同じ)。或る意味で数学につながる。
もし、扱っている対象を定義出来ないときは、個々人で捉え方が違うということになって、終わりのない問題になる。
(そちらの例には「認識するとは何か?」が挙げられて、そういった類の問題や対象は、何が何だかよく分からない議論に終わる)。 >>96
>>99の下から6行目の一部を訂正(漢字訂正):
芸術は本来言葉より完成が先 → 芸術は本来言葉より感性が先 >>96
>>99の上から行目の一部も訂正:
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語 → 古代ギリシア語やラテン語といった特殊な言語 >>96
>>101にも訂正すべきところ(「」でくくった部分)があるから、>>101は以下のように、再度訂正:
>>99の上から「4」行目の一部も訂正:
古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語 → 古代ギリシア語やラテン語といった「ような」特殊な言語 数学だと、自然数は「ペアノの公理」を使って定義できて、それで問題が完結する
(経路でいえば閉じている)のに対して、哲学だと、「自然数とは何か?」や
「自然数は、本当に自然なのか?」その前にそもそも「自然と、不自然を分かつものは何か?」、
「数とは何か?」といった感じで、哲学ではその問いや前提自体を幾らでも分岐させて、
その論を展開することが出来る。そして最後に、「自然数の本性は、不自然である」のような
哲学的な帰結を導くことも出来る。「ラッセルのパラドックス」なら素朴集合論に存在
する矛盾を導いて、フレーゲの論理学に矛盾があることをラッセルが指摘したものであり、
それは数学や論理学上での話だけど、こういうことをあらゆる素材、美学含めてなしうる
のが哲学の持つ機能の一つだと言えよう。それだけ、哲学は自由度が高いのだろう。 だから、経路でたとえると、数学は閉じている(自己完結している)のに対して、
哲学は、経路が閉じていない(自己完結していない)ので、その議論は延々と
続くことになる。ある哲学者aがxと主張しても、別の哲学者cが、それはyだと
言って、こうした突っ込みや解釈の差異が延々と無限に続いていく傾向にある
のが哲学。そういう哲学的営為を無駄と思うか、下らないと思うか、実は、
結構、有益なんじゃないか、と思うのはその人の考え方や感性、必要性にも
よるだろう。 >>99->>104
具体的な論文名が出てきませんね
どうせ読んでないんでしょうね
とても科学的な態度とは思えません
ググって題名調べて終わり、あなたたちが毛嫌いしてる、頭の中の哲学者そのものではないですか? >>93
>文系哲学は科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装っているのだろうね。
>>99
>だが、幾つかの哲学科のシラバスを検索すると、哲学科で教えていることは、
>古代ギリシア語やラテン語とくいった特殊な言語の習得や、数理論理の基本を除くと、
>雑多な寄せ集めの内容になっていて、哲学科では何やっているのかよく分からない。
実際に読んでもいない論文を、シラバス見て専門用語並べただけで内容がわかった気になれるんですね
科学批判批判は文系哲学なのでしょうね >>105
>具体的な論文名が出てきませんね
>
>どうせ読んでないんでしょうね
哲学の論文を読むことは、哲学者がすることだろ。
哲学専攻の人でなくても哲学の論文が読めて内容が分かれば、
他の分野の専攻者でも哲学の論文が読めて、哲学科とかの存在意義がなくなってしまうじゃん。
高校の倫理の一部は哲学の内容になっているだろ。 >>106
>科学批判批判は文系哲学なのでしょうね
そもそも、批判するとは何か?
批判するという現象の解明だけでなく、
批判的な態度を諸分野に生かさないことには、これといった意味がないと思われる。
客観的に見たら、批判するとは何か? という問いへの答えは
唯一つではないどことか、人によって答えは異なる。この問いは終わることがない。 自己批判に向かうことで学問的に真摯な振りをしたいのかもしれないけど、
科学批判にも多様な形があり得ると暗に認めちゃって墓穴掘ってる >>106
>>108の一番下の行における訂正:
唯一つではないどことか、 → 唯一つではないどころか、 >>109
>科学批判にも多様な形があり得る
それだと、むしろ個人的な考えが強く反映されるということになる。 もしかしてカントも知らずに倫理の教科書がどうとか言ってるのか
無知はある意味で最強というが… >>112
カントの純粋理性批判や西田幾太郎の思想とかのことは、
多少は高校の倫理の教科書にも書かれていたぞ。 数学の場合は、なるべく解が求まる方向で動いていくけど、
哲学の場合は、問いそのものをメタ視点で新たに問い直す方向で
動いていくので、そもそも端から解の収束を目指していない感じが
する。哲学はむしろ、一般解を縦横無尽にスライドさせていき、
解を転覆、無化する傾向さえ感じられる。
ふーん、なるほど、そのような変わった物の見方や捉え方もあるのだな、
というように、哲学は人々が客観的・一般的であるとみなすものを
「実はそうではないよ」と説く。数学にもそういう要素がある。たとえば、
人間の直観的な認識から、虚数や無限小などの概念は現れてこないだろうから。
グラフ理論などでも、2つの或るグラフGとHを直観的にだけその経路を見てしまうと
全然別物に見えるものでも、その頂点と辺の接続状態だけに注目すると、それらに
同型と呼ばれるものがあるように、数学にもメタ認知的な要素があるだろう。 >>107
つまり、論文を読んでもないのに批判してるんですか?
科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
てかそんな人の存在すらまだ示されてないですけどね
今までの議論で示されたのは、論文も読まずに哲学者を批判するレベルの低い人がいる、ということだけです >>115
>科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
>
>てかそんな人の存在すらまだ示されてないですけどね
科学の哲学と科学とでは、手法が全く違う。
科学の哲学では、(大規模な)設備を使った実験はしないのではないか。 >>116
科学では実際に論文を読むことなくグーグルで上っ面かじっただけでもわかったことになるんですか? アホみたいに税金使って実験したところで、結局グーグルするんだったら、実験なんかしなくてもよくないですか? >>96
論文の存在を証明できないので、虚学ですね なるほど、そんな論文ないんですね
では、藁人形論法して喜んでるような低レベルしかいないということですね >>117-118
自然科学に限らず、人文科学や社会科学の諸分野にも、数学が応用されている分野は
かなり多くあって、実験や観察、観測を繰り返して経験的な方法で法則や事実をつかみ取る手法や、
行った実験や観測の数値が何故そのように出て来たのか?
ということを問題にして逆に実験や観測の数値から法則や事実を取り出す
というような方法論はある。これらは、(応用)数学をしていれば、分かるときもあると思う。
>>115
>科学を理解してないのに哲学やってるとあなたがバカにしてる哲学者と何が違うんですか?
書く内容が違ったような気がするが、フランスの大学入学資格試験であるバカロレアには
哲学の試験が含まれていて、フランス人は、大学に入る前までに哲学の手法を身に付けているようだ。
日本の大学だけでなく、フランスの大学にも、哲学科に相当する学部或いは学科はあるだろう。
これは、科学を理解していなくても哲学している人物の例に当てはまるのではないか? >>121
>これは、科学を理解していなくても哲学している人物の例に当てはまるのではないか?
でも、あなたはシラバスの題名だけ読んで済ませようとして中身を読まないので、本当にそのような人がいるということは示されてませんよ?
あなたの妄想ですよね、今の所は
早く示してください?
あと私は数学とか自然科学はある程度はわかりますからね
知ったかしてないで、科学を理解していなくても哲学している人物、の存在性を示してくださいね 科学タームを修辞的に用いて、知的体裁があるものと装って、論点をずらし続けて私が諦めるのを待つのはやめませんか(笑)? >科学を理解していなくても哲学している人物、の存在性を示してくださいね
日本ではニーチェがやたら人気があるけど、典型的な科学音痴の哲学者っぽいよね。
ニーチェは哲学者というより、文学者に近いイメージだね。デリダも科学音痴っぽい、
同じく文系修辞哲学という感じがする。
ドゥルゥーズ・ガタリの場合は、数学や科学の知識はあるけど、それらがポモ的に
恣意的に乱用されすぎている嫌いはありそうだ。とにかくそれらが、比喩やポエジーの
ように使わているので、読者を煙に巻くのが目的なのかと訝られても多少は仕方ない点もある。
>ID:foR26SUlは、興奮しやすいヒステリックなタイプなので、冷静な議論を要する
科学や数学、哲学のいずれにも向いてないだろうなw >>124
ある無矛盾な公理系τの任意のモデルに対してある論理式φが常に真となるならば、τからφがLKにおいて証明可能となることを示せ
わからないんですね
ようやく人の名前が出てきましたね
たとえば、どの論文が科学音痴なんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています