無は本当になにもないのと違い、○だけの世界を人は無だととらえても実は○がある
これが無の境地の正体だとぼくは思ってた
なぜかというとそれなら記憶のない体験を体験するとか無を体験するという矛盾がなりたつから(理屈では)

しかし記憶も観念もないところで○だけがあるとするなら
それはようするにすべては無かった、とまったくおなじですべてはあったという表現がなければ絶対におかしい
認識できない体験が言語にできないのは当たり前でしょうがない
それを言語にするならたとえば無だったと表現するならそれを打ち消す有だったとなるし、有だったと表現するなら無だったとなるはず(理屈では)