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【吉田ドクトリン】日本をこんな国にしたのは吉田茂

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0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/09/28(火) 22:11:23ID:7CBN/sMR
竹島占領された時の日本の首相は吉田茂だ
この時に主権と領土を守るため毅然とした対応とらなかったことが、
いろんな方面に波及して、今の尖閣問題になってるんだよ
日中国交正常化の時に、領土問題の決着ができないなら交渉は打ち切るべきだったし
最悪でも尖閣に軍隊を常駐させ主権を明確化してなきゃおかしい
吉田茂は軍部への憎悪という幼稚な意識から
当時は最左翼の共産党・徳田球一ですら「軍隊を持てないなんて国家とは言えない」として
憲法改正に賛成してたのに、改正を怠ってしまった
占領下での立法は国際法違反だから、占領憲法は独立時に失効させなきゃいけない
そして将来の日本国のあり方を主体的に構想した上での自主憲法を制定する責任があったはず
やれる時にそれをしなかった吉田茂は無能政治家とみなされて仕方ない
軽武装経済復興路線という選択がそもそも間違いで、
たとえ経済復興がより早まったところで、その成功体験と安易さのせいで強固に根をはってしまった
人権尊重・人命至上主義の国民精神のあり方が定着してしまっている
後になってそれを覆す精神革命を起こすのは至難の業だ
これが今日の日本の情けない姿に至ってしまっている
三国人暴動・竹島侵略から、ダッカハイジャック事件、北朝鮮拉致事件と、
ことごとく無法集団の無法行為に屈してしまうはめになった
そもそも明治維新もそうだった
伊藤博文らは幕府の復活を恐れ、ひたすら内閣を弱体な存在にしようと努めた
そして神格天皇制の導入
それが結果として統帥権の独立と軍部の独裁に発展し、
満州事変の軍部独走は不問に付され
制御不可能な陸軍による暴走になっていった
最初の国家像の提案が間違えてるから国家の方向性と終着駅も間違えてしまうのである
吉田茂というのはある意味、東條英機の対極にいる馬鹿である
伊藤博文の論理的帰結が東條英機なら、吉田茂の論理的帰結は田中角栄だろう
国の中央地方、国の内外にただひたすら金をばらまくしかないだけの日本、
そしてたただひたすらアメリカにすがりつくしかない日本
そういう国にしてしてしまったのは吉田茂である
0091名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/11/05(金) 00:32:07ID:Q6eUqO1D
朝鮮半島が併合30年で一定の水準に達して、いまや、ある種の日本の劣化コピーのような国になってるが、
国家というのはだいたい30年で一定のスタイルが確立されるようだ。
朝鮮戦争(50~53)から韓国が復興したのがソウル五輪(88)と考えても約30年。
戦後の日本が昭和50年(1975年)頃から、戦前とかけ離れた性質になったのは、敗戦の昭和20年から30年経った頃だ。
吉田(46~47、48~54)が軽武装路線を敷いてから30年経った頃にはもう身動きが取れなくなってしまっている。
ドイツが敗戦10年で既にノーマル国家に戻ってるが、
昭和25年(1950年)の朝鮮戦争(50~53)をどう捉えたか、
ドイツ・アデナウワーはノーマル国家に戻せる好機だと考え、徴兵制を復活させ基本法を改正した。
しかし日本の吉田は非武装憲法が派兵拒絶の口実に使え、戦争特需で商売になるとだけ考えた。
その違いが戦後の両国の決定的な差になったと思う。
朝鮮戦争で極東認識が一変したが、占領当初にGHQが狙ったのは、
日本を永久無力国家にすることであって、そのための占領憲法だったのだから、
たとえ便宜的でもその趣旨の憲法の一時的維持を、たとえ政治的便宜であっても狙うなどあってはならない。
30年で国柄が一変するということは、逆に言うと、
日本がまともな国に戻るには、今から始めても30年後になるということだ。
今は戦後65年目にあたるが、すると戦後105年目だ。
チャーチルだったか誰かが言った、徹底的な敗戦で日本は向こう100年は立ち直れないと言った推察通りである。
しかし実際には経済復興に関してだけなら国際情勢に助けられて急激なスピードで回復したわけだから、
吉田が安全保障の面でやるべき判断をきっちりしていればほんとは50年で完全復活できてただろう。
遅くとも佐藤栄作(64・11/9~72・7/7)の頃に路線転換を断行しておくべきだった。
佐藤栄作は長期政権だった割には、中身が乏しかった。
0092名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/11/05(金) 00:44:31ID:Q6eUqO1D
金嬉老事件(1968 S48)が日本社会の転機になったように思える。
当時は佐藤栄作首相だったが、あの時に部隊を突入させて射殺するべきだった。
それをしなかったことで、ダッカ事件(71)、北朝鮮の横田めぐみ拉致(71)、あさま山荘(72)と
無法者の行動がエスカレートしていって、それを阻止できずなし崩し的に国が溶解して行った。
当時特殊部隊がなかったとしても、事件を機に、創設する政治的責任があるはずなのに、
それを怠り、その後もダッカ事件に対応できなかった。
佐藤栄作は、中国が東京五輪(64、10/10~10/24)の開催に合わせ、
初の核実験してきた直後の政権発足なんだから、
経済復興から安保路線に舵を切ることを政治的使命にしなければならなかった。
竹島は吉田時代の1953年に侵略されて、日本漁船が拿捕されまくって抑留されたままだったが、
池田勇人(60~64)の頃から始まった日韓交渉で、外務局長が爆破してしまえ発言までしでかすし、
竹島問題未解決のまま佐藤栄作の時に日韓基本条約(65年)を締結し、
佐藤は、非核三原則・武器禁輸政策を導入、
劇場型在日朝鮮人凶悪犯罪に屈してしまい、
吉田ドクトリンを完全に確定させて「ひ弱な花・日本」にしてしまった。
国民が日本政府を無力無能で、米国の庇護の下にある存在だと認識してしまってるから、
その後は政治家がいくら志を持って頑張ったところでもはや無力になった。
田中時代には金大中拉致事件(73)もあった。外国の特殊機関が日本国内から著名政治家を拉致する
という、露骨で悪質な主権侵害事件を、田中は私的に韓国から4億円の裏金を受け取り揉み消してしまった。
田中角栄(72~74)で日中共同声明(72)、福田赳夫(76~78)で日中平和友好条約(78)となったが、
条約の年の78年、交渉中に尖閣付近に大量の中国漁船が終結して威嚇までされたのに、
中国副首相トウ小平が勝手に主張した「棚上げ論」に安心し、領有権確定させずにすませてしまった。
友好を偽装することで金と技術を出させて力をつけ、次には援助してくれた国から領土を奪い取るゴロツキの手口。
竹島や尖閣を見れば、戦後の日本が、領土という最も基本的で重要な国家主権に関する意識が、
希薄になってしまってることが分かる。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1287710710/263,290,296,300,303,312,494,495,496
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