>>687
それは重要なことです。
禅の世界でも、どちらの捉え方が優れているかでいろいろな議論・論争が行われてきました。
ただ、「切り離した自己」に個人性がある場合は、さらに「それを見る自己」が生まれてしまいます。
臨済録に出て来る「無位の真人」は、「切り離した自己」に個人性がない場合の<絶対主体>とも言う
べきものです。