これは私の考え方ですが、もし目の前の「ある現象」を分析したいとします。その際に
選択肢としては:
1.微分方程式を立てる。(可能性はたったひとつ「ではない」けど。)
2.確率モデルを立てる。(これもひとつ「ではない」のは当然。)
3.もっと複雑な『何がしか』という可能性。
この1.場合でさえ『シュワルツでOK、佐藤でOK、どちらでもダメ』という可能性があ
るでしょう。即ち:
★★★『現象を解析する場合に、正しいモデルを立てる事と、それを正しく扱う事とは「別だ」』★★★
という事であり、従って:
(あ)モデル自身のPlausibility。
(い)解析手段の厳密性のヒエラルヒー。
とは別です。数学がとやかく言えるのはこの二つ目だけです。但し信念として:
☆☆☆『由緒正しき対象を正しくモデライズすれば、それは「必ず」純粋数学としてもOK。』☆☆☆
という宗教には、我々は入信してるのではないかと。

だから私が言いたかったのは、例えば生物学のモデルでもいいし、或いは経済学でもい
いんですが、その中で「うまいクラスをきちんと選ぶ」という様な事をすれば、或いは
『Kolmogorovとは全く違う公理系を発見するチャンスがある』という可能性です。