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つづき

4歳になると、今度は父が買い与えたスイス製のキュボロという木製玩具にはまった。空中に立体迷路を作って、ビー玉を走らせる知育玩具だが、かなり複雑で、大人でも最初はてこずる。それを独り飽きずに何時間でもいろいろなパターンを作り続けたという。
この遊びは将棋に夢中になる中でも、しばらく続けていたそうだ。「やり始めたらとことんやる。その集中力は最初からありました」と裕子さんは言う。
そんな聡太に、ついに将棋との出合いが訪れる。ご両親は将棋を指さないが、聡太が5歳になった年中の夏、隣家に住む祖母の育子さんが、盤駒のセットを与えたのだ。それは「スタディ将棋」と呼ばれる、駒に動かし方が書いてあるものだった。
一緒に遊んだ育子さんはすぐ聡太に適わなくなり、今度は将棋が少し指せるおじいさんに代わったが、そのおじいさんも勝てなくなったという。それでも、聡太は「将棋が指したい」と言う。そこで近所の将棋教室を探すことになった。ここから聡太の運命は将棋に向かって動き始める。

最初から手を読んだ少年

「ふみもとこども将棋教室」は、日本将棋連盟瀬戸支部長である文本力雄氏が、18年ほど前から新瀬戸駅の近くに開いている将棋教室だ。聡太の家からは車で5分ほどのところにある。

聡太はいきなり異才を示した。5歳の冬に入ってきて、将棋を覚えたばかりだというのに、最初からすごい集中力を見せた。「詰将棋を教えると、3手詰から始めて5手、7手、9手とどんどん進んでいく。
1年で11手詰まで進んだのかな。成長がとっても早いし、読む力が最初からあった。私も長く将棋教室をやっていますが、あんな子どもは初めて見た。とんでもない子だと思った」と言う。

「ふみもと先生の教室では、夏と冬に合宿があり、そのときにはたくさんの詰将棋の問題が出され、皆で競争して解いていました。すると、聡太はがぜん張り切るんです。考えすぎて、頭が割れそうと幼稚園のときに言っていたのを覚えています」と裕子さん。
藤井家には、いまも聡太の詰将棋ノートが残っている。中は詰将棋の解答でびっしり。聡太はまだ字が書けなかったので、裕子さんが代筆したものだ。

つづく