六祖壇経・2  3.7  坐禅の教え :その2

師言う、善知識よ、何をか坐禅と名づく。
この法門の中には障無く碍無し。
外一切善悪の境界に於いて、心念起こらざるを、名づけて坐となす。
うち自性を見て動ぜざるを、名づけて禅となす。

善知識よ、何をか禅定と名づく。
外相を離るるを禅となし、内乱れざるを定と為す。
外もし相に着せば内心は即ち乱る。
外もし相を離るれば、心は即ち乱れず。
本性は自から浄く自から定まる。
ただ境を見、境を思うが為に即ち乱る。
もし諸境を見て、心乱れずば是れ真の定なり。

善知識よ、外相を離るるは即ち禅、内乱れずば即ち定なり。
  外禅にして、内定なる、これを禅定と為す。
『浄名経』に云う、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。
『菩薩戒経』に云う、「我れは元より自性清浄なり」と

善知識よ、念念の中に於いて、自ら本性の清浄なるを見て、 自ら修し自ら行じ、自ら仏道を成ずるのみ。

現代語訳

六祖は言った、「諸君、どういうものを坐禅というのか?
この法門の中には何のさまたげもさわりも無い。
外界の一切の善悪の対象に対して、心の思いが起こらないのを、坐という。
う内面的には自性を見て心が不動なのを、禅という。諸君、どういうものを禅定というのか?
外界の姿形に執われないのが禅であり、内心が乱れないのが定である。
外界の姿形に執われれば内心は乱れる。
もし外界の姿形に執われなければ、心は乱れない。
人の本性はそれ自ら清らかで安定している。
ただ外界を見たり、思うために乱れるのである。
もしあらゆる外界を見ても、心が乱れないならば、それこそ真の定である。

諸君、外界の姿形に執われないのが禅であり、内心が乱れないのが定である。
  外に対しては禅であり、内心は定であるのを禅定というのである。
『維摩経』に云っている、「即時に豁然として還(ま)た本心を得たり」と。
また『菩薩戒経』に云っている、
「我れは元より自性清浄なり」と。

諸君、一瞬一瞬の心の働きに於いて、自らの本性が清浄であることを見て、  自分で修行し、自分で仏に成るだけだ。