医者「ワイ君は発達障害やで」 ワイ「デバフ多くない?」
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この間ADHD(ギリグレーゾーン)が発覚して
人生のデバフ肩書きが1つ増えたので
ここらでのんびり語ろうと思う。
徒然と書いていくので酒のつまみになるなら
してくれよな! 張り切ってスペック(デバフ紹介)いこう
・アトピー(卵・牛乳など)
ただし食べても死ぬ訳じゃない。あと洋菓子は好き。
・意見が合わない姉と母
・元の運動神経と運動能力は皆無
・コミュ障
・恋愛難(主に自分のせい)
・ADHD←NEW! では語っていく。
幼少期は元気に外で遊びまわる子供やった。
ただこの時から既に人よりマイペースだったらしい。
子供によくある「なんで?」を連発する時期が長かった。というか言うのを辞めることは無かった。
鬼ごっこやかくれんぼをする一方、1人の時は拾った木の棒でひたすら土を掘るという遊びをしていた。
また、物心着いた時はもうある程度漢字が読めていた。が、何故か頑なに痔を描こうとはしなかった。 小学生低学年
それまで好きだった外遊びを急にしなくなった。
遊べば楽しいとは思うが自分から一切外に出向かなくなった。自分でも分からなかったが急に気が向かなくなっていた。
この頃「書写の時間」というものがあった。
お手本の文書を書き写す、という時間。
ワイはこの時間が嫌いだった。意味ないと思ってた。
板書なんかは全部書いてると授業を聞き逃すので
省略して書いていた。
それでも他の学校生活はぼちぼち楽しかった。 小学校中学年
漢字テストが始まった。
これはワイにとって新たな地獄の場となった。
書いても書いても頭に入らない。
覚えたと思ったら次の日もう分からない。
こんなのの繰り返しだった。
漢字が覚えられないと言ったら母は「書いたら覚えるんじゃない?」といい姉は「覚えるまで書け」と怒鳴り殴った。
数年後に漢字が覚えられないのはADHDが影響している事を知るがこの時は泣きながらノートを潰していた。正直何度思い出してもあの胸が潰れるような嫌な感じを思い出す。 小3(漢字テストが始まった年)の時、
漢字テストは学期に1、2回「漢字50問テスト」として出てきた。
当時の担任のルールが今思うとしんどかった。
・合格ラインは100点満点 取れるまで休み時間に自主的に再テストを受け続けろ
・クリア出来た者の名前を男女別に張り出していく
1ヶ月前から勉強していっても20点台が限界で
それでもビリになりたくなくて毎時間再テストを受けまくった。1日に10枚ほど受けていた。
質より量!みたいな戦法で2週間くらいしてやっと満点という感じだった。
クラスは男女それぞれ15人ずつで、
ワイの他に2人ほどいつも最後残るメンバーがいた。ちなみにこの2人は休み時間大体どこかに遊びに行って再テストを受けていなかった。枚数的には多分2〜3枚ほどで受かっていた。
ワイが1度もビリにならなかったのはこの2人が本気を出すタイミングが1度も被らなかったからだった。 小5のふゆ
ワイは運動神経がないなりにバスケを始めた。 >>8
すまん途中で送ってもーた。続ける。
入ったバスケのクラブチームはそこそこ強いところだった。多分小6の1年間は人生で1番走ってた。
コミュ障も手伝って同学年と全く仲良くできず3個下位のちびっ子に教えて貰いながら頑張っていた。 小6の秋頃
コーチが連絡を出した。
[レギュラー + 6年生で木曜日に練習を始める]
今まで木曜日は練習がなかった。
ちなみにこの「+6年生」で追加される(→最高学年だが非レギュラー)のはワイ含めたった2人。
だからこの頃もう1人の子に依存気味だった。
3回に1回はその子も来なくてレギュラーと仲良くないワイにとって本当に地獄だった。
有難いことにいじめを食らった訳では無いが
下手なので傍から見ても練習の足を引っ張っているのがわかるほどだった。 小6の秋頃
コーチが連絡を出した。
[レギュラー + 6年生で木曜日に練習を始める]
今まで木曜日は練習がなかった。
ちなみにこの「+6年生」で追加される(→最高学年だが非レギュラー)のはワイ含めたった2人。
だからこの頃もう1人の子に依存気味だった。
3回に1回はその子も来なくてレギュラーと仲良くないワイにとって本当に地獄だった。
有難いことにいじめを食らった訳では無いが
下手なので傍から見ても練習の足を引っ張っているのがわかるほどだった。 ネット民「ネットで言われてるから発達を法的規制しろ」
俺「じゃあ唐澤貴洋弁護士とか法的規制できんのか?発達並に言われてるが。」
俺「それにホモとか在日とかも言われてるがそいつらも規制できると本気で思ってる?」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています