数理論理学(数学基礎論) その12
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数学基礎論は、数学の基礎づけを目的として誕生したが 現在では、数理論理学として、証明論、再帰的関数論、 構成的数学、モデル理論、公理的集合論など、 多くの分野 に分かれ、極めて高度な純粋数学として発展を続けています。 (「数学基礎論」という言葉の使い方には、専門家でも 若干の個人差があるようです。) 応用、ないし交流のある分野は、計算機科学の諸分野や、 代数幾何学、 英米系哲学の一部などを含み、多岐にわたります。 (数学セミナー98年6月号、「数学基礎論の学び方」 ttp://www.math.tohoku.ac.jp/~tanaka/intro.html 或いは 岩波文庫「不完全性定理」 6.4 数学基礎論の数学化 などを参照) 前スレ 数学基礎論・数理論理学 その11 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/math/1325247440/ >P∧QやP∨Qや¬Pが真であることの定義は? 集合の共通部分、和集合、補集合でもって行う。 >>370 それが真であることが共通部分?? 共通部分って命題じゃないよ集合なんだけど P∧QやP∨Qや¬Pが真であることの定義は? 訂正 >>369 >P→QとP∧QとP∨Qと¬Pの定義を早う P→QとP∧QとP∨Qと¬Pが真であることの定義を早う >>笑わせちゃあいけない。 [ 豚>4] にどんな意味があるというのかね? wwww >成立しないということですが? 偽であることと、ナンセンスであることとを混同してはいけないのこころよ。w >>373 >P→QとP∧QとP∨Qと¬Pが真であることの定義を早う 自分でやりな、w >>375 君の議論ではこの定義は存在しないんだな アホラシ 下らなさすぎて死にそう >>376 意味が無いってことだよ。おわかり? w だいたい「豚>4」を論証から排除したければ (R∋x)∧(x>4) とするのがごくごく普通 (まあこれでもx=豚は有り得ますが) 無意味な定義「もどき」をいじり倒してもダメよ >>378 猿がコンピューターを使っている、がナンセンスかどうかはHevenしか知らないんですよね? どうしてあなたは神ではないのにナンセンスかどうかがわかるんですか? >>378 君は→∧∨¬の真偽の定義さえも出来ないんだから 自分に意味がないことを自覚した方が賢明ですよ >>365 >「豚が4より大きいということは成立しない」でなんの不思議もありませんが? 正気かい? >エムシラはただものではない・ >その実力をみくびることは非常に危険だ。 >かつて fj でコテンパンにやられた松芯痰の例もある・ >>382 >→∧∨¬の真偽の定義さえも出来ないんだから ソチに任しただけの話だ。w >>354 >R(x)を次のように定義します R(x)=P(x)→Q(x) R(x)の議論世界は定義可能ですか? ソチはどう思う? 任意の述型P(x)のカテゴリー空間をCx{P(x)と書き。 仮言命題「P(x) ならば Q(x) である」を [P(x) ⇒/x/ Q(x) ]と書き、「Cx{P(x)」⊆Cx{Q(x)」と定義する。 仮言三段論法の原理は、 [P(x) ⇒/x/ Q(x)]&[Q(x) ⇒/x/ R(x)]⇒/p,q,r/[P(x)⇒/x/ R(x)]{Q} として定式化される。 [P(x)⇒/x/ R(x)]{Q} は [P(x)⇒/x/ R(x) ]{Q}のタイプミス。 >>380 >どうしてあなたは神ではないのにナンセンスかどうかがわかるんですか? 全部わかるってわけじゃないよ。w >>380 >どうしてあなたは神ではないのにナンセンスかどうかがわかるんですか? ここだけの話だが、実は、神なのだ、w >>392 豚>4がナンセンスであることはなぜわかるんですか? >>393 つまり、意味とはあなたの主観により定まるものと考えて良いですか? 対偶律は、RL(the Reformed Theory Logic)では。[P⊃Q]⊃[〜Q⊃〜P] ではなくて、 [P(x)⇒/x/Q(x)] )⇒/p,q/ [〜Q(x) ]⇒/x/〜P(x)] と。正しく、定式化される。 「豚が4よりおおきい」ことがナンセンスであることも主観によらない。 > どうも、M_SHIRAISHI氏(つーか、EURMS)の理論」のほうが正しいようだな。 > > 例えば、対偶律は、従来は、 (P⊃Q)⊃(¬Q⊃¬P) で表わされるもののこと > と考えられていたのだっただが、これは、どうやら、誤りだったようだ。 > > そして、M_SHIRAISHI氏の言う[P(x)⇒/x/Q(x)]⇒/p,q/[¬Q(x)⇒/x/¬P(x)] > こそが【対偶律】を正しく捉えてたものと考えられる。 > > M_SHIRAISHI氏(たち?)の主張する Logical Reformation は、おそらく、世界を > 席巻することとなろう。 http://www.age.ne.jp/x/eurms/ http://www.age.ne.jp/x/eurms/Ronri_Kaikaku.html >>398 でも、猿がコンピューターを使っている、は主観によるんですよね? 神はどちらかは知っているみたいですけど 背理法の原理は、フレーゲアン理論では、 (〜P⊃Q&¬Q)⊃Pであると信じられて来た。 しかし、これは誤りであって、正しくは、[[P(x)&¬Q(x)]⇒/x/0(x)]⇒/p,q/[P(x)⇒/x/Q(x)]である。 但し、0(x) は x に関する矛盾を表わす。”x に関する矛盾”とは、例えば、x が実数の 場合、 [x>2]&[x<0] などである。 論理学には2400年に及ぶ歴史があるのだ。 10年そこらもののかずではないわ。\(-o-)/ 述語ごとに議論世界を固定するのはまあ認めてもいいですけど、その選び方が主観的すぎるのはやはり良くないと思いますよ 神が各述語ごとの議論世界を選ぶとちゃんと書いた方がいいと思います ナンセンス、では説明になってませんからね 我々人間では、猿がコンピューターを使っている、がナンセンスかどうかは判断できないんですから サイト覗いたら7万円の本売ってるんですね 一度でも売れたことあるんですか? 売れなきゃ載せない。 専門家ないしはそれを志す人たちを対象としたものだ。(^o^) >>404 ぶ 定義域なんだから恣意的でないとダメ まあともかく →∧∨¬の真偽を定義できないなんて無意味の極み >>406 議論世界は神が決めるんですよね? それを明言しないのはどうしてですか? 「豚は光の三原色のひとつである」や「恋は光の三原色のひとつである」は、明らかに ナンセンスであるから、<x:豚>や<x:恋>は「xは光の三原色のひとつである」 の論議世界には含まれない。 >>411 猿はコンピューターを使う、の場合は明らかではないんですよね? 結局、神が決めるわけですよね? 光の三原色の場合も、明らかにナンセンスかどうかは判断できないのではないですか? 海洋生物だと五原色とか七原色とかいる模様 色は物理量というより感覚量で個体により違うと思われる 「型素」とか「カテゴリー空間」とか変てこな俺様用語を勝手に導入してるけど 要するに多ソート一階述語論理(many-sorted first-order predicate logic)でしょ こんなのはずっと以前からあるんで勝手な俺様用語持ち出す前に少しは勉強したらどうよ 型素とはソートのこと、型素に対するカテゴリー空間とはソートに対する議論世界(domain of discourse)のこと ちょっとググってきましたけど、違くないですか? 述語に対してソートを定めてるわけではないですよね 議論世界はソートに対して定まっていて、述語に対して定まってはないですよね 述語にはソートではない普通の項を代入することも可能なわけです この人の言ってることとは異なります 数学基礎論の定理の証明に数学(例えば集合論)の定理を使ってしまったら、数学基礎論の立場が損なわれてしまいませんか? 何のために形式主義の立場で公理化を行ってきたんだよってなりませんか? メタと対象という区別があります 我々が通常の数学をする際に用いているのはメタなレベルにおいての言語および論理です 数理論理が対象とするのは、形式化された言語および論理です 形式化された言語における定理を我々が証明する際に用いる論理は、メタなレベルにおける論理です 証明された定理の内容は形式化されたレベルにおける論理です つまり、本当に基本的なものは全部メタとして押し付けてしまっているわけですね 論理学を数学の一分野の如く考え、形式化できると考えたヒルベルトは間違っていたのだ。 ある意味ではそうかもしれないですけど、あなたはどういう点が具体的に間違いだと思うんですか? 論理法則は形式的な真理ではなくして、二階の実質的な真理なのだ。 先覚者:Leonhert Bolzerno (1781-1848) のことばを借りれば、 「論理法則は”法則の法則”」なのだ。従って、論理学にモデル論 など入り込める余地は無く、いわゆる”完全性定理”は問題の提起から して誤りなのだ。 >>418 私は>>231 ですが、>>233 でも同じ回答してますね メタと対象の区別は私は出来てます それが>>417 に対する何の回答になっているんですか? >>422 数学基礎論は数学の土台じゃないってことだよ ただの1研究分野 Leonhert Bolzerno ---> Bernard Borzarno >>417 >数学基礎論の定理の証明に数学(例えば集合論)の定理を使ってしまったら、 集合「論」ってほどのおおげさなものではない。w 新年おめでとう! May Peace Prevail in the New Year ! 新年おめでとうございます。 ついてくの必死ですがw よろしくお願い致します。 > どうも、M_SHIRAISHI氏(つーか、EURMS)の理論」のほうが正しいようだな。 > > 例えば、対偶律は、従来は、 (P⊃Q)⊃(¬Q⊃¬P) で表わされるもののこと > と考えられていたのだっただが、これは、どうやら、誤りだったようだ。 > > そして、M_SHIRAISHI氏の言う[P(x)⇒/x/Q(x)]⇒/p,q/[¬Q(x)⇒/x/¬P(x)] > こそが【対偶律】を正しく捉えてたものと考えられる。 > > M_SHIRAISHI氏(たち?)の主張する Logical Reformation は、おそらく、世界を > 席巻することとなろう。 http://www.age.ne.jp/x/eurms/ http://www.age.ne.jp/x/eurms/Ronri_Kaikaku.html 皮肉なことに、「世界を席巻して」から「日本を席巻する」ほうが簡単なんだよな。w >>422 わかっているのなら、何が問題になっているのかがわかりません 数理論理で用いている数学の定理はメタであり、数理論理それ自体は形式的な論理です 形式的な論理を用いて数学を再構成することは可能ですよね >>429 私の質問に答えないのはなぜですか? あなたの新論理学は神の存在を仮定しない限り成立しない それを書き加えるべきです You shall know the truth. And the truth shall make you free. >>431 >>数理論理で用いている数学の定理はメタであり 何でそんなことしていいんですか? メタであっても数学の定理は各種公理から導かれています メタな立場でそういう定理を使う時はそういう公理を暗黙的に(直観的に)認めているってことじゃないんですか? もし認めて使っているんだったら何のために形式的数学なんてやってるんだってことになりませんか? (メタな立場で選択公理や正則性公理を仮定するのはさすがに抵抗を感じるでしょう) 何と言うんだろうか…全ての数学は数学基礎論を土台にして成り立っていなくてはならない。だからこそ数学基礎論は他の何者にもよらず確立されていなくちゃならない という感じを私は持っているのかも知れません >>431 それと、ふと思ったのですが >>我々が通常の数学をする際に用いているのはメタなレベルにおいての言語および論理です 実は、 我々が通常の数学をする際、本当は完全に形式的に議論…例えばヒルベルト流の形式的体系で公理から推論規則で次々と命題を演繹していっている のだけれども、私たち人間は頭がいいから細かいところや面倒なところはすっ飛ばしているだけなんだ。 そして、記号の羅列だけで命題を並べるのは可読性に劣る場合もあるから、所々単に自然言語で表しもしているだけなんだ。 だから我々の数学の証明はメタっぽく見えるけど本当は形式化されているんだ ということだったりはしませんか? >>435 >>436 あなたは数理論理を勉強したことがありますか? それで少し話が変わるかもしれません 数理論理の基本的な部分において集合論の知識を使うことは間違えないですけど、それはあくまでメタ視点での話なので公理云々に執着するのには意味がないんですよ >>418 >つまり、本当に基本的なものは全部メタとして押し付けてしまっているわけですね とはそういうことです 数理論理は、あくまでも形式化を目的としていて厳密化することはできないのだ、と考えても良いかもしれません 形式化、の意味は、論理を形式的言語で記述して形式的な推論規則を用いる、という意味です 自然言語は明らかに形式的言語を用いていませんから、形式化されていません されていないからこそ、形式化することに意味があります >>437 >>あくまでメタ視点での話なので公理云々に執着するのには意味がない 言ってる意味が分かりません 数学基礎論におけるメタ証明の中でツォルンの補題を使うこと云々に執着するのは意味が無いんですか?なぜですか? しかもツォルンの補題を使うっていうことはメタな立場で直観的な(?)集合概念までをも使ってるじゃないですか >>数理論理は、あくまでも形式化を目的としていて厳密化することはできないのだ 言ってる意味が分かりません 異論を差し挟む余地の無い数学基礎論(有限の立場での議論?)という土台を作ってその上に個別の数学理論を展開出来るようにすることは出来ないんですか? >>自然言語は明らかに形式的言語を用いていませんから、形式化されていません 私が>>436 でいってることは見た目上の違いっていう視点からのものです 個々の各数学理論でω無矛盾や数値別表現可能性(みたいなもの)が問題になっているんですか? ω無矛盾や数値別表現可能性ってメタと対象の違いに着目した概念じゃないんですか? >>438 ツォルンの補題は論理の構成においては使われないと思いますよ 直感的な集合概念はメタにおいて使いますね 我々がメタな存在である限り、メタをなくすことはできません そういうのは形式化して初めて意味があるものです 形式化されていない普通の論理には適応できませんね ツォルンも使いますかね、でも 何にせよ使うとすれば全部メタに済ませるわけですね >>438 直観論理の研究に背理法や2重否定を使ってはいけないかと言えばそんなこともない Hilbert流の論理学では、modus ponens をメタな”論理規則”して認めなければにっちもさっちもいかない。 しかるに、論理法則とはHirbertが考えたような形式的な真理ではなく、二階の実質的な真理なのだ。 >>つまり、本当に基本的なものは全部メタとして押し付けてしまっているわけですね >>何にせよ使うとすれば全部メタに済ませるわけですね 何言ってるか分からないんでもっと正確に言って貰えますか? >>ID:OgKz+4d1 それとあなた人の質問に対してちゃんと答えてないですよね? まず私が言ってることが間違ってるんなら1つ1つピックアップしつつ >>435 ,436,438の質問に答えて貰えますか? >>435 >メタな立場でそういう定理を使う時はそういう公理を暗黙的に(直観的に)認めているってことじゃないんですか? メタに認めているということです >もし認めて使っているんだったら何のために形式的数学なんてやってるんだってことになりませんか? あなたが認めたくないならそれまでです よかったですね >>436 > だから我々の数学の証明はメタっぽく見えるけど本当は形式化されているんだ 我々の自然言語は形式化されていません 当たり前ですね それを形式化することは可能でしょう >>438 >数学基礎論におけるメタ証明の中でツォルンの補題を使うこと云々に執着するのは意味が無いんですか?なぜですか? メタだからです どれだけメタな仮定をおけば論理を形式化するのに十分なのかというのも数理論理の興味の一つかもしれませんね >しかもツォルンの補題を使うっていうことはメタな立場で直観的な(?)集合概念までをも使ってるじゃないですか そうですね でもそれは仕方ないことです メタを認めないなら、議論はできません >異論を差し挟む余地の無い数学基礎論(有限の立場での議論?)という土台を作ってその上に個別の数学理論を展開出来るようにすることは出来ないんですか? できます メタな論理を用いて数理論理を使って、形式化された論理を用いて数学をすれば良いのです >個々の各数学理論でω無矛盾や数値別表現可能性(みたいなもの)が問題になっているんですか? 数理論理の分野だけじゃないですか? >ω無矛盾や数値別表現可能性ってメタと対象の違いに着目した概念じゃないんですか? そうですね メタに集合論の知識を使って形式的な論理を構築して、その後に集合論を形式的な論理を用いて整備する、ということですよ 形式的とはそういうことですね 少なくとも数理論理の世界では >>447 >>>もし認めて使っているんだったら何のために形式的数学なんてやってるんだってことになりませんか? >>あなたが認めたくないならそれまでです 答えになってないです >>> だから我々の数学の証明はメタっぽく見えるけど本当は形式化されているんだ >>我々の自然言語は形式化されていません >>それを形式化することは可能でしょう さっきも言った通り、私が>>436 でいってることは見た目上の違いっていう視点からのものです 自然言語は単に形式的な表現を和訳してるだけじゃ無いですか。 例えば、形式的な表現|-∀x(x=x)は自然言語としては「全てのxは自分と等しい」と表現されてますけど、 これは日本人が(概念把握の都合上)そう言語化した方が分かりやすいからそう言っているだけであって、 この日本語表現によって指されている物そのものが|-∀x(x=x)に他ならない(日本語表現はこれを意図してそのように日本語された)から、 「全てのxは自分と等しい」という記号の有限列は単に見た目の問題でしかなく、 「全てのxは自分と等しい」といったところでその言及がメタなものにはなっては居ない。形式化されたものそのものだ。 単に人間が認知するという行為がメタな立場からなされるに過ぎない。 そういう意味で>>436 を言ったんです。 あなたは「我々が通常の数学をする際に用いているのはメタなレベルにおいての言語および論理です」と言っていますが、形式的に表現された有限記号列を、予め定められた言語以外の記号(日本語)を用いて捉え直した時点でもう既にメタの議論をしているという解釈をしているように思えました。 >>>数学基礎論におけるメタ証明の中でツォルンの補題を使うこと云々に執着するのは意味が無いんですか?なぜですか?>>メタだからです 意味が分かりません >>どれだけメタな仮定をおけば論理を形式化するのに十分なのか 意味が分かりません >>>しかもツォルンの補題を使うっていうことはメタな立場で直観的な(?)集合概念までをも使ってるじゃないですか >>そうですね >>でもそれは仕方ないことです >>メタを認めないなら、議論はできません メタを認める、の意味が分かりません さっきからメタメタメタメタばっかり言って中身が伴っていません >>>異論を差し挟む余地の無い数学基礎論(有限の立場での議論?)という土台を作ってその上に個別の数学理論を展開出来るようにすることは出来ないんですか? >>できます >>メタな論理を用いて数理論理を使って、形式化された論理を用いて数学をすれば良いのです だったらそれでいいじゃないですか 数学基礎論におけるメタ証明に個々の数学理論の定理を用いることに違和感を感じるということにあなた自身も同意したようなもんじゃないんですか? >>>個々の各数学理論でω無矛盾や数値別表現可能性(みたいなもの)が問題になっているんですか? >>数理論理の分野だけじゃないですか? ω矛盾したり数値別に表現可能で無いというようなことがあれば、それはメタな立場で直観的に演繹される結果と形式的体系内で演繹される結果に齟齬が起きる(かもしれない?)というわけじゃないんですかね? だとしたらメタな立場で暗黙的に仮定された集合論から導かれる結果を用いて数学基礎論のメタ定理の証明を行うことには違和感は感じるんじゃ無いんですかね >>>ω無矛盾や数値別表現可能性ってメタと対象の違いに着目した概念じゃないんですか? >>そうですね あ、それだけですか。 >>メタに集合論の知識を使って形式的な論理を構築して、その後に集合論を形式的な論理を用いて整備する、ということですよ >>形式的とはそういうことですね ???数学基礎論の議論の前提として、先にメタの集合論がある??? 意味が分からないです 私の素朴な感覚は、 数学基礎論における議論で選択公理や正則性公理などのZFCの公理(とZFCから演繹される結果)を使うのは気持ち悪い ということ一言に尽きます ???数学基礎論の議論の前提として、先にメタの集合論がある??? 論理学は、概念論(つまり、初歩的「集合論」)より始まる。 Venn図に言及しない論理学の教科書なんて、アルコールの抜けたビールみたいだ。 >>451 だから、メタな仮定を一切認めないなら論理の形式化を全て諦めればいいじゃないですか 前にも言ったはずですよ? >>451 例えばですね、論理式を定義するのにも、記号の集合やメタな添え字としての自然数を導入する必要があるんです こればっかりはどうしようもないんですよ これをメタに認めなければ、我々は何もすることができないんです >>455 というより厳密な数学をあきらめればいいのよ。所詮数学とて メタな存在(記号図式、記号の集合)に依存せにゃならん砂上の楼閣 なんだから。 >>454 あなたのベン図は神が定めてるんですよ 神を前提とした論理学とか斬新ですね >>451 なるほど、じゃあ君にとっては古典1階述語論理に関する完全性定理は無価値なわけだし その完全性定理を活用して示される論理でなく数学の理論に関する様々な結果も価値がないわけね で、君のようなことを言い出すと「数学の基礎付けに使うメタ論理やそこでの諸概念の定義にimpredicativeなのがあっても良いのか」という話になってくる 私にとっては数学基礎論という問題意識、数学を基礎付けようなどという傲慢な意識が今となってはナンセンスだと感じるだけだがね まあ逆数学みたいなアプローチは単なる知的好奇心だけでなく実際の数学の「難しさ」を客観的に測る上でも価値があるとは思ってるが ちょうどGentzen流の還元的証明論によって公理系の無矛盾性証明の「難しさ」(つまり無矛盾性の保証料とでも言うべき事柄)に対して特定の順序数が与えられるようになり 公理系の「複雑さ」を測る客観的な尺度が与えられたことに大きな意義や価値があるのと同じように そう言えば逆数学の易しそうな解説本が出たね >>460 完全性定理を用いた定理って例えばどんなのがあるんですか? 無知なので教えてください >>328 >数学的に何も定義できてないのに批判だけするって民進党か 民進党 言及されて 四苦八苦 啄木 圈 正しいと証明できてないものは使ってはいけないというのは数学においては究極的には正しくなくて 正しいと証明できてなくても正しそうなものは皆が認めるなら使ってもいいし それを使って矛盾がないことが証明できれば誰がどう言おうが使ってもいい ただし正しいと証明されないのだからそれを認めない立場も認める もちろんそれを認めない立場がつまらないと認める立場も認める というのが数学における正しい立場じゃないかな 矛盾が起こらないこと自体は形式化で証明すればよいわけだけど それだって数学で使われている事柄が矛盾を引き起こさないという共同合意に基づいている だって矛盾が起こるようなら何でも結論できちゃうからね そしてその場合当然形式化でも矛盾が起きちゃう 今のところ 数学において究極の正しいと認められている事柄(公理)は モノに関しては集合論(ZF,ZFC,BG) 演繹に関しては古典論理(LK,NK) じゃないかしら >>464 > 正しいと証明できてなくても正しそうなものは皆が認めるなら使ってもいいし 「公理として」が抜けてるよ。 >>464 誰に取っても正しいとかそういう主観的な概念を持ち込みたくないから、形式的な数学的立場が発達したんじゃないですか? 絶対的な真理を認めるくらいなら、なにも認めない方が数学的でしょう 形式的体系の目的は数学を形式化して初めて扱えるようになる問題(証明不可能性、無矛盾性) 「正しい」とか「正しくない」とかは無関係 ヒルベルトが形式的体系と無矛盾性証明にこだわったのは、無矛盾でありさえすれば存在を認めるという哲学的立場であるため 形式的体系そのものが数学の存在や正しさを保証するわけではない それはそうですけど、>>464 のいうことは違いますよ明らかに メタに認めることは誰もが正しいと認めざるを得ないことなのかというとそうでもないですし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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