己の本心を観るのじゃ。

 多くの人が観念に囚われるのは、観念を持つと共にそれを正しいものとしているからじゃ。
 しかし、観念を正しいと思うのも実際は自己正当化によるものが多いのじゃ。

 一度、観念を受け入れ、それが正しいと思ってしまうと、なかなかそこからは抜けられないものじゃ。
 現実とはかけ離れたことでさえ、観念として囚われてしまえば、それがその者にとっては現実よりも優先するようになる。

 例えば些細なことでも己を責め、自分で自分を苦しめたり、知識を蓄え、それだけが正しいと思い、現実を見れなくなったりする。
 観念に囚われ、観念に従っていれば、そこから逃れるのは難しいものじゃ。

 観念に囚われた者は観念が己であると投射し、観念を持つ己というものを守るために、観念を守ろうとする。
 それが自分を苦しめているものであるとさえ、判らずに観念を守るのじゃ。
  
 観念に囚われた者は、観念を守るために人の言葉を聞かず、観念を守るために知識を集め、修行さえもする。
 しかし、観念を守るための知識や修行は何の役にも立たないものじゃ。
 それはかえって苦滅の道、悟りへの道から遠ざかるばかりなのじゃ。


 そのような観念を滅するには、己の本心を観なければならない。
 嘘偽りに固められたものではない、己の本当の思いを、集中力と観察力で観るしかない。