気分良く人生を生きるために その2
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分子生物学、神経生理学、組織学、解剖学、病理学、臨床医学、疫学、心理学、行動経済学、人類学などを横断してミクロからマクロな視点で考えていきたいと思います
以前は放射性同位元素を用いたCTやfMRIによる画像解析や一部の臨床例から脳機能の解明が試みられてきました
その中でも例えば、大脳辺縁系の海馬の損傷によって短期記憶と長期記憶と作業記憶の機能部位が示唆されたり
その知見から発展したエリック・カンデルによる意識と無意識の陳述記憶(宣言記憶、健在記憶)、非陳述記憶(非宣言記憶、潜在記憶)といった記憶の構想への発展にも繋がりました
一方で、神経生理学に用いられる古典的なパッチクランプ法に加えて、近年では遺伝子変異マウスを用いたオプトジェネティクスなどの分子生物学的手法でin vivo、in vitro両面で細胞、組織学レベルで脳機能の解明が始まっています
心理学や行動経済学や人類学などで臨床的に観察されボトムアップ式に発展してきた人の心の機能解明が、基礎研究レベルで観察されるトップダウン式の理論的解明と交差する事で様々な人の心の機能が判明しつつあります
以前は分野ごとでバラバラだった概念が、統合されつつあります
例えば記憶で言えば
ニューロンでの遺伝子発現によるシナプスの強化
神経の発育段階における感受期
長期強化
海馬と大脳基底核と大脳新皮質
腹側被蓋野と側坐核とドーパミン
海馬と扁桃体と前頭葉
不快感とトラウマ
健在記憶とシステム2
肯定的ストロークと否定的ストローク
人類史における知識と科学の伝播
抗争による集団の機能単位の変化
という様に繋がりを持って横断的に考えていく事ができます
気分良く生きるために総合的に考えていきたいと思います よくあるパターンで見てみよう
相手「昨日のケーキ美味しかった」
自分
「へぇ、美味しかったんだね」:学習の強化(情報、感情)
「美味しいけど高いよね」:学習の強化(情報)、学習の弱化(感情)
「あそこのケーキ美味しいよね」:学習の強化(情報)、同調・同一視(感情)
「ええ?美味しくないでしょ」:学習の弱化(情報、感情)
「個人的には美味しくないと思うけど、好みの味だったんだね」:学習の弱化(情報)、学習の強化(感情)
「ふーん」:無視(ディスカウント)
「ケーキを食べて、いい気分になったんだね」:情報をニュートラルに扱い、学習の強化(感情)
となる
一般的な会話で聞く事が多いのは、最後の「ケーキを食べて、いい気分になったんだね」以外ではないだろうか
この返しでは、意図的に相手の会話を処理して返しているため、言語の構造を理解して訓練していないと自然な会話で咄嗟に流れで返すことは難しい 通常は、相手の「美味しい」という言葉に対して、自分の主観的な「賛成」「分からない」「反対」を返すが
「ケーキを食べて」は、相手の「ケーキ美味しかった」という部分から状況を抽出する必要がある、ケーキを食べずに美味しいかどうか判断はできない(当然ながら妄想などの例外は省く)
つまり、
「昨日のケーキ美味しかった」を
「昨日(◯◯に乗って◯◯にケーキを食べに行ったんだけど、そこで食べた)ケーキが美味しくて(すごく気分が良くなった)」
という言葉で穴埋めを行い(この際に行う穴埋めがコミュニケーションのスレ違いを起こす可能性を高めるため、会話技法の訓練を積んでない場合は一般会話では行わない)
ここから、ニュートラルな情報を返し、感情の反映を行う
「ケーキを食べた」「気分が良くなった」
と返す
その際に、会話の流れから◯◯の場所が特定されるなら
「◯◯に行ってきたんだ、どうしても食べたかったんだね」
という返しも状況によってはできる
この際には「食べたかった」は状況の返しではなく、願望に対する感情への返しに変化している事に気をつけたい
この様な「ケーキを食べて、いい気分になったんだね」は、コミュニケーションのズレを引き起こす場合もあるので、通常は「昨日のケーキ美味しかった」に対して「へぇ、美味しかったんだね」が初歩的な返しとなる
「へぇ、美味しかったんだね」
「ケーキを食べて、いい気分になったんだね」
「◯◯に行ってきたんだ、どうしても食べたかったんだね」
の順に返しが難しくなり、その分ズレが生まれる可能性も高くなるが下に行くほど相手とのズレがなかった場合に、相手が共感してもらえてるという気持ちが強くなる事に注意はしておきたい 何かをしようという「意志」は、「意識」から生まれているわけではないという事について述べよう
これはつまり、あなたが「このスイッチを押そう」と思って押したその「意志」は、あなたが「押そう」と認識した「意識」から生まれたものではないという事だ
直感的には理解できない事だが、これらの流れはまとめると
@無意識に行動を決定する(意志)
A決定された行動を認識する(意識)
B行動を起こす
という順番になるという事だ
通常では受け入れられないこれらの意思決定による行動は
ベンジャミン・リベットによるタイムオン理論
エリック・カンデルによるシナプスにおける記憶形成の分子生物学的メカニズム
脳梁切断症例での左側における行動と意識の矛盾
後頭葉一次視覚野損傷症例における盲視
から説明される
タイムオン理論とは、ニューロンの発火がおおよそ350から500ミリ秒続いて、初めて意識が生まれるという理論であり、おおよそ350ミリ秒以下のニューロンの活動では意識は生まれないというものである
前述の、エリック・カンデルの記憶の研究におけるシナプスでの長期増強メカニズムを思い出すと、軸索での発火の持続時間が短いと、NMDA受容体を介したメカニズムによるAMDA受容体の増加によるシナプスの強化が起きない事が分かる シナプスの強化とは、つまりはニューロンの発火確率の上昇を意味する
例えば、
「Aという刺激が加わったときに、シナプスが強化されていればBという行動をするし、弱化されていればBという行動をしない」
という事だ
行動経済学のダニエル・カーネマンの示す、習慣行動である「システム1」は、シナプスが強化された状態である
つまり、「Aという刺激が加われば、Bという行動をする」という状態だ
一方で、「システム2」と呼ばれる、意識を必要とする行動は
「Aという刺激が加わっても、Bという行動をしない、そのためにBという行動を強化して実行する」という状態だ
では、どの様に強化するのか
それが、
刺激の持続時間をあげて、NMDA受容体を介したシナプス強化を行い、発火確率を上げる
というものだ
これを繰り返すと、シナプスが永続的に強化されて習慣行動の「システム1」へと変わる
「システム1」は短時間のニューロンの発火で刺激が伝わり、その結果タイムオン理論における意識が生まれない
「システム2」は長時間のニューロンの発火で刺激が伝わり、その結果タイムオン理論における意識が生まれる
「システム1」における習慣行動は、無意識で行えるのに
「システム2」における行動は、意識を必要とする
という事だ では、「意識」がないのに何かをしようとする「意志」が生まれるのだろうか
ここで脳梁切断症例を見てみよう
意識的な言語の発声は通常は左脳のブローカー野が支配している
脳梁切断症例においては、右脳の情報は左脳のブローカー野には届けられない
例えば、
右目で山の写真を見せて、左目で海の写真を見せる
そして、登山グッズと海水浴グッズのカードを手元に置く
それぞれで、右手と左手に写真と関連のあるカードを手にとる様に指示すると
右手では登山グッズ、左手では海水浴のカードを手に取る
そして
何で、右手で登山グッズのカードを取ったのか質問すると、「山と言えば登山だから」と答える
ここまでは何も問題ない
しかし、
何で、左手で海水浴グッズのカードを手の取ったか聞くと、「海といえば海水浴だから」とは答えない
例えば、「山と言えば暑くて海水浴に行きたいから」という様な作話を作り出す
これの意味するところは、左手の行動に「意志」が存在するにもかかわらず「意識」が存在していないという事だ
この傾向は、後頭葉一次視覚野を損傷した「盲視」の症例でも見られる
「盲視」では、大脳新皮質での認知による視覚機能が失われており、それに続く側頭葉の物体認識と、頭頂葉の空間認識を失う
一方で視覚は存在する、視覚は存在するが認識できないので患者は何も目には見えないと言う
しかし、目の前に置いた物を手に取ってくれと言うと、見えないと「意識」しているにもかかわらず、物を正確につかめるのだ
なぜつかめるのか患者に聞いても分からないと答える
つまり、
「指向性を備えた意志」と「指向性を持つ意識」とは別物なのだ
これは、ベンジャミン・リベットのタイムオン理論における、「意識」とは「意志」の後に現れるという理論と、行動経済における「システム1」と「システム2」のメカニズムに良く合致する では、「意志」の役割とは何か
これは、「システム2」が「システム1」に変化するという事実から見えて来る
シナプスにおけるNMDA受容体とAMDA受容体の関連する長期増強は、つまりは、
長く繰り返す刺激は強化される
というものである
350から500ミリ秒を超えた刺激は、長期増強を起こすとともに、「意識」を生み出す
「意識」とは、「Aという刺激があるからBをしよう」という関係性である
「Aという刺激があるからBをしよう」という「意識」自体が、その関係性におけるニューロンにおける発火を作り出している
つまりは、「意識」の存在自体が「強化学習」を行なっているのである
Aという刺激が、報酬として認識される場所には腹側被蓋野からのドーパミン出力が上がり、「Bをしたい」という動機づけへと変わる
予測信号における報酬予測が介在すり場合には
@A→Bという経路のニューロンに発火が起きる
AAの刺激の継続により「意識が」が生まれA→Bが強化される
BAという報酬予測から動機づけが生まれA→Bが強化される
という流れとなる
腹側被蓋野のドーパミン出力による「動機づけ」も認知と行動の強化に影響する一方で、
「意識」というもの自体も認知と行動の強化に影響を与えているのだ
カウンセリング理論において、患者が内省を行い「気づく」というのは
つまりは、特定の認知に対してシナプスでの分子生物学的な「強化」を行なっているのだ
「強化」とはつまりは、宣言記憶、非宣言記憶における記憶の形成に他ならない
例えば、
相手の話を良く聞いて、その結果相手が内省を行い自分の感情に「気づく」という意識が生まれると
話の内容と感情の関係性の認識という記憶の強化学習が行われて情報整理が進み、心理学にでいうところのカタルシス(浄化)が起きるのだ 「意識」についてまとめよう
まずは、「意識」に関する断片的な情報を下流から上流に向けて列記する
「意識」と「無意識」が存在する
習慣行動は「無意識」に行える(例:ドアの鍵閉め
習慣行動は「意識」して気がつく事ができる(例:ドアを鍵閉めしてる最中に気がつく事ができる
「無意識」な習慣行動は「集中」すると「意識」できる
「意識」的な行動は繰り返すと「無意識」的にできるようになる(例:ピアノの演奏の慣れ
「無意識」的な行動を「意識」するとぎこちなくなる(例:慣れたピアノの演奏で鍵盤を意識するとヘタになる
認知、行動は「予測」を行い「意識」的に行動して、「結果」を受けて修正され学習される
最初の脳神経の活動から最低でも刺激がおおよそ300ミリ秒続かないと「意識」は生まれない
シナプス間の伝達確率は平均しておおよそ30%の確率で伝わる
シナプス間の伝達が繰り返されると伝達確率が上昇する
「意識」は情報選択の多様性と統合性で決定される事が観察される(統合情報理論
これらの情報をまとめると「意識」のメカニズムが見えて来る
単純化して説明してみよう
Aという刺激が加わってB、C、Dという行動の選択肢があったが、訓練によってAという刺激でBという行動のみを選択するようになった習慣化への変化で考えてみる Aという刺激によってBが20%、Cが30%、Dが50%起きるとしよう
Aの単発刺激ではB、C、Dもどれも起きなかった(数値上では28%
そのため、Aの刺激を繰り返す、その結果B、C、Dが全て起きる(数値上では単発の刺激で起きる可能性は6%
AからB、C、Dの選択の多様性が生まれるために、Aの刺激を繰り返す(300ミリ秒以上)事で、「意識」が生まれた(タイムオン理論+統合情報理論
Aという刺激からBという行動を習慣化させるために、Bが起きる際に報酬を与える(腹側被蓋野からのドーパミン出力による動機づけ
Aという刺激からB、C、Dが起きる行動の繰り返しと、AとBの連合の強化により、Aという刺激でBが99%、C、が5%、Dが6%起きるようになる(シナプスの長期増強、長期抑制
Aの単発の刺激でBが起きる(単発の刺激でBは99%発生し、CもDも発生しない確率は83%
単発の刺激では300ミリ秒も刺激時間が必要とされない、そのため「意識」は生まれない
Aという刺激でBが起きるという「無意識」の習慣行動が形成される
Aの刺激を繰り返し発生させる(刺激に集中)すると、刺激は長期間持続し、BとCとDが発生する(3%なので33回刺激を繰り返せば起きる
繰り返しの刺激は300ミリ秒を超えて「意識」が生まれる
Bという習慣行動に、CとDという選択肢が混ざり、Bという行動がぎこちなくなる というメカニズムだ
これらの流れは、単一の理論や観測結果や症例から導き出すものではなくザッと上げると
自由エネルギー原理
タイムオン理論
統合情報理論
宣言記憶、非宣言記憶
NMDA受容体を介した長期増強、長期抑制
ヘッブ則
内側前脳快感回路による腹側被蓋野からのドーパミン出力
システム1、システム2
小脳摘出症例
分離脳症例(脳梁切断症例
後頭葉一次視覚野損傷症例による盲視
などを組み合わせている
「意識」とは生み出されると共に、生み出す事もできる事に注意したい うーん不思議だ
ここまで分かってきている事にも驚くけど何故なんだろうってのが率直な気持ちだ ここまで述べた「動機づけ」「時間表象」「行動予測」「意識」などのメカニズムを基に、日常生活における応用方法の例を1日の流れを通して一旦まとめとして述べよう
応用方法だけを書いてしまうと自己啓発のようになってしまうのでメカニズムもごくごく軽く列記する
朝
目が覚めるが今日の仕事の事が頭に浮かび憂鬱だ
そこで、枕もとに置いておいたチョコレートを口に入れる(腹側被蓋野からのドーパミン出力上昇を利用)
それと共に、自分の好きな猫の本を手に取り眺める(未来表象を防ぎ感覚信号に集中する)
意識を一瞬だけ寝床から出る事に向け、周りの音に意識を向けて寝床から起き上がる(起床行動のシステム1を利用して起き上がると共に、予測信号によるドーパミン出力の低下を防ぐ)
朝食はもしもするなら、糖質と脂質を含む甘い物を加えておくといい(腹側被蓋野からのドーパミン出力上昇を利用)
移動中は電車ならスマホは見ない、時間を潰したいなら好きな本が良い(複合的相互的内包によるスマホへの連合記憶の形成を防ぎ、意識集中の高頻度切り替えによる認知機能の消耗を防ぐ) 職場に着いたら相手から挨拶があろうがなかろうがこちらからする(相手への複合的相互的内包と連合記憶形成促進、システム1の形成、自他の区別)
仕事中はコミュニケーションにおいては「気分良く人生を生きるために その1」で述べた技法を利用する(複合的相互的内包、ロジャーズの中核3条件、神経生理学的メカニズムなど、全てを複合的に使う)
家に帰って食後に一休みするも運動をするために、起床時と同じパターンで意識を一瞬運動に向けてから周りの音に集中して行動を開始する(システム1の利用)
運動後に風呂に入り、前々から手品を覚えようと思っていたので、来月に家族に見せるという目標を立てて簡単なカードマジックの練習をする(予測信号による腹側被蓋野からのドーパミン出力、予測容易性)
この後睡眠に入るが、少し詳しい人は睡眠前に学習をすると記憶が整理されて覚えやすくなるという事を知っているが多くの人が勘違いしている事がある
睡眠前の学習で効果的なのは、非宣言記憶であって宣言記憶はあまり影響を受けないという事が分かっている
つまり、睡眠前に数学や物理を勉強するのやカードマジックの練習をするのは学習効果を促進するが、英単語の記憶や歴史の記憶はあまり関係ないのだ
これは、睡眠前の学習効果を聞いた事がある人のほとんどが勘違いをしている
就寝する時は体の感覚に意識を向けて睡眠につきやすくする(前頭葉体性感覚野への意識集中)
となる、
これは単なる一例だが
分子生物学から疫学までの幅広いメカニズムを理解していると、効果的に自分の生活を組み立てられるようになると共に
効果のない行動を排除できる
例えば、英単語を覚えやすくするために就寝前に時間を定めて勉強しようといった無意味な行動を改められる
英単語を覚える事に関しては、朝やっても夜にやっても目が覚めて疲れてないなら学習効果は同じなのだから メカニズムを知れば理解が進み、その理解に基づいて行動し、結果を受けて理解を修正し行動を変える
これらの
「理解に基づく推測」
「推測に基づく行動」
「行動に基づく結果」
「結果に基づく理解の修正」
「理解の修正に基づく行動」
を繰り返して行動を適正化していく
自己啓発関連の本を見てみると非常に面白い事が書かれている事が多い
なるほど、科学的知見に合致している
と思うような事もなかなか多く書かれているからだ
しかし残念ながら、自己啓発関連の行動は現象から観察されるボトムアップの理解だという事だ
例えば、
「部下は怒るのではなく褒めた方が良い」
というような記述も目にする
では
「部下は怒った方がいい」
というのは間違いなのか?という疑問が生まれる
部下が法的な不作為を犯した場合になんとかほめて指導した方がいいのか?
という事になる
そうはならないだろう、自己啓発関連の本は「メリットとして有意性の高い方法」を述べているに過ぎない
つまり、
8割の部下には「褒めた方が良い」から「部下を褒めましょう」
となるのだ
この場合、条件を設定しないので褒めても無効な2割の部下にも同じ行動をする事になる
「部下を褒める」事で効果が出ている場合には良いのだが、無効な結果を受けるとその矛盾に悩む事になる
この辺りが自己啓発関連の本の問題点であろう 無効な結果によるフィールドバックは、「部下は褒めましょう」という基礎に向かい、「褒めても無駄な事もあるからもう褒めるのはやめよう」という認知の変更に及ぶ可能性もある
自己啓発関連の本が合う合わないが真っ二つに別れるのは当然の事なのかも知れない、なぜなら
「やったらうまくいったから、正しかった、自己啓発本は信じられる」
か
「やってもうまくいかなかったから、間違ってる、自己啓発本は信じられない」
の2択になってしまうからだ
「やったらうまくいった時があり、そして、やってもうまくいかなかった時もある、これらの違いは◯◯の条件設定から差が生まれたと思われる、この◯◯の条件設定で行動を区別して予測される結果が生まれるか確認してみよう」
とはなかなかならない
「よし、うまくいった、これは正しい」「ああ、ダメだ、これは嘘だ」
という様になってしまう
分子生物学から疫学までのメカニズムを理解して、実際に行動につなげるメリットは
うまくいかなかった時の「フィールドバック」にある
「褒める」と相手の中で何が変わるのか、変わるための条件は何か、その条件は変更できるのか、変更できるとしてもそれはどれほどの労力がいるのか
といった「フィールドバック」を行い、「フィールドフォワード」に活かしていく
概念的な説明は、直感的に把握しやすい一方で実際のメカニズムの理解には程遠いので、実際に例をあげてみよう
用語は、分子生物学から疫学まで全て含めたものを使う 自己啓発本で、「部下を褒めましょう」という記述がある場合に、「よし、やってみよう」と思い立ったとする
褒める(肯定的ストローク)の作用を考える
肯定的ストロークを行い、報酬による感覚信号によって、腹側被蓋野からののドーパミン出力を目指す
それにより、陳述記憶と非陳述記憶の形成を促す
記憶形成の際には、2通りを留意する
無意識を介した報酬提示の場所、連合記憶の形成時を0.5秒以内に行う、この場合は無関係な記憶クラスターを関連づけられる
意識を介した報酬提示の場合、連合記憶の形成は0.5秒を超えても良いが、相互的内包もしくは複合的相互的内包を有する記憶クラスターである必要がある
「部下を褒める」という認知と行動は、はじめた当初はシステム2に分類されるので、ターゲットをまずは決める
部下に任せてるタスクを確認して、結果報告があった際の応答を計画する
「◯◯ができました」という結果報告に際しての応答を計画する
(「◯◯ができませんでした」「やってみましたがどうでしょう」といった報告に際しての応答パターンも準備するが、今回は説明を省く)
部活にとっての報酬を予測する
現在では、部活との関係性は中立だと「予測」する(悪い、良いの場合は、また変わる)
報告に際しては、言語でしっかり反映を行う(これは報酬提示ではない)
「◯◯が終わりました」に対して「ありがとう、◯◯が終了したんだね」
と返す
この、「相手の言葉にしっかり反応する」という行動は想像以上にできてない人が多い
「うん、ありがとう」ではダメなのだ(なぜダメなのかは、気分良く人生を生きる その1を参照)
報告に際して素早く応答すれば、非陳述記憶を強化して無意識的な複合的相互的内包を形成する事ができる どのように褒めるかは、部下のパーソナリティが非常に影響する
自己啓発本では、まず指摘されないが単純な承認は相手を依存的にしてしまう可能性がある
つまり、「褒められる」事自体が報酬になってしまうのだ
これは、「外発的動機付け」へと繋がる
関係性の段階によっては有効だが、依存関係を作り出す事は別の問題を生み出す
自己啓発関連の本で、「すごいね!」「素晴らしい!」といった言葉を推奨して、関係性の段階における言語機能に踏み込んでないのはもったいないなと思う
今回は、行動の「是認」による「陳述記憶の強化」、「自己効力感の上昇」、「腹側被蓋野からのドーパミン出力上昇による内発的動機付け」と「複合的相互的内包」の形成をターゲットとする
(賞賛や承認と「是認」の違いは、気分良く人生を生きるために その1を参照)
「遅くまで残ってくれて頑張ったね、いつも助かるよ」
と返す
まとめると
部活「◯◯が終わりました」
上司「ありがとう、◯◯が終了したんだね、遅くまで残ってくれて頑張ったね、いつも助かるよ」
と返すようにあらかじめ計画をしておくのだ
(部下の返答の予想の数だけ返答パターンを用意しておく)
こんなの当たり前だと思っただろうか?
では、
部活「◯◯が終わりました」
上司「ありがとう、◯◯が終了したんだね、遅くまで残って頑張ったね、いつも助かるよ」
と返したら
部活「本当にいい迷惑ですよ、もうこんな仕事の押し付けやめてください」
と返ってきたら
「あれ?おかしいぞ」とならないだろうか
ここで終わるのが自己啓発関連の本である
「部下の機嫌がたまたま悪かったのかな」とか「部下の人格に問題がある」という結論に至り、フィードバックが行われない ここで大切なのは、「行動」の基になった前提条件の誤りを見つける事だ
これが「フィールドバックによる行動の修正」である
部下の言葉を再確認してみよう
「感情」は「認知と行動と記憶」を仲介するという事を思い出して言葉を見ると
「迷惑」という部分が「感情」キーワードである
つまり、部活は、
上司から「迷惑」と感じる罰則を受ける事で、「腹側被蓋からのドーパミン出力を低下」させて、「否定的ストロークによる動機付け」を受けて、「認知的不協和」による不快感を感じたという事になる
次に上司の言葉を見てみよう
「遅くまで残って」「いつも」の部分が、「認知的不協和」を引き出した可能性がある
これはつまり、「いつも残って仕事する」と「上司」と「不快感」の陳述記憶、非陳述記憶の連合記憶による複合的相互的内包が仮定される
この場合の、「フィードバック」のよる「行動修正」の仮定されるターゲットは、「複合的相互的内包」の修正となる
自己啓発本に書かれてる事を実行して「めげずに次回も褒めてみよう」では、無意味なのだ
何故なら嫌いな上司から褒められてもそれは「報酬」とはならないからだ
「フィードバック」により、前提条件となる「関係性の中立」が間違っていた可能性があり、関係性の修正のために「複合的相互的内包」を修正する必要が生まれる
この場合には、「外発的動機付け」による「非陳述記憶」による「複合的相互的内包」の修正を目指す
(自己啓発本で「外発的動機付け」はダメだという様な事を書いている場合もあるが、「内発的動機付け」の前提条件を満たしていないのに「内発的動機付け」は与えられない)
さらに、「陳述記憶」による「複合的相互的内包」は目指さない、今回の場合に目指すと「認知的不協和」による「抵抗」を生み出す可能性があるからだ 例をあげよう、例えばその次も別の◯◯の仕事が終わったとする
「◯◯が終わりました」と部下が返したら
「◯◯が終了したんだね、ありがとう、これで帰りに何か美味しいものでも食べていってね」
と言って5000円札を渡す
姑息だと思うだろうか?
行動だけ見るととても下世話に見えるが、効果はかなり出る可能性がある
想像して欲しい、仕事がやれやれと思って嫌々報告しに行ったら
突然お金をくれた
あなたは不愉快になるだろうか?
実際には、この行動は単純に毎回お金を渡せばいいというものではない
「腹側被蓋野からのドーパミン出力」「予測信号」「感覚信号」「複合的相互的内包」「馴化」「シナプスの長期増強」「シナプスの長期抑制」などのメカニズムの原則に従って、修正をしつつ行う必要がある
「お金を渡してうまくいったから、次回も渡そう」では、自己啓発本と同じなのだ
分子生物学から疫学にわたるメカニズムの理解をして
「理解に基づく推測」
「推測に基づく行動」
「行動に基づく結果」
「結果に基づく理解の修正」
「理解の修正に基づく行動」
を繰り返し、実行し続ける事で「システム2」から「システム1」へと変容していく事が大切なのだ
行動する事は必要不可欠だが、理解の伴わない行動は東西南北どこにたどり着くのか分からない ストレスから解放されるための、「瞑想」「マインドフルネス」「ヨガ」
といった行為について
これらが、生理的に合う合わないは別として何を目指しているのかを考えてみよう
これらを考える上で
「タイムオン理論」
「統合情報理論」
「大脳新皮質の連合野」
を組み合わせていく
実際には、「AMDA受容体」「NMDA受容体」「マグネシウムイオン」に関連するシナプスでの分子生物学的動態も必要だが、前述の記述内容と重複するので今回は分子生物学的メカニズムは省略し、
「電気生理学」「神経生理学」「解剖学」を複合して述べる
「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」で、
周囲の音や、空気の感触、体の感覚、動きなどに意識を集中して、他の思考から離れるといった事目指すが、
何故、今晩の食事に意識を集中するのではダメなのか
何故、好きな人の事に意識を集中するのではダメなのか
何故、今この瞬間に湧き上がる感情に意識を集中するのではダメなのか
それが説明される事はほぼない
直感的や哲学的に「思考から離れるためには今、ここに集中するといい」
といった事は言えるが、「その根拠は?」と聞くと、あまり科学的な答えは返ってこない では、「体性感覚」や「聴覚」や「運動」などに関して、他の機能部位との違いを解剖学的に見てみよう
これらを考える際には、大脳新皮質の連合野を見る必要がある
「大脳連合野」とは、「一次感覚野」と「一次運動野」を除いた、大脳皮質領域である
「大脳連合野」は連合線維により複数の離れた皮質領域に出力と入力を持つ
では、「一次感覚野」、つまり、
頭頂葉のブロードマン1,2,3野の「一次体性感覚野」
側頭葉のブロードマン41,46野の「一次聴覚野」
前頭葉のブロードマン4野の「一次運動野」
などはどうなっているか、
これらの「一次感覚野」、「一次運動野」は、その周辺の領野の限られた大脳皮質にしか連合線維を投射しておらず、入力も同様である
つまり、
「一次体性感覚野」は、頭頂葉のブロードマン5野に
「一次聴覚野」は、側頭葉のブロードマン22野に
「一次運動野」は、前頭葉のブロードマン6野に
といった、一次後連合野や運動関連領野としか繋がっていないのだ
これは、いわば
「大脳連合野」がJRなら
「一次感覚野」や「一次運動野野」は、その地域でしか動いていないローカル線の様なものだ しかし、電車の乗り継ぎの様に「一次感覚野」や「一次運動野」は、近傍の領野と連絡した後は、その領野を通じて他の複数の連合野と連絡する事になる
これでは、
「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」で、
周囲の音や、空気の感触、体の感覚、動きなどに意識を集中しても、結局は他の雑念に囚われるのではないかと思うかもしれない
ここで、「統合情報理論」を思い出そう
「統合情報理論」は、確率的な多様性持った情報が統合される事で、「意識」が生まれるという理論だ
ベンジャミン・リベットの「タイムオン理論」で、シナプスの発火を300ミリ秒以上続ける事で、「長期抑制」を受けているシナプスが確率的に影響を受けて発火し、多様性が生まれ、「意識」が生まれるのを思い出そう
これは、多様性のある情報量を持っつニューロンの集団が発火する最小単位において、「意識」が生まれるという事だ
何故、「一次感覚野」や「一次運動野」を「意識」のコントロールのターゲットとしたのか
それは「意識」の最小単位を絞り込むのにやりやすいからだ
選択肢が5つあるものから少しずつ調整をして最小単位を見つけるよりも
選択肢が1つのものから少しずつ間引いていき最小単位を見つける方が遥かに簡単だ
「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」で、
周囲の音や、空気の感触、体の感覚、動きなどに意識を集中する理由は
それが、情報量を削っていくのに技術的にやりやすいからなのだ 例えば、「瞑想」で
周囲の感覚に集中して、だんだんと自分の感覚を足の先から頭の先へと感じていく、周囲の環境に自分の感覚が溶け込むのを感じながら意識を集中していく
といったような事をやるとしよう
様々な「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」でも、この様なふわっとしたような説明は似ているだろう
では、これは何をしているのか
体の感覚受容器から求心性に伝わる刺激は、ブロードマン1,2,3野の「一次体性感覚野」に伝わる、これは、足先から頭の先を感じている状態だ
「情報統合理論」から、意識を生むためには確率的多様性を持つ情報量が必要となる
確率的多様性とは、不確実なものとも言い換えられる
つまり、「周囲の環境に感覚が溶け込む」状態だ
不確実ではなく、確実な感覚で、周囲の環境に感覚が溶け込んでしまっていたら酔っ払いと変わらない
「一次体性感覚野」に対して「多様性のある情報」の量を上げて、それによって他の大脳連合野の情報量を必要とせずに「意識」を生むのに必要な「多様性のある情報量」を確保するのだ
つまり、
色々な雑念を含む情報の中から、蛇口を閉める様に雑念という情報量を排除しつつ、「一次体性感覚野」の「情報量」を増やし、「意識」の最小単位を維持できるまで雑念の「情報量」を削っていくのだ 雑念とは何か、
「大脳連合野」における「認知」「情動」「推論」などである
原理的には、「今晩の食事に集中」して「瞑想」する事もできる
しかし、「一次感覚野」や「一次運動野」以外の、「大脳連合野」を対象として「瞑想」を行うと
連合線維により連絡の多様性のため、情報を削っていくのが複雑で難しいのだ
「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」というと
特定のタイミングでしか行えない特殊な行為の様に思えるが、
「瞑想」や「マインドフルネス」や「ヨガ」が分子生物学的、電気生理学的、神経生理学的、解剖学的に何を目指しているのかを理解すると様々な場面で、「未来表象」による「不安」や「雑念」から離れる事ができる事が分かる
例えば、信号待ちでたまたま嫌な事を思い出して不愉快な気持ちになる様なら、
信号をじっと見て意識を集中して「一次視覚野」に意識を集め、その他の連合野に繋がる情報を削っていく事も原理的には可能なのだ
「マインドフルネス」では、日常の場面でのこういったテクニックも紹介する事があるが、行う行動は同じでも、そのメカニズムを生理学的、解剖学的に説明しているものはほぼ存在しない 気分良く生きるための基本の一つに「ドーパミン」をどの様に扱うかがある
「ドーパミン」は専門領域では「ドパミン」と記述されるが、動機付けの中枢に関わる
ドーパミンは報酬の信号として、帯状回の前帯状皮質に伝わり、認知と行動へと繋がっていく
前帯状皮質(特に帯状皮質運動野)では、報酬(期待や結果)によって行動変容の切り替えが起きる
つまり、
報酬(快感)があれば行動を続け
報酬(快感)がなければ行動を変える
行動変容の信号は、前頭前野の社会的情動や認知の制御を行う、腹内側前頭前野へと伝わり
般化(認知の流用)、高次条件づけ(複合的相互的内包とほぼ同じ)、推論(自由エネルギー原理における予測信号とほぼ同じ)を行い、背外側前頭前野を経由して運動野へと伝わり、
行動を行うか行わないかが決定される
これは、心表象的には、
衝動が生まれ、
認知と意識をし、
適切性の評価を行い、
行動に移すか移さないかを決める
何か不快になって、行動抑制ができないのは、解剖学的には、「腹内側前頭前野(前頭前野の眼窩部)」の機能不全が考えられる
これは、遺伝や器質的な影響、ニューロンリサイクル説による社会性機能の圧迫などがあり得るだろう しかしながら、これらの基を辿ると根本的には
「快感をどの様に得るか」
「不快感をどの様に避けるか」
のどちらかに行き着く
推論に基づく予測信号や、認知の変更(内的準拠枠)でどの様に行動パターン(内的作業モデル)を変えるかは前述のシナプスにおける可塑性を利用する
一方で、自己啓発の様に常に目標を設定して動機づけを行うのは常に誰でもできるわけではない
それができない人も多いから「気分良く生きる」事ができない一因となっている
では、逆に「不快感をどの様に避けるか」という点で考えてみよう
不快感を避けるために
「不快事象に意識を向けない」
「不快事象の想起確率を下げる」
「不快事象に対する認知を変更する」
といった方法があるが
これらは、前述した
「タイムオン理論」
「統合情報理論」
「時間表象における推論」
「NMDA受容体を介した長期抑制」
「高次条件づけ(複合的相互的内包)」
といった理論を複合して使う 「認知の変更」は「状態遷移情報」と呼ばれる
AならばB
BならばC
よってAならばCである
といったカスケード式の比較的単純な「複合的相互的内包」により認知の変更を行うのではなく
「状態遷移情報」に「認知情報」を介在させた「推移的推論機能」を使って「複合的相互的内包」による認知の変更を行う
「状態遷移情報」に基づく学習を「モデルフリープロセス」
「推移的推論機能」に基づく学習を「モデルベースプロセス」
と呼び、最終学習深度と速度は「モデルベースプロセス」が上であると言われている
例であげよう
認知と行動の変容に使われる「認知行動療法」は「モデルフリープロセス」に属する
タバコを吸いたくなったので、タバコを吸ったら、家族から嫌がられて不愉快になった、だからタバコをやめよう
といったモデルだ
タバコを吸いたいからタバコを吸った
タバコを吸ったら家族から嫌がられて不愉快になった
よって、タバコを吸ったら不愉快になる
というカスケード式の「状態遷移情報」に基づく「高次条件づけ(複合的相互的内包)」だ
他人に対しては、この様に事象ごとの関連性を個別に繋げて認知の変更を行う事が多い
つまり、原因と罰を直接繋げるのだ 一方で、「推移的推論機能」を用いた「モデルベースプロセス」による「高次条件づけ(複合的相互的内包)」は事前の「認知的学習」を必要とする分だけ他人に適用するのは難しい
何故なら「認知情報」の学習の動機づけを他人にするのは難しいからだ
例えば、この様に行う
まずは「認知情報」の学習を必要とする
タバコのニコチンは、グルタミン酸作動性シナプス軸索の、ニコチン性アセチルコリン受容体に結合し、グルタミン酸の神経伝達物質を介して腹側被蓋野からのドーパミン作動性を上昇させる
ドーパミンの作用により、NMDA受容体のマグネシウムイオンが放出され、それに伴いAMDA受容体が増え、シナプス間強度が高まり長期増強が起きる
長期増強の反復によって、表現系の変化が固定化されて依存状態を作り出す、依存状態は非宣言記憶に結びつく共に腹側被蓋野のドーパミンベースラインを上昇させて、慢性的にドーパミンの上昇を必要とする
シナプス強度はヘッブ則の通り、ニューロン発火強度を下げる事で弱化しうる、これはニューロンの脱分極が-50mVを上回らない事で可能となる(長期抑制)
複合的相互的内包を含む連合記憶による想起によってニューロンは発火し、習慣行動としての非宣言記憶によるシステム1が形成される という「認知情報」を学習、理解する
その上で、
「タバコを吸いたくなったので、タバコを吸ったら、家族から嫌がられて不愉快になった」
という状況を認知する
「認知行動療法」では、因果と結果を結びつけて行動変容を行うが、
「推移的推論機能」を用いた「モデルベースプロセス」では、
タバコを吸いたいくなった
これは神経生理学的機能による衝動だ
吸わないと不快感を感じる
不快感を感じたくないから吸うが
吸えばさらに将来的には不快感を感じる
吸わなければ
将来的には不快感が減る
将来的に感じる不快感は
家族に嫌がられて不愉快になる不快感と同様のものだ
と、複合的に
「意識、無意識」を介した「宣言記憶、非宣言記憶」による動機づけと、「状態遷移情報」による動機づけを組み合わせる事で強固な「高次条件づけ(複合的相互的内包)」を形成する
間違えやすいのは、これはジークムントフロイトによる防衛機制の「知性化」とは全く違うという事だ
「知性化」は知識による理解で事象を解決しようとするものだが、
「推移的推論機能」を用いた「モデルベースプロセス」は、「認知情報」を「認知行動」に推論的に連合して、「認知行動」を「意識的、無意識的」に強化して「高次条件づけ(複合的相互的内包)」を形成する手段だ そのため、「モデルベースプロセス」では、どれだけ認知情報として理解が強く結びついているか、それによる「推論」を非宣言記憶も含めていかに用いるかに学習深度が影響する
「モデルベースプロセス」は、理解して知的に納得するための方法ではない
それは防衛機制の「知性化」だ
そうではなく、意識的、無意識的な「推論機能」を利用して「認知行動」に対する動機づけを強化するのが目的なのだ
この様な、深い「認知情報」の理解と「推論機能」を必要とするため、この方法を用いる場合には高次認知機能を必要とする
「推移的推論」による「モデルベースプロセス」を使うと「認知」と「行動」の変容の学習深度と速度が上がるのだ 「推移的推論機能」を使った学習は日常生活で様々に行われている
「状態遷移情報」を「推論」と合わせて「高次条件づけ」すると聞くと、難しく聞こえるが
例えばこの様な例だ
「お墓に夜行くと怖い」という「状態遷移情報」に対して
「人には魂がある」という「認知情報」を加えて「推移的推論」を行うと
そうか、お墓に行くと死んだ人の魂が漂っていて死んだ人と接するのが怖いんだ
といった様な「推論」が行われる
人類史においても様々な、知的に理解できない現象や事象を超常的力によって理解してきたのは
この「推移的推論」による「モデルベースプロセス」のためである
かつては、地球は平で像が支えていたといった概念も「推移的推論」のための「認知情報」だったのだ なにこれ、久しぶりにきて
面白そうだと感じたけど
伝え方が少し横着ではないかい?
自己満としか思えないよ
誰見ても、多少なり分かるように表現しないと
途中で見ててワクワクしないし
個人の感想だけど読むのが疲れる文章に感じた 述べてきた様に、「意識」とは、哲学的な存在でもなければ文学的な存在でもなく、神経生理学的に存在する事象という事が分かる
「意識」と「集中」は、先の心配事を悩む様な「未来表象」における不快感を制御するための方法でもある
そして、認知学習においても、「意識」と「集中」は切っても切り離せない重要な要素である
ニューロンの活動は、「無意識」から始まり、特定の条件を必要としてさらに電気生理学的に必要な時間を経過してはじめて「意識」が生まれる事を述べてきたが、実際に「意識」と「無意識」を分かりやすく経験できる方法があるのだろうか
それは、「両眼視野闘争」という現象を通じて主観的にはっきりと確認できる
「両眼視野闘争」は、視覚における「意識」と「無意識」と「集中」を体験できる、意識における研究の中で数少ない実体験で確認できる現象だ
どの様なものかを実際に見てみよう まずは、
右手の人差し指を一本だけ出す(人を指差す様な指の形だ)
左手も同じ様に人差し指を出す
両方の人差し指を、先端同士で付けて、一本の棒の様にする
先端同士が付いている状態から、少し離して1cmか2cmほどの間隔を作る
両眼の焦点を指ではなく、背景の床や壁にうつす
すると、どうなるか
人差し指と人差し指の間にソーセージの様な形の指先が浮くのが見える
さらにそのままにしておくと
ソーセージ状の指が、右手にくっついたり、左手にくっついたり、両方の指にくっついたりする
これだけ見ると、ただの面白い錯視の様だが
この現象が示すのは、
実際に右目と左目に入る視覚情報が、無視されたり(無意識として処理)されたり、気がついたり(意識されたり)されるという事だ
さらに、この「無意識」と「意識」の流れは、ソーセージ状の指が右手にくっついたり、左手にくっついたり、両方繋がったりするたびに揺らいでいるのだ
つまり、「無意識」と「意識」が自動的に生まれたり消えたりして、視覚情報をその様に認知させている 今まで述べてきた神経生理学的な理論を背景にここから、さらに「両眼視野闘争」における「無意識」と「意識」と「集中」の現象を掘り進んでいく
例えば、ソーセージ状の指が右手にくっついた状態で、その状態を維持しようと「集中」してみよう
すると、実際にその状態をある程度維持できる
やってみると分かるが、「集中」を緩めると簡単に「意識」が揺らいでソーセージ状の指のくっつきが揺らぎ始める
この、ソーセージ状の指のくっつきを、右指と左指に交互に自分の任意でくっつける様にしてみよう
すると、それがどれだけ難しいかが分かると共に、実際にそれが可能な事も実感できる
「集中」による「意識」で、右手の人差し指にソーセージ状の指をつけた状態で、例えば何か考え事をしてみよう、
すると途端にソーセージ状の指が揺らぎ始める
「両眼視野闘争」におけるこの、ソーセージ状の指の接続位置は、つまりは現在の視覚的な「意識」の状態を示しており、「意識」というものがどれだけ揺らぎやすいか、受動的に発生しているか、そして「集中」により「意識」を能動的にコントロールできるか、がよく分かる
さらに、「意識」のコントロールがどれだけ難しいかが分かると共に、「意識」はコントロールが可能という事も分かる
後頭葉の一次視覚野損傷症例における盲視、つまり、見えてないと「意識」しているのに、視覚情報は「無意識」に認知されている状態や
右脳損傷症例における、左側の反則空間無視、つまり、左の空間を「意識」できない状態は、つまり、
「両眼視野闘争」における、揺らぎが消え、「意識」そのものが消えたり、「意識」の左側が消えたりするものの、「無意識」としては視覚情報が得られている状態にあたるのだ この「両眼視野闘争」における例は、「無意識」のバックグラウンドの上に、「意識」が受動的に生まれたり消えたりする一方で、「集中」によって「意識」を特定の状態に能動的にコントロールできる事を分かりやすく示す
だが、この「両眼視野闘争」は、視覚における「意識表象」の例であるため、先程のソーセージ状の指のくっつきの訓練をしたとしても、「記憶」や「認知」や「体性感覚」における、「集中」と「意識」の訓練になるわけではない事は注意したい
「集中」とは、解剖学的、組織学的に構造的に存在するニューロンの特異的な部位に対して活動をコントロールする方法なので、解剖学的なニューロンの活動位置が変われば、それには別の「集中」の力が必要になるのだ ここで、今まで述べた「分子生物学」から「疫学」に至る知識を基に、小説を題材とした心理描写を見ていこう
対象は、夏目漱石の名著「こころ」の「先生」と「K」の心理描写である
対象部位は
「御嬢さん」の態度に対する「先生」の心理
「妻」となった「御嬢さん」に対する「先生」の心理
「K」の性格
「先生」が、「K」から「御嬢さん」に対する気持ちの告白を受け、「先生」が「奥さん」に「御嬢さん」をくださいと行動するまでの心理
辺りを選んでみよう
ここでは、哲学的なフワッとした、
「人の心とは揺れ動くものだから」とか
「恋は押したり引いたりして揺れ動かされる」
と言った様な観測不可能な、いわゆる主観的な「恋ばな」の様な説明は取り扱わない 「御嬢さん」の態度に対する「先生」の心理
に関して
「御嬢さん」が「先生」に関心を示したり、示さなかったりする事で、尚更に「先生」が「御嬢さん」に対する気持ちを募らせる描写があるが
これは、「腹側被蓋野」から「前帯状皮質」と「前頭前野眼窩部」へと繋がる、「動機づけ」「行動切り替え」及び「情動」に対する影響である
報酬となる「御嬢さん」からの関心を受けて、「腹足被蓋野」からはドーパミン出力が上昇し、それによって「前帯状皮質」を経由した、「動機づけ」と「行動切り替え」が発生する
これらは、
「自由エネルギー原理」における
報酬の予測(予測信号)と、結果(感覚信号)の際に上昇、もしくは下降する
例えば、
「「御嬢さん」がいる、声をかけられるかも」といった期待が報酬となり
「予期せずに「御嬢さん」から声をかけられた」という結果も報酬となる
一方で、
「「御嬢さん」から声をかけられると思ったのに、声をかけられなかった」という結果は、報酬予測の誤差を生み、「ドーパミン出力」が低下する
「腹側被蓋野」からのドーパミン出力は、上昇と下降の割合で、上昇が10%以下を切ると、連想から生まれる期待が減少し、50%付近で上昇し、100%近くになるとまた減少する
つまり、
「御嬢さん」が「先生」に対して
滅多に関心を示さないか、常に関心を示していると、「先生」の「御嬢さん」に対する「動機づけ」が減少していくのに対して
時には関心を示して、時には関心を示さないと、効果的に「先生」の「御嬢さん」に対する動機づけを強化できるのだ、つまり、「先生」の「御嬢さん」に対する執着が強化される それとは対照的に
「妻」となった「御嬢さん」に対する「先生」の心理
では、
「妻」となった「御嬢さん」の「先生」に対する関心が、短いながらもよく述べられている
「先生」の「妻」への報酬予測と感覚信号による報酬は、「馴化」により、減少する事となる
「妻」となった「御嬢さん」に「先生」が昔ほど執着がないと述べているが、これは
「腹側被蓋野」からのドーパミン出力が上昇しなくなった事と、
「先生」が述べている様に、「妻」情報と「K」情報が結びつく事で、「妻」情報が「罰則」を含む様になった事が関連している
では、結婚後も「妻」に関心を持ち続ける事が可能な要件は何かを考えてみよう
ざっとあげると
「御嬢さん」を自分のものにする事を報酬の対象としない
「御嬢さん」と「K」の接点が存在しない
「妻」となった「御嬢さん」が代替不可能な報酬を確率的(例えば50%の確率)で「先生」に与えたり与えなかったりをする
「報酬」と「妻」の情報を、結びつける(宣言記憶、非宣言記憶)
といった要素がある
これらのどれも「妻」なった「御嬢さん」は満たしていない事を注意したい
尚、恋愛感情が時間経過で愛情(愛着)といった、習慣的記憶(非宣言記憶)へと変化していく 次に「K」の性格を見ていこう
小説内では、頑固で、負けず嫌いでといった性格が述べられている
「性格」はつまりは、その人の思考パターンである「内的準拠枠」を示す
「K」の関心を示す、宗教的な忍耐や生育バックグラウンドから形成されたもので、「K」が小説内に出てきた時点で形成された「内的準拠枠」だ
考えすぎて、あれやこれやと悩んで動けない描写は「先生」においても「K」においてもしばしば描かれるが
「腹側被蓋野」からのドーパミン出力上昇と、「前帯状皮質」での行動切り替えが発生しない状態であれやこれやと考えても、ニューロンにおける確率的な多様性の増加と、「統合情報理論」における「意識化」を引き起こすだけで残念ながら思い悩むのはあまり効果的ではない
「あれやこれや」といった思考を巡らすと、「非宣言記憶」を介した発想の転換が生まれる事もあるが「意識化」による苦しみであったり、確率的多様性の発生による心理的矛盾状態(アンビバレント)を引き起こすので、実際には解決に結びつかなくなる事も多く
不合理な認知情報の発生を促した場合、情報同士を不合理でも結び付けてしまう「推移的推論」を発生させて、第3、第4の解決方法を生み出してしまう恐れもある
この、「推移的推論」が「先生」と「K」に運命を決定させたと考えられる
他の人達からは例え不合理だと思えても、「先生」と「K」にとっては、理屈の通った結論なのだ 一方で、
「先生」が、「K」から「御嬢さん」に対する気持ちの告白を受け、「先生」が「奥さん」に「御嬢さん」をくださいと行動するまでの心理
を見ていこう
つまり、今まであれこれ思い悩んでた「先生」が行動に移すまでの流れだ
行動に移すための流れとして中心となる解剖学的な流れは
予測により報酬と罰を認知する(腹側被蓋野からドーパミン出力)
報酬を得るため、もしくは罰を回避するため行動切り替えをする(前帯状皮質へのドーパミン出力)
情動と動機づけのすり合わせ(前頭前野眼窩部)
高次認知と実行制御(前頭前野背外側部)
行動へ(運動補足野、運動前野、一時運動野)
と移っていく
実際の「神経生理学的」「解剖学的」な実行決定はこれ程単純ではなく、
記憶と情動の神経回路の「パペッツ回路」や「ヤコブレフ回路」を含めた複合的な流れとなるが、単純化して説明を行った
「先生」の神経生理学的な変化としてはつまり
「K」からの告白により認知情報を得ると共に
情報を咀嚼して情報多様性を発生させ
その中から「推移的推論」を使って情報の因果と結果を作り出し
その因果と結果の情報をもとにして、「推論」を行い
ドーパミン出力の結果を受けて「動機づけ」が強まり
「情動」と「動機づけを」を処理して「行動切り替え」が実行され
実際に行動に移したという流れだ
この流れには、とても人間らしい「不合理」が散りばめられている
「先生」が「K」の心情を「不合理」に予測して決定した部分や
「先生」がその「不合理」な予測を基に「奥さん」に「御嬢さん」をくださいと行動に移した点だ 思考を巡らすのは認知の多様性を増やし、新たな閃きを無意識で生み出すためにも重要な要素である一方で、
「不合理」な認知を事実の様に取り入れてしまう脳の特性という危うい点も含まれる
しかし、社会生活を送る上で瞑想だけして仙人の様に生きていく事は現実的ではないため、確率的に発生する「不合理」を抱えながら生活する必要がある
その中で問題となるのが、「不合理」な認知が個人の中で確立された時にどの様にそれを変化させるかだ
これは言葉で言うほど簡単ではない
「天動説」を信じていた研究者が死に絶えて初めて「地動説」が受け入れられる様になったという話もある様に
物理学者のマックスプランクが揶揄した様に
一見して理知的で合理的な科学の世界でさえ、「それを信じていた人達が死に絶えて初めて新しい理論が受け入れられる」傾向にあるのだ
これは、その人の知性や知能がどうこういう問題ではなく
「認知」とは物理化学的な構造と特性に裏打ちされた構造物であるという事だ
それは、古いビルを壊して新しいビルを立て直すのと大差ない事で、仕方のない当たり前の「不合理」なのだ
夏目漱石の「こころ」の「先生」や「K」の認知と心理は、とても人間らしい「不合理」を含む上に、理論的なものでどうこうできない現象なのだ
その一方で、人には「逆転学習」と呼ばれる能力がある
これは、
「Aは正しく、Bは間違っている」
という認知を生み出した後に
「Aは間違っていて、Bは正しい」
という逆転の認知を学習するものだ
どんな「認知」でも変更できるとは言わないが
ニューロンの可塑性の特性、例えば「意識化」するとシナプスの結合様式によって
「強まる認知」と
「弱まる認知」と
「新たに生み出される認知」
が存在し、それらの「分子生物学的、神経生理学的、電気生理学的、組織学的、解剖学的」な特性は別であり、それによって生み出される反応である「臨床症候」を理解した上で、効果的に「逆転学習」を使い「不合理」な認知を変える事が「気分良く人生を生きる」事の助けとなり得るのだ この様に見ていくと、色々考えこむ「熟慮」は良くない事の様に見えるが当然そうではない
「熟慮」は、決定期限が決まっている事柄に対してはメリットも多い
考えこむ、つまり「熟慮」による大きなデメリットは、
「矛盾した情報」の発生だ
もちろん、間違った「不合理」な認知が発生する可能性もデメリットなのだが、矛盾が発生する前の認知がそもそも間違っている可能性もあるため、「熟慮」せずに決定しても正解になるとは当然限らない
例えば外食をして、「刺身」を食べようとしてたが、「熟慮」したら「カレー」か「天丼」か迷い始めたとしよう
結果として「刺身」を食べたら腹を壊したとする
つまり、
「熟慮」せずに「刺身」を食べてても腹を壊していたし
「カレー」を食べていれば腹を壊さなかったわけだ
実際の「認知」の場面では、この様な予測不可能な確率的に発生するものばかりではなく「情報」によって判断基準が変わる場面はしばしばある
例えば
特定の目的のためにA社、B社、C社から選択して発注する必要があるとする
3日後に決定する事が決まっており、この発注が労力をかけるに値する事柄だとしよう
こういった場合は、「熟慮」して情報を比較して決定する価値はある
もちろん、結果的には間違った選択をする可能性もあるが
ここでの最大の目的は、得られる「情報」から正答率を上昇させる事である
「正解を当てる」のではなく「正答率を上昇させる」事が目的である事に注意したい 「熟慮」の結果、占いを情報源の一つにして、このB社は南の方にあるからB社にしよう
といった「不合理」な情報を考慮に入れる可能性もあるが、そういったものも含めての「熟慮」である
一方で、決断の期限が決まっていない事柄に対して「熟慮」を行うと「認知情報の多様化」によって動けなくなる可能性がある
A社もいいが、B社もいいし、C社も悪くない、悩む
といった状態だ、この場合は決定の先送りによる動けない状態が発生する可能性がある
動機づけの上昇によって、決定がされる場合もあるが、その段階まで進めないと決定が行われずに先送りが続いてしまう
もしも、決定期限のない状態でA社から買おうか、と考えてたとしよう
「熟慮」をしなければ、B社やC社の選択肢の多様性が生まれない一方で
A社を選ぶためには「動機づけ」の発生が必要とされる
ここで注意したいのは、「動機づけ」には「決定」と「却下」がある事だ
つまり、
A社は良くないな、という「却下」の「動機づけ」が発生したら次を考えればいいのだ
「熟慮」して、A社、B社、C社から選択する際の「認知の多様性」を考えれば、その難易度は桁違いである もっと直感的に分かりやすい例を挙げてみよう
あなたは、彼女が欲しいと思っている
Aさんをいいなと思って、告白するかしないかをあなたは悩んでいる
(関係性構築といったプロセス段階における不協和の発生は今回は話題にしない)
結局悩んでいても「動機づけ」が発生しないと、しない事になるだろう
Aさんの事を考えていると、そういえばBさんもCさんもいたな、誰にしよう
悩み始めたとする
AさんかBさんかCさんか選んだ上で、告白をするかしないかを決定するわけだ
告白をするかしないかを決定してからAさんかBさんかCさんを選ぶわけではない
つまり、AさんBさんCさんという選択肢を選んんで、さらに告白するかしないかを決定するわけだ
ここで、
「もしかしたらCさんが脈ありかもしれないから、選択肢を増やしたほうがいいんじゃないか」と思うかもしれない
しかし、この場合は「熟慮」しなくても同じなのだ
「熟慮」せずに、Aさんに告白するかしないかを悩んでる最中に「Cさんが脈あり」という選択肢が発生したら、Aさんへの告白を却下(動機づけ)してCさんに告白すればいいだけなのだから
問題は誰も脈なしの場合である(この際に告白するのもどうかとは思うが)
Aさんに告白しようかしないか、Bさんに告白しようかしないか、Cさんに告白しようかしないか
といった認知の多様性ではよほど強い動機づけが発生しないと決断は下せないだろう
大多数の中から選んで相手を見つけるよりも、目の前にいる人に「決めるか」「決めないか」の方が遥かに認知的には楽なのだ
もちろん、その様な行き当たりばったりで選ぶよりも、よく考えてよく選ぶ事も非常に大きなメリットがある一方で、決断の期限が決められていない場合には永久に決定がされない可能性は覚えておきたい 「選択の多様化」と「決定が行われる可能性」は逆の関係にあるのだ
もしも、Aさんという対象がいたとすれば「熟慮」はせずにいた方が「動機づけ」による行動が実行される可能性は人の直感に反して高くなる
あまり考えない方が、実行に移される可能性が高くなり
よく考えた方が、実行に移されなくなる可能性が高くなる
という「神経生理学的」なメカニズムはおそらく直感に反するだろう 何度か言ってみても何も伝わらないのは辛いもの
嘘なんて誰でもつける訳でその時点で誰でもよくなってる事に気づいていない人たちはそれが許されていたから戯言を喚く訳だな? 「結論から話す」メリットについて述べよう
説明をする時は、「内容の詳しさ」と「分かりやすさ」の合計は一定になる傾向が出る
詳しければ、分かりにくいし
詳しくなければ、分かりやすい
「結論から話す」事で、多少なりともこれらのデメリットを補えるのだ
「両眼視野闘争」の説明で
詳しく、分かりにくい文章と
詳しくなくて、分かりやすい文章
を書いてみよう
「両眼視野闘争」とは、網膜の感覚受容器から後頭葉の一次視覚野に情報が入力され、その後の高次視覚野である頭頂葉と側頭葉の腹側路における空間認知と物体認知が、大脳皮質の左半球と右半球において競合的に意識される現象である
詳しいが、非常に分かりにくい
予備知識として、用語、解剖学的経路などを持ってないと理解は非常に困難であるが
予備知識として用語と解剖学的な知識があれば、この説明は分かりにくくはない
一方で、簡単な説明をしてみよう
「両眼視野闘争」とは、左目と右目で見ている映像が、頭の中で喧嘩する事なく、頭の中で右目の映像が見えたり左目の映像が見えたり、入れ替わる現象である
この場合は、用語が理解できるものばかりなので分かりやすいが、大雑把過ぎて間違った解釈を誘導してしまう可能性が非常に高い 難しい説明でも簡単な説明でも、認知される過程は同じである
背外側前頭全野で処理される「作業記憶」であるワーキングメモリ上で、理解がされる
予備知識がある場合は、用語と用語の関連性が認知されているため専門的な説明を行っても理解されるが、予備知識がない場合には「作業記憶」のワーキングメモリが圧迫されて、理解を妨げてしまう
つまり、
関連する知識の惹起が、理解しやすさのポイントとなる
ここで、
「結論から話すメリット」の話に戻ろう
「結論から話すメリット」は、相手の理解を助ける事である
結論を最初に示すと、その情報に関連した知識が引き出されて、それを基に、その後に続く説明の理解を助ける
「両眼視野闘争」の説明でやってみよう
「両眼視野闘争」とは、右目と左目で見ている映像が、交互に脳で意識される現象である
右目に映る映像と、左目に映る映像は、同じ物を見ていても微妙に違うが、それを利用して目の前の物体を脳は立体的に意識できる
脳は右目からの映像と左目からの映像を同時ではなく、交互に認識する事で立体だと理解しているのだ
この時に起きている右目と左目の映像の入れ替わりが「両眼視野闘争」である
最初に結論を出す事で、
右目と左目の映像
交互に意識される
という情報を与えて、連想を引き出し理解を助けるのだ
心理学分野ではこれは、「プライミング効果」として利用される
ただし、この方法にはデメリットがある
分かりやすくなる代わりに、最初に思い込みを植え付けるので間違った理解をしてしまう可能性があるのだ
なぜなら、結論ありきで話始めているので、説明を聞く前に説明の内容を事前に予測してしまうからだ
これが、理解を助けるというメリットにつながっているのだが、純粋に学習をする場合には分かりにくくてまどろっこしくても手順通りに説明を読んだ方が学習の深さは深くなる
先入観を植え付けられてから説明されるか
先入観を植え付けられる前に説明をされるかの違いである
業務の場や、コミュニケーションの場の時は、結論から言った方が断然スムーズにはなる 自分の「記憶」はあてにならない、という事について述べよう
自分の記憶は確かで絶対に間違いない、と思う人は多いが、事故の際の自分の記憶だったりも確信を持って「間違いない」と言う人が多くいるだろう
「記憶」とは、過去に「経験」した事実を反映しているわけではなく、過去の情報を「どの様に強めたか」に依存している
さらに
「記憶」は、一つの要素ではなく、複数の要素の寄せ集めだという事に注意したい
例で見てみよう
1月3日の
昼に
友人と
ハンバーグを
食べた
という経験があるとして、その後日にこの経験を思い出すとしよう
「記憶」は、
「1月3日の昼に友人とハンバーグを食べた」
という塊で記憶するわけではない
「1月3日」
「昼」
「友人」
「ハンバーグ」
「食べた」
というような「要素」を寄せ集めて、「記憶」は再生されるのだ
より正確には
「1月3日」という要素も、複数の情報の寄せ集めとして「記憶」は再生される 「記憶」の再生の問題は、情報を寄せ集める時にミスが起きるという点である
これは、「ある情報」が様々な情報と「連合記憶」を形成しており、それらの情報は確率的に再生されてしまうという事だ
ちょうど、連想ゲームにように関連する情報が引き出されてしまう
これは、シナプスでの情報伝達が確率的に伝わってしまう(ある時は伝わり、ある時は伝わらない)事に原因がある
それによって、例えば
「1月3日」という情報から、「正月」という連想が再生され、さらには「家族」という連想が再生されると
「あれ?1月3日は家族と食事したかな?」と想起してしまうのだ
さらに、繰り返し想起される情報はシナプスの結合を強くするため
「家族と食事したかな?」「家族と食事したかも」「そうだ、家族と食事したんだ」
と、いったように
「連合記憶」から偶発的に再生された誤った情報が、神経生理学的に強固なつながりを形成して、勘違いが確信へと変わっていく
つまり、
本人は間違った事を言っているのだが、自信満々で誤った認識を持つようになるのだ
「1月3日の昼に家族とハンバーグを食べた」
というように
このような記憶再生の特徴は、思い込みや先入観、言い合いによるお互いの確執の主要な原因となる
自分の「記憶」は絶対に正しいとお互いに思っているのだから しかし、「記憶」の間違いに自ら気がつく事は非常に難しい
何故なら、間違った記憶を思い出せば思い出すほど確信が強まっていくからだ
マークシートの選択問題では、最初に選んだ答えを見直した時に、正しいか間違ってるか悩んだら答えを変えてはいけないという鉄則がある
これは、悩んでる最中に記憶が変更されて間違った認識が確信へと変わってしまうメカニズムが理由の一つにある
「記憶」に関して、人の直感に反して
最初に思い出した「記憶」が最も正しく
よくよく考えて思い出した「記憶」が最も間違っている
という可能性が高くなってしまうのだ
もしも、あなたが
「あの時は、ああだったよな」といった事を思い出しているようであれば、
その「記憶」は思い出せば思い出すほど間違った「記憶」として再生されて、
それにも関わらず「確信」は強くなっていく事を覚えておきたい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています