>>46の続き

reigatepuzzleさん 2017/7/1709:16:27
生まれ代わりではなく、同一人物です、隋代アムール川上流域、バイカル湖南岸、満州のエリアは遊牧民族が暮らしており、
黒水靺鞨(こくすいまつかつ)と呼ばれていた。

粟末部…高句麗と隣接し、勝兵は数千。
伯咄部(汨咄部)…粟末部の北に住み、勝兵は7千。
安車骨部(安居骨部)…伯咄部の東北に住む。
拂涅部…伯咄部の東に住む。
号室部…拂涅部の東に住む。
黒水部…安車骨部の西北に住む。
白山部…粟末部の東南に住む。勝兵は約3千。
黒水部
思慕部…黒水の西北に住む。
郡利部…思慕部の北に住む。
窟説(屈設)部…郡利部の東北に住む。
莫曳皆部…窟説部の東南に住む。
拂涅部
虞婁部
越喜部
鉄利部

725年、唐の安東都護、薛泰は、黒水靺鞨に黒水州都督府を置き、その首領を都督とし、各部部族長を刺史として、この地を監督することを奏上した。
後に渤海が強盛となり、唐が衰微すると、その南部の拂涅、虞婁、越喜、鉄利部等は、渤海に併合された。
契丹の興隆後、契丹人は、彼らを女真と呼び始め、靺鞨の名前は使われなくなった。

この頃、アムール川を下って日本に移住したのが蝦夷で、その末裔が将門です。
将門は天皇に反乱をおこし鎮圧されまずが、その後も満州騎馬民族の移住は続き12世紀の後半、モンゴル貴族が亡命してきました、それが頼朝、義経です。
まず、頼朝が日本統一を目指します、後から戦上手な弟テムジンを呼び寄せます、やがてテムジンは義経と名乗り、
秦の末裔が支配する西日本平家を倒しモンゴルに戻ります、やがて孫クビライが元寇を起こします。
つまり、源平合戦は中国の北方騎馬民族と南方ペルシャユダヤ(秦の始皇帝はユダヤ人)の代理戦争だったのです。