>>28 つづき
¥さん、どうも。
下記は、同様のことかな?(^^
いつも、引用でお世話になっているIkuro's Home Pageより
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/index.htm Ikuro's Home Page 今月のコラム

http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/gendai.htm
■現代研究者事情(PARTT) (97/12/24)1997年のコラム
(抜粋)
 大学であれ研究所であれ、自己規律の一貫として、自らの業績(主として、研究業績)に対しての評価が求められます。評価は公平でなければならないし、公平であるためには客観的な数字というのが次にきます。
研究業績の評価を数値化するためには、とりあえず、論文数や被引用数が使われます。そのため、論文の粗製濫造にともなう研究の質の低下の問題やさしたる論文でなくとも昔なじみの間柄同士でお互いに引用し合うなど、点数かせぎの問題がついてまわります。
その反面、研究の独創性や創造性が評価の対象とされることはほとんどないといってもよく、学生教育など研究業績以外のものに至っては評価はまったくなされないというのが実状でしょう。
私の経験でも、優れた独創性を発揮する名馬は多いものの、そのような研究環境下においては名伯楽は少なく、素質をもちながらも陰に隠れて不当に低く評価されている、あるいは正当な評価を妨げられた逸材がその才能を発揮することなく埋もれてしまっていることもしばしばみうけられました。

 日本の研究者は海外の論文をわずかに拡張したり、これまでの論文をリアレンジして論文の数を増やすことばかり考えていて、そのためオリジナリティがないとか、アメリカのまねばかりやってきたといわれます。
現実に、ある人たちにとっては論文をたくさん書いて(大量粗製濫造して)大学教授になることが人生の目的でさえあり得るのです。自分で考え、自分と直結したものしか論文にしないというような純粋な科学との携わり方もあるのでしょうが、そのような研究者は滑り落ちてしまうのも事実なのです。
 公平正当な評価をしてくれる全能の神がいてほしいものですが、それは望むべくもありません。ともあれ、否定ばかりしていたのでは希望のひとかけらも生命力もありませんから、自分がその場にいるとき、自分の行動を投げやりにもニヒリズムにもならないで完結できる人間になるしかないようです。
(引用終り)
つづく