背理法不要論ってどうなん?
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カントールの対角線論法も背理法でしょう。
だから背理法を否定したら、実数の無限集合が可付番集合でないことさえ
証明できなかった訳で。数学は背理法的な逆から矛盾を導くツールが多いよ >>24
√2の無理数性の証明と対角線論法は背理法といっても違うらしい >>13
こういうスタイル俺もやるわ。
背理法って要は対偶論法なんだよな。真であることがわかってる命題Aに対して「¬P⇒...⇒¬A」を示して、
そこから対偶で全部ひっくり返して「A⇒...⇒P」とやってPを証明する。
細かいことを言えば頭に量化子がついたりするんだけど、言いたいことは分かると思う。 背理法と対偶は命題論理の公理として互換性があるので、その意味で同じ ★★★貧富格差解消の為には、累進税の税率を国民投票で決めるべきである★★★
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わりぃ、根拠書かないやつは一律に無視してるんだわ そんなことはないな
>>23 の論点は重要
これじゃあ背理法を使うべきだな 明らかに「背理法」が変な証明もあるのでそれは排除した方がよい。
例えばある集合からそれの冪集合への全射がないことを示すのに、
「全射があったと仮定する」と言いながら、全射であるという条件を使わず、
単に写像であるということだけから値域に入らないものを作ってる。
それで「背理法の仮定に反する」という証明。変だよな。
普通に、「集合から冪集合への写像は全射ではない」と言えばいいだけだから。 初等的な数学までしか修めていない人は勘違いしがちだが、論理変形だけに目が行って本質を捉え損ねると高度な数学はできないよ
正しさだけを追い求めればいいというものではない
もちろん間違いはないように進める必要はあるが
≠での変形でも、正しさを論理的に確かめてあれば問題はないだろう
どのような手法に基づこうが命題の正しさ自体が保証されることは否定していないし、そこは問題にしていないんじゃないか
命題が論理的に正しいことが理解できるのであれば、その次に重要なのはその命題の証明を含めた理解だよ
ここがおろそかになると真っ当に数学はできない
と、いうよりこの理解度自体が数学における研究に求められる資質の一つ
もちろん、受験数学程度であればそこまで必要はないのかもしれないが
学問として数学を修めるには必要なこと 数学の研究発表においても、
背理法で証明すること自体は問題は無いが
背理法で証明します、なんだかよくわからないけど証明は回ります、というのはやってはいけない
必ず何が本質かということは理解していて、説明できなければならない
だから、背理法を使っていても、何が本質かちゃんと押さえておければいいけれども
例えば学生が重要な命題の証明で何が何だかわからないけど証明だけはできます、という認識だと、理解に重大な影響を及ぼすので教育上よろしくないというのはわかる とある数学者も言っていたが、物理や化学と違って数学の命題は暗記するものではなく理解する物である
公理さえ定めてしまえば全て道で繋がっている、一つの世界が出来上がるのが素晴らしいところ
そして命題の理解と証明とはとても密接な関係にあるのだから証明のための証明に抵抗を感じる数学者は少なくないだろう
もちろん実践的な研究のうえで背理法が必要になることはあるし、それについては否定していないのでは
あくまで、数学の本質の理解を妨げる危険性に注意しろ、ということであれば納得できるはなし その持論は結構なんだけど、長々と書いた動機が
「≠での変形でも背理法よりかは直感的だと思う」
という頼りない感想なのが頂けない
結局何に当てはめてよいのか分からない空論に聞こえる すまん
≠の変形がなんで駄目なのか教えてくれまいか 背理法を使った手続きの方が、むしろ数学的(論理的)に見えるけどね。
統計検定などでもそうでしょう。いきなり、実証したい仮説を持ってくるのでなく、
まずは無に帰したい方の帰無仮説を用意する。それにp値などのパラメータを
付与して、その帰無仮説の蓋然性を確率的に検討する。そして、その仮説が
なかなか有り得そうにないと判るとそれは棄却されて、検定者が本来、採用したかった
方の仮説である対立仮説が、そこでようやく採択される。
もちろん、それは確率論的な話なので、ここで採用られた仮説が完全に真である保証は
なく擬陽性や偽陰性の可能性も少しは残る。ただ、ここで言いたいのはそのことでなく、
背理法のような一見すると迂遠で冗長なアプローチにこそ、数学的な真理へ至る本質
があるのではなかろうかという私なりの推論ね。 >>46
本題から外れるから詳しく言わないけど、仮説検定は哲学的に批判があるよ。
エリオット・ソーバーの『科学と証拠』とかに書いてある。 >>43
≠を用いることは論理的には何も問題ないのだが、
a≠bからはaがbでないことはわかるがaの構造について何もわからないので、証明はできても理解に繋がりにくい
というようなことが丁寧に38から40に述べられている
個人的には、=で結ばれるのが一つであるのに対し≠では無数のものが結ばれ得るので考えなければならない対象が多くなるのも問題
多くのものについて議論すると書き手や読み手にとって量的に大変なだけでなく、場合分け漏れがないかも考えねばならないので負担が増える
例えば13の議論は既に23指摘されているように素因数分解の一意性を証明せねばならない、といった具合 >>49
数学は論理だけではできないよ、研究してる体系の本質を理解しないと
直感的な理解が大切
もちろん命題の正しさの保証や計算を回したりする段階では論理が使われるが
それは出来上がったものを使ったり予想の検証をするときに必要になるのであって
直感的な理解をしていないとそもそもそういった数学体系自体が出来上がらない
すでに確立された手法を用いる応用家にはむしろその論理や正しい使い方の面だけでいいけれども、学問としての数学は論理だけでは進まない
そこまでわかって、直感的な理解と証明の本質の理解と合わせてあくまで証明のプロセスの簡略化として背理法を用いるなら問題ない >>49
前半については曲解
最後の行については素因数分解の一意性については普遍的な性質であり独立な命題なので、数学を体系的に理解していく上で問題はないと思う
要するに論点が違うんだと思うが
背理法を使うのに気をつけろと言ってる人は本質の理解を重視していて
このスレでの批判的な人は証明としての簡略化を重視している
背理法では証明は正しく回っても「なぜ成り立つのか」を本質的に見落とす可能性があるし、途中で出てきた命題は基本的に成り立たない
直感的な証明においては証明の途中においては正しい普遍的な性質が得られているので、なぜそうなっているのかが分かる >>50>>52
なるほど、そういう考え方があるのですね。それって、位相幾何学者の
ブラウワーなどが提唱した背理法や推論規則を捨象する「数学的直観主義」みたいな
立ち位置なのでしょうか?
ただいくら直観的な証明が得られても、やはりそれが真か偽かを論理的に証明してみないと、
そこに誤謬のリスクがあるのではないか。たとえば、古代人にとっての直観は、地球は平面で
あり、かつ、プトレマイオス的な天動説を皆で信じていた。コペルニクスの地動説が
出てくるまでは。だから、直観を使うから対象の本質や普遍に迫れるとは限らないのでは?
むしろ人間の認知の特徴にあるのはバイアスや偏差、歪曲化、恣意性、忖度であるので、
そこを超える為に論理が要請される気がする。 哲学者のヒュームは、論理をもっと先鋭化させるか、あるいは科学的な論理性や
真実性をも懐疑にさらす。たとえば、ヒュームは太陽が東から昇り、西へ沈むことは
必ずしも客観的な事象ではないとする。それは、ただの慣習的に見られた認知に過ぎず、
明日も未来もまた必ずそうだとは言えない、といった考えを述べた。
一見すると荒唐無稽なこのヒュームの主張こそが、実は真に論理的なものであると
言える。なぜならこの宇宙空間や地球環境に著しい変異が生じたりした場合には、
既存の科学体系がそのまま適用出来なくなる可能世界も十分に考えられるからだ。
それは非ユークリッド幾何学の世界では、ユークリッド幾何学の価値観だけでは
不十分であるのと同じこと。だから、論理性もそれを先鋭化させていくと、
チューリングマシンのような単なる機械的な自動手続きを超えた真理みたいなものが
垣間見えるかもしれないよ。 >最後の行については素因数分解の一意性については普遍的な性質であり独立な命題なので、数学を体系的に理解していく上で問題はないと思う
これ数学の否定 >>52
>素因数分解の一意性については普遍的な性質であり独立な命題なので、数学を体系的に理解していく上で問題はないと思う
数学に対しその程度の認識でよくもまあ本質だの一つの世界だの理解だのと宣えたものだ
ツェルメロやフレンケルやヒルベルトといった先人を侮辱しているとしか思えない >>55
>>56
おおかた啓蒙書の内容垂れ流してた中学生がボロ出したってとこだろ
可哀想だからほっとけ >>53
直観主義までは行き過ぎというか、排中立を認めない数学者はほとんどいないと思う
少なくとも解析、代数、幾何系では
>ただいくら直観的な証明が得られても、やはりそれが真か偽かを論理的に証明してみないと、そこに誤謬のリスクがあるのではないか。
これはもちろんその通りで、論理的に正しいことの証明は必須、前提ではある
論理的に正しいことを確かめたうえで、なぜそうなっているのかの理解が大切ということ
もちろん殆どの数学者は背理法を使っていもそれができているし、取りこぼすことはない
ただ、学生とかがそうならないように気をつけようね、という意味で配慮している先生とかはいる >>57
かわいそう
なにか数学にコンプレックスがあるんだね
一方的に見下すことしかできないなんて
かわいそう ちなみに私の専門は幾何系で、基礎論とか論理学の深い話はそこまでできないよ
あくまで代数とか幾何とか解析のくくりの数学者のコミュニティや共通認識がある程度わかるだけで >>53
ちょっとだけ加えていうと、確かに直感だけでは取りこぼすような所もある
式の上での変形でしか進められないようなものもあるし、直感的な理解がほとんど得られないが証明はでき有用な命題や補題というのもある
そういった意味では、直感によらない論理的な操作がなくてはならない部分、というのは存在していたのだと思う
しかしながら、少なくとも私がこれまで学んできた数学の理論(最新の研究分野も含む)においては、そういった例外は少数であり(もちろん重要なものではあるが)、基本的には各分野は直感的な理解やなんらかの意味付けをもとに体系化が進められていくものであると断言できる
仮によくわからない性質があったとしても、それをそのまま鵜呑みにせず新しくいろんな概念や体系を作り出すことでそこになんらかの意味を見いだそうとする試みが現代までの数学を形作っていると言っても過言ではない
もちろん直感だけでは理解出来ない命題が現れたときに直感によらずある程度証明できるような力は必要だと思うがね
まあ直感ということを強調しすぎたけれども、ざっくりまとめると
論理に基づいてしっかりやることも、直感的に理解することもどちらも大切だということ
数学に慣れてる数学者が背理法を使うことにはなんら問題はないが
あまり慣れてない学生は背理法だけで証明を回して、命題の成り立つ本質を見失ったりしないように気をつけよう、教える側もそうならないよう注意しよう
ということだね
イメージとしては
論理的な力は、足場を固めるための力
直感的な理解は、その体系の本質を理解するため、先へ進めるための力 >>54
中々興味深い話ではある
先に述べた通り、私のわかる範囲(いわゆる解析学や代数学や幾何学といった分野)の理論は必ず何らかの性質や概念を体系化していくものなので、論理だけでは必要な定義もわからず、体系として形作ることもできない
しかしながら、人間的な要素を排除して、論理を論理だけで繋げていった先に何があるのかは面白い話だと思う
それについてはどうなるか楽しみにはしている 言っちゃ悪いけど、宗教者の戯言と同じだね、理屈の類ではない
都合よく「これは神の御業だ、神の試練だ」とか定めて世界観つくってるアレ
信じる者にしか通用しない その教義における
「背理法を使わない方がわかりやすい」
という点がまるで信じられない 素因数分解の一意性
って本当に背理法じゃないと証明できないの? んなこたーない
排中律がなくてもm<n∨m=n∨m>nは証明できる
後はお馴染みの素因数分解の一意性証明でよい
m<nとm>nのときは矛盾するのでm=nと分かる 直観主義論理で証明できるかといえば、できる
m<nとm>nのとき矛盾を導くのは、背理法のプロセスではなく、m<nとm>nの否定に過ぎない
表面上、背理法の形式をとるかどうかを問題とするなら、既に指摘されたように背理法を対偶に書き換えることで解決済み 命題
無理数⇨既約分数で表せない
対偶
既約分数で表せる⇨有理数 背理法で証明できたと思っても計算ミスだったということは起こりがち 背理法不要論はよく分からんけどそれと同じくらい
≠変形よくない論も分からない 背理法がどうこうじゃ無くて、
数学において
数学において
数学において
1. 証明とは公理から推論出来ると言う意味であり、
2. それ以外の意味は全く無い、
この二つを認めるなら、数学において背理法が正当なものであることは全く明らかであり、認め無いなら数学を理解し行うことは不可能だと言うだけのことだ。
多分数学における背理法の有効性を疑うヤツは、演繹と帰納の区別すら出来てないただのアホだろ。
でなきゃシュレーディンガーの猫ガーとかの、単に混乱を望んでいるだけのキチガイか。 背理法とは、結局否定出来ないことを示すと言うことだ。
公理から推論出来ないとしたら辻褄が合わないのだから、公理から推論出来るのだと言うだけのこと。
小学校のとき面積を出すのに引いて出した問題があっただろ。そのほうが計算が簡単だったから。
そんなんと結局同じことだよ。 >背理法とは、結局否定出来ないことを示すと言うことだ。
>公理から推論出来ないとしたら辻褄が合わないのだから、公理から推論出来るのだと言うだけのこと。
全然違う 背理法と言うものを何か特殊なもののように思っているから理解出来ないだけだ。
我々は普通に日常でも背理法を使う。
「〜〜だとしたら、、、、いやいやそれじゃ〜〜が〜〜したことになる。そりゃいくらなんでもおかしい。あり得ん。やっぱり〜〜のはずだ。」
こういう考えかたは誰でもやるだろう。
これは背理法だ。 二人とも「推論できない」と「否定が証明できる」を混同している あと背理法が構成的でない云々の指摘についても、一見正しそうで的外れだ。
数学の第一義は厳密な証明にある。
「代数方程式は複素数の範囲で必ず根を持つ。」代数学の基本定理だ。
根を求める方法について、全く構成的でない。
では代数学の基本定理は無意味なのか?
「微分と積分は逆演算だ。」解析学の基本定理だ。
しかし積分や微分を求める方法について何も語って居ない。
ではこの解析学の基本定理は無意味なのか?
>>83
「公理から推論出来無いことが証明される。」
「否定が証明される。」
同じだアホw 事実:(ZFCが無矛盾ならば)連続体仮説はZFCから推論できない
誤解:(ZFCが無矛盾ならば)連続体仮説の否定がZFCで証明できる >>89
(ZFCが無矛盾ならば)連続体仮説はZFCから推論できないことが証明される
(ZFCが無矛盾ならば)連続体仮説はZFCから推論できないのは誤りであるとすることの否定が証明される
全く同じですなw >>89
連続体仮説はそもそも連続体仮説をZFCと独立な公理とすべきかどうかと言う問いだろう。
公理を固定して話しをしている場合とは違うだろが。 ロジックの基本さえ知らないなら公理とか推論とか言わなきゃいいのに
馬の耳に念仏とはこのことだな
自分の使ってる言葉の意味さえ知らない者には処置なしだ 横レスだが。。
公理系を ZFC に固定する。ID:EOqQyi8Y によれば、ZFC の中で記述できるいかなる問題 Q も、
「 Q が ZFC から推論できないことと、¬Q が ZFC で証明できることは同じことだ 」
と言っていることになる。たとえば、Q として
Q: √2 は無理数である
という問題を考えてみると、Q は ZFC から推論できないし、¬Q は ZFC で証明できる。
……ということでいいのか? すまん、Q の中身が逆だった。たとえば、Q として
Q: √2 は有理数である
という問題を考えてみると、Q は ZFC から推論できないし、¬Q は ZFC で証明できる。
……ということでいいのか? そのQは反例にならない
反例になるのは次のどちらかの場合
・Qは証明できないし、Qの否定も証明できない
・Qは証明できるし、Qの否定も証明できる
前者ならQは独立命題と呼ばれる
後者なら理論は矛盾している >>97
いや、この Q 自体が反例になっている必要は無いんだ。
あくまでも ID:EOqQyi8Y がこの Q のことをどう思ってるのか知りたかった。
あるいは
Q1: RからNへの単射が存在する
とかでもいい。Q1 は ZFC から推論できないし、¬Q2 は ZFC で証明できる。
だから、この Q1 も反例にはならないんだが、反例になっている必要はなくて、
ID:EOqQyi8Y がこの Q1 のことをどう思ってるのかなっていう。 またミスってる。Q2じゃなくてQ1だ。。
× Q1 は ZFC から推論できないし、¬Q2 は ZFC で証明できる。
〇 Q1 は ZFC から推論できないし、¬Q1 は ZFC で証明できる。 もし数学に背理法を不要とした場合、どうなるかを背理法で証明してみよう
数学に背理法は不要である(命題)
背理法を使わない数学体系は、夥しい困難と混乱、カオス、狂気に陥った
よって、数学に背理法は不要であるという命題は、数学の成立と整合性と矛盾する
すなわち背理法によって、数学における背理法の必要性が証明された(証明終)
これはトートロジー(恒真命題)ですw >>78
論点がずれてると思うんだけど
論理としての正しさではなく、直感的な意味を理解するための方法論として議論されていると思うのだけど
君はまず数学をやる前にまず日本語の復習からだな 例えばチャーハンを作るときに
「初めに卵とご飯を混ぜておくとパラパラになりますよ」
という意見に
「後から卵をいれてもチャーハンはできるだろう!?何を言ってるんだ」
と反論してるようなおかしさ
数学を語ろうという人間が論理的に話をできないのは恥ずかしいことだと自覚して欲しい >>85
これについても、厳密な証明は前提条件だということをわかっていない もうちょっといい例えを思いついたが
プログラムなんかで、ここはifelseよりforを使ったほうが見やすいとか、forより〜を使ったほうがわかりやすいとかあると思うが、そういった話でしかない
それに対して、ifでもちゃんと回るんだ、とか、同じ条件を表してるんだ、とか言っても仕方ないだろ そもそも教育上の話ですし
>>100の証明もどきは意味不明ですし >>105
それ戯れに書いただけなので、素で受け取らないでくださいw
ただ、数学のテキストを見ると、証明で背理法が使われているのを見ることが多いので、
もし、背理法が不要となったら、世に出回っている数学のテクストが大幅な修正や改訂を
余儀なくされて、困るだろうなという感想を持ちました。
それに、もし、背理法がない方が数学の利便性なり、見通しが良くなる、または数学の本質に
迫りやすくなるということであれば、古の天才数学者、たとえばガウスやオイラー、カントール
などがそうした背理法不要論の考えを少しでも述べていたはずで、それらがないということは、
数学において背理法は必須の道具や要素である、というのが推論できるということです。 背理法による証明は危険ではある。
1つの間違った命題からすべての命題が導かれてしまう。
普通数学者は自分が使う定理の証明を全てフォローしているわけではない。 >>118
正しくない命題を「証明した」論文は珍しくない。
念のため言っておくが、「結果は正しいが論証が間違っている」のではなく、結果自体が間違っている論文。 ある命題を証明するとき「それが偽だとすると、誰々が示した結果に矛盾するから背理法によりこの命題は正しい。」という論法は普通に使われるでしょ? 関係あるじゃん
研究で使う道具だてを全部厳密に証明チェックしてるわけじゃないんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています