数理論理学(数学基礎論) その12
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数学基礎論は、数学の基礎づけを目的として誕生したが 現在では、数理論理学として、証明論、再帰的関数論、 構成的数学、モデル理論、公理的集合論など、 多くの分野 に分かれ、極めて高度な純粋数学として発展を続けています。 (「数学基礎論」という言葉の使い方には、専門家でも 若干の個人差があるようです。) 応用、ないし交流のある分野は、計算機科学の諸分野や、 代数幾何学、 英米系哲学の一部などを含み、多岐にわたります。 (数学セミナー98年6月号、「数学基礎論の学び方」 ttp://www.math.tohoku.ac.jp/~tanaka/intro.html 或いは 岩波文庫「不完全性定理」 6.4 数学基礎論の数学化 などを参照) 前スレ 数学基礎論・数理論理学 その11 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/math/1325247440/ 対偶は、無論、成立するがが、同値であるわけがない、逆が成立せぬのだから。 Frege流の論理学理論でも、命題とその対偶、逆、裏との関係については反故は無かった。w その点はよしとしよう。 >>201 対偶の対偶は成立するけどそれが元の命題とは違うという直観主義の人ね? >>201 誤解させたか 対偶は同値?とはp→qの成立とその対偶命題の成立が同値という立場なのかってことだよ >>202 ってことは対偶命題は元のと同値って立場ってことね 「直観主義論理学」なんかに染まるんじゃないよ。 あれは「失敗した理論」やからね。 「失敗した理論」 or 「失敗する運命にある理論」 >>209 私はピーマンが好きだ 私はピーマンが嫌いなわけではない でも、ニュアンスが明らかに異なりますよ? 必ずしも同じとは言えないですよね? 失敗どころかむしろメインストリームだと思うが プログラミングと関係する場合は特に 初学者の人でも気軽にスレに書き込むっていうこと自体は悪くないことだと思いますよ ただでさえ日本では数理論理学は忌避っていうか相手にすらされてない学問ですから >>209 >ID:DBa9oALT こういうのは? (P∧Q→人)→(P→¬Q) 背理法だけど >>212 「好き」が真偽2値の述語で 「好きでない」=「嫌い」なら 「嫌いなわけではない」=「好き」となりますよ ニュアンスで異なるということは 「好き」や「嫌い」が真偽2値の述語では無いということでしょう あるいは「様相」も考えるべきかも このスレの住人は年末年始も数理論理学(数学基礎論)やってますか? ぼーっとすると頭に浮かんてくる。 そんなもんじゃない? 安売りしてるいいテキストありますかね? Amazonで数百円で見つけても殆どが完全性定理までだから 新井俊康の数学基礎論っていいんですか? 誤植が多いらしいですが 帰誤法(背理法)を認めないような理論は、話にならんよ。www で、(P⊃Q)∨(Q⊃P)が成り立たないと思うのはなんでなんですか? >>224 > で、(P⊃Q)∨(Q⊃P)が成り立たないと思うのはなんでなんですか? その問題を言い出した人間とは私は別人だから横レスなんだけど、それが正しいということは、 2つの論理式PとQとを任意に選んだら両者は常に強弱の比較が可能だということになるだろう。 つまり論理式は強弱(含意が定める順序関係)について線型順序を成すってことだよ。 比較できない、つまり互いに無関係な、論理式のペアは存在し得ない、世の中のどんな命題も どちらかが他方を含意しているという意味で必ず互いに関連しているってことになり 全ての命題は(互いに含意し合う同値関係で商を取れば)線型順序を成しているってことになる。 これは論理を現実世界の命題に適用すると極めて不自然だと思わない? だって、>>224 君はラーメンを喰うという命題と私はご飯を食べるという命題とが必ずどちらかが他方を含意するってさ。 つまり古典論理での論理演算子の含意⊃は、日常的な感覚でのつまり日常言語での「ならば」とは全然別物になっちゃってるってこと。 そのことを端的に示しているのが古典論理では(P⊃Q)∨(Q⊃P)が妥当になっちゃうという事実だよ。 >>197 こういうことなんですかね、結局 気持ちは分からなくもないですけどね ならば、を論理演算と考える限り、日常語では定義されていない、前件が偽の場合の「ならば」を考える必要があるわけですから、結果が直観と違って当然だと思いますね >>225 >全ての命題は(互いに含意し合う同値関係で商を取れば)線型順序を成しているってことになる。 古典論理なら線形順序というより真偽の2値のみ つまり偽である命題の全体と真である命題全体とがあって 偽<真 という順序を入れることが出来るというだけだよ 日常語の「ならば」に「近い」のは古典論理よりむしろ直観主義 現行の理論、つまり Fregean理論(古典論理)では,内含概念の把握が間違っていた。 集合・位相・代数の知識を使って数学基礎論の定理を証明するのは、別にそれはそれで研究としていいんですよ でもそれっておかしい気はしませんか? 数学基礎論はその名の通り数学の基礎付け的な学問なのに、その場で数学の定理を用いて議論を進めるというのは、(循環論法という意味ではなくて)ある種の議論のループみたいな感じになっているような気がします 「ミイラ取りがミイラになる」みたいな? >>231 メタと対象という区別をしてるんですね そこら辺の難しい部分は、メタに押し付けてしまってるんですね >>230 前件が偽のならば、をあなたはどう考えますか? 偽ならば真、もしくは、偽ならば偽、のタイプの命題です このような命題が存在することは認めますか? >>229 >日常語の「ならば」に「近い」のは古典論理よりむしろ直観主義 帰誤法(背理法)を認めないような理論は、話にならんよ。www >>234 >このような命題が存在することは認めますか? 認めません。 >>228 だから「PならばQ」は真偽で「偽<真」を言い換えただけってこと つまり古典論理には自動的に線形順序(といえるもの)が入ってる >>231 数学は基礎から発展へ土台を積み重ねていくものだから 数学「基礎」論がすべてのベースであるべきと思いがちだけど 数学基礎論って「数学の基礎を形式化して探求しよう」という学問分野であって 数学全体の基礎じゃないのよ >>236 P→Qを¬P∨Qと同値にしないんだから「真ならば真」も一概には認めないんじゃないの? >>235 世間では背理法はたぶん受け入れられない 「そんなこというても〜」って言われるのがオチ >>236 んで対偶は認めるんだから「偽ならば偽」も有り得るとするんじゃないの? 「直観主義論理学」なんかに染まるんじゃないよ。 あれは「失敗した理論」やからね。 "P ならば Q である"と言ったとき、P, Q の正体は「変項をおなじくする述語」であって、 命題ではないのです。だから、それらに真偽などありません。 それに述語は変項の値毎に真偽が定まる真偽関数なんだから Non-Standard-Logic を研究し尽くした者からの忠告:− 「直観主義論理学」なんかに染まるんじゃないよ。 あれは「失敗した理論」やからね。 w >>244 >えーそれは命題論理じゃないよ 論理学を、命題論理と述語論理に分けるのは間違いだったのさ。w 「P(x)ならばQ(x)である」は「∀x[〜P(x)vQ(x)]」と同値。 >>247 勝手なことを むしろそう解釈するから >>243 みたいなトンチンカンなことをいう >>236 では、あなたは、ならばは、またはやかつなどと言った論理演算とは区別されるべきだと考えるわけですね 論理演算ではないなら、なんなんですか? >>243 命題は、xの値によらず一定値を取り続ける述語だと考えることができますね その場合、PならばQは、P(x)ならばQ(x)と見ても良いわけです この場合はどうなりますか? 「P(x)ならばQ(x)である」は仮言命題といい、「P(α)はQ(α)を内含する」とは 区別します。 「P(α)がQ(α)を内含する」ときに限り、「P(x)ならばQ(x)である」が成立する。 ヴェン図で説明すると、円Pが円Qに包まれていさえるれば、 「P(x)ならばQ(x)である」が成立します。 「P(α)はQ(α)を内含する」は、それでは未だ不充分で、αが実際に 論議世界の要素となっているぉとを示す必要があります。 尚、それが示されたならば、「P(x)ならばQ(x)である」が成立して いる限り、「P(α)はQ(α)を内含する」の真偽は、P(α)やQ(α)の真偽 には依存しません。 議論世界以外の要素は普通は考えませんね あなたの論理は通常の常識とは異なるようです そもそも、P(x)とP(α)の違い、ならばと内包する、の違いが不明瞭ですね 詳しく説明してください 円Pが円Qに包むように描いたのが「P(x)ならばQ(x)である」のヴェン図 であり、そのなかにαを表わす点を添えたのが「P(α)はQ(α)を内含する」の ヴェン図です。 そのなかにαを表わす点を添えた とはどのようなことですか? >>256 >P(x)とP(α)の違い P(x)は述語。P(α)は命題。言い換えれば、xは変項、αは定項。 >>259 P(α)はQ(α)を内含する とはどのようなことですか? >>そのなかにαを表わす点を添えた >とはどのようなことですか? ヴェン図において、論議世界を表わす矩形の中に、任意にαを表わす点を描くってこと。 >P(α)はQ(α)を内含する >とはどのようなことですか? 「P(x)ならばQ(x)である」が成立して尚かつαがP(x)やQ(x)の論議世界の元であるってこと。 >>250 >あなたは、ならばは、またはやかつなどと言った論理演算とは区別されるべきだと >考えるわけですね 論理演算ではないなら、なんなんですか? ヴェン図の(換言すれば、集合の)演算によって定義されるべきもの。 >>262 P(x)ならばQ(x)が成り立つ時、円Pは円Qの中に入ってますね 任意のxでP(x)ならばQ(x)が真であるので、αがPに入ってない時はP(α)ならばQ(α)は真である、と考えるのは間違ってますか? つまり、P(x)ならばQ(x)、は円Pと円Qの関係性だけを定めていて、αがPの中に入っていようがいまいが、常に成り立つ、というわけです アホらし U⊃Q⊃PかつU∋a <=> P(a)→Q(a) かよ ナンも面白味も妥当性もない定義 それって単に、一階の理論のモデルを一つ固定して考えてるだけじゃないの 議論世界はそもそも最初から定まっているんですから、αは必ずその中に入ります α∈Uであるか、という条件は、なんの意味も持たないものです [Q⊃P]かつU∋a <=> P(a)→Q(a) アホはソチのほうじゃw。 この定義によって多くのパラドックスが解消する。 たとえば、何がパラドックスになっていて、それはどのようにして解決されるんですか? >>272 ”実質的内含のパラドックス”は完全に解消する。 実質的内含のパラドックスとは、「PならばQである」を 「pでないか又はQである」と同値と考えることによって 生ずるいろいろなパラドックスのこと。 >>274 たとえばどのようなものがパラドックスなのですか? 通常、そのようなものが原因のパラドックスなんてないんですけど 例えば、「xは光の三原色のひとつである」という述語に対して、 赤はその論議世界に属するが、牛は属さない。 >>276 議論世界=議論領域=対象領域etcはモデル毎に我々が設定し得るものですから、赤は属するが牛は属さない、というようなことは意味がありません 牛も入れたいなら議論世界に加えればいいだけの話です あなたの議論世界の定義を教えてください >>274 P→Qが真とは集合としての包含P⊂Qがあるということが定義であると ならばP∧QやP∨Qや¬Pの真偽の定義は? >>276 述語毎に定義域を考えるのなら``Pの丸''の外の元って議論世界に含まれないのね? じゃあP→Qの定義域はなんなの?Pの外でQの中の元は考えないの?Qの外の元は?¬(P→Q)の定義域はなんなの? >>275 「実質的内含のパラドックス」は。日本語の論理学の本だとかくしているケースが多いからね。 英語本を読んでみなよ。Paradox of material implication として載っているから、w >P∧QやP∨Qや¬Pの真偽の定義は? それぞれ、共通部分、和集合、補集合。 「牛は光の三原のひとつである」という文は無意味。 よって、牛は「xは光の三原色のひとつである」という述語の論議世界には含まれない。 >>281 いやいやいや それが「真」「偽」であることの定義は? >>282 「「光の三原色」は「自然なもの」ではない」 って文の論議世界は何? >>274 大体P→Qを「議論世界」におけるP⊂Qが成立することと定義するってことはP-Qが空集合だということなんだからP∧¬Qが偽と同値なんだよな >>280 >Paradox of material implication The paradoxes of material implication are a group of formulae that are truths of classical logic but are intuitively problematic. のこと? なあーんだw "Introduction to Logic and Deductive Sciences" by Alfred Tarski p.27 >>266 >αがPに入ってない時はP(α)ならばQ(α)は真である、と考えるのは間違ってますか? [PならばQ]は、P,Qが変項を同じくする述語である場合にのみ定義されます。 >円Pと円Qの関係性だけを定めていてαがPの中に入っていようがいまいが、常に成り立つ、というわけです 円Pが円Qに包まれている限り、 >>277 >議論世界=議論領域=対象領域etcはモデル毎に我々が設定し得るものですから 論議世界は人が恣意的に設定できるものではありません。 >>285 「P(x)ならばQ(x)である」は「∀x[〜P(x)vQ(x)]」と同値。 ”実質的内含のパラドックス”の一例:− 「日が西から登るならば、スペロヘータは梅毒の病原体である」は真であることになる。 >αは必ずその中に入ります そんなことは無い。例えば「xは光の三原色のひとつである」において、 ”紫”はこの述語の論議世界の元だけれども、”恋”は元ではない。 「紫は光の三原色のひとつである」は偽。 一方、「恋は光の三原色のひとつである」は(偽ではなくて!)ナンセンス。 >>269 >それって単に、一階の理論のモデルを一つ固定して考えてるだけじゃないの 論理学にモデル理論が入り込めると考えたのは、古典論理の愚かな誤り。 >>294 真です これが真と考えられないのは素人 >>298 Russell や Hilbert 達に「洗脳」されたマヌケ。w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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