>>266 そうじゃ、ただひたすらに集中するがよいのじゃ。
 何もかも忘れて集中するのが上達の道なのじゃ。
 そうすればサマーディにも速やかに到達するのじゃ。

 観察は集中の後にやるとよいのじゃ。
 観察して自己を知れば速やかに進歩するのじゃ。
 集中だけでもサマーディにまで到達すれば進歩もするのじゃ。
 一時的に我のない状態になれるからのう。
 しかし、それには人によって長くかかるのじゃ。
 観察を行えば苦は無くなり、速やかな進歩が可能なのじゃ。

>>267 変化が起きているならば観察は出来ているのじゃ。
 観察とは例えば今手を見て汚れていると気付いたならば、それが観察なのじゃ。
 駅の改札で右側が開いているから右に行こうと思ったならばそれも観察によって進路を選んだのじゃ。
 誰でも毎日のようにしていることなのじゃ。

 おぬしが実感できないというのはむしろ厭離かもしれん。
 苦しみを厭離してなくなったというはっきりした実感が欲しいのかもしれん。
 自分が得たいと思うことをはっきりさせるのじゃ。
 それにも自らの心を真摯に観察することが必要なのじゃ。