>>134 (続き)

 優れた歴史家であり、思想家でもあったトニー・ジャットは、「信頼の共同体」の重要性を語った際、異なる他者との関係に
ついて次のような厳しい指摘をしている。

「信頼の共同体が実際に成立し得る範囲を決めるものとは何でしょうか? 根無し草のコスモポリタンは、インテリにとっては
快適ですが、大部分の人びとが暮らしているのは限定つきの場所です。空間で限定され、時間で限定され、たいていは宗教で
限定され、おそらくは――嘆かわしいことではありますが――肌の色等々で限定されているのです」(トニー・ジャット著、
森本醇訳、『荒廃する世界のなかで』みすず書房、80頁)

「結局のところ、信頼や協力を生み出す上で、同質性と大きさとが重大な意味を持つ一方、文化的な、あるいは経済的な異質性
がその反対の影響力を発揮することを示す明確な証拠があるのです。国外からの移住者、とりわけ『第三世界』からの移住者の
数が年々増えるにつれ、イギリスはもとよりオランダやデンマークにおいても、社会的な一体性に顕著なかげりが見られます。
あけすけに言うなら、オランダ人やイギリス人はインドネシア、スリナム、パキスタン、ウガンダなど、かつての植民地の住民と
ともに福祉国家を営もうという気はないのですし、デンマーク人はオーストラリア人ともども、近頃自分たちの国に集まってきた
ムスリム難民のために『金を出す』気など、さらさらないのです」(同書、84頁)

 あまりに「あけすけ」な話だが、恐らく、真実だろう。人間は「リベラル」な人びとが想定するほど道徳的でもなければ、高尚でも
ない。自らに近いと感じられる人と遠いと感じられる人で対応がまったく違ってくる。
 具体的に考えてみよう。「人の命は尊い」という命題がある。多くの人が否定できない命題だ。
 確かにわれわれは、人の命は尊いことを認識しているし、罪なくして殺される人が存在したとき、何とか力になりたいと思う存在
だ。だが、この「力になりたい」と思う度合いは、その人との関係で大きく変わるはずだ。
(続く)