数学を初めとした理系の学問と哲学について
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数学と哲学は(開)近傍にある、もしくは、そこに類似の学的構造がある
ということは無いのかと考えて、数学板にスレを建てました。
ピタゴラス、デカルト、ライプニッツ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、
ホワイトヘッド、フレーゲ、クリプキ、ゲーデル、パスカル、ベルクソン、
ブール、パースetc.と、数学者と哲学者と兼ねた人物が多かったり、
数学的思考⇔哲学的思考の間を行き来している人物や人々も多いのではと思い、
共に高度な論理性と抽象性が要請される点など、両者には共通の構造が
あるのか否かをここでじっくりと考えていきたいと思います。 >>128
ドゥルーズとかラカンとかクリステ婆とか 願望
文学部哲学科の哲学は言葉遊び、学問ですらない
現実
ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズらの著作に見られる
随分と矮小化されてしまったけど、まあこんなもんだよね 科学の影響を受ける以前の哲学のほうが面白い
プラトンは自然科学から距離を置いてたし ソフィストの空っぽの頭蓋骨叩くとピタゴラス音階でいい音しそう 何かを皮肉ってるようで実は何も考えてない
とは>>145のことか >>142
実際学問のふりしたポエムみたいなもんだしね >>147
>>142を読んでその返答が出てくるのは理解不能 ところで文学やポエムが社会に必要かと言うと
それは明らかに必要なんだから
哲学も必要なんだろう >>137
お前はわかるのかよ?
証明はどこで読んだんだ?
証明読んだなら証明の概略言えるはずだよな?
言ってみろよ?
言えないのだったら138に土下座して謝ったほうがいいんじゃないか?
ゲーデルの完全性定理を微分幾何とか他の分野の数学者に質問したって答えようもないだろ。
お前の議論と言うか難癖のつけ方は卑怯だ。クズだな。
まず証明の概略を答えてみろ。
答えられないのか? >>153
τの極大無矛盾な公理系Tを形成して、T内の論理式を構成する形式的文字列それ自身を対象とみなしてモデルMを構成します
τ|-φ⇔T∋φ⇔T|=φ
τ|-φでない⇔T∋φでない⇔T|≠φ
このようにすると、Tはτのモデルとなります
今、無矛盾な公理系τの任意のモデルに対して論理式φが常に真となるのに、τからφが証明可能でない、と仮定します
τ∪{¬φ}は無矛盾となりますから、完全性定理によりモデルMが存在して、M|=¬φが成り立ちます
しかし、これは、任意のモデルに対してφが真であるという仮定に反します >>154
無矛盾ならモデルが存在するということの証明の概略を質問してるんだよ。
例えば微分幾何の難しい定理の系をどこかの本から持ってきて代数的整数論をやってる数学者に
「わかるかよ?、わかるかよ?」と絡んでも答えようもないだろ。
それで横から「お前はわかるのか?」と質問されて定理から系の証明の解説をネットで見つけて答えても答えになってないから。
文学部哲学科の連中は自分でもわからない事を相手にもわからないだろうと高を括って知ったかぶりをするんだよな。 >>140
自分で勝手に線路でも高い所でも探して逝ってくれ。
あ、線路はダメだ。電車止めないでね。 >>155
>>154
>τの極大無矛盾な公理系Tを形成して、T内の論理式を構成する形式的文字列それ自身を対象とみなしてモデルMを構成します
>τ|-φ⇔T∋φ⇔T|=φ
>τ|-φでない⇔T∋φでない⇔T|≠φ
>このようにすると、Tはτのモデルとなります
読めないんですか? >>157
こちらの質問の答えになってないよね。
わからないんだね。
知ったかぶりがバレていることも分からないんだよね。 >>162
あなたが数理論理がわからないので、>>157が証明になってることもわからないんだと思いますけど あ、τの極大無矛盾な公理系、というのは間違えですね
τの言語に、∃を含む論理式∃xAに対して定数記号cを追加した言語に、公理∃xA→Acを追加した公理系τ'に対する極大無矛盾な公理系、ですね >>163
モデルの構成の概略を言ってみろというこちらの質問の意味も分からないんだね。
証明の中心部分がどこだかわかってないようだね。
お前が証明を読んでいないのがよくわかるよ。
証明読んだことないのに、知ったかぶりしてたんだねwwww >>167
あ、τの極大無矛盾な公理系、というのは間違えですね
τの言語に、∃を含む論理式∃xAに対して定数記号cを追加した言語に、公理∃xA→Acを追加した公理系τ'に対する極大無矛盾な公理系、ですね >>167
あなたの住所を特定して、殺害せよ、という問題がわかりません >>167
自殺もできないのに数学ができるんですか?
できませんよね フランスのグランセコールの試験で「説明する」という単語について考えて
文章を書いて答える哲学の問題が出されたことがあったみたい。
その問題の意図は全然よく分からん。
哲学の場合、そればかりしていると、バカになりかねないぞ。 >>169
>>171
>>172
警察の方を待っているんですか? >>177
ゲーデルに詳しいの?それなら、ゲーデルがその完全性定理の導出に用いた
スコーレム標準形や非範疇性定理をどのように扱ったのかを説明してみて。
それで、あなたの実力の真贋を判定してみるから。逃げないでね。 >>179
こんな簡単なこともわからないとか、恥ずかしくないんですか? >>182
なら、しなければならないことはわかりますよね?
わからないんですか? >>185
わかりました、自殺をしようと思います
ありがとうございました א0 + 1 = 0א0
א0 = 1 - 0א0 >>147
ポエムと言えば、ラカンに師事していたイリガライ(ベルギー出身の
女性の哲学者・言語学者)の哲学における、数学や論理、科学(流体力学など)
の使用方法が出鱈目だと、ソーカルが滅茶苦茶、批判していて、ほとんど
お笑いの域に達していた。ただ公平を期すると、ソーカルにも少し問題が
あると思うんだよ。なぜなら、哲学という宇宙なり概念空間において、
ソーカルのような科学の視点だけでそれを誤っていると断罪してしまうのは、
どうなのかな、と感じるから。
そもそも科学や数学と哲学ではゲームのルールが違うのだから。
ただ、イリガライは女性における科学の不可能性を牽強付的に
フェミ思想にも結び付けていたようだから、そこは確かに極端では
ありそうだが。科学では扱えない哲学的な内容を科学や数学のタームを用いて
表現すると、多少はポエムっぽくなるのも仕方ないかもな ヴェイユ妹のなりきりみたいで微笑ましいな
まあ愚弟だと本格的にガッカリだが女や女の腐ったような人文ならたいていの兄は許容範囲だろうし 文学部哲学科って暗いし殺伐としてるし病的な奴多いしキモいよ。
自分がわからないことを人もわからないとタカを括って知ってかぶりしてマウンティングだろ。
周りを煙に巻くために理数系の用語を使うけど理数系の人には知ったかぶりがバレバレ。
自分の知ったかぶりがバレないように相手をやり込める手法ばかり考えているのかね?
まあ、殺人予告と自殺予告はやめてくれ。 本だけ読んで哲学した気になっちゃだめだろ。常日ごろ
他人ははらわたのちぎれる様なみじめで悲しい思いをして
自分の信念をつかんで生きてるんだから 教養教員やら左翼のじいさんばあさんに信念なんてないだろ
せいぜい自分のポストを現実社会がどうなろうとも死守する以外はなーんも考えてなんていない たぶん、文学や哲学などは、どこか性格に鬱屈した部分があったり、変人的な要素が
ない人らには、どうでもいいものなんだよ。だから、リア充でこの世に自足している
ような連中や明朗で素直な人間には哲学など用はないものだろう。その極端な例が、
ここで自殺なり、殺人なり、多重人格の演技性自己愛障害の人がいたが、あのくらい
狂った人間でないと、哲学とか本格的にコミットできないのかもよ。
ニーチェとか発狂してたでしょ。屈折した物の見方やひにくれたニヒリスト、
斜めからものを見るタイプは哲学向きだな。だから、普通の人は適度な距離感が
いるだろう。中島義道とか見れば分かる通り、明らかに人格がおかしいよ。
明るいのが嫌いと言ってたな。性格のことだけど。
ならば数学好きは、どんな性格なのか。 余計なことを気にしない方がいいよ
特に相手を利用しようとして首突っ込んでくるのは止めようね 数学なんて要は単なる数遊びなんだから、
哲学なんかとは全く関係ないと思うけど...
昔の日本の数学者って育った時代の雰囲気もあるのかも知れないけど、
何でもかんでもやたらにものを深刻に考える傾向があるみたい。
自殺した新谷卓郎先生とか自殺はしてないけどw上野健爾先生とか。
欧米の数学者はただ単に数遊びが好きだから数学者になったって感じだけど...
日本の数学者ってたいがい変わってるね。 数より幾何なんだけど
あんまり頭よくない人は数とか式とかそっちばっかり気にするよね >>201
お前が今やってるインターネッツもその数字遊びの数学のおかげなんだがな 文系の哲学が理数系の用語の意味を誤解するくらいならまだましな方で、
最初から理解する気がないとしか思えないように見えるのが酷いと感じる。
ラカンとかがそれ。
最初から用語の意味なんかどうでもよく、周囲の人を煙に巻けばいいと思っているようだ。
理数系の人から見ればデタラメであることはすぐわかるのだが、理数系の人は読みはしないだろうと思っているのか、
何か言われたって無視していれば、その批判を周りの文系連中はわからないから大丈夫だろうとタカを括っているのだろう。
そこを有効な批判手段を考えついたのがソーカルだったわけだ。 ソーカル事件は大陸系の哲学者たち(=ポエマー)が適当に科学用語使うのを咎めたのであって、科学哲学と科学哲学者を咎めたわけではないことを勘違いしているやつが多いね
科学哲学やってる人間は元々理系だった人が圧倒的に多いよ アメリカだと科学者/数学者 兼 科学哲学者/分析哲学者の人間はいまだに結構いる 時間で考えてみると、数学、科学、哲学のアプローチの違いが分りやすく
なるかもしれないよ。
数学は、時間を定量化しうる客観的な物や実在だと考える。
アインシュタインの一般相対性理論では、質量のある物体は周りの時空を曲げる。
ここでも、一応、客観的な時間の存在は想定されている。
哲学では、ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
ハイデガーにも似た概念があり、それは実存論的時間概念という。
根源的な時間という真の時間が主体に現れる・到来するのは、その実存が
本来的な自己となった場合に限られるようだ。簡単に言えば、真に自分らしく
生きている時に、充実した真の時間が現れるということ。世間での一般的な
生き方の模倣の中には、真の自分も真の時間もないとハイデガーは言っている。 ハイデガーの思想によると、人間には「本来的な自己」と「非本来的な自己」
の2者があり、多くの人間は後者の非本来的な自己を生きることが多いらしい。
それを一般的な感覚で表現すれば、人生よりも生活重視ということになるだろう。
ゴシップ、井戸端会議、スキャンダル、流行、こういう目先の気晴らしの刺激に
振り回され続けるのが世間や非本来性の内にある自己で、それでは駄目だと
この哲学者は言っている。
すなわち、数学や科学はそれを解する万人に共通する物差しを提供するのに対して、
哲学は、その哲学者が提供する主観的な物差しに共感するか、しないか、の違い
というのはあるだろう。その哲学者の特殊な物差しから見えてくる特殊な世界と
いうのがあって、それに価値が見出せるか、それにかかわるのは時間の無駄で
無価値だと思うかの違い、ということだろう。だから好きにすればという感じ。
ただ、数学も哲学も物事の本質にアクセス・到達しようとする営為は一致していると
思うので、排他的論理和となるような関係ではないだろうよ。 >>210
>数学は時間を定量化しうる客観的な物や実在と考える。
そうは考えてないから。 >>1
>数学と哲学は(開)近傍にある、
ないから。
数学では開近傍という用語はあるがきちんとした定義があって、上のような用語の使用は全くデタラメ。
哲学で何か別の意味で開近傍という用語があるのか?近傍であって特に開近傍であるというその意味の違いは?
ラカンとかはこういうデタラメな数学用語の使い方をしていてソーカルに馬鹿にされている。 >>212
言い方がおかしかったね。通常の時間は、数学的な概念を使って
定量化や観測できるという意味。
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。
1.時刻。つまり、時の流れの中の1点のこと。
2.ある時刻と別のある時刻の間(時 - 間)。およびその長さ。
3.空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式を
なすものであり、一切の出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの。
つまり時間は、点や長さ、空間の概念を用いて表せるので、ユークリッドを
引き合いに出すまでもなく数学的に表せる。だから時刻や時間はプログラミング
で定量的に操作できる対象にもなる。なお、時間の流れに関しては、
過去から未来へと流れているとする時間観と、未来から過去へ流れているとする
時間観の2つがあるようだ。 Two charts on a manifold, and their respective transition map >>210
>ベルクソンの「純粋持続」のような概念があって、それは
>定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間として示される。
これは心理学の話題だな。 >>217
>>210がいっていることは心理学の話題に含まれる。
定量・空間化されえない持続する時間、計量化不可能な真の時間があることは、
心理学の話題に含まれる。時間をどう感じ(てい)るかは心理学の話題。
むしろ、心理学の話題として認知されていると思う。 >>217
それで、>>210が>>214でいっていることは、
心理学への数学の応用の話題になっている。 ある2つの点や集合が近いとか遠いというとき、そこには暗黙裡に距離の概念が
介在していると思うのだけど、この距離という長さに関してもその定義の仕方で
いろいろと異なった数学概念上の表し方が出来るだろう。
たとえば、リンゴとメロンの間にある質的距離であったり、数学と哲学にある
質的距離。各集合の内実に該当するいくつかの性質を要素や元として考えると、
その距離というものが近似的に論理として表せるのかもしれない。 数学を使った距離概念だと、2点間の距離はピタゴラスの定理を使って
表せる。微小距離の線素dsもそれで表せるし、ユークリッド幾何学では
このピタゴラスの定理で距離が定められている。ボヤイとロバチェフスキー
による双曲幾何学の概念を使えば、またそこから違った距離の概念を導き
出せる。その一つにあるポアンカレ円板モデルやクラインのクライン模型、
ポワンカレ上半平面模型、ベルトラミの擬球上では、無限遠点を伴うような
また別の距離が導き出せる。
あと、集合同士の距離なら、近傍サークルを定義したい時に使われる
「ハウスドルフ距離」という概念がある。これを実際の地理情報にそのまま
適用すると計算負荷が異常に高くなって非実用的になるので、、地形を複数の
ポリゴンに分割して、各ポリゴンの重心(代表点)を求め、そこから2つの
ポリゴンの重心間にある距離をもとに近傍やサークルとして考えていく、という
ハウスドルフ距離の近似的な計算のアプローチを取る。つまり、ハウスドルフ距離は
本来であれば2つの集合間の最短距離を定めたものの内から最大値(距離)と
なるもののことだけど、その近似的表現で地理上の近傍サークルや距離を
新しく定義したということ。
つまり言いたいことは、距離概念一つとってみても計量の概念を変えるだけで
いろいろと定義出来るということ。リーマン計量みたいな概念を使えば、
そこから「リーマン多様体」のように無数の幾何学も構築できる。林檎とメロンの
質や外観、カテゴリーに内在している距離や学問間にある距離、心理的距離というのも
数学上の概念を使って計量化できるかもしれない、という観点だよ。 距離関数、距離空間の用語ひとつで終わる話を長々とご苦労さん 行動心理学の成果は行動ターゲティング広告に使われている 数学が実在的か否かはともかく、とりあえず数学は人々に客観的なものであると
認知されている。それに対し、カントやニーチェの哲学では客観性=真理性
そのものの存在に対して否と言う。カントであれば、真の客観性や真理性は、
ブラックボックスとして「もの自体」という未知の領域Xにあるものと措定されるし、
ニーチェであれば、真理のすべてはパースペクティヴや解釈の違いによる現れの違いに
過ぎず、真理だと呼べるものは、この世界や宇宙には何一つ存在しないと述べている。
古典論理やライプニッツ、デカルトの近代数学の完全性などは、その真理の保証人
として、暗黙裡に神を前提としているのだろうけど、ニーチェの場合は「神は死んだ」と
なるので、そういう真理性の保証人となるような絶対真理みたいなものはない、と
いう立場になる。すべての真理はその主体との相関項で現れる相対的な暫定的なもの
(暫定・相対的な真理。だからその観点だと、数学も真の客観性を表すものでなく、
相対的で道具的、あるいは、有用・有効性の中において捉えられるものだという
解釈になる。
複雑な現代数学などは、むしろ、この相対的な真理性の方に入ってくるのではないかな
と感じているのだけど、違うのか。ゲーデルの不完全性定理もこっちに入りそうだけど。 ラッセルもゲーデルもプラトンのイデア論を源泉とする数学実在論者だから、
彼らの哲学的な立場では、数学は「イデア(真実在)」にあるようなものだと言えよう。
その意味は、数学を用いる人間という相関項や心がなくても、
それとは独立に数学自体が存在しているということだ。 数学より 1 の方が。第一に優先事項だ。高価で、可能性は大きい。 哲学者はもう1を手に入れることができないのかどうか。 文系だった時期あるから理系の方がよくできるという評価でした。 高等中学 付属 総合/専門カリキュラムだったけど。趣味は環境ビジネス。 数学が相対的に正しいかを問題視することは、例えば、√2 は有理数か無理数か? というように、
対象として数学的に見ても、大昔からあった無理数の存在性を問い返すのと同じようなことだわな。
有理数だけでは数学の理論体系の範囲はかなり狭まるから、通常は相対的に正しいかどうかは問題視しない。
いうまでもなく、数学が出来る人の中で、√2 が無理数であることに異論を唱える人は殆どいないだろう。
ニーチェとほぼ同時期に、数学者同士でも無理数の存在性をめぐる有名な論争があった。 ラッセルは数学の持つ必然性を説明するために、数学を論理学に還元しようとした。
それを現在の区分から言えば、正確には論理学と集合論への還元にあたるが、
ラッセルは集合論において、集合という外延的な存在者を認めず、命題関数という
内包的存在者を根本概念とした。これにより、数や集合という存在者を認めず、
個体と命題関数、命題だけを存在者として認めることにより、数学に解釈が与えられる
ことになる。また、論理学と集合論の公理さえ認めれば、数学の公理や定理をそこから
演繹することができる。こうした試みは「論理主義」と呼ばれ、ヒルベルトの
「形式主義」、ブラウアーの「直観主義」と並んで、20世紀初頭の数学の哲学の
代表的な立場の一つだった。 ここにラッセルの判断論を図式にまとめてみよう
関係<R>が対象<a>と<b>を関係付けているとき、そうして構成される事実を
<R (a,b)>と表記する。ここで()は、関係が作用する範囲を表すだけで、
独立して存在できる対等のまとまりを表していないが、<>で括られた部分は
独立して存在することができる。
「オセロ」、「デスデモナ」、「キャシオ」、「愛する」、「信じている」
という表現が意味する対象や関係をそれぞれ、<o>,<d>,<c>,<L>,<B>とする。
オセロが「デスデモナはキャシオを愛している」と信じている、という事実は
どのような構造をしているのか。 ラッセルの理論によれば、それは次の事実αである。
<B (o,<L (d,c)>)> ……α
つまり、<o>と<L (a,b)>という2つのものを<B>が関係付けていることになる。
また、別のラッセルの理論によれば、
<B (o,L,d,c)> ……β
となる。(対象と関係の一つ一つに<>を付けるべきだが、式が煩雑になるので省略) αは<L (d,c)>というオセロが信じている内容となる命題という部分を持ち、
これはαから独立して存在することができる。またオセロがもっと複雑なこと、
たとえば「デスデモナはキャシオをその若さゆえに愛している」と信じたとすれば、
命題となった部分の構造が複雑化するが、信じるという関係<B>は、オセロと命題の
間の二項関係のままである。
一方βは、そうした命題という独立して存在可能な部分を持っていない。
<L (d,c)>というものが仮にあったとしても、それはβの構成要素でなく、
その外部にあってβを真にするような事実である。そして、オセロの信じることが
複雑になればなるほど、関係<B>が関係付けるものの数も増える。そこでこの理論は、
多項関係理論と呼ばれる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています