数学を初めとした理系の学問と哲学について
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数学と哲学は(開)近傍にある、もしくは、そこに類似の学的構造がある
ということは無いのかと考えて、数学板にスレを建てました。
ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、
ホワイトヘッド、フレーゲ、クリプキ、ゲーデル、パスカル、ベルクソン、
ブール、パースetc.と、数学者と哲学者と兼ねた人物が多かったり、
数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多いのではと思い、
共に高度な論理性と抽象性が要請される点など、両者には共通の構造が
あるのか否かをここでじっくりと考えていきたいと思います。 >>169
>>171
>>172
警察の方を待っているんですか? >>177
ゲーデルに詳しいの?それなら、ゲーデルがその完全性定理の導出に用いた
スコーレム標準形や非範疇性定理をどのように扱ったのかを説明してみて。
それで、あなたの実力の真贋を判定してみるから。逃げないでね。 >>179
こんな簡単なこともわからないとか、恥ずかしくないんですか? >>182
なら、しなければならないことはわかりますよね?
わからないんですか? >>185
わかりました、自殺をしようと思います
ありがとうございました א0 + 1 = 0א0
א0 = 1 - 0א0 >>147
ポエムと言えば、ラカンに師事していたイリガライ(ベルギー出身の
女性の哲学者・言語学者)の哲学における、数学や論理、科学(流体力学など)
の使用方法が出鱈目だと、ソーカルが滅茶苦茶、批判していて、ほとんど
お笑いの域に達していた。ただ公平を期すると、ソーカルにも少し問題が
あると思うんだよ。なぜなら、哲学という宇宙なり概念空間において、
ソーカルのような科学の視点だけでそれを誤っていると断罪してしまうのは、
どうなのかな、と感じるから。
そもそも科学や数学と哲学ではゲームのルールが違うのだから。
ただ、イリガライは女性における科学の不可能性を牽強付的に
フェミ思想にも結び付けていたようだから、そこは確かに極端では
ありそうだが。科学では扱えない哲学的な内容を科学や数学のタームを用いて
表現すると、多少はポエムっぽくなるのも仕方ないかもな ヴェイユ妹のなりきりみたいで微笑ましいな
まあ愚弟だと本格的にガッカリだが女や女の腐ったような人文ならたいていの兄は許容範囲だろうし 文学部哲学科って暗いし殺伐としてるし病的な奴多いしキモいよ。
自分がわからないことを人もわからないとタカを括って知ってかぶりしてマウンティングだろ。
周りを煙に巻くために理数系の用語を使うけど理数系の人には知ったかぶりがバレバレ。
自分の知ったかぶりがバレないように相手をやり込める手法ばかり考えているのかね?
まあ、殺人予告と自殺予告はやめてくれ。 本だけ読んで哲学した気になっちゃだめだろ。常日ごろ
他人ははらわたのちぎれる様なみじめで悲しい思いをして
自分の信念をつかんで生きてるんだから 教養教員やら左翼のじいさんばあさんに信念なんてないだろ
せいぜい自分のポストを現実社会がどうなろうとも死守する以外はなーんも考えてなんていない たぶん、文学や哲学などは、どこか性格に鬱屈した部分があったり、変人的な要素が
ない人らには、どうでもいいものなんだよ。だから、リア充でこの世に自足している
ような連中や明朗で素直な人間には哲学など用はないものだろう。その極端な例が、
ここで自殺なり、殺人なり、多重人格の演技性自己愛障害の人がいたが、あのくらい
狂った人間でないと、哲学とか本格的にコミットできないのかもよ。
ニーチェとか発狂してたでしょ。屈折した物の見方やひにくれたニヒリスト、
斜めからものを見るタイプは哲学向きだな。だから、普通の人は適度な距離感が
いるだろう。中島義道とか見れば分かる通り、明らかに人格がおかしいよ。
明るいのが嫌いと言ってたな。性格のことだけど。
ならば数学好きは、どんな性格なのか。 余計なことを気にしない方がいいよ
特に相手を利用しようとして首突っ込んでくるのは止めようね 数学なんて要は単なる数遊びなんだから、
哲学なんかとは全く関係ないと思うけど...
昔の日本の数学者って育った時代の雰囲気もあるのかも知れないけど、
何でもかんでもやたらにものを深刻に考える傾向があるみたい。
自殺した新谷卓郎先生とか自殺はしてないけどw上野健爾先生とか。
欧米の数学者はただ単に数遊びが好きだから数学者になったって感じだけど...
日本の数学者ってたいがい変わってるね。 数より幾何なんだけど
あんまり頭よくない人は数とか式とかそっちばっかり気にするよね >>201
お前が今やってるインターネッツもその数字遊びの数学のおかげなんだがな 文系の哲学が理数系の用語の意味を誤解するくらいならまだましな方で、
最初から理解する気がないとしか思えないように見えるのが酷いと感じる。
ラカンとかがそれ。
最初から用語の意味なんかどうでもよく、周囲の人を煙に巻けばいいと思っているようだ。
理数系の人から見ればデタラメであることはすぐわかるのだが、理数系の人は読みはしないだろうと思っているのか、
何か言われたって無視していれば、その批判を周りの文系連中はわからないから大丈夫だろうとタカを括っているのだろう。
そこを有効な批判手段を考えついたのがソーカルだったわけだ。 ソーカル事件は大陸系の哲学者たち(=ポエマー)が適当に科学用語使うのを咎めたのであって、科学哲学と科学哲学者を咎めたわけではないことを勘違いしているやつが多いね
科学哲学やってる人間は元々理系だった人が圧倒的に多いよ アメリカだと科学者/数学者 兼 科学哲学者/分析哲学者の人間はいまだに結構いる 時間で考えてみると、数学、科学、哲学のアプローチの違いが分りやすく
なるかもしれないよ。
数学は、時間を定量化しうる客観的な物や実在だと考える。
アインシュタインの一般相対性理論では、質量のある物体は周りの時空を曲げる。
ここでも、一応、客観的な時間の存在は想定されている。
哲学では、ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
ハイデガーにも似た概念があり、それは実存論的時間概念という。
根源的な時間という真の時間が主体に現れる・到来するのは、その実存が
本来的な自己となった場合に限られるようだ。簡単に言えば、真に自分らしく
生きている時に、充実した真の時間が現れるということ。世間での一般的な
生き方の模倣の中には、真の自分も真の時間もないとハイデガーは言っている。 ハイデガーの思想によると、人間には「本来的な自己」と「非本来的な自己」
の2者があり、多くの人間は後者の非本来的な自己を生きることが多いらしい。
それを一般的な感覚で表現すれば、人生よりも生活重視ということになるだろう。
ゴシップ、井戸端会議、スキャンダル、流行、こういう目先の気晴らしの刺激に
振り回され続けるのが世間や非本来性の内にある自己で、それでは駄目だと
この哲学者は言っている。
すなわち、数学や科学はそれを解する万人に共通する物差しを提供するのに対して、
哲学は、その哲学者が提供する主観的な物差しに共感するか、しないか、の違い
というのはあるだろう。その哲学者の特殊な物差しから見えてくる特殊な世界と
いうのがあって、それに価値が見出せるか、それにかかわるのは時間の無駄で
無価値だと思うかの違い、ということだろう。だから好きにすればという感じ。
ただ、数学も哲学も物事の本質にアクセス・到達しようとする営為は一致していると
思うので、排他的論理和となるような関係ではないだろうよ。 >>210
>数学は時間を定量化しうる客観的な物や実在と考える。
そうは考えてないから。 >>1
>数学と哲学は(開)近傍にある、
ないから。
数学では開近傍という用語はあるがきちんとした定義があって、上のような用語の使用は全くデタラメ。
哲学で何か別の意味で開近傍という用語があるのか?近傍であって特に開近傍であるというその意味の違いは?
ラカンとかはこういうデタラメな数学用語の使い方をしていてソーカルに馬鹿にされている。 >>212
言い方がおかしかったね。通常の時間は、数学的な概念を使って
定量化や観測できるという意味。
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。
1.時刻。つまり、時の流れの中の1点のこと。
2.ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。
3.空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式を
なすものであり、一切の出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの。
つまり時間は、点や長さ、空間の概念を用いて表せるので、ユークリッドを
引き合いに出すまでもなく数学的に表せる。だから時刻や時間はプログラミング
で定量的に操作できる対象にもなる。なお、時間の流れに関しては、
過去から未来へと流れているとする時間観と、未来から過去へ流れているとする
時間観の2つがあるようだ。 Two charts on a manifold, and their respective transition map >>210
>ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
>定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
これは心理学の話題だな。 >>217
>>210がいっていることは心理学の話題に含まれる。
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間があることは、
心理学の話題に含まれる。時間をどう感じ(てい)るかは心理学の話題。
むしろ、心理学の話題として認知されていると思う。 >>217
それで、>>210が>>214でいっていることは、
心理学への数学の応用の話題になっている。 ある2つの点や集合が近いとか遠いというとき、そこには暗黙裡に距離の概念が
介在していると思うのだけど、この距離という長さに関してもその定義の仕方で
いろいろと異なった数学概念上の表し方が出来るだろう。
たとえば、リンゴとメロンの間にある質的距離であったり、数学と哲学にある
質的距離。各集合の内実に該当するいくつかの性質を要素や元として考えると、
その距離というものが近似的に論理として表せるのかもしれない。 数学を使った距離概念だと、2点間の距離はピタゴラスの定理を使って
表せる。微小距離の線素dsもそれで表せるし、ユークリッド幾何学では
このピタゴラスの定理で距離が定められている。ボヤイとロバチェフスキー
による双曲幾何学の概念を使えば、またそこから違った距離の概念を導き
出せる。その一つにあるポアンカレ円板モデルやクラインのクライン模型、
ポワンカレ上半平面模型、ベルトラミの擬球上では、無限遠点を伴うような
また別の距離が導き出せる。
あと、集合同士の距離なら、近傍サークルを定義したい時に使われる
「ハウスドルフ距離」という概念がある。これを実際の地理情報にそのまま
適用すると計算負荷が異常に高くなって非実用的になるので、、地形を複数の
ポリゴンに分割して、各ポリゴンの重心(代表点)を求め、そこから2つの
ポリゴンの重心間にある距離をもとに近傍やサークルとして考えていく、という
ハウスドルフ距離の近似的な計算のアプローチを取る。つまり、ハウスドルフ距離は
本来であれば2つの集合間の最短距離を定めたものの内から最大値(距離)と
なるもののことだけど、その近似的表現で地理上の近傍サークルや距離を
新しく定義したということ。
つまり言いたいことは、距離概念一つとってみても計量の概念を変えるだけで
いろいろと定義出来るということ。リーマン計量みたいな概念を使えば、
そこから「リーマン多様体」のように無数の幾何学も構築できる。林檎とメロンの
質や外観、カテゴリーに内在している距離や学問間にある距離、心理的距離というのも
数学上の概念を使って計量化できるかもしれない、という観点だよ。 距離関数、距離空間の用語ひとつで終わる話を長々とご苦労さん 行動心理学の成果は行動ターゲティング広告に使われている 数学が実在的か否かはともかく、とりあえず数学は人々に客観的なものであると
認知されている。それに対し、カントやニーチェの哲学では客観性=真理性
そのものの存在に対して否と言う。カントであれば、真の客観性や真理性は、
ブラックボックスとして「もの自体」という未知の領域Xにあるものと措定されるし、
ニーチェであれば、真理のすべてはパースペクティヴや解釈の違いによる現れの違いに
過ぎず、真理だと呼べるものは、この世界や宇宙には何一つ存在しないと述べている。
古典論理やライプニッツ、デカルトの近代数学の完全性などは、その真理の保証人
として、暗黙裡に神を前提としているのだろうけど、ニーチェの場合は「神は死んだ」と
なるので、そういう真理性の保証人となるような絶対真理みたいなものはない、と
いう立場になる。すべての真理はその主体との相関項で現れる相対的な暫定的なもの
(暫定・相対的な真理。だからその観点だと、数学も真の客観性を表すものでなく、
相対的で道具的、あるいは、有用・有効性の中において捉えられるものだという
解釈になる。
複雑な現代数学などは、むしろ、この相対的な真理性の方に入ってくるのではないかな
と感じているのだけど、違うのか。ゲーデルの不完全性定理もこっちに入りそうだけど。 ラッセルもゲーデルもプラトンのイデア論を源泉とする数学実在論者だから、
彼らの哲学的な立場では、数学は「イデア(真実在)」にあるようなものだと言えよう。
その意味は、数学を用いる人間という相関項や心がなくても、
それとは独立に数学自体が存在しているということだ。 数学より 1 の方が。第一に優先事項だ。高価で、可能性は大きい。 哲学者はもう1を手に入れることができないのかどうか。 文系だった時期あるから理系の方がよくできるという評価でした。 高等中学 付属 総合/専門カリキュラムだったけど。趣味は環境ビジネス。 数学が相対的に正しいかを問題視することは、例えば、√2 は有理数か無理数か? というように、
対象として数学的に見ても、大昔からあった無理数の存在性を問い返すのと同じようなことだわな。
有理数だけでは数学の理論体系の範囲はかなり狭まるから、通常は相対的に正しいかどうかは問題視しない。
いうまでもなく、数学が出来る人の中で、√2 が無理数であることに異論を唱える人は殆どいないだろう。
ニーチェとほぼ同時期に、数学者同士でも無理数の存在性をめぐる有名な論争があった。 ラッセルは数学の持つ必然性を説明するために、数学を論理学に還元しようとした。
それを現在の区分から言えば、正確には論理学と集合論への還元にあたるが、
ラッセルは集合論において、集合という外延的な存在者を認めず、命題関数という
内包的存在者を根本概念とした。これにより、数や集合という存在者を認めず、
個体と命題関数、命題だけを存在者として認めることにより、数学に解釈が与えられる
ことになる。また、論理学と集合論の公理さえ認めれば、数学の公理や定理をそこから
演繹することができる。こうした試みは「論理主義」と呼ばれ、ヒルベルトの
「形式主義」、ブラウアーの「直観主義」と並んで、20世紀初頭の数学の哲学の
代表的な立場の一つだった。 ここにラッセルの判断論を図式にまとめてみよう
関係<R>が対象<a>と<b>を関係付けているとき、そうして構成される事実を
<R (a,b)>と表記する。ここで()は、関係が作用する範囲を表すだけで、
独立して存在できる対等のまとまりを表していないが、<>で括られた部分は
独立して存在することができる。
「オセロ」、「デスデモナ」、「キャシオ」、「愛する」、「信じている」
という表現が意味する対象や関係をそれぞれ、<o>,<d>,<c>,<L>,<B>とする。
オセロが「デスデモナはキャシオを愛している」と信じている、という事実は
どのような構造をしているのか。 ラッセルの理論によれば、それは次の事実αである。
<B (o,<L (d,c)>)> ……α
つまり、<o>と<L (a,b)>という2つのものを<B>が関係付けていることになる。
また、別のラッセルの理論によれば、
<B (o,L,d,c)> ……β
となる。(対象と関係の一つ一つに<>を付けるべきだが、式が煩雑になるので省略) αは<L (d,c)>というオセロが信じている内容となる命題という部分を持ち、
これはαから独立して存在することができる。またオセロがもっと複雑なこと、
たとえば「デスデモナはキャシオをその若さゆえに愛している」と信じたとすれば、
命題となった部分の構造が複雑化するが、信じるという関係<B>は、オセロと命題の
間の二項関係のままである。
一方βは、そうした命題という独立して存在可能な部分を持っていない。
<L (d,c)>というものが仮にあったとしても、それはβの構成要素でなく、
その外部にあってβを真にするような事実である。そして、オセロの信じることが
複雑になればなるほど、関係<B>が関係付けるものの数も増える。そこでこの理論は、
多項関係理論と呼ばれる。 >>236 ふーん、そうなんだ
ただ、ラッセルやゲーデルの数学の哲学的立場は、数学実在論だと思うよ。
つまり、数学的な真理はアプリオリに実在している。だから各々の偉大な
数学者は、その数学的な真理をアプリオリを発見したのであって、
それを発明、創造したのではないだろう。たとえ、それが数学者同士での論争の末に
決着がついたものであれ、それはアプリオリに数学的な命題や真理としてあった、と
想定してみてもいいだろう。 たとえば、ギリシアの3大作図問題の一つに、角の3等分問題がある。
この場合、与えられた量の3乗根を求める必要があるためコンパスと
定規だけでは作図不可能であることが知られている。
「定規とコンパスを使って作図」とは、(1)定規は2点を直線で結ぶ(目盛りは使わない)、
(2)コンパスは円を描く、(3)あくまでも手順は有限回である、ということを意味している。
さらには、「作図可能」とは、全ての角において作図可能ということであり、
例えば、直角( 90度)のような特定のケースだけ、作図可能であっても答えにはならない。
1837年に、フランス人数学者ピエール・ローラン・ヴァンツェルによって解決されたもの。
それで、頂点の数が素数の正多角形で正3角形と正5角形はコンパスと定規で作図可能
なのはユークリッドの時代から知られていて、それから長い間、コンパスと定規で
作図可能なのはこの2つの図形だと考えられたいた。でも、ガウスは正17角形も
コンパスと定規で作図可能なのをある朝知った。つまり、ユークリッドの時代から
2000年も経て、その数学的真理を発見した。
だから、数学は創造ではなく、アプリオリに存在する真理の発見だと考えてみても
いいだろう。 >>237-242
数学は、神が独立に人間の精神の中に認識出来るように創造した、という広く広まっている見解をいいたそうだ。
ゲーデルは無神論者かどうかは正確には知らないし、取り敢えず、ゲーデルの数学実在論ではこの見解は通ると思う。
だが、ラッセルの哲学に則って、仮に、神が独立に人間の精神の中に認識出来るように数学を創造したとする。
すると、ラッセルは有名な無神論者だったから、ラッセルの哲学に則った上での見解では矛盾が生じる。
論理に一貫性がなくなるから、背理法が適用出来る。
よって、ラッセルの哲学に則ると、神の代わりに或る何かxが存在して、上の見解(仮定)は
或る神とは異なる何かxが存在して、数学はxが独立に人間の精神の中に認識出来るように創造した、という見解になる。
この神とは異なる何かxは何か? というと、xは神を創造した何かいわゆる神の創造者と解釈することになると思う。
なので、ラッセルの哲学に則ると、数学は、神の創造者が独立に人間の精神の中に、認識出来るように創造した
という見解になるであろう。この神の創造者(x)に基づき、X={ {x} | {x}⊂{x} ではない } という集合を構成する。
1):{x}∈X とする。すると、Xの定義から {x}⊂{x} ではないことになるので、矛盾が生じる。
2):{x}∈X ではないとする。すると、Xの定義から {x}∈X という条件も満たすので、やはり矛盾が生じる。
1)、2)から、何れにしても矛盾が生じる。この矛盾はXを構成したことから生じたから、背理法が適用出来る。
従って、背理法により、構成した集合Xは構成出来ないことになり、集合Xは存在しないことになる。
このようにして、ラッセルのパラドックスと同じようなパラドックスが生じる。
ラッセルの哲学の数学実在論に則ると、このパラドックスはxの存在性を仮定したから生じたから、
ラッセルの哲学の論理としては、背理法により、数学を創造した何か(数学の創造者)xは存在しないことになる。
従って、ラッセルは数学実在論者ではないといえそうだ。
上の議論では、人間は哲学することがある生物であること、及び人間は神を認識することがある生物であること、というごく自然な2つのことを仮定した。 >>244
数学と神が同じ意味としても、人間は哲学することがある生物であることを仮定すれば、
文章の表現の形は変わるが、>>243と大体同じ議論になる。このときは、>>243のx(数学の創造者)は「数学」になって、
同じようなパラドックスが生じる。そして、数学は存在しないという結論に至る。
これでは、数学の概念や定理などを発見しようがなくなるから、
やはり、数学と神が同じ意味だったとしても、ラッセルは数学実在論者ではないといえそうだ。 人間を形而上の存在として扱うのは違和感がありますね
仮に言語が形而上の存在であるとして
人間は進化の過程でたまたま言語という存在を探り当て獲得したのが正解でしょう
人間は根元的に山師だと思う 哲学をする上で、人間を形而上の存在として扱うかどうかは、立場の問題に過ぎん。
ラッセルは論理学者だから、ラッセルの哲学を考えるにあたっては、
論理的に議論を進めるのがよいだろう。 数学というイドラもスピノザの神もかなり早い時期に考察されてる 哲学の板にもここと同じ名前のスレが以前からあったから、
哲学の板にあるこのスレと同じ名前のスレで議論するのがいいんじゃないか?
神学の話は詳しくは知らん。 私は言語普遍性を信じる立場ですので
宇宙人が知的生命体であれば同じように言語を獲得するでしょうし、数学を獲得するでしょう
人間語と宇宙人語で相互に翻訳可能なはずです、細かいレトリックを除いて 数理的に記述された物理法則がねじ曲げられるようなマンガちっく異世界だといいね >>243
ラッセルは哲学者でもあるので、プラトンのイデア論のような考え方を支持していますよ。
まず、私が数学実在論というのをどういう意味や観点で述べているのかを
説明してみます。たとえば、地球は地球上に人類がいなくても、いなかった時代でも、
地球として実在していますよね。つまり、地球を認識する主体が宇宙に存在していなくても、
地球は実在している。人間がいない時の呼称は、もちろん地球とは呼ばれてはいないけれども、
今の地球と呼ばれるものと同じ惑星が実在していた。
数学実在論もそれと同じです。たとえ数学を扱う人間や主体が世界にいなくても数学は常に
実在している。地球に類人猿しかいなかった古代においても数学は実在していただろう、
という観点です。あと、数学実在論はその源泉として、プラトンのイデア論がある
という考え方は、イデア界という一種の完全な天上世界が想定されていて、そこにこそ
すべての本質や真実在、数学的真理があって、私たちの感覚器官で認識できる物や概念、
現実世界は、その完璧なイデア界の不完全な投影図に過ぎないというのが、プラトンのイデア論です。
つまり、数学や論理の一部に矛盾があることは(ゲーデルの不完全性定理、ラッセルのパラドクス)
、イデア界の完全性を破綻させ矛盾に追い込むものでなく、むしろそのことで斉合性を
得られると考えられます。なぜなら、私たちの住むこの世界や人間、人間が構築する概念は
不完全であり、完全なる真の世界はイデア界にこそある、という理路だからです。 私たちは五感で捉えられるこの世界や宇宙を完全なもの、普遍で現実そのものだと認識するけれど、
たとえば、目の見えない人や耳の聞こえない人のように感覚器官が一部制限された人たちの
ことを想像してみるとイメージが掴みやすくなるかもしれない。その人たちにとって、
この世界や宇宙は五感を自由に使える人たちと比べると、不完全な形で表象されている訳です。
それと同様のことが五感を使える私たちにも言えて、五感以上の感覚器官やセンスデータが
付与されれば捉えられるようなイデア界のような完全なる天上世界があるにもかかわらず、
それを五感や身体という、ある意味で、感覚器官が一部制限された状態にある人間には、それを
十全には認識できないと思考実験してみれば、私たちの五感だけでは世界の実在を完璧に捉える
ことが出来ない、と言えなくもないだろう。
このように言うと神秘主義的な話に聞こえるけど、実はそうでもない。たとえば、
棋士とAIが電脳戦を戦って、AIの差す手があまりにも斬新で将棋の定石や歴史にないものであり、
名人でもそのAIの指すアルゴリズムや意味を解読できないような一手があったりする。
そして最終的に、そのような奇手を放ち続けるAIが名人に勝利したりする。
このことの意味は、人間の既存の認知機能では解析出来ないレベルのAIのアルゴリズムや
ゲーム戦略がブラックボックスとしてAIには実装され、実在している、ということが分る。だから、
人間の脳に将来AIチップでも埋め込まれることになって、その認知機能が拡張したり、
人間の知能が飛躍的に高まれば、これまで分からなかった種類のアルゴリズムが解読できるように
なるかもしれない。そして人間には解析出来ないそれらの高度なアルゴリズムは常に最初から
実在しているのだけど、認識する人間の側が不完全であるので、それを現状では解読できない、
という理路になる。これが少し形而下的に表現したプラトンのイデア論のイメージ。
神はややこしくなるので、話から割愛しました。 >>253-254
数学実在論は、
@:認識出来る数学は無条件に実在することが仮定されていて、不完全な人間は数学を認識出来るに過ぎない、
という考え方か。どうやら、数学実在論では、認識出来る数学の存在性の証明は出来そうにないわな。
つまり、「数学の無条件な実在性の仮定」の「仮定(されていること)」を外して、数学実在論を、
A:認識出来る数学は「無条件に実在して、」不完全な人間は数学を認識出来るに過ぎない、
という考え方だと書き直すことは出来そうにないわな。
(もし出来るなら、「数学の無条件な実在性」の証明をして、@をAに書き直してみてほしいが)。
ここに、@とAとの間には、数学の無条件な実在性が「仮定されているか否か」という点において、
微妙なニュアンスの違いがあることに注意してほしい。
例えば、コップがあると仮定することと、コップがあると断言することが違うように、
仮定するのと断言するのとでは意味が違うだろう。
まあ、認識出来る数学の無条件な実在性の仮定の問題に帰着するだろうな。 >>254
バカが治って真っ正面から数学理解できるようになるといいね >>255
イデア界の実在の証明なんて出来る訳もないので、あまり厳密に考えないで、
一種の思考実験や仮想現実くらいに受け止めればいいのかと思われます。
「欲望の時代の哲学〜マルクス・ガブリエル 日本を行く〜」
http://www.dailymotion.com/video/x6ou6zm
なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/1/13
マルクス・ガブリエル (著) 清水 一浩 (翻訳) ベストセラー1位- カテゴリ 講談社選書メチエ
思想界では、新しい実在論がブームになっているらしい。上記の動画では
科学的な一元論や近代合理主義、高度資本主義が人々を抑圧する装置として
作動していると分析し警鐘を鳴らしている。多元的実在をすべて包括するクラス
としての世界は存在しないと、この哲学者は述べている。なぜなら、
そうした世界が存在するには、それが存在する意味の場が必要になり、
論理的な構造上、すべての実在を包括する世界自身は、その意味の場に入れないので、
それは意味をなさない、すなわち世界は存在しない、という理論になっている。
ラッセルもタイプ理論と記号法、クラスについての考察で似たことを述べている。
幾つもの命題関数を包括するクラス自身をそのクラスの要素として、他の
命題関数と同じように「ある」とはみなせないし、そうみなしてしまうことで、
それが言明として無意味になると述べている。張り紙禁止と書かれた張り紙は、
その言明をクラスとしての自分自身には適用しないことで、それが無意味な
矛盾した言明になることを暗黙のうちに回避している。
つまり「ある」においては、それに対応する別の階層の型があるという観点で
ラッセルの型理論の考え方だろう。オブジェクト指向のプログラミング言語でも
クラスの概念が使われているけど、そこでも類似のロジックが使われていると
言えるだろう。ラッセルは、このようにクラスの記述は、不完全記号であると
述べている。 >>257
半年前に国内でも広まった新しい実在論の話があったのか。
その実情の背景には、行き過ぎた工業の発展や人工知能(AI)の進歩により、個人の意味が問われたことがあるようだ。
だが、そういう時代の流れに乗らずに、レトロな生活をしている人も多くいる。
例えば、生活で使える環境にあるにも関わらず、今でも、パソコンやインターネット関連の製品は勿論のこと、
スマートフォンや携帯電話すら持たずに生活している人はいる訳でな。首都圏にもそういう人はいるようだ。
例の実在論の話は、そのような人にとっては、何かのきっかけでその話を知るまで、分からないんじゃないかね。
まあ、頑張ってな。 型理論ってラッセルが考案したんだな、知らなかった
圏論学ぶ哲学者がいるって聞いたけど、どんな風に使うの? ttps://note.mu/kuragem/n/n19ac075929cb
考えない日本の私 ? さとり世代として
くらげ 2018/05/22 07:35
「和を以て貴しと為す」というのは非常に美しい言葉ですが、
近代の日本人はこれを曲解して、
「全体の調和のためなら個人は犠牲になっても良い」という意味に捉えています。
「全体」のために犠牲になる個人、というとまるで戦時中のようですが、
結局のところ、日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっているような側面があるように見えます。
先ほど、「日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっている」と書きましたが、
正確には、「日本人は本質的に全体主義と相性が良い」のだと思います。
日本の教育課程では、理系科目を別にすれば、「論理」をほとんど扱いません。
理系科目にしたところで、問いに「論理的に答える」手法を扱うだけで、
「何かを論理的に考える」または「何かを論理的に主張する」といった手法は扱いません。 「どうしてこのような状況に陥ったのか」については、知識がないので議論することができませんが、
現状の問題として、日本人は論理的な思考や主張の手法を
(少なくとも中等教育まででは)あまり身に付けることができない、という事実があります。
全体主義は、目標と、そこに至る道のりがはっきりとしている時には機能するように思われます。
明治維新以降、日本には常に目標がありました。
それは例えばいち早く西欧に倣って近代化を達成することであり、
国体を護持し領土を拡張することであり、焼け野原から復興することでした。
しかし、日本はここに来て、はっきりとした目標と道のりを失ってしまったのです。
日本が掲げた目標は、どこかでは既に達成されていたか、
あるいは達成の手法が外部から指示されたものだけでした。
目標と、道のりがはっきりしていたわけです。 むしろ、さとり世代の特徴は、
「最初からいろいろなことを受容して、諦めている」という部分にあるのではないかと思います。
校内暴力や学生運動といったムーブメントが再び起こらないのも、
いろいろなものを「諦めて」いるからです。
不満があってもそれを変化させる方向にはエネルギーを使わず、受容し、
諦めることにエネルギーを使っているのです。
まさしく、ある意味で悟っているのです。 こうしたさとり世代の特徴は、「考えない日本」の極致のようなものだと思います。
私たちは考え方を知らず、考えることをしない社会に生まれて育っています。
何かを変えるためには、自分の頭で物事を考えなければいけないし、その能力は私たちにはない。
ついでに言えば、何かを考えないと明日食べるものがないわけでもない。
成熟した先進国にあって、考えない私たちは、物事を「そうである」ものとして受け入れる外ない、
ただ漫然と毎日を過ごす満足した豚です。
日本の本当の絶望は、少子高齢化とか人口減少とか経済の低迷などではありません。
本当の絶望は、誰も、そういった課題を解決する道のりを立てられず、
仮に物事を考えられる誰かによって策が立てられたとしても、
その実行を決断できる頭脳がないことです。
私は、このことに思い至る度に、すごく嫌な気持ちになるのですが、
それと同時に「まあ日本の将来なんてこんなもんだろう」と諦めている自分も存在し、
そしてカラオケにでも行ってこんなことはすぐに忘れてしまうのです。 >日本の教育課程では、理系科目を別にすれば、「論理」をほとんど扱いません。
>理系科目にしたところで、問いに「論理的に答える」手法を扱うだけで、
>「何かを論理的に考える」または「何かを論理的に主張する」といった手法は扱いません。
>現状の問題として、日本人は論理的な思考や主張の手法を
>(少なくとも中等教育まででは)あまり身に付けることができない、という事実があります。 数学科に入ったら先ずは既存の数学を理解するため必死に勉強するしかない。
これって、考えていることにはならないのでしょうか? エネルギーを使った模範として校内暴力や学生運動があがるような文を書くような人の言うことを鵜呑みにする必要はありません わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
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